政治家の人間力 第三部 戦後政治における江田三郎 ホーム目次前へ次へ

構造改革論争と 《党近代化》   松下圭一


一 江田さんの一九六〇年前後

 江田三郎さんが政治家として政治の第一線で活躍され始めます一九六〇年前後は、中進国型経済高成長にともない、日本が《都市型社会》への移行を準備する時期でした。この時点はまた、戦前型「国家統治」発想のオールド・ライト路線の自民党、とくに岸内閣と、戦前型「階級闘争」発想によるオールド・レフトとしての社会党、共産党のいずれもが、これまた戦前型というべき政党指導による国民運動を組織していました。

 この旧保守系・旧革新系いずれの「国民運動」も、今日の「市民活動」とは異なり戦前系譜でしたから、政党による系列団体の上からの動員、それも日当や弁当付きもあるというのが実状でした。このような一九六〇年をめぐる状況構造を、まず確認したいと思います。革新系による「空前の国会前デモ」といっても、実状は労働組合の縦割動員が中心だったのです。しかも、この一九六〇年前後は、市民個人の自発参加という戦後型の「市民活動」が、日本の都市型社会への移行の始まりにともない、その出発をみるという時期でした。

 江田さんはちょうどこの分岐点に立っていました。とくに江田さんを中心とする社会党の構造改革派は、あらたに「護憲」を付け加えて、「護憲・民主・中立」という三本柱の戦略思考を明示し、加藤宣幸書記の発案で三本の矢のマークもつくります。江田さんが浅沼稲次郎委員長の悲劇のあとを継いで委員長代行になられた時点で、派閥統制によってマンネリ化した党書記間で、少数でしたが構造改革派の新しい胎動が始まっていたのです。

 理解していただきたいのは、丸山眞男さんらリベラルなアカデミズムの「憲法問題研究会」などは別として、当時の革新系全体が最初から《護憲派》ではなかった事態です。片山哲元首相らの「護憲連合」は、社会党右派の戦前大物によって支えられているだけで、一九六〇年前後、社会党の理論主流を占める社会主義協会派、もちろん共産党の理論家たちも含め、日本国憲法を天皇制をもつ「ブルジョア憲法」とみなして軽蔑していました。自民党が占領軍による「オシツケ憲法」として軽蔑していたのと同型です。それゆえ、「護憲」を正面から先頭に掲げた構造改革派は、私もその一員でしたが、「護憲」をめぐって「ニュー・レフト」路線としての画期的政治発想をつくり出していきます。

 一九六〇年の〈安保〉国民運動は、たしかに日米安保条約改定をめぐって起きました。しかし、その幅広い岸内閣反対のひろがりは、強行採決という国会手法だけでなく、この日米安保条約改定の裏にオールド・ライトである岸内閣が戦前回帰をめざす「憲法改正」の意図をみていたからでした。一九五八年、岸内閣の『警職法』改正をめぐって、私は『中央公論』に「忘れられた抵抗権」、引きつづき〈安保〉については『朝日新聞』に「悪政にたいする抵抗は国民の義務」という論考を発表し、日本国憲法に基づく市民の「抵抗権」を、従来型の「階級闘争」ないし「革命」にかわって主張していきました。

 オールド・ライト路線の岸内閣崩壊後、池田内閣は「寛容と忍耐」をかかげ、あらたにニュー・ライト路線を構築し、社会党の「護憲」による自民党の「経済成長」という政治の舵取りが、村山内閣の頃まで続いたといってよいでしょう。市民感覚なきオールド・ライト系の小泉・安倍首相の「改革」という名での登場は、財政破綻による戦後自民党の「ゆきづまり」を示します。

 この戦後政治では、〈官僚内閣制〉というかたちで、省庁官僚を中軸の自民党が主導する政官業複合による既得権拡大が続いたため、つまり国の政策失敗のため、とうとう二〇〇〇年代の日本は、GDPの一・五倍を超える敗戦国なみの借金を積み上げ、「破産」状態に陥ります。さらに、(1)少子高齢化による人口減少、(2)福祉・都市・環境、あるいは産業・金融・外交についての「官僚の犯罪」ともいうべき政策・制度再設計の先送りもあって、日本は二〇〇〇年代、中進国状況のまま沈没して、「没落と焦燥」の時代に入るという予感をもつようになっています。

