政治家の人間力 第三部 戦後政治における江田三郎 ホーム目次前へ次へ

グローバリズムを超える世界像を  北沢方邦

(北沢方邦氏の手紙)

江田三郎さんへ

ことしの二月、参議院の江田五月事務所に呼ばれて、以前、江田三郎さんと歩もうとした政治運動について詳しく話してほしいといわれました。当時の社会党幹部や江田ブレーン、若い三人の政治学者や歴史学者も同席して、江田さんが日本社会党を出て新党運動に立ち上がった前後から亡くなるまで、私自身が江田さんのブレーンとして係わったことに強い関心を抱かれていろいろ質問を受けました。
江田さんの死後、政治的には新保守主義、経済的には新自由主義が世界を制覇し、世界も日本も状況を一変しました。資源と市場の激烈な争奪戦争であるこのグローバリズムのさなかで過去を回想することは、むしろきわめて意義のあることと思います。なぜなら、社会的平等と公正を市場経済と調和させ、新しい革新政治の潮流を作ろうと社会党に訣別し、新党を結成した六九歳の江田さんの情熱と信念はいまこそ貴重なものだからです。
ベルリンの壁が崩壊し、ソ連が消滅し、中国が資本主義経済に転換し、グローバリズム制覇の世界的障壁がなくなるとともに、それに真っ向から挑戦するイスラーム原理主義が台頭し、衝撃的な9・11事件が起こり、アメリカはアフガニスタンとイラクに武力介入し、いまも戦闘は泥沼状態で、多くの民間人を含む犠牲者が絶えないのです。パレスチナやレバノンをめぐるアラブとイスラエルの対立と葛藤は収拾の見とおしさえ立ちません。
こうした政治状況に加え、グローバリズムの当然の帰結として、大量の二酸化炭素ガス排出による地球温暖化は、もはや自然の限界を超える危機的状況となっています。グローバリズムに乗って急激な高度成長をはじめたBRICs諸国、とりわけ中国とブラジルが資源争奪戦争の最前線に参加し、国内の環境破壊と熱帯雨林の消滅にかかわっています。この資源と市場の争奪戦争を終わらせない限り人類の未来はありません。
わが国では福田ドクトリンに代表されるように、アジアとの連携によってアメリカ/EU/日本の三極による覇権の均衡を図ろうとした保守本流路線は完全に破棄され、アメリカのグローバリズム覇権戦略に乗り、日米同盟の強化に走った「小泉改革」で状況は激変しました。国内の所得格差、都市と地方の経済格差は拡大し、人心の荒廃や犯罪の激増はとめどもなく、憲法第九条の限りない「解釈改憲」によって自衛隊は戦力となり、国連決議さえないイラク戦争に派遣され、いまやアメリカとの軍事同盟を意味する「集団自衛権」の行使に踏み込もうとしています。
だがいわゆる護憲勢力は、改憲については危機意識があるにもかかわらず、憲法第九条が、戦力や軍事同盟化を蔽うイチジクの葉となっている現状になんの危機意識ももちません。ある知識人にいたっては、憲法第九条を世界遺産に登録しようなどとたわごとをいい、こうした知的頽廃には目を蔽いたくなります。旧社会党の議員のかなりが参加した民主党も、むしろ若手には改憲派や新保守主義者が多く、憲法問題や安全保障問題、あるいは環境問題について明確な政策さえ打ち出せない始末です。
まさに江田三郎さんの最期には想像もできなかった政界の姿です。
私が初めて江田三郎という政治家の姿をみたのは、六〇年安保闘争の最後の高揚のなかでした。一九六〇年六月二十日午前0時に改訂日米安保条約が自然成立する前夜、全学連主流派がふたたび国会に突入するとのうわさが飛び交っていた夕方、江田さんは社会党の宣伝車の屋根に乗り、投光器のまばゆい照明を浴びながら全学連主流派をはじめとするデモ隊向けて演説を始めました。
白髪ながら長身の凛とした姿勢で、「私は社会党書記長の江田三郎です」と静かに語りかけると、はじめはヤジを飛ばしていた全学連もしだいに静まり、故樺美智子さんの肖像が掲げられ、無数の花束が捧げられた国会南門の前をを埋め尽くしたデモ隊は、江田さんの話に聞き入りました。
