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「弔辞 故・黒田益代さん」を掲載しました

黒田益代さん

 

あなたとこんなに早くお別れすることになるとは、夢にも思っていませんでした。確かにこの秋の総選挙を境に、あなたが体調を崩されているらしいということは伝わってきており、このところお顔を見ないので、心配はしていました。しかし、14日の夕方、法律事務所にいた私に悲報が届いたとき、「どこの黒田さん?」と問い返したほどで、あなたのこととは俄かには信じられませんでした。

36年ほど前の春、私たち一家は、東京を引き揚げて今の山崎東に引っ越してきました。長女が中学1年、男の子は小学校4年と2年で、全く新しい生活環境で不安で一杯でした。私たちの地域は、もともと新しい町内で、誰もが同じような境遇であり、手探りで新しい地域を作っていたのだと思います。そんな中で、黒田春樹さんと益代さんは、確かにみんなの中心となって、いろいろな地域活動を展開してまとまりを作ってくれました。皆40歳になるかならないかの若さで、百間川の河川敷でバーベキューを楽しんだり、盆踊りや年末夜景などもやりましたね。あなたは女性たちのど真ん中で、音頭を取ってくれていました。

私たちは皆若く、子どもたちも似たような年齢でした。益代さん、あなたは子どもたちには格別に優しく、私のところの長女は今もあなたの優しさをはっきりと覚えています。あなたのところの二女の雅ちゃんと私たちの二男とは同学年で、いつもじゃれあっていましたね。家族ぐるみのお付き合いでした。長男が真夜中に、上郡から岡山までの電車が無くなって立ち往生したとき、春樹さんが車で迎えに行ってくれたりしました。その春樹さんが腸捻転で苦しんだ時、益代さん、あなたが本当におろおろしていたのを思い出します。あなたは心根の実に優しい人でした。

80年代の初め、私の後援会の仲間で中国旅行をしたことがありましたね。北京から遠く桂林まで行き、広州を経て深圳から香港に渡って帰国した10日ほどの旅でしたが、益代さん、あなたはずっと元気いっぱいで、みんなのことに本当によく気を配ってくれました。まだ中国旅行が珍しいころで、見るものも聞くことも珍しく驚くことばかりで、帰国後に報告会もしましたね。

私は当時、参議院議員1期目で、衆議院を目指していました。先輩議員が固めきった巌のような地盤の中に割って入ろうとする未知への挑戦で、地域の皆さんの損得抜きのボランティア協力がなければ成り立たないことでした。それでも新しい時代を作るにはたじろいではいけないと、私も仲間も必死でした。支援の輪が次第に広がっていくにつれて、黒田さんご夫妻の存在感も広がり、困難をエネルギーに変えて仲間の信頼感を強めてくれました。益代さんは事務所の要で、お食事の腕は抜群、くたくたになって帰ってきた誰もが心も体もリフレッシュできました。バザーをすると、あなたの出品はいつも細工がずば抜けて光っていました。私が事務所に帰ると、いつもあなたのあのチャーミングな笑顔とちょっとエスプリのきいた一言で、本当に元気が出たものです。今日もその当時以来の仲間が大勢詰めかけてくれていますよ。

時が経ち、私は衆議院議員を4期務めた後、県知事選に挑戦して敗北。本当に僅差でしたが、負けは負けです。応援してくれた大勢の仲間たちが、悔し涙という表現では表しきれない苦難を経験しました。しかしあなたたちは、そんなことは一言も口にせず、私の国政復帰を応援してくれました。そして参議院に復帰して今世紀を迎え、既に17年が過ぎました。

すでに若かった私たちも皆老境に入り、確かに足腰も弱ってきました。次の若い世代に、いろいろなことを引き継いでいかなければなりません。衆議院では津村啓介さんが、県議会でも市議会でも新しい議員たちが、次々と生まれて来ました。私たちの子どもたちも皆、大きく一人前になりました。もう心配いらないのかも知れません。