 日本の産業技術ないし大衆文化は世界共通文化の一環を築きつつあるとはいえ、戦後半世紀、政権交替もなく、後進国型の官治・集権政治を先進国型の自治・分権政治に転換できない日本は、いまだ「中進国」と位置づけざるを得ません。そのうえ、政治家の未熟、官僚の劣化による政官業の既得権維持の仕組みは、マスコミ論調の低水準とあいまって、今日では、犯罪、事故、汚職の拡大となり、政治・行政のゆきづまりだけでなく、日本の「社会」自体の崩壊を促しているではありませんか。官治・集権の「官僚国家」から自治・分権の「市民政治」への、日本の移行が、今日、急務とされる理由です。

 江田さんが活躍されはじめた一九六〇年代は、冷戦の激化にもかかわらず、敗戦日本の青春期でした。経済成長(工業化)と日本国憲法(民主化)の定着というかたちで、日本で珍しく青空が見えてきた時代でした。江田さんはこの時代の精神をふまえて、そのころ、いつも元気でした。


二 構造改革論は何を目ざしたのか

 私の江田さんとの出会いは、一九五六年一一月、『思想』の拙稿「大衆国家の形成とその問題性」で〈階級〉の変容を提起していわゆる《大衆社会論争》をひきおこしたため、この論争をめぐって社会党本部で話をしたのを機会としています。本部書記のなかに、社会党の再編を考え、江田三羽烏と言われた森永栄悦、貴島正道、加藤宣幸さんがいて、「戦後民主主義」の通俗議論とは異なる《マス・デモクラシー》の新しい問題性を私の問題提起からかぎとり、その後の交流となっていきました。そのなかには、「護憲連合」の事務局をしていた久保田忠夫さんもいました。当時、私はマス・デモクラシーの新状況をふまえて、護憲運動のアクチュアルな新しい理論化にも取り組みます。一九六二年五月、『思想』に掲載した「憲法擁護運動の理論的展望」はひろく護憲運動や憲法学に影響を与えたようです。

 また、私の一九六〇年から提起した《地域民主主義》《自治体改革》は、構造改革派が主導した一九六一年、二年のみでしたが、社会党運動方針で労働者、農民、婦人など「諸階層の戦い」の上位に、戦略として位置づけられます。これが一九六三年の統一地方選挙における飛鳥田一雄横浜市長らの立候補・当選を準備し、その後一九六七年の美濃部都知事をふくむ「革新自治体」の時代をつくりだしていきます。日本の構造改革論の国際比較におけるその特性は、この自治体改革論にあります。この〈自治体改革〉という言葉を、私はヨーロッパにおけるニュー・レフトがつかった〈構造改革〉という言葉からヒントを得て造語しました。

 日本における中進国型経済成長のあらたな始まりの時代であった一九六〇年前後の当時、旧革新系は「階級闘争」という言葉を基本用語としていました。また旧保守系でもたえず「治安問題」というかたちをとって、階級闘争という文脈には旧革新系以上に常に敏感でした。一九五〇年代のオールド・ライト岸内閣が福祉問題に関心をもったのも、一九六〇年代からの革新自治体とは発想と文脈も異なる、この治安問題の視角からでした。ヨーロッパで最初に福祉問題にとりくんだドイツ一九世紀末、ビスマルクの治安政策とおなじく、福祉政策の前期形態だったことに留意したいと思います。

 一九六〇年、オールド・ライトの岸内閣は倒れ、ニュー・ライトの池田内閣が成立します。この池田内閣によって、社会党の「護憲」(民主化)をふまえた自民党の「経済成長」(工業化)という「構造政策」の展開が、労働者階級を組みこむ「所得倍増政策」という鮮明な経済図式で始まります。たしかに、その後も個別争点での、旧保守・旧革新間の衝突は続きますが、「護憲による経済成長」、つまり《民主化・工業化》という、中進国型のマクロ図式をめぐる実質合意の成立が見られました。当時、外見はいわゆる「階級闘争」とみえた「春闘」も、事実、労働組合の幹部や青年部は「階級闘争」を言葉としてかかげていたのですが、インフレをともなう経済成長の果実再配分という循環構造のなかでの、日本型労使協調にすでに移っていました。

 そのころ、革新系でも旧来の「階級闘争」という発想どまりの「オールド・レフト」と、資本主義・社会主義の対立を超えた「一般民主主義」ないし「構造改革」をかかげる「ニュー・レフト」との分化が出発し始めていました。いわゆる「新左翼」といわれた、学生運動に始まる武闘派も別系譜でその後登場しますが、学生を広く巻き込んだにもかかわらず、これも実質オールド・レフトの変種でした。

