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8月31日、安宅さん葬儀、弔辞

猛暑は結局8月最終日まで続きました。10時半前に喪服で妻とでて、11時前から安宅敬祐さんの葬儀・告別式に参列しました。読経と焼香の後に、私が弔辞を読ませていただきました。今日の2時まで、パソコンを叩いて仕上げましたが、清書まではいきませんでした。

弔辞朗読

12時半に出棺を見送り、帰宅後は暑さで自宅でぐったりしていました。

出棺見送り
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安宅敬祐さん弔辞を掲載しました

「おっ安宅、帰れたのか、良かったな!」28日昼前のことです。私が電話口で最初に発した言葉でした。安宅君から電話がかかってきたのです。その前日、容態が悪いと聞いていたので、電話口のいつもの通りの君の張りのある声にびっくりしたのです。君の返事は、「病院からなんだ」でした。

その後、君は地方税財政についての論文の話をし、「もう仕上げる元気がない」と続け、それどころか、何をする気力も体力もすっかり無くなったので、「安楽死させてほしい」と言い出しました。私は、何とか勇気付けて安らかな気持ちになって貰うよう、あれこれのことを言い、かれこれ20分ほども会話を交わしました。

そんなことがあったので、29日朝の君の訃報はまさに青天の霹靂、何かの間違いだと思いました。しかし、本当のことでした。

君は前にも、そんなことがありました。30代後半のころ重症筋無力症で仙台の病院に入院していた君を見舞ったときです。あの時は、君の筋肉は全く動かず、物も言えず目もほとんどあかず、わが友安宅とこれが今生の別れになると、私は覚悟を決めました。その後、著効のある薬に出会えて仕事に復帰したと聞き、本当にほっとしたのです。今度もそんなことで、簡単にはくたばりはしないと思っていたのに、そうはいきませんでした。

君と私とは、小学校の小川学級で同級生でした。「青井、安宅、宇治、江田、岡…」と並んでいましたね。一番早い別れが宇治、次が岡、そして今君。青井はどうしているかな…。小学校、中学と進み、高校は別れましたが、大学でまた一緒になり、卒業後は司法と行政は別れましたが国家公務員となり、ともに国の派遣で海外留学もしました。私は36歳で国政の場に転じ、君は各地の県庁で地方の仕事をしたのち、志を持って私に相談に来ました。郷里に戻って仕事をしたいというのです。私に異存のあろうはずがなく、岡山市長選に挑むことにしたのですね。

当時の市長は全くの土着の有力者で、しかも君の決断から選挙までは時間も短く、とても勝ち目はないと思われていたかもしれません。その上に相手は、君の挑戦をかわそうとしたのか、チボリ公園計画を巡る市議会での動きに乗じて、まったく予期しない辞職と再選挙の挙に出てきました。かくなる上は…と、わが家の一室に10数人ほどが集まって鳩首協議し、君は鮮やかに「チボリから撤退」を公約に決めてくれました。今もはっきりと思い出します。

君は見事に当選し、市民全体を視野に入れて道理に叶った市政を進め、福祉各分野のインフラ整備や拡充などに努めました。そして中核市移行を実現させ、後の政令市への道筋を付けました。チボリ公園はその後苦難の道を歩んで最後は消えて行きました。その後私は、私個人の思いや願いで君を動かそうとすることは慎みました。君は市民の市長なのだからです。

二期目の選挙は、阪神淡路大震災の直後で、応援に動くのに苦労しました。新幹線が走らないのですから。三期目は敗退。やはりアメリカの大統領は2期までというのは、人類の知恵なのかと思います。しかし、その後に君が直面した損害賠償関係の事態は、私は今でも君に非は無かったと思っています。

その後君は、大学で教鞭をとって後進を指導し、また米国留学以来続けてきた地方税財政関係の研究にも勤しんできました。けれども、私が参議院議長で動きが取れない時に、君がさらに市長選に挑んだ時には、本当に困りました。まあ、過ぎたことです。忘れましょうね。議長と言えば、君のおばあさんが書道に勤しみ、私の師である河田一臼先生の「生成」という墨象の額を持っていましたね。私はそれが気に入って、君に頼んで貸して貰い、国会内の参議院議長室に掛けさせていただきました。懐かしい思い出です。

今年の4月、私は妻と旭川の水源地にお花見に行き、帰りに思い付いて君を訪ねました。晴れた気持ちのいい日で、君は縁側でゆっくりと体を横たえており、お茶をいただいてからお隣の五藤さんの家を覗くと栄一さんと裕子さんがおられ、庭の満開の桜の下で談笑していると、何と歩けないはずの君が一人で立ち上がってやってきました。みなびっくりし、喜んだ春のひと時は、忘れられない楽しい思い出です。

安宅敬祐君。まさかあの元気な電話から僅か10数時間で、君が旅立つとはとても信じられません。あの愛らしい由子ちゃんが、早く来てよと呼んだのかもしれませんね。もう会えましたか? 私たちもいずれそう遠くない先に、追いかけます。どうぞ安らかにお眠りください。

友人代表 江田五月

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8月30日、柚木さん集会、壮行会、森本さん集会、安宅さん通夜

酷暑はまだ続いていますが、あれこれ所用があってゆっくりしていられませんでした。まず11時から1時間半ほど、柚木道義さんのオンライン政策勉強会がありましたが、まず参加の仕方が判らず30分程うろうろし、映像にまでは辿り着けたのですが音声が極めて小さく、結局「気は心」で終わってしまいました。

