政治家の人間力 第二部 江田三郎への手紙 ホーム目次前へ次へ

政権獲得に挑んだ導きの星―― 江田三郎さんに捧げる  船橋成幸

江田三郎さんへの手紙
              船橋成幸
私ども戦後革新政治運動の大先達として、心から敬愛してやまない江田三郎さん。早いものですね。お亡くなりになって、もう三十年にもなりますか。
とてもそうだとは思えないほど、あなたはいまも、身近で生きいきとした存在感を残してくれています。ご機嫌なときのすばらしい温顔、苦悩し憤激したときの厳しい声や息づかいが、私たちにはまだしっかりと伝わっています。そのなかに江田さん、あなたは立派に生きているのです。なぜそう言えるのか。まずその点から申し述べたいと思います。

ことし五月、例年のとおり東京で江田三郎さんを偲ぶささやかな集いが開かれました。その席上、ある年配の女性が「いま『千の風になって』という歌が流行っていますね」といきなり話し始めました。「人が亡くなっても、その人の記憶を胸に刻み、追慕する人がいるかぎり、故人の命は続いている。死んでなんかいない、という意味が私にはよくわかります。江田さんは私のなかで生きています」と、その女性の言葉が、居合わせた全員の共感を誘いました。拍手を送りながら、私もあらためて考えてみました。
人間には寿命があります。すべての人が、一定の時が来ればかならず死にます。だが、人が死ぬとはどういうことですか。そして、人間の生命とは、いったい何なのでしょうか。
仏教に輪廻転生の教えがあるように、ほとんどすべての宗教が「魂の不滅」を説き、「復活・再生」の道を唱えています。そのうえ面白いことに、徹底した唯物論の立場からも、例えばエンゲルスは『自然の弁証法』の序論で「物質の属性は絶対不変であり、それゆえ遠い将来、人類やすべての生きものが死に絶えても、いずれかの時、いずれかの場所に、鉄の必然性をもって物質の最高の精華である思考する精神が再現されるに違いない」と述べています。

私はこうした「復活」命題のどれにも懐疑的であり、ネガティブな感想を抱いています。しかし、人間の生命というものが、生理的な死をもってすべて終わり、無意味化するとはとうてい考えることができません。人間には、人生でのさまざまな営みに命を刷り込み、果実として対象化できるという特性があります。それはおそらく人間一般に普遍することですが、私はとりわけ、芸術家、学者、政治家といった類いの人びとに顕著な典型を見ることができるように思います。なぜなら、それらの人びとは、格別に個性的であることによって価値づけられ、社会の評価や批判をも受けとめる存在であるからです。
去年はモーツァルト生誕二百五十年ということでブームが起きました。奏でられる美しい音色に耳を傾けながら、私たちはそこにモーツァルトの生命の躍動をまざまざと実感することができました。
ことしは、江田三郎生誕百年に当たります。江田さんは、戦前から戦後にかけて半世紀以上、辛苦と栄光が彩なす闘いの道を邁進、とりわけ一九六〇年安保闘争以降の政治過程で当時の野党第一党(社会党)を率い、重大な政治指導の役割を果たされました。その業績は輝かしいものでしたが、一貫して非自民の政権をめざし、そのために生涯をつうじた奮闘と決断は報われぬまま、この世を去られました。社会党内の無理解と非難・攻撃に妨げられてのことで、江田さんの失意がどんなに深刻であったか、想像に余ります。それでも屈することなく、江田さんは残された同志と共に政権交代のための新たな陣容づくりを決意され、不幸にも、その準備が整わぬうちに壮絶な死を迎えられたのであります。

それから三十年、二十一世紀の今日にいたって、かつては「江田叩き」に加わっていた人びとさえ多くが江田さんの再評価を口にするようになっています。江田さんと同じ路線を選び、ともに闘った私たちは、最後までお役に立てなかったことを悔やみながらも、あらためて江田さんの鋭い洞察、不屈の闘魂を想起し、敬愛と思慕の念をつのらせるばかりです。そしてその思いのなかに江田さんの生命が脈々と息づき、不滅の光芒を放っていることを固く信じているのです。
だがしかし、そんなふうに言うことができるのは、いまや老残の身をさらしている私たち少数の日本人に限られ、しかもそれすら年ごとに消え行くばかりという現実があります。このまま何もしなければ、江田三郎という卓越した政治家の足跡は、変容激しい政治社会の後景に遠くかすんでしまうことになりかねません。そんな事態は、いまも強く江田さんを追憶する私たちには、とうてい耐えられないことです。
江田さん。かつてあなたの周りで血気盛んな若手活動家の一人と自負していた私も、いつのまにか八十の坂を越えました。その私が、いまここに政治家・江田三郎をめぐって思う限りのことを述べる機会を与えられています。つつがなくこの作業を進めることで、江田さんに対する、私のおそらくは人生最後の責務を果たしたいと思います。