だけど益代さん、雅ちゃんを悲劇が襲った時、あなたはあれほどしっかりしていたじゃあありませんか。これから、若い者たちの頑張りをにこにこ笑って見守っていればいい時に、そして私たちはそれぞれの楽しみを見つけていけばいい時に、気丈なあなたが、そんなに早く雅ちゃんのところに行ってしまうとは。

私がよく頼まれて揮毫する中国の言葉に、「天行健」というのがあります。必ず天は私たちに、健やかな道を歩ましてくれるというのですが、そんなことを言われても、今はただ無情の天を恨みたい気分です。益代さん、あなたは本当に精一杯に力を振り絞って生きてきました。あまりに早いお別れで、私たちは既に幽明境を異にしますが、恨み言はよしましょう、私たちが次にまた逢う日も、そんなに遠いことではありません。あの世でしっかりと、私たちを見守ってください。特に春樹さんと裕子ちゃんを、頼みますよ益代さん。

安らかにお休みください。さようなら。

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日ロフォーラム基調挨拶を掲載しました

2017年9月19日

日ロフォーラム

「日ロおよび周辺国の平和と民間交流」

日本国・第27代参議院議長 江田五月

 

はじめに

 

ご出席の皆さま。まず始めに、本フォーラムにお招きいただいたことに感謝申し上げます。

このところ東アジアは、極めて視界不明瞭になってきました。北朝鮮の理解困難な動向だけでなく、日本とロシアの間でも、また日中や日韓でも、様々な問題を抱えています。そのような中で、かつては活発な交流があったロシアとの関係が、最近見るも無残に減ってしまったことを憂慮している往年の闘士の皆さんが奮起して、「日ロクラブ」を立ち上げ、このようなフォーラムが開催されるに到りました。大変意義深いことだと思います。開催の労をとられた皆さまに敬意を表し、お礼を申し上げます。お互いに率直な意見交換を通じ、相互理解が深まり、日ロ関係のみならず東アジア周辺国の平和と民間交流促進をはかる上で有意義な示唆が得られる会議となることを期待しています。

 

私のソ連・ロシアとの関わり

 

お話を始めるに当たり、自己紹介もかねて私とソビエト連邦やロシアとの関わりをご紹介します。私はかつて、1960年代初めの学生運動により大学を退学処分となっていた間に、半年かけて東欧から当時のソ連を旅したことがあります。日本の門司港を貨物船で出港し、1か月半掛けて当時のユーゴスラビアに着き、2か月かけて各地を見て回りました。トルコまで走る幹線道路の工事現場でスコップを持ったこともあります。さらにウィーンからチェッコスロバキアを経てポーランドに行き、アウシュビッツも訪ねました。さらにワルシャワからモスクワに入って1か月ほどソ連に滞在し、青年組織のお世話で国際セミナーに出席し、クラスノダールで農村を視察し、ハバロフスクを経てナホトカから船で横浜港に帰りました。今は忘れてしまいましたが、各地で多くの友達が出来ました。そこで思ったことは、体制よりも人が大切だということです。もっとはっきり言えば、当時ソ連は「共産主義の第2段階」と言っていましたが、私にはその空虚さばかりが目についたのです。

私の父は日本社会党という政党で委員長代行や書記長、さらに副委員長を歴任しましたが、社会党政権を目指して「江田ビジョン」とを提唱したことがあります。これまで人類が達成した成果を挙げれば、アメリカの豊かな生活水準、ソ連の徹底した生活保障、イギリスの議会制民主主義、日本の平和憲法の4点に集約され、このすべてを引き継いでさらに花開かせるのが新政権の目標だというもので、ソ連の生活保障制度を高く評価していましたが、実際はソ連邦の首脳の皆さんとの面識は薄かったと思います。

1977年にその父が急逝し、私が後を引き継いで国会議員になった時に、秘書として支えてくれたのが、石井紘基さんです。彼は1965年にモスクワ大学大学院に留学し、留学中に出会ったナターシャさんと結婚して修了後に一緒に帰国し、父と私の二代にわたって支えてくれました。ここ沿海州に学校を設立することを夢見ていましたが、残念ながら暴漢の凶刃に倒れました。