 もちろん、自民党にはオールド・ライト結集の「青嵐会」の成立などもあり、あるいは九条を中心とする憲法改正問題、また靖国問題などが懸案として続き、しかも前述のように二〇〇〇年代には小泉・安倍首相の登場というような、市民感覚なき時代錯誤のオールド・ライト・バネがたえず働くことを、ここで確認しておくべきでしょう。

 しかし、全体としては一九六〇年代以降、旧保守系・旧革新系いずれにおいても、すでに「階級闘争」ではなく、ニュー・レフト、ニュー・ライトでは、「普遍市民政治原理」、つまり日本国憲法前文でいう「人類の普遍の原理」からの出発が、相互に「黙示」の基本合意となっていきます。この普遍市民政治原理は《護憲》というかたちでの合意として、日本にもようやく一九六〇年代から定着しはじめたのです。

 ヨーロッパでは、一九五六年、ソ連共産党での「スターリン批判」がみられますが、それ以前すでにソ連共産党からの自立をめぐって、中進国のイタリア共産党が階級対立ないし冷戦をこえる「一般民主主義」、つまり普遍市民政治原理を定式化して「構造改革」を提起していました。後進国革命の中国共産党はこの一般民主主義を理解できず、中イ共産党論争もおきます。また先進国のイギリス、アメリカでは、この一般民主主義は「普遍市民政治原理」として、すでに一七世紀からの市民革命に始まる日常合意だったことを留意しておきましょう。

 一九六〇年前後、イタリアと同じくいまだ中進国である日本のこの護憲型構造改革論は、社会党内に江田派というかたちで政治拠点をもつかのようにみえました。だが、江田派は議員もいるものの、他の派閥と異なり実質は議員派閥ではなく、わずかの社会党本部書記を中心に地方活動家を加えた、ゆるやかな、しかも少数のつながりにとどまっていました。それほど、この「構造改革」という発想は、当時タテマエとして「階級闘争」をかかげる戦前型発想の圧倒的なオールド・レフトとは異質でした。このため、党内では直ちに巻き返しを受けます。党内ニュー・レフトのおかれた位置は、戦前型発想の保守政治家が支配的だったオールド・ライトのなかで少数だった自民党のニュー・ライトの位置と同じでした。

 この社会党内の構造改革派をふくめて、ひろく日本の構造改革派はイタリア直輸入の系譜だけでなく、多様な発生源ないし理論系譜をもち、しかも相互に顔もほとんど知らない、ゆるやかな少数の理論家たちの、それこそ思考スタイルとしての総称でした。しかし、当時はまだ層として存在していた知識人層の間では、広く理論影響をもっていました。誰が中心ということもなく、全国各地でそれぞれ構造改革派を自称していた人々がいて、種々の研究会や同人雑誌、単行本、また『朝日ジャーナル』『エコノミスト』『世界』『中央公論』などのオピニオン雑誌で、個々に発言しています。全国でみても数百人どまりだったでしょう。

 オールド・レフトの共産党、また社会党系の社会主義協会はそれぞれ固い組織で動いていたのに対して、構造改革派は各人独自の新思考での模索スタイルでした。このため、構造改革派についての歴史は書けません。どこをモデルとするかによって、構造改革派についての位置づけ・意義づけが変ってしまうからです。

 日本の構造改革論は、階級闘争の「教条」を批判しながら、当時の経済高成長ないしエネルギー改革にともなう産業構造転換をめぐって、石炭問題など現実の様々な「政策・制度」の転換に関わっていきます。とくに、ヨーロッパの構造改革の発想にくらべるとき、日本の発想は護憲というかたちをとった「一般民主主義論」を一歩進めて、「自治体改革」をその実現の起点におく考え方を推し進めていたというその特性に、今日から見て、注意すべきでしょう。

 その成果が、当初は想像もされなかったのですが、一九六三年の統一自治体選挙からはじまり、一九七〇年代までつづく、「政権交替なき政策転換」として、国政をも変えはじめる「革新自治体」の時代をつくり出していきます。当時の市の三分の一、東京をはじめ大都市県のいくつかで、革新首長の登場となりました。この革新自治体は、オールド・レフトの社会党、共産党が当時理解できていない首長制自治体をふまえた、都市型社会固有の、また始まったばかりの、市民活動を背景としています。ついで、一九七七年当選の長洲一二神奈川県知事による「地方の時代」の呼びかけへとつなげていきます。この長洲一二知事も、当時、ニュー・レフトの構造改革派における主要理論家でした。