「いま、国会の赤絨毯に縦横に消防のホースが敷かれています。全学連の諸君が国会に突入するかもしれない、議事堂が放火されるかもしれないための準備です。もしそのような事態となれば、岸首相は練馬の自衛隊に出動を要請するはずです。そうなれば社会は大混乱となり、戒厳令に準じた非常事態となってしまいます。どうか学生諸君、軽挙妄動を謹んでほしい。確かに安保条約は自然成立するかも知れないが、これから先が勝負なのです。次の総選挙でぜひ自民党政権を倒そうではありませんか・・・」といったきわめて説得的な内容で、最後は全学連のなかからも拍手が起こるほどでした。
その風貌といい、語り口といい、整然とした論理といい、これはすばらしい政治家が出現したものだ。彼が社会党の委員長となれば、飛躍的な票を集めることになるだろう、という予感に心躍ったことを思いだします。
 一九六〇年代の後半に私が紹介したフランスの構造主義は、マルクス主義を超える思想として一時期大変なブームとなり、とりわけ若い世代を引きつけました。日大闘争にはじまり、東大医学部紛争で火がついた大学闘争がいわゆる全共闘運動として全国にひろがり、共産党系の民青など旧左翼に対抗する思想がそこに求められ、私は彼らに呼ばれて各大学を走りまわりました。
構造主義とは、当時フランスで人類学者のクロード・レヴィ = ストロースや精神分析学者のジャーク・ラカンなどが唱えた新しい科学方法論であると同時に思想であって、すべての事物は記号とその集合である構造から成り立つとするものです。たとえば言語記号は音声とその意味から成立していますが、それが構文(シンタックス)という構造によってはじめて意味の伝達が可能となります。つまり音声という物質的・身体的なものと、意味という概念的・精神的なものとは不可分であり、それが構造によって統合されているということです。言語や人間に関する事象だけではなく、数学が典型であるように、人間の認識するものは自然科学も含め、すべてこのようなものであるとして、近代科学の基底にあった主観・客観のデカルト的二元論を根底からくつがえす画期的な思想といえました。
しかし、燎原の火の如く燃え盛った全共闘運動も、一九六九年一月十八日、東大安田講堂の機動隊との攻防を頂点として終焉を告げ、過激化、暴力化した一部のグループを除いて下火となり、華やかに立ち並んでいたサイケデリックな立看板もろともキャンパスから姿を消しました。
しかし一九七〇年はまだその余波のなかにあり、六〇年安保の自動延長に反対する学生や一般市民のデモは、当時の新聞によると東京だけでも七・八万という空前の数となり、それを評価する江田さんの談話が掲載され、ああ、彼も全共闘運動を評価していたのだという共感を覚えました。
 その年はまた、浅沼稲次郎社会党委員長暗殺の一〇周年であり、日比谷公園にその記念碑を建てようという運動が、のちにオリジン出版センターの社長となった武内辰郎氏の発案で起こり、武内氏とともに私が中心となって当時の美濃部都知事に会ったり、当時の社会党の江田書記長とも会食し、援助を要請しました(江田さんの助力にもかかわらず、記念碑は設立できず、日比谷公会堂二階ロビーの浅沼肖像のレリーフとなりましたが)。構造主義についても深い関心のある江田さんが、政治家には稀な知識人であることを改めて感じるとともに、「今後政策についてもいろいろ知恵を貸してください」という要請に喜んで答えることにしました。
当時江田さんは、社会党内で構造改革派とよばれるグループの領袖に祭りあげられていて、マルクス・レーニン主義を信奉する主流派からきびしく批判され、結局は委員長に推されることはもとより、党内の主導権をとることもできず、そのため私にブレーンとなってくれという要請も宙に浮いたままとなりました。。
他方一九七〇年頃、公明党から長洲一二・横浜国大教授を座長とするブレーン集団を作りたいから協力してほしい、と私に要請があり、引きうけることになりました。当時公明党はきわめて柔軟な政治姿勢をとり、しだいに労働組合政党化していく社会党よりも新鮮な革新的政策を打ちたてようとしていました。