私は社会民主連合という小さな政党の代表として、ゴルバチョフ大統領や大統領になる前のエリツィンさんらが訪日された時に意見交換を重ねました。ペレスイトロイカやグラスノスチという言葉が盛んに話されていました。さらに2009年10月には参議院議長として訪ロし、当時のミロノフ連邦院議長やラブロフ外相、グルィズロフ国家院議長らと会談しました。ロシアがアジアの各種の国際組織に席を連ねたいと、しきりに言われていました。しかし残念ながら、プーチン大統領とは直接お目にかかったことはありません。今回のような政治フォーラムへの参加は、40年における国会議員時代にはありませんでした。

 

日ロ間に横たわる問題

 

日ソは戦後の冷戦時代には東西に陣営を異にし、困難な歴史を辿ってきました。しかしその間にも、今回ご参加の皆さん達が様々なチャネルを開拓し努力をしてきましたが、最近はそのパイプも先細って次世代への引き継ぎは容易でないと言わざるを得ません。しかし、日ロ両国は昔も今も、東アジア太平洋地域における主要な両国であり、お互いに引っ越すことが出来ないことはこれからも変わりありません。両国は10年前くらいから「日露行動計画」に沿って、政治対話、経済関係、青年交流などの分野で関係構築を進め始めましたが、特に経済関係については、エネルギー、通信、製造業と随分すそ野が広がってきました。そして、2012年にプーチンが大統領に再登板してからはそれが加速しました。また、プーチン大統領は「北方領土問題を最終決着させたいと強く望む」として問題の解決に強い意欲を見せるようにもなりました。皆さんご存知の通り両国間では未だ平和条約が締結されていないのです。

安倍首相は2013年に、日本の総理大臣の公式訪問としては10年ぶりとなる訪ロを皮切りに、驚くべきハイペースで首脳会談を重ねています。日ロ両国間で平和条約が締結されていない状態は異常であるとの認識のもとで、安全保障分野では外務・防衛閣僚による「2+2」会合の立ち上げ、経済分野では極東・東シベリア地域の発展のために官民協議を開催すること等で合意しました。しかし、その翌年に発生したウクライナ問題に端を発したロシアのクリミア併合に起因するロシアと欧米各国との対立を背景に、ロシア閣僚らによる北方領土訪問が累次行われるなど、北方領土問題解決を目指す平和条約締結交渉をはじめとする両国間の対話は度々停滞しました。

しかし昨年、両国の関係改善の努力は新しいステージに入りました。安倍首相は昨年5月の首脳会談の席で、北方領土問題について、今までの発想にとらわれない「新しいアプローチ」で交渉を精力的に進めていくとして、8項目の「協力プラン」(*)を提案し、プーチン大統領からは、政治的な課題を含む問題解決のための環境作りとなる旨の高い評価が示されました。その上で、つい先日、ここウラジオストクで行われたロシア政府主催の東方経済フォーラムが開催され、この会合を今後も継続して行い、日・ロ・韓の首脳が集って東アジア地域の将来を考える機会とすることも期待されています。しかしながら、北朝鮮の金正恩体制が不安要因となり、さらにアメリカにトランプ体制が誕生し、韓国も朴槿恵さんの失脚により文在寅(ムン・ジェイン)さんに大統領が変わり、こうした大変化の中で、北朝鮮は核開発の動きを隠そうともせず、ミサイル発射実験を繰り返す不安定な状況となっています。北朝鮮の動きを受け、朝鮮半島周辺で米軍が活発に活動していることへの警戒から、北方領土への日米安全保障条約適用の可能性が指摘され、ロシアからは強い懸念が示されています。

(*)①健康寿命の伸長、②快適・清潔で住みやすく活動しやすい都市作り、③中小企業交流・協力の抜本的拡大、④エネルギー、⑤ロシアの産業多様化・生産性向上、⑥極東の産業振興・輸出基地化、⑦先端技術協力、⑧人的交流の抜本的拡大

