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8月17日、広州へ、陳氏書院、十三行博物館、友協夕食会、二次会

十三行博物館で

8時にホテルをチェックアウトして桂林駅に向かい、9時過ぎの高速鉄道で広州南駅に向かいました。高速鉄道は開業して10年足らずで、日本の新幹線と同じ仕様のようでした。出発時はかなりの雨でしたが、3時間弱の車中の景色はどんどん変わり、到着時には薄日が差し始めました。山から平野に移り、耕地整理前の日本の田のような景色から養魚池などが増え、最後は完全な都市の風景となりました。

桂林朝食
広州行き高速鉄道
田園風景
広州南駅で

12時半過ぎにホテルに着くと、珠江に面した改革開放後の最初の西洋式ホテルで、支配人に迎えられ、直ちに昼食となりました。満腹となって、14時に部屋に入り、14時半から市内見学に出発しました。

広州のホテル
ホテルの窓から見た珠江

まず14時45分から、陳氏書院を見学しました。清朝に出来た学校で、建物の装飾が素晴らしく、科挙試験に優秀な合格者を輩出しています。1時間ほど見て、次に十三行博物館を見学しました。やはり清朝の商社が集まった場所で、海外交易の中心となり、阿片戦争で清朝に資金提供して崩壊した場所に、当時の文物を集めて展示しています。

陳氏書院で
巨大な端渓の硯
広州と世界の交易の歴史
記念の署名

17時半過ぎにホテルに戻り、18時過ぎから2時間ほど、広東省人民対外友好協会の蘇才芳副会長主催の夕食会となりました。広東省の歴史や現況、将来の展望などを聞き、私からも日中友好の取り組みの現状と課題などを話し、美味しい料理と豊富な話題で有意義なひと時を過ごしました。その後、場所を移して2時間ほど、訪中団の5人と案内をいただいた中日友好協会の2人とで二次会で友好を深めました。

夕食会で乾杯
記念品交換
二次会

 

 

 

 

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8月16日、漓江下り、陽朔散策、蘆笛岩、夕食会

陽朔の漓江河畔で

7時過ぎから朝食を食べ、雨は止んでいたのですが、大雨による増水のために船が欠航となったので、漓江下りを結局陸路に切り替えて到着予定地の陽朔まで行くことになり、8時の予定が遅れて8時45分に出発しました。途中は次第に眺望が良くなり、桂林独特の奇岩が靄に包まれて墨絵の世界が目前に広がって来ました。

桂林市街のスクーター
道路にも溢水
墨絵の奇観

10時45分に陽朔に着き、漓江の河畔を散策しました。見事な景観とともに、民族衣装、ラクダ、サルなど、観光客を楽しませるものも多く、大いに楽しんで12時前から素晴らしい昼食をいただきました。

漓江河畔で
民族衣装
サル
果物売り
昼食会

13時過ぎに出て桂林に戻る途中で、蘆笛岩という巨大鍾乳洞を見ました。桁外れの大きさで、特に漓江下りが欠航のために観光客が押し寄せ、大変な人でした。1時間ほど見て、桂林市に戻るころには、天候はすっかり回復して青空が広がってきたのですが、増水は一か月近くも続くとのことでした。

蘆笛岩で

17時過ぎに着いて部屋に戻って若干のデスクワークの後、18時から2時間ほど、夕食会でおいしい料理に舌鼓を打ちました。今回は難波訪中団の5人と中日友好協会の2人、それに地元担当者だけの気の置けないメンバーで、気楽な会話も楽しみました。

増水した漓江
桂花酒をいただき
乾杯!

