政治家の人間力 第二部 江田三郎への手紙 ホーム目次前へ次へ

若い人は問題意識をもってほしいと願う  山岸 章


 江田さん

 思い起こせば一九六〇年は戦争が終って一五年経ち、日本の現代史の大きな曲がり角であったように思います。政治闘争として「六〇年安保闘争」があり、労働運動では「三池闘争」で日本列島が騒然とした年でした。第一組合を支援する総評は、三井鉱山三池炭鉱の指名解雇に端を発した三池闘争を「総資本」対「総労働」の闘いと位置づけ、全国動員をかけて解雇撤回闘争を展開しました。まさにマルクス・レーニン主義の階級闘争という位置づけで、三井資本と対決したのですが、あの闘争が戦後労働運動のピークではなかったでしょうか。その後、「スト権スト」(七五年)がありましたが、公労協(公共企業体等労働組合協議会)はこの闘争に敗北して、戦う武器を取りあげられてしまったのです。六〇年安保闘争は連日のように国会を取り巻くデモ隊、座り込みで安保改定を阻止しようという日本の歴史に残る「大衆運動」でしたが、それも六月一九日、自然承認で安保条約は国会を通過しました。東大生・樺美智子さんが亡くなった「安保阻止国民会議6・15統一行動」では実に主要単産一一一組合、五七〇万人が安保反対デモに参加しましたから、それはもう列島騒然という状況で、安保条約が自然承認となる六月一九日未明、岸内閣内部では一時、真剣に自衛隊の出動さえ検討したとさえ言われています。今では信じられないような国民の一大反政府抗議行動でした。


 一〇月一二日、三党首演説会で浅沼稲次郎・日本社会党委員長が右翼青年の凶刃に倒れ、委員長代行として政治の舞台に登場したのが、当時書記長だった参議院議員の江田三郎さんでした。アメリカでは大統領選挙の真っ最中で、共和党のリチャード・ニクソンと民主党のジョン・F・ケネディがテレビ討論を行ったことが報道され、それに刺激されて、NHKでも初めて三党首によるテレビ討論会が放送されました。自由民主党総裁・池田勇人、日本社会党委員長代行・江田三郎、民主社会党委員長・西尾末広三党首による初のテレビ公開論戦でした。このテレビ討論で、白髪で温厚、分かりやすく柔らかい語り口の江田さんに人気が出て、新しい社会党の指導者として注目されました。いわゆる“劇場型民主主義社会”はこのテレビ討論がスタートだったと思います。安保の混乱で岸信介内閣が総辞職し、後継総裁に池田勇人が選ばれ、「寛容と忍耐」の政治が始まりました。池田の登場で日本は「政治」の季節から「経済成長」への転換が行われます。この時代の変化を敏感に感じ取った江田さんは、急進的な階級闘争で資本主義を打倒して社会主義政権をつくるというのではなくて、議会を重視し段階的に資本主義の社会構造を改革して平和的に社会主義を実現してゆこうという、いわゆる「構造改革論」をいち早く唱えました。社会党内では成田知巳さん、学者では後に神奈川県知事となった横浜国立大学教授・長洲一二さん、それに岐阜経済大学教授の佐藤昇さんらが論客として華々しい論争を展開しました。


 安保の翌年、六一年の二月ころだったと思います。当時ぼくは組織人員二八万人という、単組では日本最大の全電通労働組合の一大戦術拠点である、大阪電信支部の委員長をやっていました。全電通は日本電信電話公社の労働組合で、社会党支持を打ち出した総評傘下の中核労組でした。今のNTT労組の前身です。当時、大阪の社会党に江田さんの同志で椿繁夫という国会議員がいましたが、江田さんの信頼篤く、江田派の番頭格でした。江田さんが提唱された構造改革論に強い関心を抱き、椿さんらと志を同じくする者が「現代社会主義運動研究会(社運研)」を結成して、「そうだ、今こそ江田さんを社会党のトップ・リーダーとして盛り上げよう」と全国の仲間が結集しました。政治的に言って、大衆的次元の社会党江田派ができたのです。当時の社会党は三池闘争の理論的支柱だったマルクス経済学者の向坂逸郎さん(九州大学教授)が率いる「社会主義協会」派が多数派でした。協会派は資本主義を打倒して社会主義を実現するのだ、といういわゆる「前時代的」なマルクス・レーニン主義による階級史観で凝り固まった社会党左派集団でした。彼らは早速、江田さんの構造改革を右翼日和見だと大会で批判をぶち上げ攻撃しました。


労働運動における実戦部隊
 
総評の中核部隊だった公労協の中でも、全電通は一九五〇年代後半、激しい合理化の嵐にあい、血で血を洗う「合理化」反対闘争、合理化には力で対処する闘争至上主義路線をとっていました。しかし、大阪では現実的路線をとる考えの者が多く、ぼくは一九六〇年七月、大津で開かれた全国大会で、「階級路線を放棄しよう。政策面で全国統一要求をまとめ戦おう」という政策転換闘争方針を仲間と共に提起しました。当然、組織内で大きな議論になりましたが、なんでも反対路線から現実重視路線への転換に漕ぎつけました。それが浅沼刺殺後の構造改革路線と軌を一にしたのです。当時社会党中央本部の専従中央執行委員で労働部長だった森永栄悦さんという人が江田派の幹部、理論家であり、政治の実践家でもありました。その森永さんが「山岸さん、(同志として)一緒にやろうよ」と言われたのです。それが江田三郎さんとの出会いでした。