 江田さんもご存知のように、私は旧労農党の出身です。その私が、江田三郎という政治家の存在をはっきりと意識したのは、のちに社会党本部で直接お目にかかるよりもずっと前、一九五〇年の参議院選挙に際しての忘れられない経験からであります。

私は二〇歳のとき、第二次大戦の敗戦を旧満州にいた家族と離れ、結核で療養中に山口県で迎えました。そのため在籍していた神戸の高等商船学校を中退、四年近く海技免状なしの船乗りとなって海上労働運動も経験し、四九年からは全日本海員組合の専従者として岡山県の玉野支部に配置されました。そして当時の私は、すでに労農党員でした。

この労農党は、芦田連立内閣の予算案に反対票を投じたかどで社会党を追われ、九三年末に結党したばかりだったのです。この党が最初にうちだした「純正左派」という自己規定に若い心を惹かれたのが、私の入党の動機だったと思います。

五〇年の参議院選挙を迎えたとき、私は労農党岡山のオルグとして県内各地を巡回、党員、支持者に地方区公認候補(東京の学者)への支援活動を要請する任務についていました。ところが、未熟な私の要請はしばしば断られてしまうのです。断るのはほとんどが戦前からの古い活動家で、理由は「社会党から江田三郎が出ているではないか、江田とは戦前からブタ箱で一緒に拷問に耐えた仲だ。いかに党の指示でも見放すわけにはいかない」というのです。私は老闘士たちの絆の強さを思い知ると同時に、そこまでの愛着を寄せられる江田三郎とはどんな人物か、社会党にそんな筋金入りの闘士がいたのかと、まだ見知らぬ人ながら強く意識せざるを得ませんでした。

一九五二年から私は労農党本部の常任書記に選任され、東京に移りましたが、五七年になって党は社会党に合流、私も社会党本部に横滑りすることになりました。そしてまもなく、私は書記局で加藤宣幸さんらが主宰する構造改革論の研究会に参加しました。合流前の労農党時代から、私たちはこの理論に特別の関心を持ち、強く支持するようになっていたからです。

この研究会には当初、社会党本部の書記だけでなく労組や地方の活動家も加わって熱心に勉強し、成果を機関紙・誌に公然と発表していました。ところが、これに社会主義協会などが猛烈な批判を浴びせてきて、かなりの人が抜け出るようになり、構造改革研究会は派閥的な攻撃のターゲットにされました。そのため、研究会そのものが派閥支配に反対して党改革をめざす活動家集団へと変容、構造改革論は理論追究の目標から、すぐれて実践的な課題へと展開することになったのです。

 この段階で、派閥に対抗するには活動家だけでは足りない、やはり議員のリーダーを擁立する必要があるとして、たしか加藤さんの紹介で、江田三郎さんと私たち社会党構革派活動家グループが初めて同志の盟約を結ぶことになりました。

その場所は銀座八丁目にあった小さな中華料理屋の二階座敷だったことを憶えています。盟約するからには、江田さんにも守ってもらうべき事項があるとして、誓約書を私が起草しました。それを読み上げるとき、江田さんが座布団をはずし、正座して真剣に受けとめてくれたことが、私たちの言い知れぬ深い感動を誘いました。

以来、江田さんにまつわる思い出やエピソードは数多くあります。とりわけ強い印象が刻まれているのは、やはり六〇年安保闘争の渦中での出来事です。一九六〇年六月一五日、反安保の闘いがピークに達し、国会議事堂を取り巻く無数の学生、労働者、市民のデモ隊が警官隊と衝突、南通用門で東大生の樺美智子さんが痛ましい犠牲となった夜、私は江田書記長〔当時〕と一緒に議事堂の構内にいました。そこでは突入した何百人もの学生が熱狂的な雰囲気で集会を開いていたのです。盛んに気勢を上げる学生たちに向かってどう対処すべきか迷う私に、江田さんはきっぱりと言いました。「国会はこんなことをやる場ではない。あたふたせず、冷静にこれからの局面がどうなるか考えて行動しろ」
そう言い残して江田さんが闘争本部に入った後、しばらくして、国会構内の学生たちは、突入時のような混乱もなく整然と退去しました。

そのときの江田さんの言葉で、私は目が覚めました。指導者たる者は決して目前の状況に溺れて判断を誤ってはならない、つねに局面の先行きを読み、的確な進路を示して民衆を導く責任がある、と江田さんは教えてくれたのです。そして、そのような江田さんのリーダーシップは、安保闘争の後の局面でも遺憾なく発揮されました。
新安保の成立後まもなく岸内閣から池田内閣に変わり、国政の最大の争点は、新内閣が打ち出した「所得倍増計画」をめぐる政策対決に移っていきます。私たちはそのことを意識しながら、江田書記長のもと、六〇年一〇月の党大会で「国民諸階層の生活向上を中心目標」とし、政策転換と制度改革を進め、「独占に対して生産関係に及ぶ譲歩を要求する」構造改革の運動方針を提起しました。だがその直前、一〇月一二日に浅沼稲次郎委員長が暴漢に刺殺される大事件が発生、新方針はほとんど議論もなく決定されたことが、後に「不幸な船出」と言われるにいたった所以となります。また、当時の社会党内の空気には安保闘争の余韻が極めて強く、そのうえ委員長まで殺されていやがうえにも昂ぶっており、冷静に局面の変化を読んで対応策を考える余裕を失っていました。

