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9月13日、魯迅公園、外国語学院、文物局、茶、帰岡

上海外国語大学での講演会で

7時半に朝食を取って荷造りをし、8時半にチェックアウトして行動を開始し、直ぐ近くの魯迅公園に行きました。雲一つない快晴で、早朝から多くの上海市民が来ており、子供連れの散歩、太極拳や社交ダンスのグループの実技練習、水による道路上での揮毫、トランプに興じるものなどで混み合っていました。傘に紙を張り付けた展示が並んでいるので、よく見ると、高齢者の婚活のようでした。

上海の朝は快晴
朝食
傘の婚活
路上の揮毫

9時過ぎに、魯迅の墓地に着きました。毛沢東の揮毫した立派な墓碑銘があり、魯迅文化基金会の王錫栄高級顧問に迎えられて、用意された立派な花束を献花しました。その後、世界の文豪の銅像の立ち並ぶ中をホテルに戻りました。

魯迅の墓の前で
魯迅の墓に献花
文豪像とダンスと

9時半過ぎに再び出て、上海外国語大学に行き、10時から12時前まで、「魯迅と夏目漱石、上海学術交流会」に参加しました。同大学の高浩教授の司会で、まず同大学教授で中国日本文学研究会の譚晶華会長と上海交通大学教授でもある王錫栄基金顧問が、それぞれレジュメに基づいて中国における漱石の理解や白樺派の武者小路実篤や有島武雄と魯迅の出会いなどにつき発表し、日本側に移って、夏目房之介さんと大藪二朗さんがパワーポイントを使って、それぞれの立場からのお話をしました。最後に私が締めくくりとしての感想を述べ、40人ほどの参加者からの質問を受けました。

「魯迅と漱石」全景
記念写真

その後、黄浦江の河畔に移動して、12時半過ぎから14時前まで、上海市文物局の于秀芬局長主催の昼食会に出席しました。目の前に河畔のビル群が広がる絶景を眺めながら、同局の褚暁波副局長や上海魯迅記念館の鄭亜館長らも同席してくれ、美味しい料理と刺激的で楽しい会話を楽しみました。14時過ぎに徐迪旻さんとともに出て、お茶屋ばかりが並んでいる地区の徐さんのお店に寄り、そのまま上海浦東空港に向かいました。

黄浦江の絶景
于局長らと昼食会

15時過ぎに着いて搭乗と出国の手続きをし、待合室で暫時待機し、17時前に機内に乗り込みました。中国東方航空の岡山直行便で、18時に離陸して1時間40分の飛行と1時間の時差で、20時40分に岡山空港に着陸し、手続きを終えて妻の迎えで22時ころに帰宅しました。

お茶屋街
徐さんのお店で
浦東空港で搭乗

 

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9月12日、越秀学院、昼食、杭州中学、文瀾書院、夕食、上海へ

越秀学院で挨拶

7時半に米粉の麺で朝食を取り、8時半過ぎに出て浙江越秀外国語学院に行きました。巨大で上質の語学学校で、校門前で花束をいただき、9時から30分ほど、徐真華校長らと会見して学校の説明を受けて記念に両面刺繍の「水の都」の置物をいただきました。

米湖の麺
両面刺繍の置物

9時半から11時過ぎまで、大教室で、日本語科の教員や学生らに「魯迅と夏目漱石」をテーマとする企画に参加しました。皆、流暢な日本語で、まず漱石の孫の夏目房之介さんに客員教授が授与されて講演し、次いで日中友好協会の大藪二朗さんが、さらに私も10分強の挨拶をしました。次いで質疑応答に移り、漱石の個人主義や日本人の中国観などにつき質問が出て私も適宜発言しました。次いで琴の演奏と合唱があり、私たちも即席で「北国の春」の合唱に加わりました。

講演会会場
夏目さんが客員教授に
学生たちと合唱

12時前にホテルに戻り、魯迅文化基金会主催の昼食会となりました。秘書長で魯迅の孫の周令飛さんの音頭で乾杯をし、紹興市支部の李露児所長の挨拶の後に、私もお礼の挨拶をして乾杯をしました。その後、慌ただしく荷造りをし、13時過ぎにマイクロバスで杭州に向けて出発しました。