 革新自治体について詳しくは、『資料・革新自治体』(正・一九九〇年、続・一九九八年、日本評論社)が、その実績である日本の当時の政策・制度改革を資料集として整理しています。また、一時、構造改革派が主流をなした社会党機関紙局では、資料集として一九六四年から『国民自治年鑑』を、一九六二年からの『国民政治年鑑』とともに刊行しはじめたことによっても、日本の構造改革論の特性をなした「自治体改革」の位置を理解できるでしょう。


三 《党近代化》の推進力に

 江田三郎さんは、たしかに「江田ムード氏」と呼ばれたように、一九六〇年代以降、「新憲法感覚」、今日でいう市民感覚をともなう、日本のマス・デモクラシー状況に対応できた日本最初の政治家でした。しかし、党外からの幅広い支持を得れば得るほど、新しい政治状況であるマス・デモクラシーの成立を理解できない、戦前体質をもつ党内のオールド・レフト系の諸派閥、とくに一九世紀後進国ドイツのカウツキーをモデルとする理論正統派だった「社会主義協会」からは批判されるという位置に立たされていきます。

 また社会党は「労組依存」と言われていたように、公務員や大企業の労働組合が中心だったのですが、社会党の党員協議会が労働組合幹部を握るため、かえって社会党は組合にひきまわされがちでした。だが、当時、労働組合といっても、官公労、大企業といった労働者層の上層三分の一、つまり三〇%しか、その組織力をもたなかったのです(二〇〇〇年代には二〇%に低下)。加えて当時の日本の地域は、まだ都市・農村を問わず農村型社会のムラ状況だったので、党の地域支部はほとんど定着していない。このため、社会党議員は票を集中できる国会には議席数三分の一を占めたものの、県、ついで市町村の議会では票が順次分散するので、ほとんど数人ないしゼロとならざるを得なかったのです。

 これが、社会党が戦後五〇年、政権に近づけず、民主党の成立とあいまって、二〇〇〇年代には失速する理由です。このように労組依存で地域に基盤のない組織実態のため、社会党は最盛期の一九六〇年代でも足のない「幽霊政党」、またマスコミの論調、つまり風のまにまに動く「帆かけ舟」と、小型ながらも地域細胞にはじまる党の統制力というエンジンをもつ「発動機船」の共産党と対比で、言われていました。詳しくは拙著『戦後政党の発想と文脈』(二〇〇四年、東京大学出版会)に、一九六〇年前後に書いた私の政党分析論文をまとめていますので参照ください。

 以上の党組織の問題点が、一九六〇年の安保国民運動の前後、社会党自体の課題として、少数にとどまりますが党内でも認識されはじめ、党改革が改革派書記、さらに次に述べるように江田さん自体の課題として重くのしかかってくることになります。日本のマス・デモクラシー化にともない、新しくいわば「党経営」という課題が、戦前と異なり、日本の政党の課題となってきたのです。


(一)党近代化のための委員会設置
 一九六〇年前後は、日本が経済高成期に入り始めて、二〇〇〇年間続く〈農村型社会〉のムラが崩れ始めるとともに、「大衆社会」つまり〈都市型社会〉にはいる予感のなかにいました。ここから、自民党は岸信介中心、社会党は江田三郎中心に、委員会方式による、いわゆる《党近代化》の模索が始まります。たしかに社会党内の人材としては江田さんしかいなかったように思われます。一九五八年、江田さんは社会党の組織委員長になり、機構改革特別委員会を主宰しますが、ついで組織局長に就きます。省庁外郭の「業界団体」依存の自民党、また「労働組合」依存の社会党の双方とも、市町村からの党地域支部強化が当時緊急の組織課題と考えられていました。

 農村型社会の崩壊、都市型社会への移行にともなうこの党近代化という課題は、一九世紀末から、イギリス、アメリカについてオストロゴルスキー、またドイツではミヘルズがすでに古典のかたちで分析しています。マス・デモクラシーの成立にともなう、「地域」からの《大衆・組織政党》化、つまり農村型社会におけるムラ寄合型からの脱却は、日本も含めて、都市型社会における現代政治の普遍課題になります。