翻って、国境を超えた人と人との関係を見ると、たとえば日中間では、魯迅や孫文のような著名人から全くの市井の人々に至るまで、厚い人間模様が繰り広げられています。日韓関係も同じです。しかし日ロ関係ではどうでしょうか。片山潜や大鷹淑子さんのケースなどもありますが、極めて限られているのではないでしょうか。ロシアの大きな部分が東アジアに属しているのに、人間同士の絆の細さがこれでよいわけがありません。

 

東アジアの平和構築

2009年に私の所属していた民主党が政権に就いた当初、「東アジア共同体」の構築が政権により提唱され、盛んに議論が行われました。ご記憶の方もおられると思います。ロシア側から、その構想に注目しているとの声も、私のところに届きました。しかしその後、日ロ関係も、日中関係も日韓関係もそれぞれ、いろいろと困難な問題が生じてしまい、北朝鮮問題に至っては金正恩体制になって以降「6か国協議」も開かれず、今ではこの「東アジア共同体」は死語に近いものになってしまいました。残念に思います。

昨今のことは脇に置くとしても、そもそもヨーロッパとは異なり、東アジアの複雑な現実を考えると、「東アジア共同体」など夢物語だという意見があることは、私も承知しています。ヨーロッパではEUが、いろいろ問題を抱えながらも、一人の共通の大統領を選ぶところまで来ています。そのような構想は、この東アジアにおいては非現実的ということは、直ちに輸入できるものではないという点では、私もそう思います。しかし、そのような東アジアにおいても、少なくとも「経済」の分野では、実はすでに着々と共同体的な関係に向けて現実が動いていることも、皆さまご存知のとおりです。私は、東アジアの土壌や地政学的環境を踏まえた東アジアらしい「共同体」を目指すという指向性があっても、何もおかしいことではないし、私たちはそのような目標を構想すべきだと思います。

私たちはお互いの間のわだかまりを捨て、東アジアにおける共生、共創、共栄の関係の構築を目指さなくてはなりません。競争ではなく共に創る「共創」です。やはり東アジアにおいて、経済をはじめあらゆる面で大きな存在感を持っている日本、中国、韓国の間の協力と、そしてこれにロシアが加わることが、こうした関係構築の鍵を握っていると思います。

ヨーロッパにおいては、ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体から今日のEUに行き着くまで、政治家をはじめ各界のリーダーたちの大変な決断と努力がありました。東アジアにおいても、そこで厳しく試されているのは政治のリーダー達の強い意志と高い志だと思います。折々の荒波にたじろぐことなく、それぞれの側に立って煽り立てるメディアやネットに動かされる移ろいやすい世論や国民感情に流されることなく、毅然とした姿勢で困難に立ち向かい目標に向けて歩を進める決意と覚悟の問題です。ロシアも東アジアサミットやアジア開発銀行に参加できないのはおかしいと思います。

 

平和実現のための民間交流

 

私が会長をしている公益財団法人日中友好会館は、日中間の青少年交流の実務を担当していますが、一時は中国側の意向で中止、延期に追い込まれました。最近になって次々と再開の運びとなり、ホッとしていますが、日中の政治・外交関係が厳しい状況になったときに、民間交流まで大変な困難を経験したのは事実です。政治や外交の場面で難しい問題が起きると、その分野での人の往来に支障が出るのは仕方ないとしても、それ以外の分野での人の交流が、中国側の意向により、次々と止められたのです。困難な時だからこそ未来のために必要だと思われる青少年などの交流事業が、直前になって突然中止や延期となると、折角中国の青年たちとの交流を楽しみにしていた日本側の受け入れ先は、つまり訪問先の学校やホームステイ先のご家庭では、大きな困惑と迷惑が広がり、「もう中国との交流はご勘弁を」ということにもなるのです。これは大変に残念なことでした。折角、日本政府が大事な事業としてその意義を認めて用意した多額の予算も消化できず、かなりの額を返納せざるを得ませんでした。同じ時期に日本は、台湾や韓国との間でも、同様に困難な問題を抱えておりましたが、こちらでは交流事業は、何事もなかったように予定通りに進められたのです。