魯迅基金会昼食会

14時半に杭州高級中学に着き、蔡小雄校長らから学校の説明を受けて懇談しました。日本の高等学校と同じですが、学生数は3000人を超える規模で、魯迅が教員をしたことがあります。日本から帰国後、化学、生理学、国語と日本語などを教えたそうで、校長とうまくいかずに1年ほどで辞めたそうです。大勢の指導的な人材を輩出しており、文筆活動の張抗抗さんの特別室がありました。模擬国連総会で、生徒たちが「米墨戦争」、「英国議会」や「北朝鮮核問題」などに着き自由討論をしているそうです。

中学で記念写真
蔡校長と懇談
魯迅教師の絵
構内を見学
模擬国連総会のテーマ

16時過ぎに、西湖周辺をバスで見て回って、「藻思閣」という門を通って小高い山の急な階段を上り、漢字の歴史などの研究をしている文瀾書院に行きました。西湖全体が一望のもとに見え、責任者の任平さんから説明を聞き、美味しい夕食をごちそうになりました。山椒魚の料理も出てきて、びっくりしました。18時過ぎに出て、バスで上海まで移動し、21時過ぎにやっとホテルにチェックインしました。

西湖を見下ろし
夕食会
山椒魚

 

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「魯迅、夏目漱石と中日友好」講演原稿を掲載しました

「魯迅と夏目漱石との対話フォーラム」                        日本国・第27代参議院議長 江田五月

 

1.はじめに

ご出席の皆さま、日中国交正常化45周年という節目の年に、日中両国の現代史の初期に活躍して歴史を開いた魯迅と夏目漱石につき、両者とゆかりの深い紹興において「魯迅と夏目漱石との対話フォーラム」を開催することは、両国の友好交流にとって極めて意義深いことだと思います。この記念すべきフォーラムにお招きいただいたことは大変光栄であり、心から感謝いたします。先週金曜日の8日には北京で、中国対外友好協会と中日友好協会の主催により45周年記念レセプションが開催され、関係するものが勢揃いする中で私もお招きをいただき、その足でこちらに馳せ参じました。

最近、日中関係には明るい兆しが見えてきたとはいえ、まだまだ双方の努力が必要です。そのような時に、特に文化や芸術の分野での交流事業を開催することは、大変に時宜に叶い意義深いことだと思います。率直な意見交換を通じて相互理解を深め、両国のあり方に有意義な示唆が得られることを確信しています。

 

2,私と中国との個人的関わり

最初に自己紹介もかねて、私の家族と中国との関わりを簡単に述べます。私の父は戦前、農民運動に飛び込み戦争に反対して2年8ヶ月の間投獄されました。刑期を終え出所してから、太平洋戦争の開戦直前に私が生まれ、戦争の真っ只中の日本にいては命さえ危ないという中で、つてを頼って中国に渡り母と幼い私を呼び寄せて、河北省の石家荘で水利工事に従事しました。この事業なら、戦争が終わった後に、中国人民の役に立つからと考えたそうです。華北で終戦を迎え、天津から上陸用舟艇母艦で日本に引き揚げたのですが、無事に故郷の土を踏むことが出来たのは、ひとえに多くの中国の皆さんのお世話があったからだと思います。実は私の妻も、戦中の北京生まれです。名前は「京子」というのですが、「京」の文字は、「東京」や「京都」ではなく、「北京」の「京」です。個人的な事情ですが、こうした国境を越えた信頼と交流の経験をしたものは、日本でも中国でも決して稀ではありません。近代以前の太古の昔から、人々の越境の友好交流の歴史があったのです。

日本の伝統芸能に「能」があり、その演目のひとつに「唐船(とうせん)」があります。室町時代、中国では明の時代に、両国間で交易が盛んになり、併せて諍いも頻発しました。あるとき、中国の「祖慶」が九州の領主に捉えられ、13年間が経過しました。中国に残された子どもたちが父を連れ戻しに来たところ、父には日本にも子どもが出来、さてどうするか。両方の子供たちの父を思う心に打たれた領主は、「祖慶」に子供たち全員での帰国を許し、家族一同で喜んで中国に帰ったという話です。国の境を越えた家族の愛情が、領主の頑なな心を溶かしたのです。支配者同士の諍いを解きほぐすのは、何と言っても人々の心の通い合いで、民間の文化、芸術、スポーツなど、経済も含めて、民間交流が最も有効なのですね。

