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12月21日、「山田村」、上京、国の…、帰岡

荒井事務所の板張りの床

午前中は自宅でデスクワークをし、11時半頃出て法律事務所に入り、さらに若干のデスクワークをしました。12時過ぎに出て、所用を済ませて岡山駅に行き、昼食に「山田村」のおにぎりとみそ汁を買って、13時前の新幹線で上京しました。「山田村」は、私の高校時代からの友人である山田茂宏君が家業の米屋を生かして始めたおにぎりやで、彼は一時は工務店を起こし、わが家を建築してくれました。残念ながら先日、70歳代前半で逝去されました。

「山田村」のおにぎり

16時ころ、品川に差し掛かると、もう日が沈みかけていました。年間で一番日の入りが早いころですが、西日本の岡山と比べるとやはり東は早いと実感しました。

品川では日の入り

16時半ころ、衆議院議員会館の荒井聡さんの事務所を訪ねました。荒井さんが在室で、床を板張りにして雰囲気を出していました。荒井さんは東大農学部卒で、農水省出身なのです。

17時から1時間強、国のかたち研究会の例会に出席しました。民主党時代の初めに結成したグループですが、今は主力は立憲民主党で、各党の事情などにつき情報交換と意見交換をし、私も自説を述べました。18時半前から場所を移して年末の懇親会を行い、賑やかに騒ぎながら次の展開につき意見交換しました。20時前に中座し、最終新幹線で帰岡しました。

国のかたち研究会で
懇親会で

 

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12月20日、野津会長社葬等、弔問、火事見舞い、県連常幹、懇親会

前嶋一子さん弔問

10時半前に出て、近くのホテルで行われた日本カバヤ・オハヨーホールディングス株式会社の故・野津喬会長の「社葬・お別れの会」に向かいました。ところが最後の交差点を曲がったところから大渋滞で、さらにホテルの駐車場も満車で、近くに路上駐車をして11時からの開式にやっと間に合いました。会場も超満員で、椅子席の後方も立ち見で立錐の余地もないほどの参列者となり、社葬を司祭する神職の祝詞が終わったところで、やむを得ず中座しました。オハヨー乳業社長など地元経済界の要職のほか、日本JCの会頭も務められました。享年72歳。合掌。

野津会長社葬

13時過ぎに妻と出て、竹馬の友のご母堂でお世話になりっ放しの前嶋一子さんの弔問に行きました。教会のオルガン奏者も長く勤められ、多くの皆さんに慕われました。医学生の解剖のための検体をされたそうで、感謝状が届いていました。享年102歳。合掌。さらに私たちの住まいと同じ山崎で発生した火災見舞いに行きました。モルタルの壁でやっと類焼は免れたものの、火災の痕跡は鮮やかでした。

火事見舞い
火事痕跡

15時半過ぎに法律事務所に入り、若干のデスクワークの後に、16時半から民進党県連の難波奨二会長らと若干の協議をし、17時から1時間半弱、県連常任幹事会に出席しました。党本部の国会議員や都道府県代表者らによる協議の経過などの報告を聞き、参加者全員が意見を言いました。党の苦境を乗り切る道のりは、なかなか険しいと思います。その後、大渋滞の中を移動し、19時から2時間ほど、常幹メンバーで年末の懇親会を開き、鍋に舌鼓を打って、最後に改めて乾杯をして来年の頑張りを確認しました。

県連常幹で
発言
常幹懇親会
締めくくりの乾杯

 

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12月19日、所用、法曹協議会、忘年会

法曹忘年会で大土会長らと

9時前に妻とともに出て所用を済ませ、一度戻って12時から2時間ほど、妻の友人たち数人で昼食会を開きました。おいしい中華料理で賑やかに会話が弾みました。

14時半前に法律事務所に入り、若干のデスクワークや電話連絡をしました。15時から2時間強、岡山弁護士会館で行われた法曹協議会に出席しました。官側は、裁判所が広島高裁岡山支部、岡山地裁本庁と各支部、岡山簡裁、岡山家裁本庁と支部、検察庁が広島高検岡山支部と岡山地検、それに岡山地方法務局と岡山刑務所から各支部長、所長、検事正、上席訟務官らが、民側は岡山弁護士会の会長と副会長に多くの弁護士がそれぞれ参加し、各機関から協議問題が提出されて活発に協議を行うもので、1954年から続けて開催されています。今回も全部で10問が提出され、意見が鋭く対立するものもあり、有意義な意見交換ができました。最後に検察庁から、協議会見直しのための提案が出され、緊張したやり取りが行われました。

