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2月4日、上京、納税、富士、日鳥連、麻辣湯

日鳥連の職員らと

7時起床で8時前に出て、渋滞の中を岡山駅に行きました。雲一つない快晴で、桃太郎像の前でボランティアの納税キャンペーンが進んでいました。朝食を買って、9時前の新幹線で上京しました。近江平野では虹が見え、富士もこれまで見たこともない鮮やかさでした。

ボランティアの納税運動
朝食
近江平野の虹
見事な富士

12時過ぎに着くと、東京も春一番だとのことで、本当に春爛漫のような温かさでした。地下鉄で高円寺まで行き、昼食を掻き込んで、13時半から1時間半強、公益財団法人「日本鳥類保護連盟」の臨時評議員会に出席しました。略して「日鳥連」と言い、私は会長で代表理事です。開会後、会長挨拶をし、名執専務理事の司会で出席者と定足数の確認をし、油井評議員を議長に選任し、議事録署名人の選任の後に名執専務理事から順次議題の説明があって質疑の後に了承手続きを取り、望月監事の選任と3点にわたる定款変更が決定しました。その後、名執専務理事から最近の日鳥連の活動報告があり、質疑応答の後に私が終了の挨拶をして締めくくりました。

日鳥連臨時評議員会
発言

その後、事務所内で職員の皆さんと記念写真を撮り、15時半ころにお別れして、地下鉄を乗り継いで飯田橋のホテルに着きました。さすがに強行軍が続いたので、ベッドに横になると暫くうたた寝をしてしまいました。夕食は久し振りに麻辣湯を食べに行きました。

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「上原先輩を偲ぶ」(上原会長追悼集「ほほえみ」)を掲載しました

「上原先輩を偲ぶ」                               元参議院議長 江田五月

上原進さんと私との接点は、よく探せば今から60年以上に遡るのですが、当時のことは残念ながら記憶に残ってい

ません。しかし、上原さんと私を結びつけた尾﨑博君の記憶は、60年遡っても鮮やかです。それは、私たちがみな、

岡山朝日高校の生徒だったということです。

私が朝日高に入学したのは、1957年のことです。そのとき上原さんは、3年生でした。そして私が2年の終わり

ころに生徒会の責任者になった時、尾﨑君は1年生で、生徒会活動に積極的に関わってくれました。当時の生徒会は会

長制でなく、3人の総務が合議で運営する制度で、私はその総務の一人で、学校側と厳しく対立する企画を協議する生

徒会総会の議長を、私が務めたりしていました。その時には上原さんはすでに卒業し、東京の大学に進んでいたはずで

す。

その接点は、長い間影を潜めていましたが、30数年の後に、突然芽を吹き大きな幹を伸ばしました。1996年秋、

私は岡山県知事選挙に挑みました。それ以前から私を応援してくれていた上原さんは、千田組の皆さんとともに私の支

援に馳せ参じてくれたのです。尾﨑君が取り持ってくれたのだと思います。私は敗れ、上原さんには大変なご迷惑をか

けました。知事選とは、そういう選挙なのです。

それでも、上原さんは全然めげず、その後もずっと私を後輩として可愛がってくれました。百間川の河川敷で、ライ

オンズクラブの皆さんのフェスティバルを行うときには、いつも私に声を掛けてくれ、旭川上流の湯原温泉の塩釜辺り

から下ってくる皆さんと引き合わせてくれたり、楽しい人の繋がりを作ってくれました。私だけでなく、高井崇志さん

をはじめ私の仲間たちにも温かい支援の手を差し伸べてくれました。

上原さんのご訃報は、私には全くの寝耳に水でした。いつも笑顔で、派手な出で立ちで愉快な企画の先頭で旗を振っ

ていた上原さんが、突然姿を消されました。今はただ、在りし日のお姿を思い浮かべながら、ご冥福を祈るばかりです。

ゆっくりとお休みください。