 

3, 公益財団法人日中友好会館会長として

私が2010年から会長を務めている日中友好会館のことについて、少しお話します。この組織は公益財団法人で、ホテル経営などの営利事業で得た利益も活用して、中国の留学生寮の運営を行い、日本外務省の委託を受けて、日中間の青少年交流事業を行っています。また最近では日中植林・植樹の連帯事業も始まりました。日中友好7団体の中では最も若い団体ですが、40年弱の歴史を有し、その前史は戦前に及びます。留学生寮を巣立った若者たちは4200人以上となり、中国の要路に就いています。
日中友好会館の会長として一言申し上げれば、日中間の外交上の緊張により、日本政府の予算で実行している青少年交流事業が、一時は中国側の意向で中止、延期となり、多額の予算が消化できずに返納せざるを得ませんでした。たとえば折角快く引き受けてくれたホームステイ先が、突然のキャンセルで困惑し、「もう中国との交流はご勘弁を」ということにもなり、大変な困難を経験したのは事実です。今では元に戻ってホッとしていますが、政治上の争いを民間交流、特に青少年交流に影響させないよう、ご配慮をお願いします。

日中間の交流で残された課題は、まだ日本から中国への訪問が回復していないことです。私たちも一層の努力をしますが、是非今回のような民間文化交流企画が増えることを切望いたします。双方向の交流が実現してこそ、本当の意味での信頼関係が醸成されるのです。私は本年6月に、在日本中国大使館のお招きで、中国の若者たちをご家庭に受け入れてくれた日本のホストファミリーの皆さんら70人ほどで、北京・成都・上海を訪問しました。各地で中国の若い男女と日本のお父さん、お母さんとの感動と涙の再開が繰り広げられ、わずか一日のホームステイが心に残す宝物の大きさを実感しました。日本から中国への訪問活動の活発化も求められています。

 

4, 魯迅と夏目漱石

私は最近、中国の日本理解につき新たな発見をしました。魯迅に「藤野先生」という短編小説があります。彼が日本の仙台に医学の勉強のために留学したときの、日本人教師との交流の話です。あまりにも先生が厳しく、魯迅はそのもとを去って医学とは別の道を歩むのですが、後になって思い返し、「先生は全中国人民のことを思って、自分の教育に当たってくれたのだ」と、話を締めくくります。私が感心したのは、この話が中国の子どもたちの教科書に掲載され、みなこれを知っているということです。青少年交流団の歓迎会で中国側の参加者に尋ねてみたら、大多数が手を上げたのです。私はそれ以来、特に日本人を意識して、「中国の教科書は日本批判ばかりではないよ」と言うようにしています。

夏目漱石は、時代は大きく異なりますが、私の大学の大先輩で、イギリス留学の先輩でもあります。私が裁判官の時のことです。ある日、最高裁判所からイギリス留学を打診され、これを受けるとずっと裁判官を続けなければならなくなると思い、その場で断ってしまったのです。その夜、父に相談すると、「夏目漱石は文部教官をしていてイギリス留学したが、帰国後に退官して新聞記者から立派な小説家となった。今、そのことで彼を非難するような人はいない。気にせずしっかりと学んでこい」と激励され、早速その翌日に留学すると返事をしました。私も退官して政治の場面で働くようになりましたが、イギリス留学の経験は国会の場でも役になったと思っています。今回、そのようなお二人ゆかりのフォーラムに参加できたのも、何か不思議な縁を感じています。

 

6.終わりに

日本と中国はお互い引っ越すことができない「一衣帯水」の隣国です。同じ文字を使用する漢字文化を育んで来ました。漢字は表意文字ですから文字自体に意味があり、書道芸術も他の文字文化にない独自の文化です。同じ文字を使う者同士が集い、文化交流をするのは、この両国以外の人々の間では想像もできない、素晴らしいことです。魯迅文化基金会主催の文化交流フォーラムが、これからも回を重ね、日中両国にとって大きな成果を上げることを期待して、私の話を終わります。

 