政治や外交の分野で問題が起きているからといって、本来これと関係のない青年交流、文化行事、地方同士の交流にまで、累を及ぼさないで欲しい。政治や外交と人の交流は無関係ではないという理屈もあるでしょうが、お互いの未来のために、敢えて「関係ない」という決断をして欲しい。ところで、日本とロシアとの青少年の交流はどうなっているでしょうか。少なくとも私の回りでは、活発な交流が行われているとは感じられません。残念な事です。特に極東では、日本とロシアは細い海を隔てただけの近い関係にあり、例えば、シベリアで火傷した子供を北海道で治療することができるような地理的関係の隣国なのです。日本には、たとえばチェルノブイリで被災した子供たちを日本に呼んで、交流を重ねる民間の皆さんもいます。もっと活発な民間交流の必要性をここにきて、改めて感じているところです。

 

東アジア – 共生・共創・共栄の世界を目指して

 

最後に、これから私たちの東アジアはどこを目指すべきなのでしょうか。

一昔前のように、どこかの国がリーダーシップを取って引っ張っていくという上下の形ではなく、それぞれの国が相互に長短相補って、全体としての平和と繁栄を目指すべきだと思います。私が言う「共創」は、そういう意味です。そして「経済」の世界では、そのことはとっくに始まっています。

45年前、日本と中国が国交正常化を実現したとき、当時の日中双方の政治リーダーたちの間でしばしば、日中間の平和・友好・協力関係は、両国の利益に留まらず、アジアの利益や世界の利益となるのだと言われました。ところが最近は、ともすれば、日本も中国も、狭い意味での両国関係のマネージメントに目を奪われ、しかもしばしば負の問題への対応に追われて、国交正常化当時の両国のリーダーたちの意気込みが忘れられがちなのが残念です。世界にとっても大切な日ロ関係や日中関係や日韓関係という大切な二国間関係を、さらにそれらを含む多国間関係を、“歴史”と“島” の問題に限局された関係にしてはならないと思います。

そうして、繰り返しになりますが、そこで試されているのは、それぞれの側の政治のリーダーたちの強い政治的意志と勇気だと思います。

私たちの東アジアにとって、21世紀が新しいページを開く明るい時代になることを強く願って、私の話を終わります。

 

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「魯迅、夏目漱石と中日友好」講演原稿を掲載しました

「魯迅と夏目漱石との対話フォーラム」                        日本国・第27代参議院議長 江田五月

 

1.はじめに

ご出席の皆さま、日中国交正常化45周年という節目の年に、日中両国の現代史の初期に活躍して歴史を開いた魯迅と夏目漱石につき、両者とゆかりの深い紹興において「魯迅と夏目漱石との対話フォーラム」を開催することは、両国の友好交流にとって極めて意義深いことだと思います。この記念すべきフォーラムにお招きいただいたことは大変光栄であり、心から感謝いたします。先週金曜日の8日には北京で、中国対外友好協会と中日友好協会の主催により45周年記念レセプションが開催され、関係するものが勢揃いする中で私もお招きをいただき、その足でこちらに馳せ参じました。

最近、日中関係には明るい兆しが見えてきたとはいえ、まだまだ双方の努力が必要です。そのような時に、特に文化や芸術の分野での交流事業を開催することは、大変に時宜に叶い意義深いことだと思います。率直な意見交換を通じて相互理解を深め、両国のあり方に有意義な示唆が得られることを確信しています。

 