しかし、江田さんは違いました。浅沼さんの後を埋めるため委員長代行をつとめ、早速一〇月末からの解散・総選挙に臨みますが、江田さんはすでに歴史的な大闘争のリーダーという厳しいイメージから離れていました。お茶の間の家族に語りかけるソフトな語り口で「牛乳三合論」のような身近な生活課題を中心に分かりやすく政策を訴え、そのことが、そのころ本格化し始めたテレビ時代の民衆の心をつかんで全国的にブームが起きました。
総選挙の結果、社会党は二三議席を増やして一四五議席を獲得しましたが、党内でのその評価は二つに割れました。「江田ブーム」の貢献を大きく積極的に見る向きと、そうではなく、浅沼さんの犠牲の上で安保闘争を闘った成果だという主張とに分かれ、選挙後も対立が続きました。それはもはや構造改革をめぐる理論上の相克にとどまらず、社会党は政権をめざすために他のいかなる党派と組むべきか、全野党か社公民か、という政治路線の選択を争うようになり、加えて泥臭い派閥感情も絡んで、党内抗争は時を追って深刻な様相を呈していきました。


江田さんは、党内のそんな状況にお構いなく、ひたすら政権獲得の目標を見つめ、そのための思い切った提言を幾度も重ねました。それはしばしば社会党内の定説や既成の方針に切りこみ、そこからの脱皮、転換を訴えるもので、党内からは激しい批判と抵抗が向けられることになります。そうした提言の最も典型的な一つが、一九六二年七月の全国書記長会議で発表された「江田ビジョン」であり、また、七〇年代の初めから、江田さんが一貫して強調した社公民三党を軸とする連合政権の構想であります。
この前者は、社会党がめざすべき社会の構図(ビジョン)を(1)アメリカの生活水準,(2)ソ連の社会保障、(3)イギリスの議会制度、(4)日本の平和憲法の各レベルを実現するものとして描き出すことでした。いまでこそ例示がすべて適切だったとは言えませんが、江田さんの真意は、社会党の目標を庶民の生活感覚から浮き上がった抽象的な概念で示すのではなく、当時の「常識」を踏まえ、人びとの頭にイメージが浮かぶ具体的目標として実感してもらうことにありました。江田さんはその頃の著作で、沼津で沿岸の工場から吐き出される汚泥に苦しみ、きれいな海を取り戻すために闘う一人の漁師の言葉を取り上げ、そこにこそわれわれのめざす社会主義の真髄があると述べたことがあります。「江田ビジョン」の発想は、まさにこの記述に重なるものだったと言えるでしょう。
また、江田さんが唱えた連合政権構想は、社会党の政権戦略に対して根本からの転換を求めるものでした。すなわち、当時の社会党は「護憲・民主・中立」といった基本政策の一致を前提とする「全野党連合政権」の構想を掲げていましたが、江田さんは、これを公明、民社の両党と共産党とのトレードオフの関係を無視した幻想と断じ、本気で自民党政権に代わる政権への道を追求するのなら、何よりまず可能性のある公明、民社の両党に誠意を尽くし、相互信頼を深め、その結束した態勢を基軸として広範な諸階層の参加を求めなければならない、と主張したのです。さらに連合政権の政策は、社公民三党間の最大公約数に求めるべきで、そうする以外に非自民の連合政権を築く現実の道はないことも明らかにしました。政権構想というものを具体的根拠のない観念の世界から、政治社会の現実に引きもとして実践の課題とするうえで、それは極めてポジティブな意義を評価されるべきでした。


だが、正直な話、江田さんの提言に対する私の以上のような理解と解釈は、まったくの「あと知恵」にすぎません。当時の社会党では、江田構想は党の路線から大きく逸脱するものとみなされ、ほとんど理解も容認も得られませんでした。それは「江公民路線」と揶揄され、全党的ともいえる批判と非難が集中することになります。しかもその風圧のもと、それまで江田さんとともに構造改革の旗を掲げて奮闘してきた多くの党活動家、周辺の労組幹部、学者・知識人層のあいだにさえ疑念と動揺が生まれ、私自身も含めて多数の仲間が、一時的にせよ江田さんのもとから離れる始末となりました。
いまにして思えば、構革派活動家たちのこのふるまいは、江田さんに対してのみならず、構造改革論そのものへの理解の浅薄を示すものだったと言わなければなりません。
この理論の源流に位置づけられるイタリアのトリアッティは、第二次大戦末期の一九四四年、それまで反ファシズムの諸政党と対立していたバドリオ元帥にあえて協力を表明、自らバドリオ連立政権に入閣してファシズム勢力に止めを刺しています。中国でも、一九二七年以来二度にわたった「国共合作」が有名な歴史的事実です。私たちは、こうした故事に学ぼうともせず、党内「左派」の教条主義的な批判を押し返せなかったことを深く反省しなければなりませんでした。

