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玉龍会報 第49回玉龍会展に寄せて~出品者コメント~を掲載しました

会長 江田五月

今月6月末で、8年務めた日中関係の公益財団法人の会長任期が終わりになるので、中日友好の
ご案内で、4月の連休に仲間と、上海から雲南省昆明経由で、さらに奥の麗江を訪ねました。唐
の時代から始まった雲南とチベットとの交易の街道、「茶馬古道」の要衝の都市で、少数民族が
集中しトンパ文字がつかわれていたところです。
近くに標高5,596メートルの処女峰を擁する玉龍雪山があり、ロープウェイで4,506メートルの基
地まで登れます。玉龍会と同じ名前でもあり、悪天候を押してロープウェイに乗り込みました。
登り口で携帯用の酸素ボンベを渡され、吹雪の基地に着くと、酸素の薄さを実感しました。とい
うことで、今回の出品作品に「玉龍雪山」を選び、龍泉寺の合宿で悪戦苦闘しながら書きました。

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神伝流岡山游泳会「河本 淳さんの思い出」追悼文を掲載しました

昭和20年代の半ばころ、確か小学校の3,4年だったと思いますが、夏休みが始まってすぐに、
学校の近くにある旭川の相生橋上手右岸の水泳教室に通い始めました。体が弱かった私を、親が
気遣ったのだと思います。水を怖がることはなかったので、一番下から一つ上の外2Bというクラ
スでした。泳げるようになってから初等科、中等科、高等科と上がり、昇段試験を待つばかりを
特待生というのですが、もちろんそのずっと前でした。なぜか相性が良く、その後もずっと教室
に通い、中学3年で黒帽に白線一本の初段に、高校一年で二段、高三では三段で白線二本となり
ました。高校に上がるころから教える側に回り、大学生でも夏休みには必ず帰省し、現場の責任
を任されたりしました。
そのころ、現場の総責任を負っていたのが河本 淳さんでした。百人をはるかに超えるチビちゃん
どもを、それも一たび水難事故があると命に関わる現場で指揮するのですから、甘い言葉は使え
ません。いつも怒鳴り回っていました。受講生が帰ったのちに、名札が一枚でも残っていると、
私たちリーダーは並んで川底を潜って大捜索をします。そんなことも何回かあったように思いま
すが、幸い事故は有りませんてした。のちに国会議員になって、「私は相生橋上手で溺れている
のを助けて貰ったことがあります。江田さんというお兄さんでしたが、それはあなたですか」と
声を掛けられたことがありました。私の方は、何も覚えていませんでした。それほど、日常茶飯
事だったのです。河本さんの怒鳴り声だけは覚えています。
チビちゃんたちの講習が終わると、私たちの練習です。神伝流の泳ぎ方の修練ですが、これも簡
単なことではありません。手の先から足の先まで、神経を行き届かせます。遠泳の練習もあり、
鶴見橋から相生橋まで何往復もしました。泳者を何時でも助けられるように、列の横を和船で付
いていくため、櫓をこぐ技も達者になりました。
現場は、今のようなプールではありません。開講前には幾つもブイを浮かべてロープを張り、筏
を何艘も仕立てて浮かべ、川岸には垂木とヨシズで小屋を建てます。お盆過ぎにはそれを全部片
付けるのですが、これが大仕事なのです。水を一杯に含んだ垂木は重く、お城の下の広場に積み
上げる作業が終わると、肩が腫れ上がりました。そんな「苦役」も、河本さんの厳しい、同時に
優しい指導があったからできたのだと思います。体を極限まで酷使するのが楽しみだったのです
ね。
ティーンエイジャーは生意気盛りです。いつも何かしら諍いを起こします。高三の時、一年上で
大学に入ったリーダーたちが大きな顔をするのにカチンと来て、前年は受験勉強で川に顔を出さ
なかったのに何だ・・・と、揉めたことがありました。河本さんの特徴は、このようなときにす
ぐに介入せず、知らん顔をして見ているのです。同年代を束ねて現場を預かっていた私としては、
上に河本さんがいてくれたから、上級生のお節介を撥ね退けて指導力を発揮できたのだと思って
います。実際はなかなか大変でしたが、河本さんは偉ぶったお説教とは無縁の人で、生意気な若
造の気持ちを良く分かってくれました。
現場を片付け終わると、津島の運動公園にある長水路の県営プールで練習です。このときは、ど
ちらかというと競泳に重点を移し、1500メートルを泳いだのちに、50メートルのダッシュ
を10本、それもタイムが落ちるとカウントされないといった厳しい練習をしました。河本さん
はプールサイドで、右手にストップウォッチを、左手には柄の付いたモップを握って監督すると
いう具合ですが、必死で着いていきました。これが9月終わりまで続き、最後にはみんなでプー
ル掃除です。そのせいもあり、私の2学期中間考査は常に成績が落ちました。それでも、県下の
水泳競技会では所属高校チームで出場し、一定の成績を上げるので、教師に文句は言われません
でした。
と、こんなことを書いていると、思い出は切りがありません。大学生を何年か過ごすうち、旭川
が遊泳禁止になり、三勲や鹿田、岡大などとプールを転々とするうち、私も水泳の現場から遠ざ
かってしまいました。それでも折に触れ、河本さんの顔が懐かしくなり、年末に声が掛かると顔
を見に参上していましたが、とうとう他界してしまわれました。人間には避けられない運命です
が、河本さんには想像することが困難な別れでした。
若い時の戦地でのこと、税務所勤めのころのことなど、いろんな話も聞かされましたが、詳しい
ことはすべて忘れてしまいました。とにかく人情味に溢れ、決して上から目線のお説教でなく、
そのくせ指導に厳しい河本さんのような人は、なかなか現れないでしょう。少しでも近付けるよ
う、みんなで頑張りたいと思います。

