政治家の人間力 第三部 戦後政治における江田三郎 ホーム目次前へ次へ

江田三郎の国際感覚  初岡昌一郎


一番好きな社会党指導者
 
江田三郎は自分の一番好きな社会党指導者であり、政治家であった。彼の思い出は私の青春時代の貴重な一部である。社会党青年部や社会主義青年同盟の活動家であった当時、私は江田派の一員をもって任じていた。しかし、その割に人間的個人的接触は薄く、西風勲や仲井富という、江田さんと近い歴代青年部長を通じての関係であった。また、党本部レベルで、江田派の中核となってゆく加藤宣幸と貴島正道、森永永悦などがグループ的研究会活動により、いわゆる「構改派」を誕生させる時期に下働きをしていたので、距離的には非常に近いところにいた。が、江田三郎との個人的な接触はあまりなかった。親子ほどにも年齢が違いすぎたこともあるし、酒を一滴も口にしなかった当時の私は、酒好きの江田さんと接触を求める気持があまりなかったからでもある。

 江田三郎の一番の魅力は、現状に満足せず、新しいものを模索していたことだ。社会党の現状に満足していなかった江田さんは、ソ連や中国に代表される「社会主義」に決して満足していなかった。が、神学的なイデオロギー論争の種になりかねない、それらの社会主義への評価や、国際問題への発言を彼は慎んでいた。当時の社会党内では、国際問題は江田さんとややライバル的な関係にあった同じ岡山県出身の和田博雄と和田派が、主として担当していた。和田博雄自身は決して親ソ派ではなかったし、むしろ外交的にはユーゴなどの非同盟中立政策を高く評価していた。しかし、和田派には親ソ的な人々が多く、後に親ソ派の中核となってしまう。また、江田さんを指導部から追い落とした佐々木更三率いる佐々木派は、毛沢東主義の中国に深入りしていた。

ヒューマニズムに基づく社会正義
 一九六〇年代後半から、社会党はその「積極的中立」性を次第に失って、いわゆる「共産圏」寄りに傾斜していった。そして、多様な社会主義者の共同戦線党的性格を喪失し、社会主義協会によるセクト的マルクス主義が幅を利かすようになった。江田三郎がこうした党の変質に危機感を抱いていたことは間違いない。これは、彼の社会主義観に根ざしたものだろう。江田三郎はイデオロギー的な指導者ではなく、彼の社会主義は「社会的公正」を追求するもので、ヒューマニズムに基づいていた。その意味で彼の社会主義観はクローズドな閉鎖的なものではなく、オープンエンドなものであったと思う。

 彼が書記長時代に提唱した「民主主義、社会保障、生活水準、非武装中立」という四大目標は、彼の社会主義観の国際性をよく表していた。しかし、例示した国名が適切さを欠くところがあったため、そこをつかれて足をすくわれ、この四大目標はあっけなく葬り去られてしまった。

西欧的意味での社会民主主義者
 
振り返ってみると、彼自身は早い時期から西欧的意味での社会民主主義者になっていたと思う。一九七〇年代中頃、江田三郎はまだ「社市連」の旗上げをする前で、社会党内で閉塞感をつのらせていた。その頃、日本にやってきた社会主義インター(SI)事務局長ボー・カールソンとの非公式な会談をセットしたことがあった。カールソンはスウェーデン社民党国際局長から西欧社民党が中心となった国際組織SIの事務局長になった人で、政治家というより社会主義運動家である。SIをよりダイナミックな団体としてヨーロッパ以外に拡大することに熱心だった。私に彼を紹介してくれたのは、大学の後輩で、秀れた同時通訳者として最も信頼していた佐藤敬子だった。ILOで初めて彼女に出会ったのだが、その後、次第に佐藤とは同志的に一緒に仕事をするようになっていた。