18時から2時間強、法曹協議会の構成メンバーで忘年懇親会を行いました。協議会とは打って変わって和気藹々と懇談の会話が弾み、最後に岡山地裁所長が含蓄のある挨拶をして、乾杯で今年の締めくくりとなりました。

忘年会全景
佐々木さんと
小林さんと、
河田さん、平松さんらと
締めの乾杯

 

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「弔辞 故・黒田益代さん」を掲載しました

黒田益代さん

 

あなたとこんなに早くお別れすることになるとは、夢にも思っていませんでした。確かにこの秋の総選挙を境に、あなたが体調を崩されているらしいということは伝わってきており、このところお顔を見ないので、心配はしていました。しかし、14日の夕方、法律事務所にいた私に悲報が届いたとき、「どこの黒田さん?」と問い返したほどで、あなたのこととは俄かには信じられませんでした。

36年ほど前の春、私たち一家は、東京を引き揚げて今の山崎東に引っ越してきました。長女が中学1年、男の子は小学校4年と2年で、全く新しい生活環境で不安で一杯でした。私たちの地域は、もともと新しい町内で、誰もが同じような境遇であり、手探りで新しい地域を作っていたのだと思います。そんな中で、黒田春樹さんと益代さんは、確かにみんなの中心となって、いろいろな地域活動を展開してまとまりを作ってくれました。皆40歳になるかならないかの若さで、百間川の河川敷でバーベキューを楽しんだり、盆踊りや年末夜景などもやりましたね。あなたは女性たちのど真ん中で、音頭を取ってくれていました。

私たちは皆若く、子どもたちも似たような年齢でした。益代さん、あなたは子どもたちには格別に優しく、私のところの長女は今もあなたの優しさをはっきりと覚えています。あなたのところの二女の雅ちゃんと私たちの二男とは同学年で、いつもじゃれあっていましたね。家族ぐるみのお付き合いでした。長男が真夜中に、上郡から岡山までの電車が無くなって立ち往生したとき、春樹さんが車で迎えに行ってくれたりしました。その春樹さんが腸捻転で苦しんだ時、益代さん、あなたが本当におろおろしていたのを思い出します。あなたは心根の実に優しい人でした。

80年代の初め、私の後援会の仲間で中国旅行をしたことがありましたね。北京から遠く桂林まで行き、広州を経て深圳から香港に渡って帰国した10日ほどの旅でしたが、益代さん、あなたはずっと元気いっぱいで、みんなのことに本当によく気を配ってくれました。まだ中国旅行が珍しいころで、見るものも聞くことも珍しく驚くことばかりで、帰国後に報告会もしましたね。

私は当時、参議院議員1期目で、衆議院を目指していました。先輩議員が固めきった巌のような地盤の中に割って入ろうとする未知への挑戦で、地域の皆さんの損得抜きのボランティア協力がなければ成り立たないことでした。それでも新しい時代を作るにはたじろいではいけないと、私も仲間も必死でした。支援の輪が次第に広がっていくにつれて、黒田さんご夫妻の存在感も広がり、困難をエネルギーに変えて仲間の信頼感を強めてくれました。益代さんは事務所の要で、お食事の腕は抜群、くたくたになって帰ってきた誰もが心も体もリフレッシュできました。バザーをすると、あなたの出品はいつも細工がずば抜けて光っていました。私が事務所に帰ると、いつもあなたのあのチャーミングな笑顔とちょっとエスプリのきいた一言で、本当に元気が出たものです。今日もその当時以来の仲間が大勢詰めかけてくれていますよ。

時が経ち、私は衆議院議員を4期務めた後、県知事選に挑戦して敗北。本当に僅差でしたが、負けは負けです。応援してくれた大勢の仲間たちが、悔し涙という表現では表しきれない苦難を経験しました。しかしあなたたちは、そんなことは一言も口にせず、私の国政復帰を応援してくれました。そして参議院に復帰して今世紀を迎え、既に17年が過ぎました。

