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2月11日、積雪、森山さん事務所開き、挨拶回り、雪だるま、髙橋県議ら

森山市議事務所開きで

目が覚めると雪が降っており、少し積もっていました。岡山市は雪が積もることはめったになく、何年ぶりでしょうか。庭の白梅も白松も、雪を被っていましたが、道路上には積もっていません。

自宅の庭の雪
自宅の白松にも雪

9時半に妻と出て、10時から1時間ほど、4月の岡山市議選に北区から立憲民主党公認で3期目の挑戦をする森山幸治市議の後援会事務所開きに出席しました。厳寒で唇が凍り付き、ものがうまく言えませんでした。開会後、大森雅夫岡山市長、武久顕成瀬戸内市長、後援会、町内会、支援労組、友人らの代表などの挨拶が続き、立憲民主党からは県連顧問の私、県連代表の高井崇志さん、夏の参院選公認候補予定者の原田謙介さんと4月の県議選に北区から公認で出馬する高原俊彦さんが登壇して、私と高井さんが順次挨拶をしました。

盛会の事務所開き
私の挨拶

一連の挨拶と森山さんの思いの溢れた決意表明があり、友人らが西大寺観音院の会陽よろしく裸で登場し、出席者みんなで「友だちの友だちは、みな森山だ!」と拳を振り上げ、最後に選対から情勢報告があって締めくくり、事務所に入ってお手伝いいただいている皆さんと暫時懇談しました。この辺りは岡山市中心部で、私の出身小・中学校もすぐ近所で、雪の中の印象深い企画となりました。

森山市議の決意表明
裸で登場
友だちはみな、森山だ!
友だち
事務所で

その後、良い機会なので森山さんと妻とともに、石田美栄さんと河田英正さんを各ご自宅に伺って挨拶をしました。連絡が十分に行き届いていなかったのですが、快くご理解をいただきました。帰宅途中にふと見ると、少ない雪でしたが、玄関先に小振りの雪だるまを飾った家がありました。子どもたちがいるのでしょうが、雪はすでに解けかけているようでした。

石田美栄さんと
河田英正さんと
雪だるま

18時ころ、中区で2期目を目指す髙橋徹県議と3期目を目指す高橋雄大市議が来訪され、玄関先でしたが暫時懇談しました。二人とも国民民主党公認で、立憲民主党岡山県連の支援も決定しています。

徹県議と雄大市議

 

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2月10日、自宅

自宅でデスクワーク

終日自宅でゆっくり過ごし、デスクワークや電話連絡をしました。統一地方選が近付いており、日程調整のほか、各種の文章の作成もあり、選挙運動期間に入ってから投函できる推薦はがきの作成もそろそろ大童です。ただ、この作業に対する規制は、ローカルルールによる違いが大きく、告示前に宛先の記載のないはがきを支援者に配布して記載を依頼することも、違法な文書による事前運動とする選挙管理委員会もあるようで、要注意です。岡山県ではそのような扱いにはなっていません。

 

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2月9日、事務所開き(鳥井さん、住吉さん)、柚木さん、家族夕食

事務所開きで挨拶

9時に妻とともに出て倉敷に向かいました。10時ちょうどに立憲民主党公認で倉敷・早島から2期目の県議選に挑戦する鳥井良輔県議の後援会事務所開きに着き、鳥井さんの妻で倉敷市議の藤原薫子さんの司会で直ちに開会となり、岩崎後援会長に続いて私が挨拶をしました。厳しい選挙情勢を受けて陣営が引き締まり、会場は超満員となりましたが、なお予断を許しません。

超満員の会場
挨拶

その後、直ちに妻とともに中座して、同時刻に始まっている玉野市から7期目の県議選に挑戦する住吉良久議員の後援会事務所開きに向かいました。しかし着いたのは11時ですでに終了しており、残った皆さんを激励して即席で激励ビラに「飛翔必勝」と揮毫し、記念写真を撮って退出しました。定数2名のところに有力新人が活発な動きを示しており、ここも厳しい選挙情勢です。

揮毫
住吉事務所の皆さんと

12時過ぎに自宅に戻り、昼食後はちょっとゆっくりしました。17時前に柚木道義さんが来て、30分ほど最近の動きの報告を聞きながら懇談しました。立憲民主党が公認や支援をする県議候補は、無風区を除けばどこもなかなか厳しく、柚木さんの全面的支援が必要です。

