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4月23日、庭の花、所用、交通事故相談、おかやま館

交通事故相談

朝食後にまた眠りにつき、12時にやっと起きて昼食を食べて庭に出てみると、訪中中にまた花が一気に開き、ヒラドツツジ、ナニワイバラとヒメライラックが満開になっており、テマリカンボクはもう盛りを過ぎていました。

庭のヒラドツツジ
庭のナニワイバラ
庭のヒメライラック
庭のテマリカンボク

13時半過ぎに妻とともに出て、所用をいくつか済ませました。次の訪中の準備や切符の購入などです。16時前に法律事務所に入り、1時間ほど、江田剛所長弁護士とともに交通事故の民事相談を受けました。

その後もデスクワークをし、18時前に出てさらに「晴れの国おかやま館」で所用を済ませ、夕食は妻とともに外食となりました。

晴れの国おかやま館

 

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中国硬筆書法協会主催「大書法芸術作品展開幕式」祝辞を掲載しました。

皆さん、你好。私は、日本からやってまいりました第27代参議院議長で元参議院議員の江田五月です。
この度、中国硬筆書法協会の海外栄誉顧問に就任させていただきました。よろしくお願いします。

まず何より、大書法芸術作品(北京)展がこのように盛大に開催されたことを、心からお祝い申し上げま
す。このような晴れがましい機会にお招きいただき、こんなに嬉しいことはありません。

また今回はご一緒出来ませんでしたが、同じく海外栄誉顧問に就任された日本の第81代首相の村山富市
さんからも、皆さまにくれぐれも宜しくという伝言を預かってきました。大韓民国からは李寿成元国務
総理はじめ多くの方々がご参加ですが、今回は日本からも、私を含め4名が参加させていただきました。
私にとっては初めての参加で、誠に名誉なことであり、この連帯活動を今後も繋げていく覚悟を新たに
しています。

私が硬筆書法協会とご縁ができたのは、今回もご一緒している日本を代表する篆刻家の師村妙石さんが、
仲介役を務めてくれたものです。昨年11月に、張華慶主席他幹部の皆さんが、師村さんのご案内で、日中
友好7団体の一つで私が会長を務めている日中友好会館の会長室をお訪ねいただいたときからです。その
時、中国の「硬筆」は、日本とは違い、文字を基調とする芸術表現全体を指すものだということを、初め
て知りました。日本ではどうしても、「硬筆」というと毛筆に対するペン習字となってしまいます。まさ
に「ところ変われば品変わる」ですね。

日本も中国も韓国も、お互いに引っ越すことのできない隣国同士です。お隣同士というものは、何かと色
々な問題が発生するもので、対等の国同士で何も問題がないという方が不思議です。そのことに一々神経
を尖らせても、それぞれの国民にとって良いことはありません。逆に、問題が起きた時には、それは私た
ちの仲をより良く固めるために天が与えた試験問題だという程度に受け止め、解決策を探ればよいのです。
国境を越えた人々の間に、お互いの生活や文化などの交流があれば、これが基礎になって、必ず解決策が
見つかるはずです。

日本と中国と韓国は、同じ文字を使用する世界でも類のない漢字文化を育んで来ました。漢字は表意文字
ですから文字自体に意味があり、書道芸術も他の文字文化にない独自の文化です。世界中を探しても、こ
のような共通の文化を持っている国民同士の関係というのはそうありません。今回のような多国間の書道
展は、私たちの東アジアにとって、世界のなかでも類のない意義あるものです。

私が初めて書道の練習を始めたのは、10歳のころでした。近くの書道塾に通い始めたのですが、先生が最
初に私にしたことは、3枚の書を見せて、「どれが一番好きかね」と尋ねたことでした。私が選んだのは、
欧陽洵の九成宮禮泉銘でした。それ以来、私の書道の目標はずっと中国の古典でした。と言っても私の書
道は、本当に片手間に過ぎないのですが。

その中国で、今回のような国境を越えた意欲的な取り組みが行われていることに、心からの敬意を表しま
す。中国硬筆書法協会の活動が今後とも益々発展することと、多国間にまたがる「大書法芸術作品展」が
今後一層盛大に広がることを心より祈念し、また私たちも微力ですが精一杯の協力をお約束して、私のご
挨拶といたします。本日は誠におめでとうございます。謝々。

