政治家の人間力 第二部 江田三郎への手紙 ホーム目次前へ次へ

輝いていた江田ビジョンと政権意欲  榊原英資


この三〇年をふりかえって
 江田三郎さん
 江田さんが亡くなられてから早くも三〇年が経ってしまったのですね。
 「ことしは江田三郎没後三〇年、生誕一〇〇年」という話を五月さんから聞いて、お父上の江田三郎さんが突如、逝ってしまわれた日のことを鮮やかに思い出しています。それは日本の政治にとてつもなく大きな事件であったと同時に、ぼくにとってもひどく悲しいニュースでした。

 若いころ江田三郎さんと五月さんと車座になって飲んだことがありました。まだ青臭い学生なのに、大先輩の国会議員で社会党の幹部だった江田さんが対等に議論してくださったことに、本当に驚くと同時に嬉しかったことを覚えています。ぼくは江田さんという真摯な政治指導者を忘れたことはありません。

 大学を卒業してぼくは大蔵省に入り官僚の道を歩み、政治とは一定の距離を保っていましたが、時代は大きく変わりました。大蔵省は今では財務省と呼称が変わりました。江田さんと同じ選挙区、岡山二区で戦った橋本龍太郎が政権を担ったとき、行政改革があり、金融庁が生まれました。その橋本龍太郎もそちらの世界へ行ってしまわれましたね。

 財務官というポストをいただき国際金融を担当し、国際経済にいろいろ影響する発言でメディアの話題となりました。“ミスター・エン”というニックネームもいただきました。かつてと違って、日本経済や円の、世界で占める比重が非常に大きくなってきたことも影響しているのでしょう。今は退職して、早稲田大学のインド経済研究所の教授をしております。江田さんが訪ねた共産中国も大きく変わって、経済開放政策が急激に展開して、めざましい成長を続けています。中国とインドの経済成長が世界の注目を集めています。


今も生きている「構造改革」
 
江田さんが亡くなられた三〇年前と比べますと日本も世界もすっかり変わりましたが、江田さんが社会党を出て社会市民連合(後に社会民主連合となりましたが)を結成するにあたっておっしゃった「構造改革」は、まさに今も生きているとぼくは考えています。

 ぼくは江田三郎さんと直接一緒に仕事をしたことはありません。ただ息子さんの江田五月さんが大学の同級生で、社青同(社会主義青年同盟)の活動をちょっとですがサポートをしたこともあったし、六〇年安保闘争ではデモに参加したりしました。現代政治学の碩学で東大教授だった丸山眞男先生の講義に関心があって、研究会にも顔をだしていたこともあり、五月さんと友人になりました。ぼくは経済学部、彼は法学部でしたが、よく会い議論しました。卒業して後も、ぼくは大蔵省の役人、彼は裁判官と歩む道はぜんぜん違いましたが、ウマがあったのでしょう。友情は今も連綿と続いています。

 五月さんとの関係から、お父上だった江田三郎さんにお会いする機会がありました。いつだったのか、何年何月ということをはっきりとは覚えていませんが、まだぼくが大学生だったから一九六〇年代前半でしたか、一度、江田三郎さんの東京のお宅で(議員宿舎だったか、アパートだったか覚えていませんが)、五月さんらと酒をくみかわしたことがありました。当時、話題になっていた「江田ビジョン」が議論の中心だったと思いますが、「構造改革」論を前面に打ち出した江田ビジョンは輝いて見えたし、若いぼくら学生を見下すこともなく、本気で議論をしてくださった江田三郎さんにとても感動したものでした。もう四〇年以上前のことになりますが、今でもスナップ・ショットのようにその場面が時々浮かび上ってきます。


江田ビジョンの先見性
 
今でこそ構造改革は政治のキイワードになっていますが、イタリア共産党のトリアッチが唱えた新しい社会主義の概念をいち早く取り入れ、当時としては極めて「非社会党」的と映った江田ビジョンを発表した先見性は見事なものでした。

 ぼくもトリアッチの構造改革論に魅かれ、興味を持って本を読み漁っていました。当時はマルクス・レーニン主義が幅を効かせ、トリアッチの構改論は右翼改良主義だという批判が社会党内にあり、江田三郎さんが槍玉に上がっていることにぼくは違和感を覚えました。

 「アメリカの高い生活水準、徹底したソ連の社会保障・イギリスの議会制民主主義、そして日本の平和憲法」という、日本の政治がめざすべきビジョンは、新鮮な感覚で国民に受け入れられました。江田人気が高まったのです。ところが社会党内の急進左翼主義者らが江田三郎さんを徹底的に糾弾し、江田ビジョンの先見性を否定しました。ぼくは社会党の凋落はこのとき始まったのではないかと考えています。しかし当時はまだ自民党に対峙する日本社会党は、政治的にはけっこう光り輝いていました。