ご清聴有り難うございました。

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9月11日その3、紹興市要人会見、夕食会

宴たけなわで乾杯

18時から30分ほど、紹興市人民代表大会常務委員会の譚志桂主任、同市政府の顧涛副市長らとの会見を行いました。譚主任は同市人民対外友好協会の役も務めるなど、皆さん市の要人です。中国側出席者の紹介に続いて私が日本側出席者を紹介し、譚主任と私が順次挨拶し、記念品をいただいて記念写真を撮りました。

紹興市幹部と会見
記念品をいただき

 

記念写真を撮り

18時半から2時間ほど、譚主任主催の夕食会を行いました。主任の挨拶に続いて最高の紹興酒で乾杯をし、楽しい会話と美味しい料理で賑やかに盛り上がり、私もさらに挨拶して乾杯の音頭を取り、日本側出席者がみな感想を述べ、一層の友好交流を続けることを誓い合いました。

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9月11日その2、魯迅故居

藤野先生像

15時過ぎに再び出て、雨が降ってきたので傘をさして、魯迅記念館に向かいました。魯迅が育った居宅で、入口を入ると直ぐに目立つところに、仙台留学時代の恩師の藤野厳九郎の胸像がありました。現在では陋屋ですが、当時はなかなか立派な邸宅だったと思います。様々な展示を見て、さらに最初に通った塾の跡の「三味書屋」や、周囲を流れる水路に浮かぶ手漕ぎの舟なども見て回り、若干の買い物をして17時前に咸亨酒家に戻りました。この後の予定は、雨のために、この宿舎内で行われます。

記念館で記念写真
魯迅像
辮髪を切った際の詩
水路の舟
三味書屋
若干の買い物

 

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9月11日その1、対話フォーラム、昼食会

対話フォーラム記念写真

7時半から麺の朝食を食べ、池にせり出した舞台で太極拳の真似をしました。8時半過ぎに出て紹興文理学院に行き、まず応接室で同学院長の王健力教授らと会見しました。王院長から歓迎のご挨拶と学院の紹介があり、私が日本側出席者を代表して挨拶し、記念品の贈呈を受けました。

麺の朝食
太極拳の真似
王院長と会見
記念品をいただき
記念写真

続いて9時半から12時前まで、学院の「鉄城科教館報告庁」という大教室で、「魯迅与夏目漱石―跨時空対話」という文化交流フォーラムを行いました。教室は学生たちで満員で、7割ほどが女子学生のように見えました。王院長が冒頭の挨拶と司会をし、片山総領事の挨拶があった後に、パネリストの発言があり、魯迅の孫の周令飛さんが「魯迅、夏目漱石と中日文化交流」、漱石の孫の夏目房之介さんが「夏目漱石から見た中国」、北京魯迅博物館元副館長の陳漱渝さんが「国の作品を世界へ―夏目漱石と魯迅」、東京大学の藤井省三教授が「日本の国民作家としての夏目漱石と魯迅」、私が日中友好会館会長として「魯迅、夏目漱石と中日友好」、最後に学院の王黎君教授が「比較文学の視点から見た魯迅と夏目漱石」というテーマでそれぞれ講演をしました。私以外のパネリストは文学に視点を置いた発言でしたが、私は門外漢で、うまく噛み合わなかったのではないかと恐れています。学生からの質問を受ける時間がなく、王院長の締めくくり挨拶で終了となり、出席者の写真撮影をし、サイン帳に一言書いて署名をしました。

パネリストとして
発言
周さんと夏目さんの署名

12時過ぎから1時間半ほど、学院内の「対竹楼」というレストランで、関係者による昼食会を行い、美味しい料理と刺激に溢れた会話と若干の紹興酒で満腹になりました。14時に咸亨酒家に戻り、書斎風の部屋でデスクワークをしました。

昼食会の乾杯
豪華な部屋で

 

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9月10日その2、魯迅故居夕食会

魯迅と漱石の孫に挟まれ

18時過ぎに同宿の皆さんと写真を撮って出掛け、紹興の古い街並みを歩いて魯迅故居に着き、18時半から2時間強、故居の主でもある周秘書長のお計らいで、この地域の家庭料理と紹興酒で夕食会を行いました。夏目漱石の孫にあたる夏目房之介さんもご出席で、まず政治協商会議紹興市委員会の魏偉主席が一言挨拶し、次いで周秘書長と私が、順次挨拶と乾杯の音頭を取って宴が始まりました。魯迅基金では世界中の魯迅と交流のあった文筆家を選んで毎年国境を超えた交流を続け、今年が4回目で正常化45周年にも当たるので、日本の漱石との交流をテーマにしたのです。片山総領事も出席で挨拶し、宴たけなわになるに従って紹劇や京劇の物真似、日本の「北国の春」の日中二か国語での合唱などと賑やかになり、最後に周秘書長と私の閉めの挨拶でお開きとなりました。