2018.4.21

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4月22日その2、日ロクラブ、帰岡

日ロクラブ歓迎会

成田から東京都江東区の清澄庭園に急ぎ、私が代表を務める日ロクラブの主催するロシア・ウラジオストック訪日団一行歓迎会に駆け付けました。ロシア側13人、日本側26人で、17時開会予定でしたがやや遅れて始まり、まず全員で記念写真を撮りました。その後、私が市民レベルの交流の大切さを強調した歓迎挨拶をし、ロシア側代表の挨拶に続いて乾杯から懇談となり、18時半に出席者の発言が始まったところで中座しました。

清澄庭園で
私の歓迎挨拶
訪日団代表挨拶
乾杯!
懇談

そこから東京駅に急ぎ、夕食を掻き込んで、20時前の新幹線で帰岡しました。帰宅は23時半過ぎになりました。長く慌ただしい旅が、やっと終わりました。

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4月22日、帰国

張主席らに見送られて

中国硬筆書法協会の張華慶主席らが見送りに来てくれ、7時にホテルを出て北京国際空港に向かいました。8時前に着き、ロビーで朝食にありついて、50分遅れで10時40分発予定の成田便を待ちました。

空港で朝食

離陸は11時となり、飛行中に昼食をいただき、「めぐりズム」という40℃の蒸気浴で目も気分も休まるアイマスクで休養しました。初めての経験でした。3時間の飛行と1時間の時差で、遅れをかなり取り戻して15時に成田国際空港に着陸しました。直前に窓外を見ると、水田に既に水が張られていました。入国手続きも順調に進んで、16時前に空港を出て、東京都江東区の清澄庭園に向かいました。離日以来接続できなかったフェイスブックが、やっと戻りました。

「めぐりズム」で
目の休養
田には水が張られ

 

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4月21日、雨、昼食会、書道展開幕式、夕食会

書道展開幕式で挨拶

朝から雨で、昨日の大気汚染もきれいになっており、この時期に特有の柳絮も治まっていました。8時過ぎに朝食を食べ、ャワーを浴びて、11時に出発して今日から始まる中国硬筆書法協会主催の大書法芸術作品展開幕式などの行事に臨みました。

雨の長安街

まず会場について12時から1時間強、役員や来賓の皆さんとの昼食会となりました。協会の張華慶主席の挨拶があり、続いて韓国の李寿成元国務総理と私が挨拶し、乾杯から食事となりました。13時過ぎに終わって、会場の壁面に展示された作品群を見て回りました。私の「乾坤煇」が早い順番で架けられており、恐縮しました。その後、控室で暫時休憩をし、14時前から500人ほどの参加者が整列しているところに私たちが入場して握手をしながら整列し、全員で記念写真撮影をしました。

昼食会で挨拶
展示作品を拝見
会場全景
習首席がテーマ
来賓らと
記念写真撮影

それからすぐに会場に入ったのですが、開会が14時半ころまで遅れ、まず張主席が挨拶し、次いで李元総理と私が、それぞれ挨拶に続いて張主席から海外栄誉顧問に就任の盾を授与されました。さらに台湾から参加の張炳煌さん、師村妙石さんと許由さんの挨拶がありました。そこからはくだけて、歌あり詩の朗読あり、手品あり楽器演奏ありで、「アリラン」や「北国の春」もありました。また揮毫した扇の披露があり、私も一本いただきました。その間に各種の表彰も続きました。演壇上での全紙に2文字の揮毫実演もあり、最後に私たちが呼ばれて、テープカットの代わりに数多く取り付けられた色とりどりの風船割りを行って、閉会となりました。

私の挨拶
続いて海外栄誉顧問に就任
韓国の横笛
子どもの歌
揮毫実演
風船割り

そこで昼食会と同じ会場に移動し、19時から夕食会となりました。みな草臥れたのか、乾杯だけで黙々と食事をいただきました。20時過ぎに散会となり、外に出ると、まだ雨が降り続いていました。

夕食会
帰りも雨

 

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4月20日、朝食、面談(呉さん、馬主任、横井大使)s、夕食会

呉民先さんと

うつらうつらしていたら朝になり、8時半過ぎから朝食に降りると、ちょうど師村妙石さんたちと一緒になりました。10時から、14時から、14時半からと面談予定が入り、さらに夕食会から中国硬筆書法協会の公式行事が始まります。