 江田三郎さんや篠原一先生(当時東大教授、政治史)の勧めもあって東京大学を卒業したとき、社会党本部の書記局に入ろうと本気で考え、党本部に面接に行ったことがあります。構造改革路線の一角を担っていた貴島正道さんが書記局にいたことも影響したのでしょうか。しかし面接がうまくいかなかった。

 「あんたはプチブルだね」と言われてこちらも頭にきました。江田三郎さんは大変頭が柔らかでしたが、社会党書記局の連中は頑迷なる社会主義の左翼観念論者が多く、頭が硬かったと思います。もしあのとき、面接者が江田三郎さんだったら……と思うと、自分の人生も随分変わったものになっただろうなあ、と感慨しきりです。

 あまりにも現実離れした書記局のインタビューに面食らい、きっぱり社会党で働くことはやめました。そんなこともあって大学院でブラブラし、一年後に大蔵省(現財務省)に入省しました。社会党書記局から大蔵省へ。考えてみれば大変な転身でしたが、モラトリアム状況にあった当時、本人はすこぶる真面目、真剣で、特に大きな違和感はなかったと思います。ただ、大蔵省へ入っても江田三郎さんの影響からまぬがれることはなく、何とか政府の内側から日本を「構造改革」したいなあ、といつも考えていました。ふり返ってみますと、当時、江田三郎さんが主張したことが、ぼくの内部にすっぽり入り込んでしまったのかもしれません。


もう一度、新しい政党に夢をかけてみたい
 大蔵省へ入ってからも江田五月さんとの付合いは続きました。彼は彼で裁判官の仕事が面白く、政治の世界に入る意志はまったくなかったようです。学生時代、五月さんは学生運動のリーダーとなり、自民党総裁室になだれ込んで退学処分になった事件は有名ですが、彼はそれをきっかけに世界漫遊旅行に出かけました。彼もまたしたたかな面があります。

 その後、大学から復学を許され、一念発起して真面目に法律の勉強に励み、たしか卒業時、五月さんは全優、法学部トップの成績でした。きっと江田三郎さんも自分とは違う道ですが、そんな五月さんが誇りだったのでしょうね。傍からみていますと父子関係は決して悪くなく、よく一緒に飲み、食べ、議論しているようでした。

 そんな時、たしか一九七七年、五月さんらと一緒にやっていた市谷会という若い連中の勉強会に、江田三郎さんをお呼びしたことがありました。「社会市民連合」を結成された直後のことでした。その勉強会は江田五月、加藤紘一(後に防衛庁長官、内閣官房長官、自民党幹事長)、柿沢弘治(新自由クラブ、後に外務大臣)、田原総一朗(TVキャスター)、嶌信彦(ジャーナリスト)ら、そうそうたる面々の勉強会でしたが、ぼくらと同窓の横路孝弘(現衆議院副議長)も時々、顔を見せました。

 その市谷会にお呼びした時の江田三郎さんの話はとても感動的でした。自分の政治のロマンを新しい政治組織の結成にかけたという話を、諄々と語りかけるように話されました。後から考えると、あれは長男の五月さんに語りかけていたのではなかったかと思えてきます。学生時代に何度かお会いしてから十年以上の月日が経っていたのですが、江田三郎さんは変わっていませんでした。江田ビジョン当時の情熱はそのままだったし、政治にロマンを賭ける生き方は変わっていないようでした。ただ、七〇年代に入ってからの硬直した社会党には絶望しているようでしたし、もう一度、新しい政党に夢をかけてみたいという様子でした。


社会市民連合を立ち上げるも、病に倒れる
 
社会市民連合を立ち上げてしばらくして江田三郎さんは病に倒れ、入院ということになって大きなニュースとなりましたね。日本列島を駆け回る参議院選全国区に出馬するということが体力的に困難になってしまった状況で、後継者をどうするかという問題が社市連内部で浮上しました。江田三郎という政治家が掲げた理想に共鳴して駆けつけた同志の人々の落胆と焦りは深刻でした。当然、五月さんが後継者として第一候補にあがったのですが、裁判官人生を順調に歩んでいた五月さんには政治の道に踏み出す気がない。江田三郎さんの波瀾万丈の人生を目の当りに見ていて、自分はもう少し穏やかに生きてみたいと思っていたのでしょうか。五月さんと私との共通の友人、同窓の後藤仁さん(後に長洲神奈川県知事ブレーン)に呼び出されて、五月出馬の説得役を頼まれました。