2,私と中国との個人的関わり

最初に自己紹介もかねて、私の家族と中国との関わりを簡単に述べます。私の父は戦前、農民運動に飛び込み戦争に反対して2年8ヶ月の間投獄されました。刑期を終え出所してから、太平洋戦争の開戦直前に私が生まれ、戦争の真っ只中の日本にいては命さえ危ないという中で、つてを頼って中国に渡り母と幼い私を呼び寄せて、河北省の石家荘で水利工事に従事しました。この事業なら、戦争が終わった後に、中国人民の役に立つからと考えたそうです。華北で終戦を迎え、天津から上陸用舟艇母艦で日本に引き揚げたのですが、無事に故郷の土を踏むことが出来たのは、ひとえに多くの中国の皆さんのお世話があったからだと思います。実は私の妻も、戦中の北京生まれです。名前は「京子」というのですが、「京」の文字は、「東京」や「京都」ではなく、「北京」の「京」です。個人的な事情ですが、こうした国境を越えた信頼と交流の経験をしたものは、日本でも中国でも決して稀ではありません。近代以前の太古の昔から、人々の越境の友好交流の歴史があったのです。

日本の伝統芸能に「能」があり、その演目のひとつに「唐船(とうせん)」があります。室町時代、中国では明の時代に、両国間で交易が盛んになり、併せて諍いも頻発しました。あるとき、中国の「祖慶」が九州の領主に捉えられ、13年間が経過しました。中国に残された子どもたちが父を連れ戻しに来たところ、父には日本にも子どもが出来、さてどうするか。両方の子供たちの父を思う心に打たれた領主は、「祖慶」に子供たち全員での帰国を許し、家族一同で喜んで中国に帰ったという話です。国の境を越えた家族の愛情が、領主の頑なな心を溶かしたのです。支配者同士の諍いを解きほぐすのは、何と言っても人々の心の通い合いで、民間の文化、芸術、スポーツなど、経済も含めて、民間交流が最も有効なのですね。

 

3, 公益財団法人日中友好会館会長として

私が2010年から会長を務めている日中友好会館のことについて、少しお話します。この組織は公益財団法人で、ホテル経営などの営利事業で得た利益も活用して、中国の留学生寮の運営を行い、日本外務省の委託を受けて、日中間の青少年交流事業を行っています。また最近では日中植林・植樹の連帯事業も始まりました。日中友好7団体の中では最も若い団体ですが、40年弱の歴史を有し、その前史は戦前に及びます。留学生寮を巣立った若者たちは4200人以上となり、中国の要路に就いています。
日中友好会館の会長として一言申し上げれば、日中間の外交上の緊張により、日本政府の予算で実行している青少年交流事業が、一時は中国側の意向で中止、延期となり、多額の予算が消化できずに返納せざるを得ませんでした。たとえば折角快く引き受けてくれたホームステイ先が、突然のキャンセルで困惑し、「もう中国との交流はご勘弁を」ということにもなり、大変な困難を経験したのは事実です。今では元に戻ってホッとしていますが、政治上の争いを民間交流、特に青少年交流に影響させないよう、ご配慮をお願いします。

日中間の交流で残された課題は、まだ日本から中国への訪問が回復していないことです。私たちも一層の努力をしますが、是非今回のような民間文化交流企画が増えることを切望いたします。双方向の交流が実現してこそ、本当の意味での信頼関係が醸成されるのです。私は本年6月に、在日本中国大使館のお招きで、中国の若者たちをご家庭に受け入れてくれた日本のホストファミリーの皆さんら70人ほどで、北京・成都・上海を訪問しました。各地で中国の若い男女と日本のお父さん、お母さんとの感動と涙の再開が繰り広げられ、わずか一日のホームステイが心に残す宝物の大きさを実感しました。日本から中国への訪問活動の活発化も求められています。

 

4, 魯迅と夏目漱石

私は最近、中国の日本理解につき新たな発見をしました。魯迅に「藤野先生」という短編小説があります。彼が日本の仙台に医学の勉強のために留学したときの、日本人教師との交流の話です。あまりにも先生が厳しく、魯迅はそのもとを去って医学とは別の道を歩むのですが、後になって思い返し、「先生は全中国人民のことを思って、自分の教育に当たってくれたのだ」と、話を締めくくります。私が感心したのは、この話が中国の子どもたちの教科書に掲載され、みなこれを知っているということです。青少年交流団の歓迎会で中国側の参加者に尋ねてみたら、大多数が手を上げたのです。私はそれ以来、特に日本人を意識して、「中国の教科書は日本批判ばかりではないよ」と言うようにしています。