柚木さんオンライン政策勉強会

12時半からは、弟の拓也君の壮行会で、テイクアウトの昼食会を行いました。2年ほどわが家の離れに住んでいたのですが、いよいよ明日新しい出発をするそうです。

拓也君壮行昼食会

14時からは津山で、森本榮さんの後援会総会ですが、私は出席が叶わず、竹馬の友のご子息の杉本一洋さんに頼んで作って貰った元気一杯の花束を届けました。

17時半に喪服に着替えて妻とともに出掛け、18時から1時間弱、昨日未明に逝去した安宅敬祐さんの通夜に参列しました。中高同期の仲間の皆さんが大勢参列してくれました。喪主の大祐さんのご挨拶の後、ご尊顔を拝ませていただきました。やつれは全く見えず、良い顔でした。

安宅さん通夜
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8月29日、生テレビ、安宅さん死去、県北姉妹

酷暑は今日も変わらず、3時ころに目が覚めてテレビを点けて見ると、「朝まで生テレビ」が流れており、つい見てしまいました。30年ほど前には、私も常連でした。司会の田原総一朗さんの髪が真っ白になりました。

「朝まで生テレビ」
司会の田原さん

11時ころ、安宅敬祐さんが朝方に死亡したとの知らせが届きました。昨日電話で話をしたばかりなのに、とても俄かには信じられませんでした。小学校の同級生で、高校は別れましたが大学でまた一緒になり、卒業後は司法と行政に別れましたが共に公務員となりました。私が国会議員になった後に、志を持った彼を岡山市長選に押し出し、2期務めました。享年78歳。合掌。

その後、自宅で電話連絡やテレワークをし、17時半前に県北の支援者姉妹がテイクアウトの夕食持参で訪ねて来て楽しい団欒の時を持ち、気が付くと21時半になっていました。

テイクアウトの夕食懇談
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8月28日、テレワーク、来客、首相辞任表明

まだ一向に出口の見えない酷暑の中、今日も終日自宅に籠りっきりでした。もっともテレワークと電話連絡で結構忙しく、さらに16時から1時間弱は来客で、結構込み入った打ち合わせをしました。その間に14時過ぎに、辞任はないとの観測が出ていた安倍首相の17時からの会見が辞意表明になるとのニュースが飛び込んできました。

そこで17時から1時間強、NHKテレビで安倍首相の辞任表明を見ました。第一次安倍政権の時に私は参議院議長で、所信表明を終えた安倍首相が代表質問を受けずに辞任したのを無責任と批判したことがあります。今回の辞任はタイミングも図りに図って情報管理も徹底しており、これから自民党一流の暗闘が繰り広げられると思います。確かに面白い世界ですが、これは政治の一場面に過ぎず、政治の大局を見誤ってはなりません。

安倍首相辞任表明
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8月27日、酷暑、細川さん

子どものころには、秋風の中をアキアカネの群生が飛び交う中、夏休みの宿題を片付けるのに大慌てしていた8月終わりなのに、今年の暑さはまだ一向に収まりません。今日も終日自宅にいて、テレビを見たりしながらのんびりテレワークで電話連絡などに取り組みました。NHKで「本能寺の変サミット」を見ていると、細川護熙さんが登場しました。私は細川内閣の国務大臣で、科学技術庁長官を務めました。

「本能寺の変サミット」

 

細川さん
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8月26日、国のかたち、来客、岡弁憲法委

相変わらずの暑さの中を、妻は11時半ころに所用で出掛け、私は12時から1時間強、「国のかたち研究会」にオンライン参加しました。菅直人さんを会長とするグループで、各地での野党結集状況につき報告があり結集の在り方につき意見交換をし、私も意見を述べました。

国のかたち研究会Zoom会議

14時ころに妻が帰宅し、15時に友人夫妻が収穫した果樹を持って訪ねてくれ、玄関で暫時懇談しました。さらに電話連絡が続きました。

友人ご夫妻

16時過ぎから1時間弱、岡山弁護士会憲法委員会にオンライン参加しました。緊急事態条項の危険性や裁判の公開などの憲法原則とコロナ禍対応につき意見交換し、私の意見を述べました。その後も、電話連絡が続きました。

岡弁憲法委員会にオンライン参加
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8月25日、所用、事務所、立憲2区準備会

相変わらずの暑さとコロナの中ですが、10時半に妻とともに出て、まず岡山市中心部で所用を済ませ、12時過ぎから30分ほど、法律事務所に入ってデスクワークをしました。久しぶりでしたが、未済案件はそれほど溜まってはいませんでした。

事務所で

自宅で昼食の後、妻とともに出て14時から1時間半、立憲民主党岡山2区の準備会に出席しました。原田謙介さんの活動報告のほか、津村啓介さんも出席して来賓挨拶をしてくれ、「江田五月と語る会」で私が渡部恒三さんのことなどを話し、10数人で野党結集に望むことなど歯に衣着せない意見交換をしました。

立憲岡山2区準備会
原田さんや津村さんも
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8月24日、無為、渡部さん

気温は若干下がったというものの、昨日と同じく暑さと無為の一日でした。テレビで、遺留捜査など刑事ものを3本も見てしまいました。

刑事ものテレビ

渡部恒三さんが亡くなりました。かつての竹下派七奉行の一人で、民主党が永田さんの失敗で危機の時、役員会に小さな「起き上がり小法師」を地元会津から持ってきて配り、みんなを和ませ元気を取り戻させてくれました。享年88歳。合掌。