 一九六七年には大阪から全電通中央本部に出て、中央執行委員、政治部長となり、江田三郎さんの構造改革論の労働運動における実践部隊の役割を果たしてきたのです。ぼくが中央執行委員となったとき、江田さんがこれからの社会主義がめざす目標は、(1)アメリカの高い生活水準、(2)ソ連の徹底した社会保障、(3)イギリスの議会制民主主義、(4)日本の平和憲法、という有名な「江田ビジョン」を日光で発表しました。国民的には江田ビジョンは新鮮な感覚で受け止められ好評だったのですが、社会党左派はこれを右翼日和見だと批判して、江田ビジョンを党大会で否決して葬ってしまったのです。社会党の硬直した左派の連中に潰されたのです。

 江田さんはいろんな木を集め、倉敷の庭に植えるのが趣味でしたが、一度、ぼくらが植木をさしあげると、週末にわざわざ岡山に持って帰る程、ものすごく喜んでくれました。江田さんの木々の収集癖は有名でした。梅と桜と松と菊、手当たり次第に収集し、悦にいっていました。お酒もよく一緒に飲みました。わけ隔てないざっくばらんな性格で、ユーモア、茶目っ気もある楽しい人柄でした。与野党ふくめて今の若い政治家で、江田さんに太刀打ちできる人はいないと思います。そんな太っ腹の政治家でした。折り目正しい人柄で性格はあっさりとしていましたが、意外とわがままで短気、癇癪もちのところもあり、テレビで見る温厚な顔と違った一面もありました。

 何と言ってもでも江田三郎さんは腕と度胸と知力があった。三つとも備わっている人は少ない。ぼくの見るかぎり、既存の政治家のなかでは強い存在感を感じる政治家でした。江田さんからいただいた色紙に、「あしたの夢のないものに明日を生きる権利はない」という言葉がありました。今も座右の銘にしています。確かに夢多きロマンの政治家だったと思います。


青天の霹靂だった“社公民”
 
江田さんについて今でも心に引っ掛かっていることがあります。亡くなる前年、ある朝、新聞を開くと江田さんが東海大学総長の松前重義さんと「新しい日本を考える会」を立ち上げた、という記事が載っていました。松前さんは全電通の顧問でもありましたが、江田さんが民社党副委員長の佐々木良作さん、公明党書記長の矢野絢也さんと連合政権をめざすという、それは驚くべき内容でした。もう、びっくりです。まさに晴天の霹靂でした。ぼくにはまったく話がなかったのです。労働界では自他ともに認める江田派でしたし、事あるごとにサポートしてきたぼくに、何の相談も説明も情報もなかったのです。

 江田さん、何考えているんだろう? ちょっと戸惑いました。翌七七年三月、日本社会党を離党した江田さんが「全電通の委員長、書記長と話がしたい」と言ってこられたことがあります。及川委員長が行きました。ぼくは組織内から反発も出ることが予想されたこともあり、行きませんでした。江田さんが「社会市民連合」をつくるという最後の二、三年は、どうも引っ掛かるものがあって、それが今でも残念といえば残念です。

 もっとも江田さんは新しい日本を構想して、今後は労働組合に頼るのはよそうと考えていたのかも知れません。ぼくはもう少し様子を見きわめようと思っていました。あの時、江田さんがもう二、三年生きながらえてくれたら、ぼくらも江田さんの闘いに参加しただろうと思います。江田さんは「市民派」の菅直人さんと組むことを重要視したようですから、「労働組合臭」は消したかったのかもしれません。労組が圧力団体となったら市民派が退き、江田さんの考えが実現できないと考えたのでしょうか。そこのところの認識のギャップがありました。自分としてはすっきりしなかったのです。もし、という話は意味がありませんが、それでも江田さんがもう少し長く生きていたら、九三年の細川七党一会派連立内閣誕生までに、日本の政治はかなり違ったものとなっただろうと思います。


政治哲学を持たない“徒党”たち
 
今の若い政治家には与野党を問わず哲学を持たない人が多いように思います。また、最近の政党は基本理念を抜きにして、好き嫌いや選挙区事情、損得で集まっている傾向が強いように思います。選挙に勝つことが自己目的化してしまって、自民でも民主でも自分が議員バッジをつけられればいい、というような人が多いようです。一体、彼らは日本をどんな国にしようと考えているのか? 政治信念とは何か? さっぱり分からない輩が多すぎます。