 

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8月15日、桂林へ、漓江、市政府夕食会

記念品をいただき

北京の朝は曇りですが、大気汚染ではないようで、窓から故宮が良く見えました。8時半に荷物を出して朝食。麺が美味しく、満足でした。

窓外の故宮
北京朝食

10時半にチェックアウトして北京空港に行き、12時半過ぎの便で桂林に向かいました。空港でカップ麺をいただき、さらに機内食も平らげました。国内便は乱れることが多いのですが、予定通りに3時間の飛行で16時ころに着き、空港貴賓室で暫時待機しました。テレビのCCTV番組は、ずっと日本の武道館での「戦没者追悼式」や731部隊の報道の模様などを流していました。今回の追悼式は残念ながら、私は欠席となりました。市の中心部に入ると、ずっと大雨で漓江が溢れんばかりに増水していました。

北京空港のカップ麺
CCTVのニュース

17時過ぎにホテルにチェックインして、若干のデスクワークをし、18時から1時間弱、桂林市政府の樊新鴻副市長らと会見をしました。まず樊副市長から歓迎のご挨拶と桂林市の状況の説明がありました。漓江の流れと独特の山々の景観を大切にするために周辺を大きく合併し、交通の要衝として他地域とつながり、少数民族など人に特徴があり、多くの産業開発をし、さらに景観を生かした文化的な地域の特性を重視した行政を進めているとのことです。次いで私から、お礼と同時に、終戦の日という特別の日に平和で穏やかな本市を訪ねることができた感慨を述べ、さらに難波奨二さんからご挨拶をしました。19時前から夕食会となり、最先端の素晴らしい中華料理と豊富な話題で盛り上がりました。この地域では、5月には白鳥が飛来して貴重品のキノコを啄むので、その跡を探して人がキノコ狩りをするのだそうです。豚に探させるよりずっと詩情があります。

樊副市長らと会見
難波さんも発言
乾杯!

 

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8月14日、羽田へ、北京へ、居庸関、対外友協夕食会

居庸関で

6時半前にホテルを出て、JR在来線とモノレールで羽田空港に着きました。小雨が上がったところで、助かりました。暫く待ってチェックイン手続きに向かい、難波奨二さんら今回の旅の全員が揃いました。9時過ぎの便で北京に向かい、さらに桂林と広州を回って、18日に帰国します。フェイスブックは、しばらくお休みとなりますが、ウェブサイトは利用可能と思います。

難波訪中団一行

予定通り9時半前にゲートを離れ、順調に3時間強の飛行と1時間の時差で、現地時間の12時過ぎに北京国際空港に着陸しました。中日友好協会の王占起副秘書長らに迎えられて、暫く貴賓室で待機しながら夕食会までの行動を相談し、万里の長城に出掛けることにしました。13時に出て1時間で居庸関に着きました。私は先日来たばかりなので、入口だけで待機をし、1時間弱の観光を楽しみました。大勢の人並の中に賑やかな中年女性観光客の一団がおり、聞きなれない言葉だったので尋ねると、ベトナムからとのこと。遠くには八達嶺の人並も見えました。

北京空港で
しばらく歩いて
賑やかなベトナムの女性たち
落書きがいっぱい

中国はこれから一帯一路構想、長江一帯発展、北京・天津・河北省の連携を目指し、北京市は構造改革、北京等連携、産業分散を目指すとの説明がありました。

15時に出て、比較的スムーズに北京中心部に入り、16時半前にホテルにチェックインしました。その後、若干のデスクワークをして、18時から、中国人民対外友好協会の宋敬武副会長らとの夕食会となりました。宋副会長の挨拶に続いて私が挨拶をして難波さんを紹介し、乾杯をして懇談となりました。国際情勢の見方、日中関係の今後など、話題は豊富であっという間に2時間が過ぎました。その後、車中から天安門人場などを見て回り、21時ころにホテルに戻って、さらに二次会で盛り上がりました。

夕食会全景
難波さんの音頭で乾杯
記念写真
二次会

 

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8月13日、百日紅、訪中準備、上京

訪中荷物と

「晴れの国」岡山は、夏の青空に太陽がじりじりと照りつけています。百日紅が色鮮やかにわが世の夏を誇っていました。白が満開なので、このところ放置して夏草がおごり茂っている庭に出てみると、紫も小ぶりですが鮮やかで、朱はこれからでした。

百日紅ー白
同ー紫
同ー朱

夕方まで自宅でゆっくりし、ときどき思い出したように明日からの訪中の準備をし、17時過ぎに妻に送って貰って出て岡山駅に行き、18時前の超満員の新幹線で上京しました。21時過ぎの東京駅も超満員で、JR在来線で着いた水道橋は、後楽園での催しが終わったところらしく、若い女性で大混雑で、道路も前に進めないほどでした。