その後まもなく構革派のほとんどの仲間たちは、江田グループとの関係を修復しました。だが私はなおも釈然とせず、七三年二月の三六回大会で各派合意の統一役員名簿(挙党体制)を拒否して単独で決選を求め、結果、それまで二年余りつとめた組織局長の役職をうしない、党本部からも離れることになりました。それでも構造改革路線を追求する所信は変わらず、地元の神奈川県本部に入って地方からの巻き返しを図ろうと工作を進めました。だがその私の志をも社会主義協会は「刺客」まで派遣して妨害、県本部大会を大混乱に導く始末で、やむなく断念させられた私は結局、飛鳥田一雄横浜市長のもとに身を寄せることになりました。
飛鳥田さんは社会党の最左派「平和同志会」の出身でしたが、その実際の指導的活動に私たちとの違いはほとんどありませんでした。例えば、直接民主主義の重視を掲げて対話と市民参加の徹底を図り、地域住民運動と自治体闘争を革新の主戦場と位置づけ、さらには巨大企業や国、米軍のふるまいにもさまざまな抵抗と規制の網をかぶせるなど、むしろ構造改革の実践そのものと言えるものでした。それに何よりも、派閥の色眼鏡で人を見ることをせず、相手の地位や立場によって態度を変えることのない、人物としての器の大きさに私は江田三郎さんとの共通を感じ、同様に深い敬愛の念を抱いていました。
ただ、あえて江田さんとの違いを挙げれば、飛鳥田さんは、私たちや保守系の市民に対してさえ強い説得力をもつ極めて現実的な言動を示しながら、かならず「これがマルクス主義なのだ、柔軟に見えても革命のメトーデ(方式)なのだよ」と付け加えるのでした。つまり、そうして「左派」のレッテルさえ身につければ、どんなことも自由にやれるという一種の安全弁、江田さんからは感じられなかった「生活の知恵」だったと思うのです。
それでも私自身は、構造改革派の立場を露わにして横浜市役所で六年間、自由に行動していました。そして、それにつけても、党役員の時代に江田さんの所信の意義を的確に捉えられず、距離を置いたままでいることが悔やまれてなりませんでした。直接、反省の言葉を申し上げたいと思っていましたが、ようやく七七年の春になって東京神田の学士会館でお目にかかり、率直な気持ちをお伝えする機会を得られました。江田さんは「そんなこと気にするな、元気でやれよ」と、以前と変わりない温かい言葉を返してくださったことが無上にうれしく、ありがたくも思いました。けれども、それは余りにも遅すぎた「再会」でした。それから何ヵ月も経たないうちに、私は心から敬愛する偉大な先達、江田三郎さんの訃報に接しなければなりませんでした。

その七七年の一二月、私は社会党委員長に就任した飛鳥田さんに指名されて再び党役員に復帰、五年九ヵ月にわたって委員長の補佐役をつとめ、さらに飛鳥田さんの引退後も石橋、土井委員長の時代をつうじて八八年二月まで党本部で働きました。このおよそ一〇年間、社会党の政策、方針、組織の改革を進め、政権交代にいどむ体制を築こうと懸命に努めましたが、当時六二歳という年齢にも制約され、目標への道半ばで、企画調査局長の職務を最後に党本部から離れなければなりませんでした。それでも引退後の九四年まで、旧江田グループの仲間を中心にした「水曜会」や「政構研」をよりどころとし、リーダーの田辺誠さん〔元委員長〕に従って「社会党改革議員連合」を組織するなどの活動を続けました。その中途で、あとで申し上げる野党再編と社会党の変節に直面、強い衝撃を受けた私は、生涯かけた政治活動を断念せざるを得なくなったのであります。