 だが、この地域党支部強化には、二〇〇〇年代でも、自民党、民主党いずれも未熟にとどまります。このため、政権党である自民党は集票のため、ケインズ経済学を教条化しながら、省庁官僚の省益と業界団体からの圧力とを結びつけ、県、市町村への国富のバラマキを続けました。ついに二〇〇〇年代にはこのバラマキというムダづかいによって、国・自治体ともに財政破綻状況に陥ります。EU加入条件は国・自治体の政府借金がGDPの六〇%以内なのにたいして、日本は一五〇%を超えているのですから、敗戦国なみの政府破産状態に陥ってしまったわけです。しかも、小泉内閣以降、このバラマキの終わりが自民党の終わりを予測させます。日本の財政破綻の背景を、この政治における党組織実態からも検討する必要があるでしょう。


(二)「社会文化会館」の建設
 当時、社会党の本部は、現在社民党本部となっている「社会文化会館」の近くの、戦時中空襲で焼けたが崩れなかった小さなオンボロビルでした。党近代化を目指すには党本部の建設が緊急課題となっていました。当然ながら、党本部は単なるハコモノではなく、党活動のあり方こそがそこで問われます。

 この問題は自民党も同型で、日本政治の中進国性を示します。長く自民党本部職員だった奥島貞雄さんによれば、「一九六六年に自由民主党会館ができるが、職員服務をめぐっては就業規則、給与体系、勤務時間などの『明文規定』がなく、まさに“大福帳的な”組織であった。職員の側からすれば“臨時日雇い”のようなもので腰掛け的な気持ちでいる者も少なくなかった。否、むしろそれが普通であった」そうです。田中角栄幹事長(一九六五〜一九六六年)がはじめて人事局長に自民党事務局規程を、今も残るかたちで作らせたという(『自民党幹事長室の三〇年』二〇〇二年、中央公論新社、一九頁)。

 組織内事情は社会党も同型でしたが、(一)で述べた〈党近代化〉をめざした新書記の公募・拡大とあいまって、前述の党改革を推進することになります。特記すべきは、社会文化会館に当時最新の写植印刷技術を導入し、資料室や文化ホールの整備が進められたことです。だが、社会党における幹部党員追い出しのくり返しにともなう、その衰退とともに、これらの試行は身につかず、いずれも終わっていったようです。

 たしかに加藤宣幸さんが責任者となっておしすすめた機関紙印刷の開始は、一時、社会党に新しい活力を与えました。また党活動に不可欠の大系性をもつ情報整理としての、前述した『国民政治年鑑』、『国民自治年鑑』の刊行も、機関誌局で始められていました。

 しかし、この一九六四年にできる社会文化会館の建設には、党員、労組からの出資・寄金などだけでなく、社会党に親近性をもつ財界人からの寄付も集めたため、江田さんは「独占資本の手先」に堕したと党大会で公然と批判されます。その頃の社会党の理論水準・文化熟度は、そのように低劣でした。それゆえ、社会文化会館を使いこなす力量すらも、社会党はもっていなかったと言ってよいでしょう。


(三)テレビ討論の開始
 江田さんは一九五九、六〇年の安保デモではいつも先頭に立っていました。だが、当時、旧保守・旧革新双方の政治家に見られたイデオロギー信仰とは異質の人でした。弁説は闊達、体躯にも威信が満ち、また白髪と笑顔もあって、ようやくその頃大衆メディアとなり始めてきたテレビや週刊誌にが大きく登場します。

 政治家がマス・メディアに大きく映像として現れたのは、江田さんが最初だったようです。その頃、牛乳は過剰生産だったため、江田さんは水のかわりに牛乳を衆議院の本会議演壇にもちこんで飲み、牛乳の消費拡大にともなう農業と都市との連携を訴えました。この演出も絵になっていました。

 貴島正道さんの発案のようですが、アメリカのテレビをモデルに、テレビ政治討論を日本でもおこなおうということになります。池田勇人首相は「ディスインテリ」と評されたほど口が重いため渋っていましたが、遂にNHKでテレビ党主討論が始まります。テレビ政治の幕明けを江田さんは切りひらきました。しかし、江田さんのひろい人気は、政治を「科学」、とくに「科学的社会主義」という考え方でとらえる当時の革新系知識人たちからは、「大衆仰向」と批判されます。パイオニアの宿命でした。


