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歴史的転換への模索の時代を生きて  正村公宏

歴史的転換への模索の時代を生きて(仮題)
正村公宏

最初にお会いしたころのこと

私が、先輩の研究者に誘われて、はじめて江田三郎さんにお会いしたのは、一九六〇年代のなかばであったと思います。場所は、銀座の交詢社ビルの江田さんの事務所です。当時の交詢社ビルは、昭和初年に建設された鉄筋コンクリートの重厚な建物でした。暗い階段と廊下の向こうに、やはりあまり明るいとはいえない小さな部屋がありました。
この部屋は、のちに現代総合研究集団(現代総研)という研究団体が江田さんからお借りすることになり、私は、一九七五年から二〇〇二年まで、その現代総研と深くかかわることになりました。もちろん、江田さんにお会いしたときの私は、そんなことはまったく予想していませんでした。
三〇代なかばの私は、すこし固くなって初対面のご挨拶をしましたが、白髪の江田さんの風貌はテレビで拝見していましたので、旧知の人と会っているような気がしていました。江田さんはまもなく六〇歳になられる時期であったかと思います。「いまの社会党では社会主義は立ち枯れていきおる」とおっしゃったのが、記憶に残りました。
私は、迂闊なことに、江田さんが、第二次世界大戦前の困難な時代に、一橋大学を中退して農民運動や無産政党の活動に参加し、弾圧を受け、たいへんな苦労をなさったというご経歴を、かなりあとになって知りました。
私自身は、二〇代に深刻な挫折を経験しましたが、三〇代後半からは、機会を与えられてコツコツとモノを書きつづけることができた人間です。そいう私から見て、江田さんが想像もできない大きさの人間であったことを、いまはつくづく考えさせられています。
初対面から二〜三年後であったかと思われますが、江田さんから、倉敷に来てくれないか、という思いがけないお招きをいただきました。
一九六八年に出版された『現代日本経済論』(日本評論社)という私の本の書評を『朝日ジャーナル』という週刊雑誌で読んだNHKのディレクターに誘われて、私は、ラジオのある講座を担当しました。それがきっかけとなって、私は、一九六九年に『経済思想の革新』という本を書き下ろしました(日本放送出版協会のNHKブックス)。
私は、江田さんのような忙しいかたに読んでいただけるとは思ってもいませんでしたので、お贈りしなかったのですが、多分、『朝日新聞』に掲載された書評に目を止め、取り寄せて読んでくださったのではないかと思います。「あの本に書いたことを自分の選挙区の支持者たちに話してほしい」というのが、お誘いの趣旨でした。
山陽新幹線が開業(一九七五年)するまえでしたから、東京駅で夜行寝台特急に乗り、翌朝に岡山駅に着きました。資本主義か社会主義かというこれまでの体制観を変え、歴史観を再構築し、社会運動の原理を見なおさなければならない、というようなことを、与えられた一時間のあいだに説いのですが、江田さんは相当に不満であったらしく、私が話し終わると、『経済思想の革新』を手に持って立ち上がり、「正村さんは、この本のなかで、もっといいことをたくさん書いている。ぜひ読んでください」といわれました。
私は、要点をわかりやすく話す準備が不足していたことを反省させられましたが、同時に、私の模索的な文章を、江田さんが、つぎの時代を考える地図のようなものとして、きわめて的確に読み取ってくださっていることを、知りました。
好奇心の旺盛な私は、江田さんのご紹介を得て水島の工業地帯を見学させていただき、夕方は江田さんのご自宅で手作りのアユのたたきをご馳走になりました。
その後も、急に呼ばれて経済政策について意見を求められたり、いわゆる江田派の集まりで話をさせられたりしました。たいてい私が話し、江田さんはときどき質問をはさむ程度でしたが、理解の速さは抜群でした。こまかい理屈でなく問題の骨格を把握するタイプで、手ごたえの確かな話し相手でした。私は酒が飲めないのでいっしょに酒を飲んで話をするということはありませんでしたし、政治活動をともにしたわけではありませんので、深いおつきあいであったとはとてもいえませんが、多くの言葉を必要とせずに通じ合える同志として、尊敬というよりも親愛と信頼の感情をずっと抱いていました。