 当時、私は大蔵省銀行局保険一課課長補佐でした。大蔵官僚のぼくが江田さんの社会市民連合からの立候補を五月さんに説得するというのも奇妙な話ですが、実はぼくはぼくでその頃、役人でありながら「新自由クラブ」の結成に柿沢弘治さん等と参画しており、何とか政治の流れを変えたいという強い気持をもっていたのです。国民は古い自民党の金権体質にうんざりしていました。ビビットな政治には政権交代が必要で、自民党に代わる政党が期待されていたのです。今だから話せますが、新自由クラブの政治綱領の原案を書いたのは、大蔵官僚のぼくでした。

 一九七七年五月二二日の午後でした。ぼくはたしか四谷の喫茶店で五月さんと会っていました。ロッキード事件で政界が揺れ、前年六月二五日、河野洋平さんら六人が自民党から飛び出し、新自由クラブを結成し、政界再編の気運が高まっていたときでした。実は、私も大蔵省から飛び出して、柿沢弘治さんについで新自由クラブからの立候補を考え始めていたのです。そのことを五月さんに言ったのかどうかは覚えていません。まだその時期、はっきりと決断はしていなかったのですが、ただ、社会市民連合と社会党の関係は、自民党と新自由クラブの状況と似ていないでもなかった。自民党と社会党といういわゆる「五五年体制」に亀裂が入り始めた時期でした。


「お父さんは五月さんの出馬を望んでいるよ」
 「きっと江田三郎さんは五月さんの出馬を望んでいるよ。この間の勉強会の話も五月さんに語りかけていたのではなかっただろうか」とそんな説得をしているときに、突然、江田三郎危篤の連絡が入ったのです。驚いてとりもとりあえず五月さんと愛宕山近くの慈恵医大付属病院に急行しました。

 ぼく自身はそれほど江田三郎さんと深い付き合いがあった訳ではないので、こんな状況でなければ真っ先に病院にかけつけるなどということはなかったでしょうね。五月さんと病室に入ったのですが、穏やかな死に顔でした。激動の人生を最後まで全力を尽して生きてきた、偉大な政治家の最後でした。

 しかし「五月二二日」に亡くなられたというのは五月さんにとって衝撃であり、一つの強い啓示であったようです。というのは、五月二二日は五月さんの誕生日でもあったからでした。五月に生れたから五月と名付けたのだと聞いています。「お父さんは五月さんの出馬を望んでいるにちがいないよ」と説得をしている、まさにそのときだっただけに、五月さんには江田三郎さんが最後に強いメッセージを自分に残して亡くなられたと思ったのでしょう。

 病室には次々と政治家や政治活動の盟友たちが駆けつけてきました。ぼくは五月さん以外はそれ程親しい人もいなかったので、病室の外の廊下で江田三郎夫人としばらく立っていました。光子夫人は静かな方で、特に表立って挨拶をすることもなく、一人で黙って立ちつくしておられました。放心したような寂しげな顔だったのを記憶しています。

 江田三郎の死の現場もまた「政治」でした。最愛の夫の遺体に付き添うこともできなかったのでしょうか。政治家の奥さんというのは大変だなあ、とその寂しげな表情を見つめながらふっと思いました。夫の死という本来私的で家族で静かに弔いたい状況なのに、これもまた、公的な政治の世界の中の出来事になって騒乱の渦に巻き込まれてしまう。自分も政治の世界を目指そうとしていたときだけに、家族にとって政局に巻き込まれるというのは本当につらいことなのだなということが実感できたような気がしたのです。

 江田五月さんが最後まで立候補を躊躇し、また、江田三郎さんも直接、強く出馬を要請しなかったのもその辺のことを二人とも強く感じていたからかもしれません。ただ、江田三郎さんは死ぬ日を選ぶことによって、五月さんに無言の強烈なメッセージを送ったようでした。病院での喧噪が一区切りしたところで、五月さんと二人だけで話したのを今でもはっきりと憶えています。父、江田三郎が五月二二日という日を選んで逝ったのは五月さんに運命的なものを感じさせ、その瞬間に彼は固辞していたのを突如翻し、出馬を決意したのです。私もその時はいずれ「新自由クラブ」から選挙に出るつもりだったので、二人でともに日本の政治を変えてみようといった話をした記憶があります。その後、いろいろな事態に直面し、私の方は選挙に出ることを諦め、大蔵省へ戻ることになったのです。一九七七年五月二二日の五月さんとの口頭の約束を、結果として破ることになってしまい、内心、忸怩たる思いは今も胸のうちに宿っています。五月さんの方は江田三郎さんの後を継いで社民連を立ち上げ、今は民主党で政権の本格的交替を目指しています。