江田さん。あなたが逝ってから三〇年のうちに、歴史の舞台は大きく変わりました。それは日本だけでなく世界の、人類文明史上の重大な変化であります。以下はそれについて私なりのご報告をいたしたいと存じます。
江田さんは生前、ローマクラブの報告〔一九七二年〕が、「人間の活動が現状のままなら一〇〇年以内に破局が訪れる」と警告したことに強い関心を寄せておられましたね。この問題はその後もますます深刻になるばかりです。自然環境の破壊が進んで空気も水も森も田畑も汚染され、有害食品、環境ホルモンの被害が地球全体に広がり、いたるところで生態系の破壊が進んでいます。また、例えば九七年末の地球温暖化防止京都会議などの取り組みも、超大国のエゴによって成果を阻まれています。私たちはいまだに、確実に迫りつつある人類危機を回避できる展望に接しえていません。
一九六〇年代の半ばから続いていたベトナム戦争は、七三年の春、アメリカ軍が大きな犠牲に耐えられず撤退してから二年後に終わりました。アメリカはその敗北にもかかわらず、その後も今日まで世界の覇権をうかがう強引な態度を変えていません。とりわけ二〇〇一年の「九・一一」以後は、ブッシュ大統領が「復讐」を唱え、「民主化」を口実にアフガン、イラクへの大規模な侵攻を強行するなど、なりふりかまわず力の支配政策を続け、「文明の衝突」現象をますます深刻に展開させています。だが、すでにアメリカの世論は「厭戦」に傾き、ブッシュ路線の持続は日増しに困難になっています。
第二次大戦後、不動のものとも見えた米ソを頂点とする東西の冷戦構造は、つぎに申し上げる東欧革命を経て、一九八九年の末にその歴史の幕を下ろしています。それに代わって今日では、アメリカ一国支配の世界体制となり、そのなかで経済のグローバル化が猛烈な速度で進んできています。世界各国の産業、貿易、金融も、技術や情報、労働市場も、
ともにボーダレスとなり、新しい意味での「アメリカ帝国」に支配されるというグローバリゼーションの展開がそれです。だがこれも、諸国・諸民族間、国内外の階層・地域間の格差拡大につながり、それぞれの摩擦をするどく際立たせているのです。

 他方、歴史を画する重大な変化は、かつての社会主義陣営の側からも生じました。
江田さんの生前、六〇年代の半ばから、すでに中ソ対立が表面化するなどのほころびは見られましたが、その後も、ソ連が頂上に立つ「一枚岩」の体制は陣営内で大きく揺らぎました。その流れを見たソ連のゴルバチョフ書記長が八五年に「ペレストロイカ」と「新思考外交」を提唱、八八年には「新ベオグラード宣言」を打ち出し、それらを受けて自主独立と自由を求める世論と運動がソ連の「衛星」諸国のなかで熱く燃えひろがっていきました。そして八九年の夏、ポーランドとハンガリーにおける民主的政権の成立を皮切りに一〇月には東独の独裁体制も崩壊、ベルリンの壁が崩され、みるみるうちに、かつての東欧諸国全体で市民による民主革命が達成されたのです。
一九八九年一二月、地中海のマルタ島で開かれた米ソ首脳会談が冷戦の終結を宣言したのは、東欧のこの歴史的変動の直後のことでした。そしてソ連じたいも、ちょうど二年後の九一年一二月に解体が決まり、社会主義を離れた独立国家共同体として再編されましたが、バルト三国の離脱、ウクライナや中央アジア諸国との対立などで結束を著しく弱め、ロシア一国の威信を保持するのに懸命になっているのが現状です。
江田さん。旧社会主義諸国のこのような顛末をどのようにお考えですか。私は過去の長い間、この国ぐにの実態を正しく見抜くことができず、むしろ期待さえ寄せていた自らの不明を恥じるとともに、多年の抑圧に耐え、ついに民主的変革の偉業を成し遂げた諸国の人びとに深い敬意を感ぜずにはおれません。そして体制を動かし変革する力が、市民の中にこそあることをあらためて強く認識しています。

さて、私はここでもう一つの国について申し上げねばなりません。もちろんそれはお隣の中国の問題であります。
 中国共産党は、六〇年代の半ばから全土を席巻していた文化大革命の終結を一一年後の七七年八月に宣言し、その後は文革時代の末期に周恩来首相が唱えた「四つの近代化」路線に沿って経済復興重視の政策を進めていました。また、文革の狂乱から解放された中国人民のあいだで急速に民主化要求が高まりましたが、七六年四月の第一次天安門事件で軍隊まで出動させたような抑圧の方針は変わりませんでした。八八年には、民主化運動を抑えながらも、ひたすら経済体制の改革をめざす「改革開放」政策を推進していたのです。
東欧の民主革命はそのさなかに生じ、中国も強い衝撃を受けました。民主化要求の激しい運動が全土にひろがり、とりわけ焦点となった北京の天安門広場では、数万人とも言われる学生、市民が終結してデモや集会をくりひろげていました。そこへ再び人民軍が出動、戦車まで使って鎮圧し、政府発表だけで三一九人もの犠牲者が出る大事件となりました。これが八九年六月四日の第二次天安門事件であります。
当然、中国の権力者には国の内外から激しい非難が浴びせられることになりました。私も、納得できない気持ちを抱きながら、しかし、なぜあの非情な方針が選択されたかについては、つぎのように認識しているのです。
中国では八二年以降、指導層の頂上に立っていたケ小平(軍事委員会主席)が、経済の復興と発展こそ中国の中心課題であり、改革の推進は政治先行ではなく経済先行の道を選ぶべきだ、また、権力の外からではなく、その内側からの自己改革を漸次的に重ねていく、という強い信念を抱いていたと思われます。その信念の強引な現われが天安門事件であり、評価は別として、これも中国流の「改革」だったのかと私は受けとめています。
それ以来、中国の施策は事態の沈静をまって経済に集中、とりわけ九二年に「社会主義市場経済」を唱えてから成長の勢いを急加速させ、今日では、先進諸国とも十分に拮抗する経済・軍事・外交の力を保持し、アジアを中心に国際舞台で相応のリーダーシップを発揮するようになっています。
だが半面、その中国も日本や他の先進諸国と同様、開発・発展にともなう地域間・階層間格差の深刻化や公害・環境破壊の拡大といった難問を抱え、深く苦慮しているのです。そして、そうした課題への対応では、むしろ経験を重ねた日本側が優位に立つ部門も多く、日中協力の推進に新たな重い意味を加えつつあります。私は、これからの日本と中国との関係が、二一世紀におけるグローバリゼーションの展望をも規定する重大な要件の一つになるだろうと考えています。