いわゆる江田ビジョンが提起したもの

一九八五年に出版された私の『戦後史』(筑摩書房)を読み返してみますと、江田三郎さんのお名前が最初に出てくるのは一九六〇年です。同年三月、社会党の臨時党大会で、浅沼稲次郎さんが委員長に、江田三郎さんが書記長に選出されました。
当時、岸信介内閣による日米安保条約改定に反対する運動が起きていました。一九六〇年六月一五日には、全学連主流派が国会構内に突入して警官隊と衝突し、東大生の樺美智子さんが死亡する事件が起きました。改定安保条約は参議院の議決を経ることなく六月一九日に自然成立し、七月一九日には岸内閣に代わって池田勇人内閣が成立しました。
同年一〇月一二日、日比谷公会堂で開催されたNHKによる三党(自由民主党、社会党、社会民主党)党首の立会演説会の壇上で、社会党委員長の浅沼稲次郎氏が一七歳の右翼の少年に刺殺されました。翌一三日に開かれた社会党の臨時党大会で、江田さんが委員長代行に任命されました。この大会で、江田さんは、「一挙に社会主義を目指すという旧来の戦略ではなく、部分的改革を積み重ねて資本主義の土台をつくりかえ、社会主義への条件をつくりあげる」という考え方を織り込んだ総選挙の指針を提案し、採択されました。これは、事実上、いわゆる構造改革の提案であったと理解されています。
江田さんは、このあと党内外の同志の人々と協力して、社会主義運動の新しい展望をあきらかにするためにたいへんなエネルギーを傾注されました。一九六二年七月には、栃木県の日光で開かれた社会党の全国活動者会議で「社会主義の未来像」(いわゆる江田ビジョン)が発表されました。その基本的内容は、同年一〇月の週刊雑誌『エコノミスト』への江田さんの寄稿によって広く知られるようになりました。
江田さんは、横浜国立大学の教授であった長洲一二さんの「社会主義とは人間の可能性を未来に向かって開花させることだ」という言葉を引用しておられます。江田さんによると、現実の社会主義運動は、そうした本来の意図を忘れ、組織の拡大を自己目的のように追求したり、後進国型革命であるソ連や中国の経験を日本に適用しようとしたり、「一段階革命か二段階革命か」とか「国民政党か階級政党か」とかいった国民の感覚から遊離した「綱領論争」あるいは「戦略戦術論争」にふけったりしている、というのです。
江田さんは、そうした状態を克服し、国民の多様な自主的運動の発展を社会主義の水路に導く必要がある、と主張し、人類がこれまでのたたかいを通じて獲得した幾つかの「成果」を日本の国民のものとすることを課題としなければならないと述べ、アメリカの高い生産力と生活水準、ソ連の社会保障、イギリスの議会制民主主義、日本の平和憲法を列挙しておられます。日本の現実を見ると、工場には世界水準の最新の機械が据え付けられているが、交通事故は急増し、水害が多発し、住宅条件がひどい、高められつつある生産力を適切に管理し、労働者の権利を守り、社会保障の充実をはかることによって、国民生活の向上をはかることは、十分に可能である、というのが、江田さんの主張でした。
私は、前記の『戦後史』のなかで、江田さんの主張を紹介し、つぎのように書きました。
「江田の問題提起は、旧来の「資本主義か社会主義か」といった図式的体制論をはるかに越えており、一般国民に理解されやすい表現で、当面の目標を示していた。江田ビジョンが指摘した社会的アンバランスは、高度経済成長が生み出しつつあった新しい社会的・政治的問題であった。江田ビジョンは、そうした新しい問題を、古い革命主義的な社会主義論によってではなく、すでに実現されつつある日本経済の高い生産力を適切に活用するための社会的制御によって解決するという方法を示唆したのであった。」
しかし、同年一一月の社会党大会では、江田ビジョンを攻撃する議論が沸騰し、「党の指導体制強化の決議」と題する江田ビジョン反対の決議案が可決されてしまいました。江田さんは書記長を辞任し、役員選挙でも書記長への立候補を辞退しました。
江田ビジョンは、それが批判の対象としていた社会党の旧態依然たる「綱領論争」の次元で問題にされ、硬直したマルクス主義イデオロギーにとらわれた勢力による集中攻撃を浴びせられました。社会党は、大戦前後を貫く日本の社会主義運動の苦難に満ちた体験を通じて鍛えあげられた江田三郎という貴重な指導的人材を、有効に活用することができませんでした。その結果として、野党第一党の社会党が自滅への道をたどることになり、日本の針路を変えるために政治を機能させることが不可能になったのです。