師村さんらと朝食

10時に、師村さんらが呉昌碩の直系子孫である呉民先さんと来室され、ブドウとカミキリムシの水墨画の色紙をいただき、30分ほど懇談しました。カミキリムシは中国語では「天牛」というそうです。呉昌碩の作成した家譜を、安吉の記念館に寄贈したそうで、9月に岡山県高梁市の成羽美術館を訪ねる際に、再会することを約束しました。

呉さん、師村さんと懇談

11時半過ぎに師村さんたちとともに出たのですが、北京は車が大渋滞で移動に時間が掛かり、ホテルで麺の昼食を掻き込んで、13時から30分弱、中国国際青年交流中心の馬主任と曹長河副主任と懇談しました。書道を通じての日中交流で大変にお世話になっています。その後、敷地内に移設された師村さん作成のモニュメントを拝見しました。「中日人民世代友好」と刻まれていました。

昼食を掻き込み
曹副主任と
馬主任と
モニュメント

14時半から日本大使館を訪ね、30分ほど、横井裕大使と懇談しました。師村さんも大変にご支援いただいており、私も若干の報告事項もあり、あっという間に時間が経ちました。そこからホテルに戻り、一息ついたところで、16時半に中日友好協会の若い職員が訪ねてきてくれ、打ち合わせをしました。

師村さんの作品
横井大使と懇談

次に17時半前に集合して出て、18時から3時間ほど、明日からの中国硬筆書法協会主催行事の前夜夕食会に出席しました。天安門広場を眺めながら由緒ある北京ダック店に移動し、控室で懇談した後に開会となり、まず協会の張華慶主席が主催者挨拶を、続いて韓国の李寿成元国務総理と私が来賓挨拶をし、乾杯から夕食懇談となりました。途中で、多くの参加者から次々に記念のスナップ写真を頼まれてしまいました。最後に出てきた当店の1億9,655万6,312番目の北京ダックは、さすがに超美味でした。

薄暮の天安門広場
北京ダック群
韓国の李元国務総理と
張主席の冒頭挨拶
私の挨拶
乾杯!
スナップ写真
北京ダック

 

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4月19日その2、富士、夕食会

遅い夕食会

日本時間の17時半前に離陸し、少し春霞に隠されたきれいな富士を見下ろしながら飛び、3時間半の飛行と1時間の時差で、北京時間の20時に北京国際空港に着陸しました。

機窓の富士

空港では花束に迎えられましたが、暫く師村妙石さんたちの到着を待ち、中国硬筆書法協会の幹部の皆さんとともに西の郊外まで移動し、22時から1時間ほど、夕食会となりました。大変なご馳走でしたが、機内食を完食していたため、とても食べきれませんでした。24時前にやっと宿舎の北京飯店にチェックインしました。

北京空港で
豪華夕食会
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4月19日、上京、龍門展、大学クラス会、北京へ

大学クラス会総会

タクシーの迎えで7時に出て、7時半過ぎの新幹線で上京しました。まだ4月半ばなのに、旭川も百間川もすっかり春でした。

百間川

11時過ぎに着き、短時間ですが龍門展を鑑賞しました。戦後の書道界を背負った一人である豊道春海さんのご子息の豊道溪峻さんが主宰する書道会で、春海さん所蔵の拓本がたくさん展示され、溪峻さんにご案内いただきました。

龍門展で

12時前に次の場所に着き、大学入学時のクラス会総会に出席しました。東京大学教養学部の昭和35年入学文科1類6組bという55人のクラスで、物故者が13名となり、13名が出席でした。私が音頭を取って乾杯した後、記念写真を撮り、暫くおいしい食事をいただきながら歓談し、各自が順次近況報告をしました。大多数が既に現役を退き、さらに体調に問題を抱えているものも多く、それでも皆さん意気軒昂で、世相を嘆く言葉も次々に飛び出しました。

乾杯!

14時過ぎに、全員の近況報告が終わったところで中座し、浜松町からモノレールで羽田空港に行き、出国手続きをして一休みしているところです。17時20分の便で、北京に向かいます。

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4月18日、ツルキキョウ、所用、事務所、県書道連盟展、絵画展

書道連盟展で

午前中は自宅でゆっくり過ごしました。昼前に裏庭に出てみると、ツルキキョウがきれいに花を開いていました。雑草の一種で、茂りすぎると困ります。

裏庭のツルキキョウ

13時半過ぎから妻とともに出掛け、所用を次々と済ませて回り、15時にやっと法律事務所に入って、何件か電話連絡をしました。

デスクワーク

16時に出て、天神山文化プラザで開催中の岡山県書道連盟展を鑑賞しました。全展示室を使って、力作を数多く展示していました。時間を気にしながら、17時前に出て次の横田素行絵画展に向かったのですが、着いたのが17時を過ぎ、既に閉店となっていました。残念。