2018年5月

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「宮廷のコバルトブルー 明清官窯復刻展」ご挨拶を掲載しました

景徳鎮展で挨拶

本日、景徳鎮市人民政府 副秘書長の李雪海(り・せつかい)様をはじめとする中国景徳鎮からの代表団と
中国大使館文化部 陳諍(ちんそう)参事官を始めとする、ご来賓の皆様をお迎えし、「宮廷のコバルトブ
ルー 景徳鎮明清官窯(かんよう)復刻展」が無事開幕されることは大変喜ばしく、日本側主催者を代表
して一言ご挨拶申し上げます。

今回は、景徳鎮市人民政府のご協力のもと、中国明清時代の官窯(かんよう)復刻磁器およそ100点を展示
しご紹介いたします。
中国磁器の発展には、皇帝および宮廷で用いる御用器の専用工房である、官窯の存在があったといわれてい
ます。悠久の歴史をもつ景徳鎮陶磁器ですが、中でも、明、清時代はこの官窯で優れた匠の技術と素材の贅
を極めた名品が数多く生み出されました。
会場には、世界の権威あるオークションでおよそ33億円という大変な高値で取引されたという景徳鎮官窯磁
器の復刻品もございます。是非、現代に甦った宮廷愛用品の数々をお楽しみいただければ幸いです。

本年は日中平和友好条約締結40周年の記念すべき年にあたり、私ども日中友好会館は、景徳鎮市人民政府と
共催で2つの日中陶磁器展覧会を開催することといたしました。

1つは本展ですが、もう1つは、10月に景徳鎮において「第二回日本工芸展in景徳鎮九谷焼2018」と題し、
日本を代表する磁器、九谷焼を中国の皆様に展示しご紹介いたします。
日本と中国をそれぞれ代表する磁器を介して、日中相互交流の輪が益々広がり、更に深化することを切に願
っております。

最後になりますが、本展開催にあたりご協力いただきました関係者の皆様、そしてご来賓の皆様に心より御
礼申し上げます。本日は誠に有難うございました。

 

2018年6月20日(水)