22時前にホテルに着き、ほっと一息つきました。

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8月12日、民進党座談会、電気器具等、HP不調

民進党座談会

 

 

 

 

 

 

 

 

 

10時半から1時間半弱、妻とともに、私の居住する地域の公民館で開催された「民進党中区国政県政市政懇談会」に出席しました。総勢で40人を超える参加者で、高橋雄大市議の司会で、高橋徹県議の県政報告、津村啓介さんの国政報告、併せて10月の市議補選に民進党公認で出馬が決定している下川倫史さんの決意表明、そして高橋雄大市議の市政報告があり、私も一言挨拶をしました。その後、質疑応答に移り、学校教員の過重労働、子ども食堂の実情、民進党の立て直しなどにつき活発な発言が続きました。最後に全員で記念写真を撮り、散会となりました。

座談会全景

 

 

 

 

 

 

 

 

 

記念写真

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自宅で昼食後、14時から2時間ほど、電気器具店に行きました。故障したエアコンと冷蔵庫の買い替えとパソコンの不具合の相談です。パソコンは、私のウェブサイトだけが接続不能で、どうやら私がサーバーからの連絡メールを無視したのが原因のようです。自宅に戻って悪戦苦闘して、どうやら契約更新手続きが完了したのですが、ホームページのアクセスが暫く出来ないかもしれません。良い勉強になりました。

電気器具店

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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8月11日、親族霊前、墓参、玉龍会反省会

両親の墓参

 

 

 

 

 

 

 

 

 

10時前に妻と出て、岡山市北区の北端にある私の両親の墓参に行き、途中で、親族の和田さんと岸本さんのところに寄り、仏前に線香を手向けて手を合わせました。和田さん方には、私の若いころの「龍翔鳳舞」の額が掛けられていました。隣の部屋には、浅野五牛さんの「月哉日哉」という額が掛かっていました。

和田さんの霊前で

 

 

 

 

 

 

 

 

 

岸本さんの霊前で

 

 

 

 

 

 

 

 

 

12時前に墓地に着くと、駐車場が車で一杯で、聞くと山の上流に砂防ダムを造るためにお寺のすぐ前に工事用の道路を作るので、その関係の車両だそうです。墓を掃除し、草を抜き、線香を手向けて手を合わせました。近所のうどん屋で昼食を取り、帰宅は15時前になりました。

17時半からの玉龍会展反省会に、ちょっと遅れて出席しました。3時間ほど、今回の作品制作に臨んだ覚悟や展覧会全体の感想などなどにつき、各自が話して皆で論評し合い、来年に向けて精進を重ねることを誓い合いました。と書くと堅苦しくなりますが、雰囲気はもちろん和気藹々でした。

玉龍会反省会

 

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8月10日、孫たち帰京、眼科、高井さん

孫たち帰京

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夜明け前に降った雨がすっかり上がり、朝日が昇って来る中、娘と2人の孫たちが6時過ぎの在来線で「青春18きっぷ」で帰っていきました。妻とともに駅まで送って行き、また会う機会を楽しみに見送りました。今日中には、日野の自宅に着くのでしょう。

また来てね!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自宅に戻って寝直し、11時に出て白内障手術の診療を受けました。左眼の経過は順調で、右眼の手術準備が始まっています。13時過ぎに法律事務所に入り、デスクワークや電話連絡をしました。15時半ころ、高井崇志さんが寄ら、暫時懇談しました。17時に出て帰宅し、さらにデスクワークをしました。

髙井さん

 

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玉龍会報~出品者コメント~「龍翔鳳舞」を掲載しました

「龍翔鳳舞」

今年の玉龍会展には、作品を書く合宿に参加できず、後神直子先生に頼み、岡山朝日高校書道部の練習時間に書道教室に立ち寄って、「鳳舞」と大画仙紙に揮毫しました。現役の生徒の皆さんの見ている前で、緊張しましたが、何はともあれ仕上げることができ、ほっとしています。