薄暮の古い街並み
魯迅故居前で
魯迅と漱石の孫ら
乾杯!
また乾杯!
「北国の春」の二か国語合唱

 

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9月10日その1、粥、亜洲協会、拉麺、呉昌碩、紹興へ

揮毫会

 

9時にホテルで日本式のお粥朝食を食べ、荷造りをして、10時にチェックアウトし、直ちに徐さんの亜洲友好協会の雲間美術館に行きました。日中の特別展の最終日で、四季折々の花の絵などを鑑賞し、さらに徐さんご自慢の各種の立派な椅子などを拝見した後、私の揮毫タイムとなり、「字を書くのでなく、恥をかく」と抵抗しましたが無駄で、何枚かの半切作品などを揮毫しました。篆刻の大家の費名瑶さんが目の前で私の印を彫ってくれました。

呉越さんの凌霄花
徐さんの椅子コレクション
費さんの篆刻

12時過ぎに、同じビルの中にある「屯京拉麺」で昼食に池袋由来という拉麺を食べました。日曜日なのに大繁盛で、行列が出来ていました。その後、短時間でしたが呉昌碩記念館に寄り、5代目に当たる旧知の呉越さんに案内していただいて、呉昌碩所蔵の書家の書などを見せていただきました。日下部鳴鶴の書もあり、さすがの筆使いの切れの良さに感嘆しました。同館は超高層ビル群の中にある平屋で、上海市が手厚く保護しているそうです。

屯京拉麺
記念館で
周囲のビル群
日下部鳴鶴の書

次いで渋滞の中を上海虹橋駅に行き、超混雑の中で荷物検査などを受け、14時45分の新幹線で紹興に向かい、2時間弱で紹興北駅に着き、漱石・魯迅の交流を訪ねる旅の一行に加わりました。車内で、魯迅の孫にあたる魯迅文化基金会の周令飛秘書長と合流し、16時半過ぎに着いて、ホテルの「咸亨酒家」に入ったところです。

上海虹橋駅の混雑
魯迅基金会の周秘書長

 

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9月9日その3、梅龍鎮夕食会、大前さんら

夕食会記念写真

一休みした後に17時半に出て、18時から3時間ほど、長い歴史のある「梅龍鎮酒家」で伝統的中国料理による夕食会に出席しました。徐迪旻さんのお声掛けで、片山和之総領事や卓球世界の徐寅生さんや唐微依さんをはじめ現地の日本法人やスポーツの関係者など10数人がお集まりで、徐さんに続いて私が挨拶し、片山総領事の挨拶をいただいて乾杯をして美味しいお食事と楽しい会話のひと時を過ごしました。出掛けに見ると、壁面に大きな禁煙のポスターが貼られていました。

伝統ある酒店で
私の挨拶
乾杯!
杯を重ね
禁煙ポスター

21時過ぎにホテルに戻ると、コラムニストの大前伶子さんらがおられ、挨拶しました。ホテルの部屋に戻ると、上海の夜景が綺麗に見えました。

大前伶子さんら
上海の夜景

 

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9月9日その2、上海着

田舎料理で乾杯

10時半前にホテルを出て、北京第2空港の近くの風情のある田舎料理屋さんで、11時過ぎから早めの昼食をいただきました。大きな水槽に淡水魚のほかに亀も泳がせており、メニューを見ると亀料理もあって、びっくりしました。

水槽には亀も

13時の便で発ち、1時間45分の飛行で上海虹橋空港に着くと、旧知の徐迪旻さんが迎えに来てくれており、渋滞の高速道で市内に入り、16時半ころにホテルにチェックインしました。ホテルオークラの運営する「花園飯店」で、従業員はみな流暢な日本語を話していました。

渋滞の高速道
上海も曇り