

15時過ぎに再び出て、雨が降ってきたので傘をさして、魯迅記念館に向かいました。魯迅が育った居宅で、入口を入ると直ぐに目立つところに、仙台留学時代の恩師の藤野厳九郎の胸像がありました。現在では陋屋ですが、当時はなかなか立派な邸宅だったと思います。様々な展示を見て、さらに最初に通った塾の跡の「三味書屋」や、周囲を流れる水路に浮かぶ手漕ぎの舟なども見て回り、若干の買い物をして17時前に咸亨酒家に戻りました。この後の予定は、雨のために、この宿舎内で行われます。






15時過ぎに再び出て、雨が降ってきたので傘をさして、魯迅記念館に向かいました。魯迅が育った居宅で、入口を入ると直ぐに目立つところに、仙台留学時代の恩師の藤野厳九郎の胸像がありました。現在では陋屋ですが、当時はなかなか立派な邸宅だったと思います。様々な展示を見て、さらに最初に通った塾の跡の「三味書屋」や、周囲を流れる水路に浮かぶ手漕ぎの舟なども見て回り、若干の買い物をして17時前に咸亨酒家に戻りました。この後の予定は、雨のために、この宿舎内で行われます。
7時半から麺の朝食を食べ、池にせり出した舞台で太極拳の真似をしました。8時半過ぎに出て紹興文理学院に行き、まず応接室で同学院長の王健力教授らと会見しました。王院長から歓迎のご挨拶と学院の紹介があり、私が日本側出席者を代表して挨拶し、記念品の贈呈を受けました。
続いて9時半から12時前まで、学院の「鉄城科教館報告庁」という大教室で、「魯迅与夏目漱石―跨時空対話」という文化交流フォーラムを行いました。教室は学生たちで満員で、7割ほどが女子学生のように見えました。王院長が冒頭の挨拶と司会をし、片山総領事の挨拶があった後に、パネリストの発言があり、魯迅の孫の周令飛さんが「魯迅、夏目漱石と中日文化交流」、漱石の孫の夏目房之介さんが「夏目漱石から見た中国」、北京魯迅博物館元副館長の陳漱渝さんが「国の作品を世界へ―夏目漱石と魯迅」、東京大学の藤井省三教授が「日本の国民作家としての夏目漱石と魯迅」、私が日中友好会館会長として「魯迅、夏目漱石と中日友好」、最後に学院の王黎君教授が「比較文学の視点から見た魯迅と夏目漱石」というテーマでそれぞれ講演をしました。私以外のパネリストは文学に視点を置いた発言でしたが、私は門外漢で、うまく噛み合わなかったのではないかと恐れています。学生からの質問を受ける時間がなく、王院長の締めくくり挨拶で終了となり、出席者の写真撮影をし、サイン帳に一言書いて署名をしました。
12時過ぎから1時間半ほど、学院内の「対竹楼」というレストランで、関係者による昼食会を行い、美味しい料理と刺激に溢れた会話と若干の紹興酒で満腹になりました。14時に咸亨酒家に戻り、書斎風の部屋でデスクワークをしました。
18時過ぎに同宿の皆さんと写真を撮って出掛け、紹興の古い街並みを歩いて魯迅故居に着き、18時半から2時間強、故居の主でもある周秘書長のお計らいで、この地域の家庭料理と紹興酒で夕食会を行いました。夏目漱石の孫にあたる夏目房之介さんもご出席で、まず政治協商会議紹興市委員会の魏偉主席が一言挨拶し、次いで周秘書長と私が、順次挨拶と乾杯の音頭を取って宴が始まりました。魯迅基金では世界中の魯迅と交流のあった文筆家を選んで毎年国境を超えた交流を続け、今年が4回目で正常化45周年にも当たるので、日本の漱石との交流をテーマにしたのです。片山総領事も出席で挨拶し、宴たけなわになるに従って紹劇や京劇の物真似、日本の「北国の春」の日中二か国語での合唱などと賑やかになり、最後に周秘書長と私の閉めの挨拶でお開きとなりました。
9時にホテルで日本式のお粥朝食を食べ、荷造りをして、10時にチェックアウトし、直ちに徐さんの亜洲友好協会の雲間美術館に行きました。日中の特別展の最終日で、四季折々の花の絵などを鑑賞し、さらに徐さんご自慢の各種の立派な椅子などを拝見した後、私の揮毫タイムとなり、「字を書くのでなく、恥をかく」と抵抗しましたが無駄で、何枚かの半切作品などを揮毫しました。篆刻の大家の費名瑶さんが目の前で私の印を彫ってくれました。
12時過ぎに、同じビルの中にある「屯京拉麺」で昼食に池袋由来という拉麺を食べました。日曜日なのに大繁盛で、行列が出来ていました。その後、短時間でしたが呉昌碩記念館に寄り、5代目に当たる旧知の呉越さんに案内していただいて、呉昌碩所蔵の書家の書などを見せていただきました。日下部鳴鶴の書もあり、さすがの筆使いの切れの良さに感嘆しました。同館は超高層ビル群の中にある平屋で、上海市が手厚く保護しているそうです。
次いで渋滞の中を上海虹橋駅に行き、超混雑の中で荷物検査などを受け、14時45分の新幹線で紹興に向かい、2時間弱で紹興北駅に着き、漱石・魯迅の交流を訪ねる旅の一行に加わりました。車内で、魯迅の孫にあたる魯迅文化基金会の周令飛秘書長と合流し、16時半過ぎに着いて、ホテルの「咸亨酒家」に入ったところです。