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「北京大学経済学院孫院長講演会」挨拶を掲載しました

本日は、土曜日の朝早い時間に皆さんご参集下さいまして有り難うございます。
さて日中平和友好条約締結40周年を迎える本年、亜洲友好協会も本年で丁度20年を迎えるこ
ととなります。当協会は設立当初は各地域の大学と連携し、日本に留学する中国人学生の為の活
動をしていましたが、近年は、日中両国間で活躍する大学および学生の交流活動を活性化させつ
つあります。

私は、亜洲友好協会の徐理事長とは、協会設立前からの長いお付き合いで、彼が率いる愛華訪中
団にも第1回から団長として何度も参加してきました。日中の架け橋の若手と言えば「徐迪旻さ
ん」と言われるくらいの勢いで頑張っていたので、彼が留学生の時からでしょうか、長く応援を
しています。そこで一昨年、請われて亜洲友好協会の会長に就任し、彼の活動を補助して来まし
た。昨年は魯迅の故郷の紹興の紹興文理学院や上海の上海外国語大学で、徐さんとともに「時空
を超えた魯迅と夏目漱石の対話フォーラム」を行い、上海にある亜洲友好協会の雲間美術館で揮
毫も行いました。亜洲友好協会は近年、各界に精通した皆様にも新たに理事に就任頂き、今まで
に増して活動を広げる体制を固めつつあります。

ところで、私は第27代参議院議長として、習近平主席(当時は副主席)や温家宝首相とお会い
する機会を得てきました。今月上旬にも李克強首相が来日され歓迎会を行いましたが、日中戦略
互恵関係の行き先が確実に明るくなってきているとの感触を得ています。本日は李首相来日から
2週間を置いて、北京大学経済学院の孫院長が来日されました。孫院長は北京大学で李克強首相
と同級生だそうです。また北京大学の教授として、数多くの中国の政界、財界の幹部となってい
る方々を指導してきているとうかがっております。現在も、経済・金融政策の専門家として、中
国政府の政策にも関わっている、大変重要な立場にある方です。

今日は、孫院長に「新型グローバル化を推進し日中経済貿易関係を更に発展させる」と題して、
今後の新しい日中間の関係性をテーマにご講演頂きますが、今までにない新たな切り口での提言
を楽しみに拝聴いたしたいと思います。

今回の企画が、日中両国の民間レベルでの信頼醸成に役に立つことをお約束して、私のご挨拶
とさせていただきます。本日は本当にありがとうございました。

2018年5月26日

 

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中国硬筆書法協会主催「大書法芸術作品展開幕式」祝辞を掲載しました。

皆さん、你好。私は、日本からやってまいりました第27代参議院議長で元参議院議員の江田五月です。
この度、中国硬筆書法協会の海外栄誉顧問に就任させていただきました。よろしくお願いします。

まず何より、大書法芸術作品(北京)展がこのように盛大に開催されたことを、心からお祝い申し上げま
す。このような晴れがましい機会にお招きいただき、こんなに嬉しいことはありません。

また今回はご一緒出来ませんでしたが、同じく海外栄誉顧問に就任された日本の第81代首相の村山富市
さんからも、皆さまにくれぐれも宜しくという伝言を預かってきました。大韓民国からは李寿成元国務
総理はじめ多くの方々がご参加ですが、今回は日本からも、私を含め4名が参加させていただきました。
私にとっては初めての参加で、誠に名誉なことであり、この連帯活動を今後も繋げていく覚悟を新たに
しています。

私が硬筆書法協会とご縁ができたのは、今回もご一緒している日本を代表する篆刻家の師村妙石さんが、
仲介役を務めてくれたものです。昨年11月に、張華慶主席他幹部の皆さんが、師村さんのご案内で、日中
友好7団体の一つで私が会長を務めている日中友好会館の会長室をお訪ねいただいたときからです。その
時、中国の「硬筆」は、日本とは違い、文字を基調とする芸術表現全体を指すものだということを、初め
て知りました。日本ではどうしても、「硬筆」というと毛筆に対するペン習字となってしまいます。まさ
に「ところ変われば品変わる」ですね。