つぎに、わが日本の問題であります。この三〇年、日本の経済・社会も、政治も、大きく変化してきました。
江田さんが亡くなられた当時の日本経済は、徹底した合理化政策によって七〇年代半ばの円高不況からようやく抜け出そうとしていましたね。ところがその後、七九年末以降の中東戦争と第二次石油危機を契機とした世界の同時不況に直面、そこから脱け出る過程で「重厚長大から軽薄短小へ」といわれた産業構造の大転換を進めました。また、八五年のプラザ合意を経て世界的な金融緩和の流れにも巻き込まれ、その対応で失敗した日本政府は、八七年の後半から九一年にかけての「バブル」を引き起こすことになりました。
それ以降の日本経済は、景気の動向に若干の起伏はあったものの、基本的には「バブルの後遺症」に他ならない長期のデフレと深刻な財政危機に追い回されてきました。例えば、九二年から二〇〇〇年に至る期間だけで政府がじつに一一回、事業規模一二七兆円もの経済対策を進めたのに効果は乏しく、ようやく景況好転が言われ始めたのは二〇〇三年も後半になってからのことでした。だがこれも、ふつうの市民の目線で見れば「好転」とはとんでもないパラドックスに過ぎなかったのです。

二〇〇一年四月に登場した小泉内閣は、「構造改革」と称して従前の保守の施策の枠組みをも強引に踏み越え、「二〇年遅れのサッチャーリスム」といわれた新自由主義的な「改革」の大鉈を振るいました。その結果、私たちの社会は分裂し、富裕層と貧困層、中央と地方の格差が極端にひろがり、少子高齢化社会に備えるべき年金、社会保障、医療などの諸制度は後退と混迷を重ねてきました。道路公団や郵政の民営化も、市民のニーズと利便を無視して強行されました。教育は荒廃し、雇用形態では非正規化の比重が異常に高まり、厳しい競争社会のなかで人びとは大変なストレスを強いられてきたのです。しかも国と地方の借金は八〇〇兆円にも迫って増えるばかりで、その負担は、一〇兆円以上もの公的資金を投入して不良債権の処理に充てたときと同様、市民の側に一方的に押し付けられてきました。
グローバリゼーションの時代といわれますが、経営資源の多くが海外に流れて国内産業の空洞化をもたらした半面、最近では所得収支の黒字が貿易収支の黒字を超えたといわれるように、稼いだカネは私たちの社会に回るより、アメリカとともに世界の市場で跳梁する「金融大国日本」の支えにしかなっていないのです。
江田さん。こうした小泉流「構造改革」をどのようにご覧になりますか。それはかつて六〇年代に私たちが掲げた構造改革とは、まったく異質の、というより最も対極にある対立概念と言うべきではないでしょうか。「諸階層の生活向上を中心目標」とした私たちの構造改革の命題は、そこに、ひとかけらも見出せないのですから。
二〇〇六年九月、安倍内閣が誕生しました。この内閣も、例えば「三位一体改革」を名目に自治体と住民に対する国の財政義務の縮減を図るなど、小泉内閣の政策路線を忠実に踏襲しています。そのうえ「憲法改正」への着手を正面に掲げて国民投票法案を強引に成立させ、「教育再生」と称して愛国心を押し付けるなど、国家主義的な志向を露わにしています。現在、五〇〇〇万人分を超える国民年金保険料の行方不明が暴露され、政府機関の未曾有の失態の前でうろたえていますが、その無責任に対する国民の憤激はかつてない勢いで燃え広がっており、この安部内閣の命脈は、遠からぬうちに尽きるものと思われます。