私の自宅は、間もなく築40年になります。1977年に、父・江田三郎の政治活動上の憤死で裁判官を辞し、国政に参画して暫くして、やはり自分の本拠を岡山に持たなければと、住宅ローンで建てたものです。その玄関には新築当時から、私の「龍翔」という全紙の作品を掛けています。私の国政進出直後の作品で、2007年12月の河田一臼先生の回顧展の際に出品させていただいたものです。

昨夏に参議院議員任期満了とともに足掛け40年に亘った国政の現場から去り、秋には桐花大綬章をいただいたので、この際、「龍翔」から始まった国政参加の締めくくりとして、「鳳舞」を選んでみたのです。しかし、作品の出来も不満足だし、この間の国政活動も決して満足できるものではありません。むしろ、恥多き政治家人生だったなと回顧しています。

桐花大綬章は最高位の勲章で、今春には森喜郎元首相に授与されました。私の場合は、2007年から10年までの参議院議長に対するもので、衆参で多数派の異なるねじれ状態だけでなく、参議院内でも私の出身母体の民主党は過半数に至らず、国会運営は苦労の連続でした。ガソリンの店頭価格が下がったり上がったりして、国民生活に混乱も起こしたりしました。政治が生活に直結しているのを実感できて良かったというのは、弁解になりません。

もともと叙勲制度は国民に序列をつけるもので、根本的な批判もあります。江田のやつはあんなものを貰って悦に入っていると、陰口も聞こえます。私が偉くなったわけではありません。地元に何の利益誘導もしないのに、終始変わらず私を支えてくれた皆さんがいてくれたからこそ、議長の職務を全うできたので、叙勲は皆さんがいただくものです。私が代表して、受け取らせていただいたと思っています。

龍ならんと欲して翔び立ったものの志を果せず、皆さんに鳳を舞っていただくのがせめてものお返しかと思っています。それでも、龍も鳳も形は一つではありません。最近はフローラという言葉が盛んですが、花園には、大輪のバラも片隅のカタバミも咲きます。多様な個性をすべて大切にし、鮮やかな「龍翔鳳舞」の風景を作りたいものです。

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8月9日、遠隔操作、電話期日、曾祖父母、NTT労組、焼肉

曾祖父母の仏前で

 

 

 

 

 

 

 

 

 

携帯電話が、こちらからは掛けられるのに、相手からは呼び出しが出来ないという不具合となり、9時過ぎに遠隔サポートセンターに電話を掛けると、実に丁寧に対応してくれて治りました。たぶん私の操作ミスでしょうが、遠隔操作で治っていくプロセスには、仰天しました。

10時前に娘と孫2人を連れて出て、彼らを途中で下ろし、私は法律事務所に入りました。11時から15分強、受任民事事件の電話期日に対応しました。土地明渡請求事件で、和解の話し合いを進めています。その後、デスクワークをしました。

電話期日

 

 

 

 

 

 

 

13時過ぎに所用を済ませて帰宅すると、ももちゃんと一生君がママとともに来ており、15時過ぎにおやつの後にみんな揃って奥の曾祖父母の仏前に線香をあげて手を合わせました。曾孫らの供養を喜んでくれたでしょうか?

 

一生君もお線香を

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その後、暫時休憩し、17時半に出て市内中心部のホテルで開かれたNTT労組中国総支部15周年「感謝の集い」に出席しました。到着が若干遅れ、来賓挨拶の途中で入ると、間もなく私が指名され、戸惑いながら40年の国政生活を振り返って不動の支援に感謝の言葉を述べました。中央本部委員長だった佐々森和男さんをはじめ、大勢のお世話になった旧役員の皆さんがお見えでしたが、30分強で退席し、孫たちと一緒に焼肉で夕食を食べました。明早朝、娘と孫2人は青春18きっぷで東京に旅立ちます。3歳の一生君は、「明日もまた会おうね」と別れを惜しんでいました。

NTT労組の集いで森本真治さん

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私も会場で

 

 

 

 

 

 

 

 

 

佐々森元委員長