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「弔辞 故・黒田益代さん」を掲載しました

黒田益代さん

 

あなたとこんなに早くお別れすることになるとは、夢にも思っていませんでした。確かにこの秋の総選挙を境に、あなたが体調を崩されているらしいということは伝わってきており、このところお顔を見ないので、心配はしていました。しかし、14日の夕方、法律事務所にいた私に悲報が届いたとき、「どこの黒田さん?」と問い返したほどで、あなたのこととは俄かには信じられませんでした。

36年ほど前の春、私たち一家は、東京を引き揚げて今の山崎東に引っ越してきました。長女が中学1年、男の子は小学校4年と2年で、全く新しい生活環境で不安で一杯でした。私たちの地域は、もともと新しい町内で、誰もが同じような境遇であり、手探りで新しい地域を作っていたのだと思います。そんな中で、黒田春樹さんと益代さんは、確かにみんなの中心となって、いろいろな地域活動を展開してまとまりを作ってくれました。皆40歳になるかならないかの若さで、百間川の河川敷でバーベキューを楽しんだり、盆踊りや年末夜景などもやりましたね。あなたは女性たちのど真ん中で、音頭を取ってくれていました。

私たちは皆若く、子どもたちも似たような年齢でした。益代さん、あなたは子どもたちには格別に優しく、私のところの長女は今もあなたの優しさをはっきりと覚えています。あなたのところの二女の雅ちゃんと私たちの二男とは同学年で、いつもじゃれあっていましたね。家族ぐるみのお付き合いでした。長男が真夜中に、上郡から岡山までの電車が無くなって立ち往生したとき、春樹さんが車で迎えに行ってくれたりしました。その春樹さんが腸捻転で苦しんだ時、益代さん、あなたが本当におろおろしていたのを思い出します。あなたは心根の実に優しい人でした。

80年代の初め、私の後援会の仲間で中国旅行をしたことがありましたね。北京から遠く桂林まで行き、広州を経て深圳から香港に渡って帰国した10日ほどの旅でしたが、益代さん、あなたはずっと元気いっぱいで、みんなのことに本当によく気を配ってくれました。まだ中国旅行が珍しいころで、見るものも聞くことも珍しく驚くことばかりで、帰国後に報告会もしましたね。

私は当時、参議院議員1期目で、衆議院を目指していました。先輩議員が固めきった巌のような地盤の中に割って入ろうとする未知への挑戦で、地域の皆さんの損得抜きのボランティア協力がなければ成り立たないことでした。それでも新しい時代を作るにはたじろいではいけないと、私も仲間も必死でした。支援の輪が次第に広がっていくにつれて、黒田さんご夫妻の存在感も広がり、困難をエネルギーに変えて仲間の信頼感を強めてくれました。益代さんは事務所の要で、お食事の腕は抜群、くたくたになって帰ってきた誰もが心も体もリフレッシュできました。バザーをすると、あなたの出品はいつも細工がずば抜けて光っていました。私が事務所に帰ると、いつもあなたのあのチャーミングな笑顔とちょっとエスプリのきいた一言で、本当に元気が出たものです。今日もその当時以来の仲間が大勢詰めかけてくれていますよ。

時が経ち、私は衆議院議員を4期務めた後、県知事選に挑戦して敗北。本当に僅差でしたが、負けは負けです。応援してくれた大勢の仲間たちが、悔し涙という表現では表しきれない苦難を経験しました。しかしあなたたちは、そんなことは一言も口にせず、私の国政復帰を応援してくれました。そして参議院に復帰して今世紀を迎え、既に17年が過ぎました。

すでに若かった私たちも皆老境に入り、確かに足腰も弱ってきました。次の若い世代に、いろいろなことを引き継いでいかなければなりません。衆議院では津村啓介さんが、県議会でも市議会でも新しい議員たちが、次々と生まれて来ました。私たちの子どもたちも皆、大きく一人前になりました。もう心配いらないのかも知れません。

だけど益代さん、雅ちゃんを悲劇が襲った時、あなたはあれほどしっかりしていたじゃあありませんか。これから、若い者たちの頑張りをにこにこ笑って見守っていればいい時に、そして私たちはそれぞれの楽しみを見つけていけばいい時に、気丈なあなたが、そんなに早く雅ちゃんのところに行ってしまうとは。

私がよく頼まれて揮毫する中国の言葉に、「天行健」というのがあります。必ず天は私たちに、健やかな道を歩ましてくれるというのですが、そんなことを言われても、今はただ無情の天を恨みたい気分です。益代さん、あなたは本当に精一杯に力を振り絞って生きてきました。あまりに早いお別れで、私たちは既に幽明境を異にしますが、恨み言はよしましょう、私たちが次にまた逢う日も、そんなに遠いことではありません。あの世でしっかりと、私たちを見守ってください。特に春樹さんと裕子ちゃんを、頼みますよ益代さん。

安らかにお休みください。さようなら。