日本も中国も韓国も、お互いに引っ越すことのできない隣国同士です。お隣同士というものは、何かと色
々な問題が発生するもので、対等の国同士で何も問題がないという方が不思議です。そのことに一々神経
を尖らせても、それぞれの国民にとって良いことはありません。逆に、問題が起きた時には、それは私た
ちの仲をより良く固めるために天が与えた試験問題だという程度に受け止め、解決策を探ればよいのです。
国境を越えた人々の間に、お互いの生活や文化などの交流があれば、これが基礎になって、必ず解決策が
見つかるはずです。

日本と中国と韓国は、同じ文字を使用する世界でも類のない漢字文化を育んで来ました。漢字は表意文字
ですから文字自体に意味があり、書道芸術も他の文字文化にない独自の文化です。世界中を探しても、こ
のような共通の文化を持っている国民同士の関係というのはそうありません。今回のような多国間の書道
展は、私たちの東アジアにとって、世界のなかでも類のない意義あるものです。

私が初めて書道の練習を始めたのは、10歳のころでした。近くの書道塾に通い始めたのですが、先生が最
初に私にしたことは、3枚の書を見せて、「どれが一番好きかね」と尋ねたことでした。私が選んだのは、
欧陽洵の九成宮禮泉銘でした。それ以来、私の書道の目標はずっと中国の古典でした。と言っても私の書
道は、本当に片手間に過ぎないのですが。

その中国で、今回のような国境を越えた意欲的な取り組みが行われていることに、心からの敬意を表しま
す。中国硬筆書法協会の活動が今後とも益々発展することと、多国間にまたがる「大書法芸術作品展」が
今後一層盛大に広がることを心より祈念し、また私たちも微力ですが精一杯の協力をお約束して、私のご
挨拶といたします。本日は誠におめでとうございます。謝々。

2018.4.21

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加藤宣幸さんお別れの会 偲びの言葉を掲載しました。

加藤宣幸さんのご逝去は、本当に突然でした。文字通りの急逝でした。前日まで仲間との活動
に奔走し、亡くなった時には手に原稿用紙を持っていたそうです。

私が初めて加藤さんに会ったときは何時か、往時茫々として記憶は甦ってきません。1960年春、
私は郷里岡山の高校を卒業して、東京にある父・江田三郎の参議院宿舎に同居して大学生活を始め
ました。建て替え計画の進む清水谷の宿舎になる前の、古い宿舎でした。その年の初めに、日本社
会党は鈴木茂三郎さんの後任に浅沼稲次郎さんを委員長に選び、浅沼さんが右派だったからか、左
派グループから若手代表として父を書記長に送り込みました。「アメリカ帝国主義は日中両国人民
共同の敵」と言った浅沼さんが右派、日本の目指す社会主義は「高いアメリカの生活水準、ソ連の
徹底した社会保障、英国の議会制民主主義と日本の平和憲法」と言った江田三郎が左派ですから、
かなりいい加減です。

父はその前は、組織局長を務め、全国の党組織を掌握していました。そして、その仕事をオルグ
面で支えていたのが加藤さん、森永栄悦さん、理論面が貴島正道さんでした。この3人は同世代で、
戦後の社会党の出発時からの同志で、若い夢と志を共有してひたすら党活動に専念していました。
逆に言えば、議員になることは彼らの夢からは遠く、むしろ社会党議員が議員に安住することに批
判的でさえあったと思います。そんな思いが、彼らを私の父に引き付けていったと思います。

その年の秋、浅沼さんが刺殺され、その後の党大会で父が委員長代行に選ばれ、総選挙をたたか
います。その大会で、委員長刺殺の悲しみの中で、活動方針が決定されました。その中に構造改革
路線が含まれていたことが、つまり冷静な議論を経る余裕がないまま、その時の政治情勢の勢いに
押されて採択されたため、その後の厳しい党内議論に晒されることになりました。しかし、講革論
を確信する勢力は江田派を立ち上げ、この3人は本部書記局の「江田派三羽烏」として活躍すること
になりました。私が彼らにあったのは、間違いなくその頃のことです。