だがここで、私は、江田さんの時代から三〇年を経過して、なおこのように自民党政権の持続を許している野党の責任にも触れなければなりません。
その第一は、江田さんが最期に見限らざるを得ならなかった日本社会党〔現社民党〕の問題であります。
江田さんの存命中からこの党の「長期低落傾向」が指摘されていましたが、確かに、かつて江田委員長代行のもとで一四五議席を獲得して以来、社会党は一度もその実績を超えたことはありません。それどころか、八九年の参議院選挙で消費税反対の世論と「土井ブーム」に乗って戦後最高に近い四六議席を得たあと、わずか七ヵ月後の九〇年二月総選挙でも、獲得した衆議院議席は一三六にとどまり、しかもその次の九三年七月総選挙では一挙に七〇議席へと半減する始末でした。それ以来、社会党−社民党は急坂を下るようにして今日の「ミニ政党」の姿にまで転落しています。いったいこの原因はどこにあったのでしょうか。
かつて六四年に「成田三原則」(日常活動の不足・議員党的体質・労組依存)が唱えられて以来、社会党内ではこれが党改革・再建の切り札かのように扱われていました。だがこの「三原則」は結果現象の一部を指摘したに過ぎず、政権をめざす党の建設にとって、生産的な意義はまったくありませんでした。
私は「長期低落」の原因として、第一に、この党が政権獲得を至上の目標とし、それにすべてをかける方針と気迫を欠いていたこと、第二に、マルクス・レーニン主義の教条に固執する社会主義協会の勢力が党内にはびこり、派閥を絡めて泥沼の党内抗争をくりひろげたこと、第三に、七〇年代後半からの労働運動の凋落につれ、結党いらい名実ともに党を支えていた「社会党・総評ブロック」が機能しなくなったこと、第四に、草の根からたくましく育っていた市民と市民運動のエネルギーに結合し、これを糾合する方策や努力が弱かったたこと、等々を指摘すべきだと思います。そして最後に、党の命脈を断った致命的な過誤として、一九九四年六月末の自・社連立という、支持者・国民に対する最も重大な裏切りに触れなければなりません。
かつて江田さんと対立し、排除までして固執していた「全野党連合政権」とか「護憲・民主・中立の政府」といった目標がまったくの絵空事に過ぎなかったことは、この、自民党との野合による村山政権の実現が明らかにしました。
この悪夢のような事態は、九三年の総選挙で敗北し、政権の座をうしなっていた自民党を社会党が他の野党に背いて復権させたもので、それまで社会党が掲げてきたいかなる路線、方針にもつながらない唐突な変節、背信の行為でした。しかも社会党は、首相の座を得たものの政権運用の実権はほとんど自民党が握るという実質従属の情けない関係をおよそ一年半、橋本自民党内閣になってからも二年半にわたって続けました。
以来、社民党は九〇年代前半の政界再編の激動のなかで分裂し、いまや見る影もない「ミニ政党」に転落しています。そして野党の立場を放棄して自民党の政権を支える役割は、現在は公明党に代わっています。だが、政権持続のために野党陣営から引き抜いた勢力との連立を図るという、この自民党の政治手法に先鞭をつけて実現させたのが社会党だったという汚辱の歴史は、いつまでも消えるものではありません。

現在、自民党政権に対抗する現実最大の役割は民主党が担っています。この党は、旧社会党や自民党の一部をも糾合し、いわば「寄り合い所帯」で構成されており、既成概念での政党としては未熟で、動揺の要素を多くはらんでいます。だが私は、この民主党にこそ江田さんが唱えた「革新・中道連合」の構想につながる内実が体現されていると考え、政権獲得への道を誤りなく進むことを望んでいます。そしてこの党が、自民党と政権を争う野党として適切な、まとまりのある政策を掲げ、支持の基盤をいっそう広範なものとすることに期待を寄せたいと思います。
そのために江田さん。あなたのご子息である江田五月参議院議員をはじめ民主党内の同志の皆さんが、このうえとも党の改革・前進の中核として活躍されることを心から願い、私も老骨ながら、できることがあれば微力を供したいと考えています。

ところで、自民党と民主党の当面最大の争点は、年金問題、格差問題、憲法問題に集中しているように思われます。私はこれらの問題について若干の私見を申し述べ、この「江田さんへの手紙」を締めくくりたいと存じます。
まず年金の問題ですが、保険料納付記録の膨大な消失という前代未聞の失態に直面した政府・自民党は、狼狽しながら収拾策に追われていますが、その過程で、責任を他党にも転嫁し、被害者である納付者・市民の憤激を分散させようと躍起になっています。この卑劣な策謀を許すわけにはいきません、民主党をはじめ野党陣営は、歴代自民党政権による行政指導の責任を国会で徹底的に追及すると同時に、院外でも、あらためて実態調査と糾弾の活動を進める必要があります。そしてそのための「市民会議」を全国の広範な地域ごとに組織し、市民とともに、望ましい公正な年金制度の再構築に踏み切ることを考えるべきだと思います。