 江田さん、この政界の実情をどう思いますか。ぼくは本来、政党というものは、基本理念や国の基本政策で一致する人たちが結集する政治結社だと思います。今日の実態は遺憾ながら、政党政治の態をなしていないと思います。これでは「政党」ではなく、「徒党」といわれても抗弁できないのではありませんか。今の多くの人たちに、確たる政治哲学が欠けている証左だと思います。誠に嘆かわしい限りです。

 しかし、ぼくは日本の明日の政治に、それでも大きな期待をもっています。とりわけ、去る七月の参議院選挙での民主党の躍進、自公過半数体制の崩壊という事実は、わが国の議会制民主主義の活性化への突破口を切り拓く、画期的な出来事だと大いに評価し、期待する者の一人です。

 しかも、江田さんの愛息、五月さんが、この度、わが憲政史上初めての野党出身の参議院議長に選ばれたことは、誠に力強く喜ばしいかぎりです。お父様もさぞや心強いかぎりでしょう。

 問題は、今後の参議院における民主党の闘い方如何です。率直に言って、今回の民主党の勝利は自民党のエラーによるところ大だと思います。その意味では、かなりの雨宿り票があることを忘れてはなりません。国民の多くは、民主党の政権担当能力に不安感を抱いているのです。

 だから、民主党は今後の参議院での国会闘争を通じ、このように立派な政権担当能力をもっているということを国民に対し、事実をもって立証することが大切です。五月さんは、この難しい舵取りを、必ずややり遂げてくれるにちがいありません。

 江田さん、お互いに今後の民主党の活躍を見つめていこうではありませんか。


 次に、ぼくが携わってきた労働運動についてふれたいと思います。江田さん、あなたが掲げた「構造改革論」は、社会党の中では敗れたましたが、わが国労働運動の分野では一時期見事に花開いたと思います。永年にわたる労働者の悲願であった労働戦線統一が実現し、一九八九年一一月、八〇〇万人を結集した「連合(日本労働組合総連合会)」が発足したのは、その象徴でしょう。

 しかし、この大きな盛り上がりも長期に及ぶ深刻なデフレ不況なども影響して、最近はかなり様変わりしてきました。連合に対する求心力が低下し、むしろ遠心力が働いているように思われます。これは、わが国労働組合の弱点である、企業別組合のマイナス面が作用しているからでしょう。そして一部では、本来、組合員の雇用と生活と権利とを守るべき労働組合が、どうかすると経営の補完勢力化する傾向すら見受けられます。四五年間、労組専従役員をやり、初代連合会長として、五年間必死の思いで闘ってきたぼくとしては、正に歯軋りする思いです。

その根源はどこにあるか? ぼくはいくつかあると考えます。
一つはリーダーに「労働組合魂」が欠けていること。
二つは過去の運動の「歴史の教訓」に学ぼうという姿勢が薄いこと。
三つは何事にも「近代的合理主義」が強く、物分りが良すぎること。
四つは「反権力意識」が希薄なこと。
五つはとにかく「事なかれ主義」が強いこと。
……などなどです。


 最近、このような労働運動の弱体化をよいことに、政府・自民党は、諸悪の根源は労働組合だとばかり、見るに堪えないような労組攻撃を執拗に繰り返しています。特に社会保険庁の問題や一部の自治体での裏金問題で、一〇〇万人の組合員を擁する自治労を悪者呼ばわりし、日教組とともに誤った世論誘導を意図した悪質な攻撃を徹底的に仕掛けています。ぼくの出身のNTT労組もその例外ではありません。山間僻地、離島にもNTTは黒電話サービスをその公共的使命から、維持・提供しなければならず、その経費はKDDIやソフトバンクとともに、平等に負担するユニバーサル基金制度がつくられています。致府は、この制度を逆手にとって、NTTに対し実現困難な過大な経営合理化を要求し、NTT労組の賃上げを抑制するような攻撃を執拗に繰り返しています。何はともあれ自治労などは、社会的に沈黙を守り、音なしの構えを取っています。

 このような対応は正に敗北主義の最たるものだとぼくは思います。当該組合として謝罪すべきは謝罪し、反論するべき点は堂々と反論するべきです。また不祥事の再発防止のための決意と青写真を示すべきでしょう。そうしてこそ、はじめて世論の理解と協力を得られるのではないでしょうか。ことほど左様に、労組は今こそ蛸壷から飛び出すべきです。そうでなければ、日本労働運動の輝かしい明日は切り開かれないし、江田イズムも生きてこないと思います。


 最後に一言。
 ぼくは江田さんを今もとても尊敬しています。
 江田さんは、時代の先を読むことができた稀な政治家でした。今の政治家で江田さんを越える人材はいないと思います。
 老人の繰言になってしまって恐縮ですが、これからの日本はグローバル社会で、いろいろ大変だと思います。若い人に問題意識を持ってほしいと願うのは、江田さん、あなたも同じではないでしょうか。


山岸 章 (やまぎし・あきら)
1929年大阪府生まれ。48年金沢逓信講習所卒。労働運動家。全電通委員長。「連合」初代会長。54年左派社会党に入党、60年代、社会党江田派の活動家。労働戦線統一の功績によって2000年勲一等瑞宝章を受章。著書に『 我かく闘えり』など 。


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