模索の時代としての一九七〇年代

当時の日本は大きな転換の時代を迎えていました。
日本は一九七〇年代に人口一人あたりの所得に関してヨーロッパ主要国と肩を並べるようになりましたが、同時に公害によって多くの人間が殺害されるなど深刻な社会問題が話題にされるようになりました。生産と所得の水準が高くなっただけ、ヨーロッパの社会民主主義勢力が築き上げた福祉国家と比較して日本の社会保障や社会福祉が貧弱であることもいっそう明らかになりました。国民的目標(ナショナル・ゴール、国民が共有する目標)を見なおし、経済成長を優先する後発工業国型の制度体系をつくりかえ、成熟した先進社会の基礎条件を構築することが、課題とされなければならない時代が到来したのです。
一九七〇年代になると、政治の分野でも幾つかの注目される動きが起きました。
一九七四年一二月に金権政治を批判された田中角栄内閣に代わって三木武夫内閣が成立しまし、一九七六年六月に自由民主党の少数の議員が新自由クラブを結成しました。
ほぼ同じ時期に、野党の側でも、政権交代を実現しうる現実主義的改革派の糾合を目指す動きが強まりました。構造改革路線の提案を社会党のイデオロギー的に硬直化した多数派によって拒否された江田さんは、一九七六年二月、民社党の佐々木良作さんや公明党の矢野絢也さんなどとともに、「新しい日本を考える会」を結成しました。しかし、それは、社会党内の救いがたい守旧派のいっそう激しい攻撃を誘発しました。江田さんは、一九七七年三月に社会党を離党し、一部の市民活動グループとともに社会市民連合を結成なさいましたが、同年五月、病気のため急逝されました。
私は、そうした時期の江田さんの動きを身近に目撃することになりました。いつの時期からであったか記憶がはっきりしないのですが、私は、江田さんとこころざしをともにする人々が都内のある旅館に集まって食事をしながら議論する毎月一回の会合に参加していました。社会市民連合が結成されたときの会合にも、急逝された江田さんのこころざしを継ぐためにご子息の江田五月さんが立候補なさるまでの過程における同志の皆さんの議論にも、居合わせることになりました。
経済研究者としての私は、一九六〇年代後半以後、与えられた機会を最大限に活用して、大転換の時代の日本の課題を見きわめる活動に、全エネルギーを傾注していました。
私は、一九七〇年に社会党と総評のシンクタンクであった平和経済計画会議の『国民の経済白書』の主査をつとめ、「国民の生命の安全を最優先課題として制度と政策を見なおすことによって、国民の生活の構造を変えることができるし、それが結果として経済成長のパターンとトレンドを変化させることにもなる」と主張しました。公害規制の強化や社会保障・社会福祉の拡充は、適切な方法さえ選択されれば、経済発展を阻害するものではなく、かえって、貯蓄と投資の均衡や国際収支の均衡を保証し、安定的・持続的な経済発展を可能にする、というのが、当時から現在までの私の一貫した基本認識です。
現実主義的な改革路線を指向する労働組合の関係者と学者・研究者とジャーナリストの協力によって前記の現代総研が結成されたのは一九七二年でしたが、私は一九七四年からその研究プロジェクトに参加するようになり、一九七五年には、初代事務局長であった長洲一二さんが神奈川県知事に立候補するため辞任なさったあとを継いで、事務局長になりました。現代総研は、各分野の専門家の協力を得て多くの政策提言を発表しました。
地方分権、規制改革と行政改革、社会保障改革、金融制度改革、郵便貯金と財政投融資の改革、外務省改革など、一九九〇年代以後、政府の周辺で語られるようになった「改革」は、ほとんどすべて現代総研によって一九七〇年代と一九八〇年代に提起されていました。ただし、私の見るところでは、「改革」をめぐる近年の議論は、見当違いのものが多く、それが日本の経済と社会を混迷状態へと追い込んでいるのです。
一九六〇年代から一九七〇年代の歴史的大転換の時代に、日本の政治は有効に機能せず、国民的目標と社会経済システム(社会生活と経済活動にかかわる制度の組み合わせ)をつくりかえる取り組みが推進されませんでした。そのことがその後の日本の経済的・社会的危機を深刻化させる原因になったと、私は考えています。
日米安保条約改定問題をめぐる政治的激動のあとに成立した池田内閣が一九六〇年に閣議決定した国民所得倍増計画は、一面では、経済成長による生活水準の上昇に対する国民の確信を強めることを意図していましたが、他面では、顕在化しつつあった社会的不均衡の是正を目的として、生活環境施設の拡充、国土保全施設の強化し、公害を防除などの施策を列挙し、経済成長の成果を国民生活の改善のために活用することを公約する意味をもっていました。しかし、総じて社会的不均衡を是正するための施策はきわめて不十分であり、しばしば具体性を欠いていました。
一九六〇年代後半になると、「高度成長から安定成長へ」「産業優先から生活優先へ」といった議論がマス・メディアに登場し、ときには政治家や行政官のあいだでも話題にされるようになりましたが、やはり体系的な戦略路線は提示されませんでした。