 カールソンは私と同時代人であり、共に国内外の青年運動を経験していたので、ウマがあった。彼は日本の民社党と社会党の両方に不満と不信の念を持っていたこともあり、来日の度に連絡があったので、個人的に会ってよく意見と情報を交換していた。都内の小さな飲み屋でカールソンと会った江田三郎は上機嫌だった。過去に二、三度、江田さんの通訳を買って出たこともあったが、「お前は人に代わって自分の意見を述べる」と私の通訳はあまり信用されていなかったので、通訳は佐藤敬子さんに頼んだ。佐藤さんの通訳は水際だっていただけでなく、こうした座談の雰囲気を盛り上げる才能が抜群だった。

 江田三郎は決していわゆる“国際通”ではなかった。むしろ、一般的には国際派でない政治家の一人とみなされていたようだ。しかし、彼の関心は日本だけをどうこうしようという狭いナショナル・インタレストに発するものではなかった。「より良い世界はより良い日本のためになる」し、「より良い日本はより良い世界に貢献する」ことを素直に信じていたと思う。

「社公民」による新しい政治勢力の結集
 
江田さんは、この頃「社公民」という構想による新しい政治勢力の結集を推進しようとしており、ヨーロッパの連立政権の経験や、西欧社会党の政権交代の教訓に大きな関心を寄せていた。そのとき、江田さんが最も共感を示したのは、「ヨーロッパの社民党は政権をとる可能性が生まれたり政権についたときには、現実を重視した政策を前面に打ち出す。しかし、政権を離れて野党に下った時には、従来の政策を脱皮して新しい課題に大胆に挑戦する政策を模索する」という、カールソンの指摘だった。政権を担う可能性のない時にはなから「現実的政策」を掲げることは、真の選択肢を放棄することになるし、新しい課題に新しい切り口で挑戦する理想主義を失わせることに通ずる。

 カールソンとの対話を傍聴しながら、江田三郎の真骨頂は現実主義者ではなく、理想主義者なのだとつくづく思った。江田三郎は、そのとき、アジアではヨーロッパと異なり、社会主義・社会民主主義者だけではなく、民主主義者とその政党を結集した新しい連絡会議のようなものが必要ではないかと述べて、カールソンの賛成を得ていた。二人の協力継続の約束は、それぞれの悲劇的な死によって短命に終わった。江田はその後まもなく社会党を離党し、「社市連」を結成、そして旗揚げの選挙前夜に急逝。他方、ボー・カールソンはリビアの仕掛けたパン・アメリカン機爆破事件によって、イギリス上空で悲劇的な死をとげた。そして、カールソンのアジアにおける密使の役割を果たしていた佐藤敬子も、それからまもなく40台の若さで急逝してしまった。「良いことは長続きしない」という、ヨーロッパの格言を、あらためてかみしめざるをえなかった。

国際的指導者たり得た政治的リーダー
 
私の見てきたところ、国際主義者は国際的経験によって育つとは必ずしも言えない。国際関係の活動を通じて、ますます偏狭なナショナリストになっていった人々を数多く知っている。その反面、国際活動の経験がなくとも、広い視野で物事を国境を越えてとらえる人たちは非常に多い。

 ほとんどの場合、すぐれた国内的指導者は国際的にも通用する。その逆もまた真なり。この意味で、江田三郎は国際的指導者となる素質を持った日本の政治的リーダーの一人だった。その上に、彼は構造改革論争とその後の政治的経験を通じて、先進世界に共通する社会民主主義的視点を自らのものにしていた。つまり、普遍的な価値観に基づく世界観と人間観を持つに至っていた。しかし彼の周囲の人々が、その時代、日本にある“社民”のマイナスイメージを恐れるあまり、江田三郎が自らを「社会民主主義者」と名乗り、その路線に立つのを宣言することを許さなかったのではないかと思う。


初岡 昌一郎 (はつおか・しょういちろう)
1935年岡山県生まれ。59年国際基督教大学卒。63年ベオグラード大学院大学留学、64年全逓本部書記局専従書記。72年PTTI東京事務所長。89年より姫路獨協大学外国語学部教授。専攻は国際労働問題・国際関係論。編著に『児童労働』(日本評論社)など 。


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