柚木さんと

18時半ころに妻と出て、ももちゃんたちと落ち合い、夕食を共にしました。一生君も大変元気で、せがまれて食後にカラオケに行きました。2時間、孫たちがマイクを放さず踊りも入って、大変に賑やかでした。

 

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2月8日、自宅、スイセン

庭のスイセン

終日自宅でゆっくりしながら、デスクワークや電話連絡で過ごしました。と言っても、地方選候補者の推薦文起案や民事受任事件の打ち合わせなど、溜まっている懸案は次々と片付きました。

15時過ぎに庭に出てみると、スイセンが清楚な花を開いていました。Daffodil(ラッパズイセン)と異なりNarcissusという方で、ナルシズムの語源です。ヤブサンザシが緑の若芽を少し伸ばしていました。

庭の山茶花とスイセン
ヤブサンザシの芽吹き

 

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2月7日、発表会、相談、デスクワーク、少年法

不動産の相談

7に起床して準備をし、8時過ぎに妻とともに出て車からバスに乗り換え、9時前から1時間10分ほど、一生君の通う幼稚園の「生活発表会」を鑑賞しました。年中さんが朝一番で、「さくら」組と「もも」組が順次劇を披露し、一生君の「さくら組」は「ともだちほしいなおおかみくん」でした。さらにみんなで歌や楽器遊びを聞かせてくれました。一生君は3月生まれなので最年少ですが、頑張りました。そこで総入れ替えがあって、年長さんと交代して帰宅しました。写真は、撮影禁止なので、ありません。

次に13時半に出て法律事務所に入り、14時過ぎから1時間弱、不動産取引関係の相談を受けました。と言っても法律相談ではなく、あまり力にはなれませんでした。その後、18時過ぎまでデスクワークをしました。山盛りになっていた未済箱が、やっと片付きました。さらにその間、電話連絡も行いました。

相談

処理案件の一つに、少年法適用年齢引き下げの是非に関するものがありました。成年年齢や選挙権年齢の18歳への引き下げはすでに行われましたが、併せて少年法の適用も18歳未満に下げるべしとの動きがあり、議論を呼んでいます。お便りの中に、私の2001年9月20日の「高校生インタビュー 少年法について」という発言への言及があり、記憶が曖昧だったので検索すると、私自身のホームページの「江田五月から」の記載が出てきて、びっくりしました。

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2月6日、コココ、賀川さんら、事務所

賀川事務所で懇談

なかなか咳が完治しません。午前中は自宅でゆっくりし、13時前に妻に送って貰って所用を済ませながら法律事務所に向かいました。

14時過ぎに入ってデスクワークを始めると直ぐに、夏の参院選岡山選挙区に立憲民主党公認で立候補予定の原田謙介さんが迎えに来て、原田事務所新人の加賀将広さんの運転で賀川法律事務所に向かいました。事務所前の歩道上に、可愛い子犬の像があるのが目に飛び込んできました。実はわが家で以前に雑種の雌犬を飼っていたことがあり、その子どもが他家に貰われていって像のモデルになったのです。わが家の犬はココちゃんだったので、私たちはこの子犬をコココと呼んでいます。

コココ像

14時半に賀川進太郎、加藤高明両弁護士に原田さんを紹介して、30分ほど懇談して適切なアドバイスも幾つかいただきました。これから学ぶべきこともたくさんあり、有益でした。

15時過ぎに法律事務所に帰り、18時前までデスクワークをしました。

デスクワーク

 

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2月5日、安田講堂、芝さん、民事事件、帰岡

あれから50年目の安田講堂

朝はゆっくり寝て11時にチェックアウトをし、所用で母校の東京大学に出掛けました。安田講堂が占拠した学生たちと警官隊との激突で「落城」したのは、ちょうど半世紀前の今頃でした。私はすでに判事補になって一年目で、いてもたってもいられず野次馬よろしく近くまで行くと、大勢の似たような思いの友人たちに出会ったのを思い出します。法学部研究室も標的となり、大勢の研究者の貴重な資料が灰燼に帰したのは、残念なことでした。