その数年後、同じ公明党の矢野絢也書記長に招かれ、江田さんからもぜひあなたに参加してほしいといわれたので、という前置きで、矢野・江田と民社党副委員長(当時)の佐々木良作三氏が主導する社公民連合政権構想と、その実務を担う「新しい日本を考える会」に、ブレーンとして加わることになりました(長洲一二氏はすでに神奈川県知事に転身していましたので、その代わりということでしょう)。
三氏だけではなく、われわれにとっての合意は、政党の離合集散によるたんなる連立政権ではなく、本格的で長期的政策ヴィジョンにもとづく、自民党長期政権に代わる連立政権をつくるということであり、そのために多忙な三氏を含むブレーン集団がたびたび熱海や箱根で合宿し、構想を練ることになりました。
江田さんの卓越した先見性は、三つの点で示されていました。すなわち、1)当時すでに有権者の二〇パーセントを占めるにいたっていた無党派層に訴える市民的路線と政策。2)新エネルギー開発と農林漁業を含む第一次産業再開発、それに関連する環境政策の確立。3)高度成長型産業構造全体の転換です。とりわけ2)の問題に関しては、農民運動出身の江田さんらしく、一家言をもっていました。われわれはそれに応えて、自然エネルギーにもとづく堆肥プラントなどを共有して有機農法をおこなうコミュニティ創設などを提唱しました。こうした政策はいまなお、というよりもいまこそ必要です。
それはともかく、その渦中の一九七六年十二月六日の第三四回総選挙で、江田さんが落選するという事件が起こりました。
すでに「新しい日本を考える会」の設立によって社会党内で決定的に孤立していた江田さんが、この落選によって党内での政治生命を断たれるだけではなく、社会党にとどまる限り政治家としての道も閉ざされるという危機意識で、佐々木さん、矢野さんとともに今後の江田さんの身の処し方を長時間に渡って話し合いました。その結果、江田さんは社会党を離党し、無党派層や社会党に失望している市民層を糾合して新党を立ち上げ、その党首になるべきだという私の提案に全員が賛成しました。
浅草のある料亭で「落選した江田さんを励ます会」と称して、江田・佐々木・矢野・佐藤(昇)そして私の五人が集まり、私が口火を切って社会党離党の進言をしました。江田さんは真っ赤になって「君は社会党の歴史もぼくのキャリアも知らないからそんな無責任なことをいう」と怒り、他の三人がなだめに入ってやっと怒りが収まるしまつでした。他の三人も説得に加わった結果、やがて江田さんもその可能性を真剣に考えはじめたようにみえました。無党派層や社会党に失望している市民層に訴えるためには、いわゆる江田派をひきつれて離党するのではなく、あくまで江田さん一人で出てください、江田さん一人が新しい政治や政策のシンボルになればいいのです、とさらに私は進言しました。
数ヶ月後、側近や、社会党を離れ、反公害運動に専心していた市民運動家の仲井富氏などと話し合った末、江田さんは社会党離党と、のちに「社会市民連合」と名乗ることになる新党立ち上げを決意し、それは瞬く間に新聞やテレビのトップニュースとして全国を駆け巡ることになりました。
江田さんは一九七七年七月の参議院議員選挙に「社会市民連合」代表として全国区(当時)から立候補することになり、「新しい日本を考える会」は、江田さんの離党と立候補に猛反対する松前重義氏とそのブレーンとわれわれとの深刻な対立によって空中分解することになりました。
市民運動家であった菅直人氏を東京地方区(当時)に擁立することも決まり、京都・神奈川での候補者擁立に私も奔走しましたが、結局決まらず、最後に責任上私が静岡地方区で、公明党・民社党の推薦をえるために無所属で立候補することになりました(二十万票弱で落選しましたが)。応援演説に江田さんが来る予定でしたが、病気入院との電話があり、その数週間後、遊説中の浜松のホテルで江田さんの悲報を聴き、その死とともに江田首班の連合政権構想が音を立てて崩壊するのを感じました。