なぜ機会が活かされなかったのか

自由民主党政権の側では、諸利害集団の個別的関心への対応を目的とする「その場しのぎ」が支配的になりました。そのうえ、政府は、世界経済の構造変動を背景とする通貨危機や石油危機や貿易摩擦への対応に振り回され、大きな歴史的転換を推進する政策を用意することができませんでした。一九八〇年代以後の日本では、社会民主主義的な改革の主体勢力が不在のまま、軽薄な市場原理主義と競争万能主義に依拠する単純な「小さな政府論」が政府を動かし、経済的・社会的不均衡をさらに拡大させました。
構造改革路線を提示し、いわゆる無党派層を引き付けることができる平易な目標をあきらかにしようとした江田さんの取り組みは、社会主義運動の歴史を踏まえながら伝統的社会主義運動の限界を越えて先進国型の改革路線を構築し、国民の政治参加の機会を拡張するという方向への、重要な模索であったと思います。しかし、野党第一党であった社会党のイデオロギー的硬直が、そうした模索をさらに発展させることを不可能にし、日本の民主主義の機能不全を招き寄せたのです。
ふりかえってみますと、二〇代の私は、自分の社会的正義感をマルクス主義に結びつけようと試みて挫折しましたが、三〇台と四〇台の私は、現実の冷静な観察につとめ、不器用なやり方ながら、マルクス主義の影響から脱却する糸口を見つけようと格闘していました。江田さんとのお付き合いの機会を得たのはそうした時期でした。
大戦前後の日本で多くの人々のこころをとらえた社会主義とくにマルクス主義は、当時の体制に対する抗議の重要な手かがリとなりました。しかし、日本の経済と社会の発展にともない、また、国際関係の変化にともない、マルクス主義は社会運動を硬直化させ、有効な政策を確立する努力を阻害する役割を演じるようになりました。
イデオロギーに忠実であることではなく、現実の社会に責任を負い、国民の生活を改善するために必要な事業を推進する有効な政治を目指すことを行動原理としておられた江田さんは、そうした状況の変化を敏感に感じとり、あえて大胆な問題提起を試みたのです。時代を読み解くことは容易でありませんから、新しい理念や目標の提示は、文字通りの「模索」であり、試行錯誤を含まざるをえません。古い教義に固執してそうした先駆的な問題提起を封じ込め、江田さんを社会党の外においやった人々は、社会に対する責任を放棄したとしかいいようがありません。
五〇代の私は、マルクス主義に対してはるかに醒めた見方をするようになりました。前記の『戦後史』(一九八五年)は私の五〇台前半の作品ですが、イタリア共産党のいわゆる構造改革論やユーロ・コミュニズムと呼ばれる動きをまとめて解説した部分に、「コミュニズムはすでに根底のところで破産している」という認識が書き込まれています。それから四年後にベルリンの壁が崩壊し、六年後にソ連が消滅しました。
私は、一九九〇年代に書いた幾つかの本のなかで、「共産主義のイデオロギーとしての破産を確信していた私にとって、東側の体制の崩壊は原理的にはいささかも意外なことではなかったが、崩壊の具体的過程は予想をはるかに越えるものであった」と書きました。
私は、さらに、「現実の基本的な動きを原理的に予見することが可能であることを知ると同時に、その具体的過程を予見することが不可能であることを知ることは、歴史を学ぶ最大の喜びである」とも書いています。未来は、あまりにも多くの要素の複雑な組み合わせによって実現されていくがゆえに、つねに不確実でありますし、過去から継承された客観的状況についての特定の認識と未来に向けての特定の目的意識をもっているさまざまな人間の選択的な行動が現実の歴史に影響を与えるがゆえに、つねに未確定であります。
二〇世紀後半の日本はなぜ民主制のもとで政治を機能させることができなかったのか。江田さんの貴重な問題提起はなぜ活かされなかったのか。それをあきらかにするためにも、あらためて日本の近代(一八六八年の明治維新から一九四五年の敗戦まで)と現代(敗戦から現在まで)の歴史の全体を見なおす必要であると私は考えています。
日本の近代の歴史が現代にどのような影響を残したのか、現代の前半の歴史がその後半にどのような影響を残したのかを、検証する必要があります。歴史の全体を、過去から継承された客観的状況とさまざまな主体の格闘のあいだの相互作用の過程として把握しなおさなければなりません。いわゆる「戦争責任」やその他の各種の「責任」を問題にするといった性急な議論ではなく、歴史に深くかかわってきたさまざまな個性の見識と度量についての周到な認識を構築することが、重要であると思います。
いまの私は、自分に残された体力と時間をそうした仕事に傾注したいと考えています。


正村 公宏 (まさむら・きみひろ)
1931年東京都生まれ。58年東京大学経済学部卒。68年専修大学経済学部講師、助教授を経て74年教授。現名誉教授。平和経済計画会議の『国民の経済白書』主査、現代総合研究集団事務局長、会長。経済政策、行財政改革、地方分権、社会保障、教育改革で多くを提言。著書に『戦後史』など。


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