15時半過ぎに参議院議員会館に入り、立憲民主党の芝博一参議院議員と30分弱、参議院の状況につき意見交換しました。伊勢神宮のある三重県の神職という異色の議員です。その後、東京駅近くで30分ほど民事受任事件の打ち合わせをし、夕食後、19時前の新幹線で帰岡しました。

芝さん

 

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2月4日、上京、納税、富士、日鳥連、麻辣湯

日鳥連の職員らと

7時起床で8時前に出て、渋滞の中を岡山駅に行きました。雲一つない快晴で、桃太郎像の前でボランティアの納税キャンペーンが進んでいました。朝食を買って、9時前の新幹線で上京しました。近江平野では虹が見え、富士もこれまで見たこともない鮮やかさでした。

ボランティアの納税運動
朝食
近江平野の虹
見事な富士

12時過ぎに着くと、東京も春一番だとのことで、本当に春爛漫のような温かさでした。地下鉄で高円寺まで行き、昼食を掻き込んで、13時半から1時間半強、公益財団法人「日本鳥類保護連盟」の臨時評議員会に出席しました。略して「日鳥連」と言い、私は会長で代表理事です。開会後、会長挨拶をし、名執専務理事の司会で出席者と定足数の確認をし、油井評議員を議長に選任し、議事録署名人の選任の後に名執専務理事から順次議題の説明があって質疑の後に了承手続きを取り、望月監事の選任と3点にわたる定款変更が決定しました。その後、名執専務理事から最近の日鳥連の活動報告があり、質疑応答の後に私が終了の挨拶をして締めくくりました。

日鳥連臨時評議員会
発言

その後、事務所内で職員の皆さんと記念写真を撮り、15時半ころにお別れして、地下鉄を乗り継いで飯田橋のホテルに着きました。さすがに強行軍が続いたので、ベッドに横になると暫くうたた寝をしてしまいました。夕食は久し振りに麻辣湯を食べに行きました。

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「上原先輩を偲ぶ」(上原会長追悼集「ほほえみ」)を掲載しました

「上原先輩を偲ぶ」                               元参議院議長 江田五月

上原進さんと私との接点は、よく探せば今から60年以上に遡るのですが、当時のことは残念ながら記憶に残ってい

ません。しかし、上原さんと私を結びつけた尾﨑博君の記憶は、60年遡っても鮮やかです。それは、私たちがみな、

岡山朝日高校の生徒だったということです。

私が朝日高に入学したのは、1957年のことです。そのとき上原さんは、3年生でした。そして私が2年の終わり

ころに生徒会の責任者になった時、尾﨑君は1年生で、生徒会活動に積極的に関わってくれました。当時の生徒会は会

長制でなく、3人の総務が合議で運営する制度で、私はその総務の一人で、学校側と厳しく対立する企画を協議する生

徒会総会の議長を、私が務めたりしていました。その時には上原さんはすでに卒業し、東京の大学に進んでいたはずで

す。

その接点は、長い間影を潜めていましたが、30数年の後に、突然芽を吹き大きな幹を伸ばしました。1996年秋、

私は岡山県知事選挙に挑みました。それ以前から私を応援してくれていた上原さんは、千田組の皆さんとともに私の支

援に馳せ参じてくれたのです。尾﨑君が取り持ってくれたのだと思います。私は敗れ、上原さんには大変なご迷惑をか

けました。知事選とは、そういう選挙なのです。

それでも、上原さんは全然めげず、その後もずっと私を後輩として可愛がってくれました。百間川の河川敷で、ライ

オンズクラブの皆さんのフェスティバルを行うときには、いつも私に声を掛けてくれ、旭川上流の湯原温泉の塩釜辺り

から下ってくる皆さんと引き合わせてくれたり、楽しい人の繋がりを作ってくれました。私だけでなく、高井崇志さん

をはじめ私の仲間たちにも温かい支援の手を差し伸べてくれました。

上原さんのご訃報は、私には全くの寝耳に水でした。いつも笑顔で、派手な出で立ちで愉快な企画の先頭で旗を振っ

ていた上原さんが、突然姿を消されました。今はただ、在りし日のお姿を思い浮かべながら、ご冥福を祈るばかりです。

ゆっくりとお休みください。