加藤さんのご尊父は、戦前の無産運動の指導者の一人である加藤勘十さんです。勘十さんは、江田
派の精神的支柱の一人で、父も大変にお世話になりました。勘十さんの奥さんは加藤シヅエさんです
が、宣幸さんのご母堂ではありません。しかしシヅエさんも父を応援し、父もまたシヅエさんの参議
院全国区選挙の選対責任者を務めたりしました。そんなことで、宣幸さんの妹の大森さんもシヅエさ
んのお子さんの加藤タキさんも、私たちは大変にお世話になってきました。

60年代から最近に至るまでの年月は長く、この間の思い出を書き出すと切りがありません。また、
多くの人がそれぞれの切り口でいろいろ書かれると思うので、省略します。「現代政策総合研究所」
のころ、松前重義さんを中心の江公民路線を進めた「新しい日本を考える会」のころなど、いろいろ
あります。そして1977年の父の社会党離党から社会市民連合提唱となり、三羽烏の動きも様々となり
ます。そして森永さんに続いて貴島さんが世を去られ、今また宣幸さんが他界されて、あの時代は去っ
たとの思いが頻りです。あの時代に私たちを燃え滾らせたものも、一緒に雲散霧消した感じがして、
寂しさは一層募るばかりです。

加藤さんは、いつも穏やかでした。人を論難するという姿を思い出すことはありません。今、遺影
を見ると、何か仙人の風情を湛えています。しかし、仙人には、内面に強い信念をしっかりと持って
いることが欠かせないのだと思います。そして加藤さんこそは、単に写真写りが仙人なのではなく、
全人格が仙人だったのだと思います。そして文字通り仙人のごとく、私たちを残して旅立たれました。
加藤さん、本当にありがとうございました。安らかにお眠り下さい。

2018.4.16                                     江田五月

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「上海現代竹彫刻精品展開幕式」挨拶を掲載しました

「上海現代竹彫刻精品展開幕式における日本側主催者日中友好会館江田五月会長挨拶」

本日、上海工芸美術博物館常務副館長の陳毓其(ちん・いくき)様をはじめとする中国からの代表団と
ご来賓の皆さまをお迎えし、日中友好条約締結40周年記念、日中友好会館新春展「上海現代竹彫刻精
品展」が開幕されることは誠に喜ばしく、日本側主催者を代表して一言ご挨拶申し上げます。

今回展示品をご提供いただいた上海工芸美術博物館との「上海工芸展in日本」は、2016年の「中国
紙工芸展」、2017年の「上海青年ジュエリーデザイナー展」に続き3回目となります。

今回、展示するのは現代の竹彫刻作品ですが、中国での竹彫刻の起源は大変古く、3千年ほど前の商・
周時代の遺跡からも出土している中国最古の工芸品のひとつでもあります。

その後、さまざまな技法、そして優れた工芸士により発展していった竹彫刻品は特に文人に愛され、書
斎での必需品として所蔵されました。明や清時代になると、宮廷への献上品としても用いられました。

また、すべてを手作業で製作するためその数は希少で、近年ではオークションなどで大変な高値がつき
注目が集まっているそうです。

今回はその中でも、上海市の嘉定区(かていく)に伝承されている嘉定竹彫刻を展示しています。嘉定
の竹彫刻は、まるで筆で描いたような流麗な刀遣いや奥行ある表現が特徴とされています。2006年
には中国の国家級無形文化遺産に登録されました。

展示された作品の中には、本日来日されていらっしゃる無形文化遺産伝承人である張偉忠(ちょう・い
ちゅう)氏による作品もあります。ぜひ中国匠の魅力をご堪能いただければと思います。

さて、中国の正月・春節は今年は2月16日になります。この日には、春節をお祝いする琵琶のミュー
ジアムコンサートを予定しています。また、中国グッズがあたる抽選会など、いくつか楽しいイベント
も用意しています。ぜひお時間を作っていただき足をお運びくださいますようお願い申し上げます。

最後になりますが、この展覧会開催にあたりご協力いただきました関係者の皆様に心より御礼申し上げ
ます。今後も、このような文化交流を通して日中相互理解が促進され友好が醸成されることを願っており
ます。有難うございました。

2018年2月1日