江田さんの雄大な構想を生かせなかったその後の「社会市民連合」(のちの社会民主連合)の歩みもありますが、冒頭で述べたように、その後の世界的な新保守主義・新自由主義およびその経済的グローバリズムの制覇のまえに、いわゆる革新勢力は見る影もなく衰退していかざるをえなかったのです。なぜならそれは、戦後民主主義や労働組合的既得権益を守るのに汲々とし、グローバリズムに代わる新しい文明像や世界像をまったく提示することができなかったからです。
この点で、高度成長期のあとを見据えていた江田三郎の卓越した構想力を、いまこそわれわれは学ばなくてはなりません。いま江田三郎が生きていたとしたら、なにを考え、なにを提唱したのでしょうか。
おそらく彼はわれわれを再び召集し、グローバリズムに代わる長期政策や環境政策の検討を依頼したことでしょう。それは恐らく次ぎのようなヴィジョンとなったことと思います。
すなわち、まず熾烈な資源と市場の争奪戦争であるグーロバリズムを終わらせないかぎり人類の未来はないとして、その終焉のための提言です。たとえば環境税です。法人税を国際並みに下げても、たんなる炭素税ではなく、産業廃棄物やリサイクル率などを含めたきびしい環境税を企業に課し、産業構造の転換を計らなくてはなりません。一国のみでは効果はないため、国際連携が必要ですが、そのためにグローバリズム推進機構でしかないWTOや世界銀行、IMFなどを改組し、たとえばWTOはWFTOつまり世界フェアトレード機構とすることが必要です。それは同時にグローバリズムによって拡大した南北格差の是正となります。
それと連動するのは環境問題です。十年前まではまだ地球温暖化が人間による二酸化炭素ガスの排出であることを疑う研究者もいましたが、いまはだれもいません。それどころか、十年前には誇張と批判された十年後の気象データの推計も、現実はそれを上回っています。それに食料によってバイオエタノールを生産するというばかげた政策のおかげで食料価格が高騰し、ブラジルをはじめ多くの国で熱帯雨林の破壊による農地拡大がおこなわれています。いまこの瞬間にも、政府規制をものともせず、重武装した農地マフィアの手で、フットボール場200に相当する熱帯雨林が毎日消滅しているのです。ナイジェリアのニジェール・デルタでは石油資源をめぐってゆたかなマングローヴ林が次々と消失し、また警備陣や国軍と環境保護のニジェール・デルタ解放運動とのあいだに銃撃戦が絶えず、犠牲者が増大しています。この血塗られた資源争奪戦争を一刻も早く終わらせなくてはなりません。もはや事態は、京都議定書の段階をはるかに過ぎているのです。そのためには強力な国際機関WEO(世界環境機構)の創設と、それによるきびしいガイドラインの設定とその実施が必要です。
これらは一例にすぎません。ただ世界は、フランス大統領選でのニコラ・サルコジ氏の当選にみられるように、まだグローバリズム推進の白昼夢に酔っているようにみえます(社会党のセガレーヌ・ロワイヤル氏が勝利したろころで、衰退的な現状維持しかもたらされないでしょう)。ましてわが国では政治は、経済的格差是正(もちろんそれも重要ですが)といった当面の問題にしか関心がないようにみえます。
恐らくこうした政治状況のなかでは、江田さんは再び孤立せざるをえないでしょう。そして歴史の問題としても、江田さんはたんに社会党離党、社会市民連合の創設者として記録されるだけで、忘れられた予言者として記憶のはるかかなたに孤影を印すにとどまるでしょう。これが現実なのです。


北沢 方邦 (きたざわ・まさくに)
1929年静岡県生まれ。専門は構造人類学、科学認識論。桐朋学園大学教授、信州大学教授、神戸芸術工科大学院教授を経て。現在信州大学名誉教授。江田三郎が社公民連合政権構想を主唱した前後のブレーン。著書に『構造主義』『 脱近代へ』『風と航跡』ほか多数。


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