(四)研究所の設置
 また、政治活動には、今日、シンクタンクが作られるように、ミクロ・マクロの政治・行政、経済・文化の情報は不可欠です。有名になったいわゆる「江田ビジョン」は江田さんの早トチリだったと私は思いますが、交友範囲が広いため、いつも先見の明を持っていた江田さんは、先進国政治に入っていくべき日本の長期展望をめぐって、会員制の「現代総合研究集団」を作りました。責任者には『ジャパン・タイムス』の出色の記者で、その後、法政大学、一橋大学などで「国際政治学」の教授を歴任した山本満さんを迎えました。彼は適任でした。

 現代総合研究集団は、その所在が改装前で焼け残った戦前ビルの古い小さな一室だったのですが、銀座の歴史ある交詢社ビルのため、立派なビルをもつ官公労や大企業の労組党員から、「ブルジョア化」という批判を江田さんは受けていきました。このような社会党の実態のため、社会党は沈没すべくして沈没したといえます。


四 新政治状況の造出めざす

 私は一九七〇年代には、国レベルよりも自治体レベルに仕事を移し、次第に江田さん、ないし社会党とは疎遠になっていきます。一〇年ほど前、寄り道して江田さんの墓をたずねました。岡山県特有のゆったりした大きな川のほとりの寺に、江田三郎さんは眠っていました。江田さんらしい、清潔感のある墓でした。

 岡山には、江田さんに連れられて何度も伺っています。戦前からの篤農家が農業塾を開いていて、若い青年に岡山名産のブドウやモモなどの栽培について、山の傾斜、霧の出方から説明しているのを、感動をもって聞いたことを覚えています。農民運動出身の江田さん自身も、植物に詳しく、話題が豊富でした。また江田さんは、農家に立ち寄ると歓待されるが、塩辛い漬物がお茶ウケとして出されて困ると話されていました。当時まだ常識とはなっていなかったのだが、農民や政治家が体をこわす一つの理由を、それとなく言われたように思ったものです。

 社会党は、平和・基地問題などを別として、「労組依存」体質のため、その政策は「賃上げ+合理化反対+企業内福祉」という労組型に実質は傾斜していました。このため、一九六〇年代、日本の都市型社会への移行にともない、公害など地域課題をとりあげる《市民活動》との即応、とくに私のいう市民「すべて」の《シビル・ミニマム》(憲法二五条)をめぐる政策・制度整備、さらに《自治体改革》という、都市型社会の新しい政策課題に対応できなくなっていました。

 都市型社会における「労働組合から市民活動へ」というマクロの流れを、社会党はつかみきれていなかったのです。これでは、自民党の政官業癒着、とくに革新自治体のシビル・ミニマム計画に対抗した田中内閣の『日本列島改造論』以来、ナリモノいりの国→県→市町村への国富タレナガシにも対決できなかったのは当然でした。二〇〇〇年代では、このタレナガシの持続・拡大のため、国、自治体レベルともに、政治家の未熟、官僚行政の劣化とあいまって、破産状態となってしまいます。

 市民活動からは、六十年代すでに、官公労をふくむ労働組合は〈企業組合〉として批判され、「労働者階級」についての〈革命幻想〉も消滅します。戦後一時、「昔陸軍、今総評」と言われるほどの威信をもった公務・大企業の企業労働組合の「勢ぞろい」だった「総評」は、ここから急速に失速し、この失速はまた「労組依存」の社会党の低落につながります。公務・大企業労働組合の組織票自体が底ヌケとなっていったのです。その後、この「労組」票と異なる「新憲法」票も、無党派票として、新たに社会党から流出しはじめます。江田さんの一九七〇年代以降のたたかいは、社会党の衰退を予測する危機感からきていたと私はみています。すでに前掲拙著にまとめた一九六〇年前後の諸論文で述べている社会党の問題点を、私ははやくから江田さんとの議論でたえず取り上げていました。

 江田さんの晩年は、農村型社会と異なる新しい戦略課題をもった「都市型社会」における、新政治の《造出》をめざしていました。一九七七年、時代錯誤となった社会党を出た江田さんが組織に名付けた、「社会市民連合」という今日性をもつ名称は、その問題意識の先駆性を示していますが、江田さんは倒れられることになってしまいました。その江田さんの好きな言葉は「もともと地上に道はない みんなが歩けば道になる」でした。


松下 圭一 (まつした・けいいち)
1929年福井県生まれ。法政大学名誉教授。専門は政治学、都市政策、自治体分権論。江田三郎の構造改革論や地方自治論に影響を与えた。元日本政治学会理事長。元日本公共政策学会会長。著書に『 シビルミニマムの思想』 『現代政治・発想と回想』ほか多数。


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