夏目漱石は、時代は大きく異なりますが、私の大学の大先輩で、イギリス留学の先輩でもあります。私が裁判官の時のことです。ある日、最高裁判所からイギリス留学を打診され、これを受けるとずっと裁判官を続けなければならなくなると思い、その場で断ってしまったのです。その夜、父に相談すると、「夏目漱石は文部教官をしていてイギリス留学したが、帰国後に退官して新聞記者から立派な小説家となった。今、そのことで彼を非難するような人はいない。気にせずしっかりと学んでこい」と激励され、早速その翌日に留学すると返事をしました。私も退官して政治の場面で働くようになりましたが、イギリス留学の経験は国会の場でも役になったと思っています。今回、そのようなお二人ゆかりのフォーラムに参加できたのも、何か不思議な縁を感じています。

 

6.終わりに

日本と中国はお互い引っ越すことができない「一衣帯水」の隣国です。同じ文字を使用する漢字文化を育んで来ました。漢字は表意文字ですから文字自体に意味があり、書道芸術も他の文字文化にない独自の文化です。同じ文字を使う者同士が集い、文化交流をするのは、この両国以外の人々の間では想像もできない、素晴らしいことです。魯迅文化基金会主催の文化交流フォーラムが、これからも回を重ね、日中両国にとって大きな成果を上げることを期待して、私の話を終わります。

 

ご清聴有り難うございました。

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玉龍会報~出品者コメント~「龍翔鳳舞」を掲載しました

「龍翔鳳舞」

今年の玉龍会展には、作品を書く合宿に参加できず、後神直子先生に頼み、岡山朝日高校書道部の練習時間に書道教室に立ち寄って、「鳳舞」と大画仙紙に揮毫しました。現役の生徒の皆さんの見ている前で、緊張しましたが、何はともあれ仕上げることができ、ほっとしています。

私の自宅は、間もなく築40年になります。1977年に、父・江田三郎の政治活動上の憤死で裁判官を辞し、国政に参画して暫くして、やはり自分の本拠を岡山に持たなければと、住宅ローンで建てたものです。その玄関には新築当時から、私の「龍翔」という全紙の作品を掛けています。私の国政進出直後の作品で、2007年12月の河田一臼先生の回顧展の際に出品させていただいたものです。

昨夏に参議院議員任期満了とともに足掛け40年に亘った国政の現場から去り、秋には桐花大綬章をいただいたので、この際、「龍翔」から始まった国政参加の締めくくりとして、「鳳舞」を選んでみたのです。しかし、作品の出来も不満足だし、この間の国政活動も決して満足できるものではありません。むしろ、恥多き政治家人生だったなと回顧しています。

桐花大綬章は最高位の勲章で、今春には森喜郎元首相に授与されました。私の場合は、2007年から10年までの参議院議長に対するもので、衆参で多数派の異なるねじれ状態だけでなく、参議院内でも私の出身母体の民主党は過半数に至らず、国会運営は苦労の連続でした。ガソリンの店頭価格が下がったり上がったりして、国民生活に混乱も起こしたりしました。政治が生活に直結しているのを実感できて良かったというのは、弁解になりません。

もともと叙勲制度は国民に序列をつけるもので、根本的な批判もあります。江田のやつはあんなものを貰って悦に入っていると、陰口も聞こえます。私が偉くなったわけではありません。地元に何の利益誘導もしないのに、終始変わらず私を支えてくれた皆さんがいてくれたからこそ、議長の職務を全うできたので、叙勲は皆さんがいただくものです。私が代表して、受け取らせていただいたと思っています。

龍ならんと欲して翔び立ったものの志を果せず、皆さんに鳳を舞っていただくのがせめてものお返しかと思っています。それでも、龍も鳳も形は一つではありません。最近はフローラという言葉が盛んですが、花園には、大輪のバラも片隅のカタバミも咲きます。多様な個性をすべて大切にし、鮮やかな「龍翔鳳舞」の風景を作りたいものです。