一休みした後に17時半に出て、18時から3時間ほど、長い歴史のある「梅龍鎮酒家」で伝統的中国料理による夕食会に出席しました。徐迪旻さんのお声掛けで、片山和之総領事や卓球世界の徐寅生さんや唐微依さんをはじめ現地の日本法人やスポーツの関係者など10数人がお集まりで、徐さんに続いて私が挨拶し、片山総領事の挨拶をいただいて乾杯をして美味しいお食事と楽しい会話のひと時を過ごしました。出掛けに見ると、壁面に大きな禁煙のポスターが貼られていました。
21時過ぎにホテルに戻ると、コラムニストの大前伶子さんらがおられ、挨拶しました。ホテルの部屋に戻ると、上海の夜景が綺麗に見えました。
10時半前にホテルを出て、北京第2空港の近くの風情のある田舎料理屋さんで、11時過ぎから早めの昼食をいただきました。大きな水槽に淡水魚のほかに亀も泳がせており、メニューを見ると亀料理もあって、びっくりしました。
13時の便で発ち、1時間45分の飛行で上海虹橋空港に着くと、旧知の徐迪旻さんが迎えに来てくれており、渋滞の高速道で市内に入り、16時半ころにホテルにチェックインしました。ホテルオークラの運営する「花園飯店」で、従業員はみな流暢な日本語を話していました。
荷造りをして9時に出し、麺と雲呑の朝食を取り、10時半にチェックアウトをして北京空港から上海に向けて出発です。今日の北京は厚い雲に覆われています。その後、漱石と魯迅の跡を訪ねるたびに合流します。
一度ホテルに戻って休憩し、17時に出て再び人民大会堂に向かい、待合室で暫時待機して、18時前から30分弱、全国人民代表大会の王晨副委員長との会談を行いました。日本側は、河野会長、横井大使、私と順次着席し、民進党から白眞勲さんも加わりました。王副委員長と河野会長が順次、正常化から45年を経過した両国関係の経緯を振り返って今後の課題を述べ合いました。
次いで18時半前から2時間ほど、中日国交正常化45周年記念レセプションに参加しました。私たちが全員の拍手に迎えられて王副委員長を先頭に入場し、日中両国の子どもたちによる中国語の「茉莉花」と日本語の「四季の歌」の澄んだ綺麗な声の合唱があり、この子供たちのためにこそ両国の友好交流を途絶えさせてはならないと思い、思わず涙が出そうになりました。そして、中日友好協会の唐家璇会長と日本国際貿易促進協会の河野洋平会長が順次挨拶し、さらに45年前の主役の周恩来さんの姪にあたる周秉徳さんと田中角栄さんの娘にあたる田中真紀子さんが当時の思い出を語り、大きな感動を与えました。続いて中国人民対外友好協会の李小林会長の音頭で乾杯をして、夕食会が始まりました。
会場には、まさに「老朋友」が大勢ご参加でした。まず1978年の訪中から始まって何度も案内と通訳を務めていただいた呉瑞鈞さん、同じく陳学成さん、最近まで中日友好協会副会長を務めた王秀雲さん、日中友好会館役員を務めた劉智剛さんや呉従勇さんなどで、島根県に出向していた沈海婷さんや民主党の招待で日本留学した李博さんらもいました。呉瑞鈞さんは私の妻とも親しく、国際電話で話が出来ました。
9時から朝食で、今朝も麺をいただき、10時半に出て人民大会堂に行き、11時前から1時間ほど、全国政治協商会議の兪正声主席との会見を行いました。待合室で暫時待ち、会見場に移って兪主席と順次握手をして言葉を交わし、40人弱が全員で記念写真撮影を行いました。今日は日本国際貿易促進協会の河野洋平会長がご参加で、中央に兪主席が、その右に河野会長、左に私が並びました。やがて会見が始まり、私は河野会長、横井大使の次に着席し、兪主席の挨拶に続いて河野会長が挨拶し、二人の間で国交正常化45年の歩みや相互交流の現状の評価と課題、北朝鮮をめぐる国際関係など、多方面にわたって意見交換が行われました。最後に、核兵器の拡大や武力衝突の回避で意見が一致し、会見終了となりました。
その後、直ちに参加者全員で中国人民対外友好協会の建物に移動し、12時半から14時前まで、同協会の李小林会長主催の昼食会に出席しました。李会長の挨拶と乾杯に続き、経団連の榊原定征会長の挨拶と乾杯があり、美味しいお食事と活発な会話で楽しいひと時を過ごしました。
暫く部屋でデスクワークや荷物の整理をし、17時過ぎに出てバスで釣魚台に移動し、18時から2時間ほど、中日友好協会の唐家璇会長主催の夕食会に出席しました。唐会長とは本当に長い付き合いで、例えば2002年5月20日の東ティモール独立式典(https://www.eda-jp.com/old-index.html)で、中国を代表して参加された唐さんと言葉を交わしたことがあります。
30人ほどの参加者の中には、園田、野田、北側各衆議院議員や経団連の榊原会長、田中真紀子さん、松山バレー団の森下洋子さんらもおられ、まず唐会長が歓迎の挨拶をして乾杯の音頭を取り、次いで私が日本側参加者を代表してスピーチをして乾杯の音頭を取りました。どちらもたとえば北朝鮮のことなどの具体的懸案には触れず、両国の人々の友好と交流の大切さを強調し、その後は唐会長が中国一と称する釣魚台の中華料理と紹興酒などで、楽しい会話とともに有意義なひと時を過ごしました。