すでに若かった私たちも皆老境に入り、確かに足腰も弱ってきました。次の若い世代に、いろいろなことを引き継いでいかなければなりません。衆議院では津村啓介さんが、県議会でも市議会でも新しい議員たちが、次々と生まれて来ました。私たちの子どもたちも皆、大きく一人前になりました。もう心配いらないのかも知れません。

だけど益代さん、雅ちゃんを悲劇が襲った時、あなたはあれほどしっかりしていたじゃあありませんか。これから、若い者たちの頑張りをにこにこ笑って見守っていればいい時に、そして私たちはそれぞれの楽しみを見つけていけばいい時に、気丈なあなたが、そんなに早く雅ちゃんのところに行ってしまうとは。

私がよく頼まれて揮毫する中国の言葉に、「天行健」というのがあります。必ず天は私たちに、健やかな道を歩ましてくれるというのですが、そんなことを言われても、今はただ無情の天を恨みたい気分です。益代さん、あなたは本当に精一杯に力を振り絞って生きてきました。あまりに早いお別れで、私たちは既に幽明境を異にしますが、恨み言はよしましょう、私たちが次にまた逢う日も、そんなに遠いことではありません。あの世でしっかりと、私たちを見守ってください。特に春樹さんと裕子ちゃんを、頼みますよ益代さん。

安らかにお休みください。さようなら。

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12月18日、デスクワーク、上京、打合せ、地域議連、帰岡

デスクワーク

12時前に出て岡山駅に行き、12時半前の新幹線で上京しました。道中、車内アナウンスに促されて見ると、車窓からの冬の富士が実にきれいでした。

冬の富士

16時前に着いて、完成した丸の内口の駅前広場を眺めました。本当に長い工事でしたが、広々と気持ちよくなりました。16時半から民事受任事件の打ち合わせをし、17時半から1時間は相代理人の弁護士とも詰めた打ち合わせをしました。

東京駅前広場完成

19時から1時間、地域コミュニティー再生議員連盟の役員会に出席しました。私は現職議員ではないので、顧問としての出席です。今年の活動報告などがあったのですが、年末の議員繁忙期のため、役員が揃って一堂に会することはできませんでした。中座して、20時半の最終新幹線で帰岡しました。

地域再生議連役員会

 

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12月17日、神伝流総会等、10段允許、黒田益代さん葬儀

神伝流10段允許

11時半に迎えに来て貰い、12時から神伝流岡山游泳会の総会と忘年会に出席しました。神伝流は、日本泳法の13流派の一つ(https://www.swim.or.jp/compe_jp/jpcontents.php#overview)で、私は小学生のころから始め、高校・大学のころは旭川の水練場の現場責任も務め、昭和54年に練士、(file:///C:/Users/satsuki%20eda/AppData/Local/Microsoft/Windows/INetCache/IE/FOFOAIP7/content7.pdf)、同61年に教士(file:///C:/Users/satsuki%20eda/AppData/Local/Microsoft/Windows/INetCache/IE/Y844R1VH/content6.pdf)、平成8年に藩士(file:///C:/Users/satsuki%20eda/AppData/Local/Microsoft/Windows/INetCache/IE/QFXDET37/content5.pdf)となりました。小坂田会長の挨拶に続いて、今年度の事業報告と収支報告があって了承され、来年度の事業予定などの発表がありました。さらに私に10段が允許されるとのことで、免許状と帽子の授与が行われました。その後、忘年会に移り、私が挨拶して乾杯の音頭を取って、懇談になったところで中座しました。

免許状授与
乾杯音頭

送って貰い、13時前に黒田益代さんの葬儀・告別式の会場に駆け付けました。開式が15分ほど遅れ、導師が到着して読経から焼香となり、私と津村啓介さんが弔辞を述べました。懐かしい顔ぶれも交えて本当に大勢の皆さんがご参列くださり、出棺までお見送りをいただきました。

益代さん葬儀
弔辞を述べ

14時半過ぎに神伝流の会に戻り、さらに1時間ほど賑やかに懇談をしました。

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12月16日、岡弁共済総会等、道文会祝賀会、益代さん通夜

道文会パーティーで

9時半前に出て岡山弁護士会館に行き、10時から30分弱、同会共済組合総会に出席しました。平成になって3回目だそうで、議長に大土理事長を選任して議事に入り、繰越金が大きく積み上がっていることなどを理由に、組合費を月額500円に半減する規約改正案が提案され、若干の質疑の後、定足数を満たしていることを確認して採決し、全会一致で可決されました。