政治にロマンを賭けた激しい人
 
すでに書きましたとおり、私の江田三郎さんとの付き合いは五月さんを通じての間接的なものでした。政治にロマンを賭けた激しい人でしたが、時代を読む能力は大変鋭いものがありました。一九六〇年代の構造改革論が社会党に定着し社会党が変っていけば、戦後政治はまったく異なった展開をしていた可能性があったはずです。しかし、いかんせん硬直した左翼イデオロギーと労働組合に大きく制約された社会党にはそれができず、結局、党として衰退の一途をたどることになってしまいました。わずかに社会市民連合、社民連の流れが今の民主党に加わり、江田三郎さんが点した灯は残ることになったと考えています。

 自民党に絶望した小沢一郎や鳩山由紀夫が、社会党と縁を切った江田五月や菅直人と合流したのは自然な歴史の流れだったのかもしれません。五五年体制は社会党に関するかぎりは終りました。自民党についても、ある意味では一九九〇年代に終ったはずですが、自民党特有の融通無碍な柔軟性がこの党を未だに生き残らせています。社会党との連立を経て、今は公明党との連立で命脈を保っていますが、政権交代あるいは政界再編成が起こるのは時間の問題でしょう。

 江田三郎さんの生き方を傍から見ていていつも思ったことですが、江田三郎さんが政権の側にいたら、日本の政治も随分と変っていたのではないでしょうか。あの時代を読む鋭い感覚と情熱と行動力。これだけのものを兼ね備えた政治家は、自民党まで含めても戦後数える程しかいなかったと思います。私は大蔵省時代、当然、政権の側に立っていたのですが、江田三郎さんにたまに会って話をした時も、あの左翼特有の奇妙なエリート意識とイデオロギー的硬さを一度も感じたことがありません。こんなことを言うと社会党時代から江田三郎さんと付き合ってきた人達に叱られるでしょうが、敢えて申せば、社会党には惜しい人でした。もっと日本のために表舞台で活躍してほしかったと思います。フランスのミッテラン前大統領やイギリスのブレア首相のような活躍ができた人だったことは間違いありません。おそらく江田五月さんも、似たような感じを持っているのかもしれません。


二一世紀の江田ビジョンとは
 
今、日本は大変難しい局面に立たされています。中国やインド等の台頭で世界が大きく変わっているなかで、日本はこうした変化についていけず、社会は次第に混乱し崩壊し始めています。政治の世界もいまだ自民党がその旧い体質を基本的に変えないまま、公明党と連携し、ポピュリズムの波間を泳ぎながら、何とか命脈を保っています。政権の中枢は二代目、三代目の世間知らずのお坊ちゃま政治家に占められ、とても一〇年、二〇年のビジョンを描いて戦略的に政策をつくり、実行する体制にはありません。

 今、江田三郎さんが生きておられたらどんな目で現状を分析し、どんな動き方をされるのでしょうか。たしかに日本は豊かになりました。ある意味では、四〇年以上前に江田ビジョンは実現されたのかもしれません。かつての自民党も官僚組織もそこそこ有効に機能し、高度成長を実現し、まさにアメリカ並の高い生活水準、徹底した社会保障、そして平和を維持しながら民主主義を成熟させていったのです。江田三郎さんとは立場の異なる人たちでしたが、客観的に見て、これは大変な成功であり、まさに江田ビジョンを自民党が実現したということができるのでしょう。


 しかし今、場面は大きく変わりつつあります。豊かさのなかに腐敗と倦怠が忍び寄り、日本社会は、特に日本の若者は夢を失い、知的にも肉体的にも急速に弱くなってきています。議会制民主主義は定着しましたが、大衆化が進み、政治は極端にポピュリズムに傾斜しています。小泉純一郎という究極のポピュリストに振り回され、二〇〇五年九月の衆議院選では野党・民主党は大敗しました。また経済は大きく回復しましたが、拝金主義が社会に蔓延し、多くの企業はパブリック・マインドを失いつつあります。政治家のみならず、財界人についても夢やロマンを持った人たちが極端に少なくなってきました。江田三郎さんを相手に愚痴を言っても仕方がないでしょう。この局面で何とか日本を立ち直らせることが、残された五月さんや私たちの役割なのでしょう。新しい局面での二一世紀の江田ビジョンはどういったものになるのでしょうか。できるならもう一度車座になって新しいビジョンと、二一世紀のロマンを江田三郎さんと議論してみたいものです。私も江田三郎さんと同じように楽観主義者なので、何とかやっていけるのではないか、と思っているのですが……。


榊原 英資 (さかきばら・えいすけ)
1941年神奈川県生まれ。東京大学経済学部卒。65年大蔵省入省、国際金融局長、財務官等を歴任。95年超円高是正の為替介入で手腕を発揮、「ミスター円」 の異名をとる。早稲田大学教授。江田五月議員の東大の学友。近著に『幼児化する日本社会』(東洋経済新報社) など。


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