格差問題のうち、とりわけ所得・資産格差の深刻な実態に対して、民主党など野党側の対策はまだ不十分ではないでしょうか。
この問題を生じさせてきた最大の原因は、歴代の自民党政権が所得再配分の政府機能を大きく後退させてきたことにあります。例えば所得税の税率は、富裕層に対する戦後の最高税率が八五%であったものを一九七〇年代はおおむね七五%、八九年には五〇%と逓減させ、さらに九五年以降は三七%へと極めて手厚い減税策を重ねています。景気浮揚のためとか、内外資本の流動を保障するためとかの理由を挙げていますが、景気の浮揚効果は中間層以下への減税や社会保障の充実のほうがはるかに大きいことが常識であり、また、このまま二極化が進んで健全な階層構成が崩れる社会に、投資対象としての魅力もなくなることも明白であります。私たちは、かつて日本の高度経済成長が、中流社会の形成と同時進行であったことを忘れてはいません。
それなのに自民党政権は、法人税の減税やキャピタルゲインの保護などには熱心な一方、昨今の定率減税の廃止(実質増税)や消費税引き上げ計画の公然化、さらには社会保障、年金、医療に対する財政支出の削減など、露骨な格差助長の施策を進めています。私は、野党陣営が、さきに触れた自治体財政への抑圧に対する抵抗と同時に、この所得格差の問題をも正面に掲げ、積極的な再配分政策をもっと鮮明に打ち出すよう期待しtいます。

もう一つは、安倍内閣が公言している憲法改正の問題であります。これは国民投票法の強行成立によってにわかに実現性を強め、数年内にも戦後最大の国民的争点になることが予想されます。それなのに民主党の対応がまだはっきりとせず、まとまりもないように見えるのはどうしたことでしょうか。
一方、市民社会ではすでに敏感な反応が現れ、「九条を守る会」などの運動を各地で展開しています。私は、現状では改憲に対して基本的に反対です。自民党側の最大の狙いは、九条を改めて「普通の国」として戦争への加担に対する制約を取り除くことにあり、これは何としても阻止しなければならないと考えます。
だが半面、憲法第九条は自民党政権のもとすでにボロボロにされ、違憲の実態が巨大に集積されてきたという現実を無視することはできません。しかも率直に言えば、九条をその条文のまま完全に実現することは、もはやだれにも不可能なのです。九条があっても、日本の軍事力の水準はすでに世界のトップレベルにまで達しています。もしも近未来のうちに、世論が老獪な自民党に言いくるめられ、無条件に、憲法と九条の改定をも許してしまったら、日本の軍国化には一挙に何の歯止めもなくなってしまうでしょう。こうした現実を直視するとき、私は、たんに「憲法を守れ」「九条を守れ」という主張一点張りの運動や政策だけでいいのか、という危惧を感じています。
だから私は、もっと実際に即して国民の圧倒的な支持が得られる条項、例えば徴兵や核武装・大量破壊兵器保持の禁止、海外での戦闘行為の禁止、日米安保条約の範囲や機能への明確な制約といった具体的な歯止めの条項を「平和保障基本法」として定め、それには憲法と同一の改正手続きを規定{国民投票法の改正によって可能}する、などの方策が必要だと考えています。そうすれば、現行憲法とその第九条に指一本触れさせないという態度よりも、はるかに有効で強力な、二段構えの歯止めの構築が可能になると思うのです。いずれにせよ、私たちが、日本国民の運命にかかわる平和憲法の課題を、「最後の砦」とするかのように「オール・オア・ナッシング」で扱うのは危険極まりないことです。
私は、若いころ、自衛隊の海外派遣とか、潜水艦、イージス艦、ミサイルの保有など想像もできなかった事態が、現行憲法のもとでさえ現実化していることの重みを、いまこそしっかりと踏まえなければならないと考えています。

以上で私は、最も敬愛してやまない江田三郎さんの御霊に向かって、逝去後の世界と日本に生じたさまざまな動向についてのご報告を閉じます。
江田さん。あなたなら、どうお考えでしょうか。
最後に、心からご冥福をお祈り致します。


船橋 成幸 (ふなはし・しげゆき)
1925年朝鮮平安北道生まれ。神戸高等商船学校中退。戦後、船員生活を経て全日本海員組合専従。労農党本部書記。社会党に合流、同党組織局長。飛鳥田一雄横浜市長のもとで同市参与。飛鳥田社会党委員長の指名中執。企画調査局長。著書に『 <証言> 戦後半世紀の政治過程』 (明石書店)。


政治家の人間力 第二部 江田三郎への手紙 ホーム目次前へ次へ