玲華さんや碧山さんの作品
横田展は閉店で

 

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加藤宣幸さんお別れの会 偲びの言葉を掲載しました。

加藤宣幸さんのご逝去は、本当に突然でした。文字通りの急逝でした。前日まで仲間との活動
に奔走し、亡くなった時には手に原稿用紙を持っていたそうです。

私が初めて加藤さんに会ったときは何時か、往時茫々として記憶は甦ってきません。1960年春、
私は郷里岡山の高校を卒業して、東京にある父・江田三郎の参議院宿舎に同居して大学生活を始め
ました。建て替え計画の進む清水谷の宿舎になる前の、古い宿舎でした。その年の初めに、日本社
会党は鈴木茂三郎さんの後任に浅沼稲次郎さんを委員長に選び、浅沼さんが右派だったからか、左
派グループから若手代表として父を書記長に送り込みました。「アメリカ帝国主義は日中両国人民
共同の敵」と言った浅沼さんが右派、日本の目指す社会主義は「高いアメリカの生活水準、ソ連の
徹底した社会保障、英国の議会制民主主義と日本の平和憲法」と言った江田三郎が左派ですから、
かなりいい加減です。

父はその前は、組織局長を務め、全国の党組織を掌握していました。そして、その仕事をオルグ
面で支えていたのが加藤さん、森永栄悦さん、理論面が貴島正道さんでした。この3人は同世代で、
戦後の社会党の出発時からの同志で、若い夢と志を共有してひたすら党活動に専念していました。
逆に言えば、議員になることは彼らの夢からは遠く、むしろ社会党議員が議員に安住することに批
判的でさえあったと思います。そんな思いが、彼らを私の父に引き付けていったと思います。

その年の秋、浅沼さんが刺殺され、その後の党大会で父が委員長代行に選ばれ、総選挙をたたか
います。その大会で、委員長刺殺の悲しみの中で、活動方針が決定されました。その中に構造改革
路線が含まれていたことが、つまり冷静な議論を経る余裕がないまま、その時の政治情勢の勢いに
押されて採択されたため、その後の厳しい党内議論に晒されることになりました。しかし、講革論
を確信する勢力は江田派を立ち上げ、この3人は本部書記局の「江田派三羽烏」として活躍すること
になりました。私が彼らにあったのは、間違いなくその頃のことです。

加藤さんのご尊父は、戦前の無産運動の指導者の一人である加藤勘十さんです。勘十さんは、江田
派の精神的支柱の一人で、父も大変にお世話になりました。勘十さんの奥さんは加藤シヅエさんです
が、宣幸さんのご母堂ではありません。しかしシヅエさんも父を応援し、父もまたシヅエさんの参議
院全国区選挙の選対責任者を務めたりしました。そんなことで、宣幸さんの妹の大森さんもシヅエさ
んのお子さんの加藤タキさんも、私たちは大変にお世話になってきました。

60年代から最近に至るまでの年月は長く、この間の思い出を書き出すと切りがありません。また、
多くの人がそれぞれの切り口でいろいろ書かれると思うので、省略します。「現代政策総合研究所」
のころ、松前重義さんを中心の江公民路線を進めた「新しい日本を考える会」のころなど、いろいろ
あります。そして1977年の父の社会党離党から社会市民連合提唱となり、三羽烏の動きも様々となり
ます。そして森永さんに続いて貴島さんが世を去られ、今また宣幸さんが他界されて、あの時代は去っ
たとの思いが頻りです。あの時代に私たちを燃え滾らせたものも、一緒に雲散霧消した感じがして、
寂しさは一層募るばかりです。

加藤さんは、いつも穏やかでした。人を論難するという姿を思い出すことはありません。今、遺影
を見ると、何か仙人の風情を湛えています。しかし、仙人には、内面に強い信念をしっかりと持って
いることが欠かせないのだと思います。そして加藤さんこそは、単に写真写りが仙人なのではなく、
全人格が仙人だったのだと思います。そして文字通り仙人のごとく、私たちを残して旅立たれました。
加藤さん、本当にありがとうございました。安らかにお眠り下さい。

2018.4.16                                     江田五月