岡弁共済総会

続いて国会議員の会員からの挨拶を受け、10時半過ぎから同会全員協議会に出席しました。協議事項はいずれも法律相談につき、まず電話帳広告の扱い変更で、430万円余の掲載料で1頁広告をしている例は他会にないようなので、変更を検討すべしとの意見が大多数でした。次に負担金の変更で、複雑な算定方法になっている現状につき多くの意見が出されました。

12時前に退席し、自宅に戻って妻とともに出て、13時から3時間弱、道文会の「小野玲華会長の日展連続12回入選祝賀と今年のさよならパーティー」に出席しました。会長の開会挨拶に続いて私が来賓を代表して挨拶し、他の来賓紹介の後、花束贈呈を受けて会長が挨拶し、今年の活動報告があって、津村啓介さんの音頭で乾杯をして祝宴となりました。持ち寄りのプレゼント交換やカラオケなどが続き、私たち夫妻も歌って、賑やかに3時間弱が経過したところで中座しました。

道文会で挨拶
全景
玲華会長挨拶
津村さんの乾杯音頭
プレゼント交換
夫婦でカラオケ

自宅に戻って略礼服に着替え、妻とともに出て17時から1時間ほど、先日逝去された黒田益代さんの通夜に参列しました。津村事務所の皆さんが総動員でお手伝いをしており、これまで一緒に選挙などで頑張ってきた多くの仲間たちが掛けつけていました。

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12月15日、所用、酒器展、城下、事務所、眼科、たま

酒器展で

午前中は自宅でデスクワークや電話連絡などで過ごし、12時前に妻とともに出て所用を済ませて回りました。20年ほど前の私名義の預金が、暗証番号も印鑑も判らなくなったので、すべて新しくする手続きなど、時間のかかる所用が結構あるのです。

13時前に、明日香画廊で開催中の酒器展を拝見しました。11月19日に太宰府の天満宮でお目に掛った矢野直人さんのご母堂からご案内をいただいたもので、矢野さん他大勢の作家の味のある徳利や盃がたくさん並んでいました。その後、城下公会堂で昼食をいただき、14時半過ぎに法律事務所に入り、電話連絡やデスクワークをしました。16時半過ぎに出て、17時から、白内障手術の経過観察のため、眼科医の診察を受けました。

デスクワーク

17時半ころ、路面電車で帰宅の途に就きました。車両は様々な種類のものがあり、今日は和歌山県で電鐵の駅長として活躍中の猫の「たま」号でした。

「たま」号

 

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12月14日、ももちゃんら、法律相談s、訃報

中川県議の法律相談

相変わらず寒波が続いた一日でした。午前中は自宅でゆっくり過ごし、13時過ぎから妻とともに出て、所用をいくつか済ませました。15時前にももちゃん宅にお土産を持って寄ると、一生君がちょうどお昼寝から目を覚ましたところで、15時半前に学校から帰宅したももちゃんに短時間会えました。小学校一年生で、友だちと一緒に路面電車で通学しています。

15時半過ぎに法律事務所に入り、16時から1時間半ほど、所長の江田剛弁護士と一緒に、民事事件の法律相談を受けました。不動産関係の案件で、権利関係が複雑に絡み合っていました。さらに17時半過ぎから1時間強、中川雅子県議の法律相談を受けました。知人の租税関係の案件で、これも主張が複雑にもつれていました。

不動産の法律相談

その最中に、町内の方の訃報が届きました。30数年前に私たちが引っ越して来て以来、大変にお世話になってきた奥さんで、1980年代初めには私の後援会グループで一緒に中国旅行もしました。この秋から体調が悪そうだと聞いていましたが、突然の訃報でした。妻が町内の世話をしており、回覧板配りの手伝いをしました。享年73歳。合掌。

町内の配りもの

 

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12月13日、養生、重大事件s

体調悪化はどうやら峠を越えたようですが、大事を取って一日ぶらぶらと養生で過ごしました。

沖縄では小学校校庭に米軍ヘリの窓枠が落下して体育の授業中の小学生が怪我をし、広島高裁は伊方原発の運転差し止めを決定するなどと、出来事の多い日でした。普天間の件は軽傷だからと済まされない重大事故ですし、原発の司法判断は、高裁段階の合議体の判断で、これも極めて重大です。