第七章 英国留学 目次前へ次「盛んなパーティー」

  オックスフォードヘ

 東京地裁で勤務を始めたその年の夏休みに、最高裁の矢崎人事局長に呼び出された。何事かと思って行ってみると、英国留学の話だった。国の予算で毎年、行政官庁から海外留学生を派達しているのだが、その中に、最高裁も、国鉄、電々公社と並んで、一人の枠を確保している。二十期の裁判官の行先は英国で、翌四十四年七月の出発となるというようなことを説明した後、矢崎局長は「ところで君は、裁判官をずっとやるつもりか」と質問した。私は「今は、将来やめるつもりはありません。少なくとも当面は続けるつもりです。しかし将来何が起こるか分かりませんし、ずっと続けると約束できるものではありません」と答えた。これは全く正直な気持であった。それ以外に言い方がなかったのだが、結局「試験を受けてみろ」ということになった。裁判所からもう一人受けたが、私の方がパスした。

 それでも私としては心配だった。今はその心配のとおりになったわけだが、途中で裁判官をやめた場合、「国費留学までしてやめてしまった。税金を食い逃げしたみたいなものだ」と言われて、「司法の世界からボイコットしなけりゃいかん」というようなことになると困る。先輩にも相談したし、父にも相談した。父は 「夏目漱石をみろ」といった。漱石は東大の教官として同じ英国に国費留学した。ところが帰国して間もなく辞職した。だからといって、当時から現在に至るまで、「税金ドロボウ」と漱石を非難した人間はいない。「裁判所に終生勤務するかどうかといった狭い意味でなく、大きな意味で留学の成果を社会に還元できれば、誰も何も言わない。自分にその自信があるなら、胸を張って行け」というのが父の結論だった。

 翌年四月から行政官庁の人たちとともに人事院の研修を受けた。行き先別で米国二十人くらい、英国六人、仏、独各二人で合計三十人くらいだったと思う。行政官庁では広く希望者を募り、一種の競争試験で合格した人が来ているわけだから、私よりも優秀で、語学力もあったのではなかろうか。私は裁判所の仕事が忙しく、英語を学ぶ暇もない。「行けばなんとかなるさ」という気持だった。研修所では日本の経済、古典文学、伝統美術のような内容の講義が多く、京都へ行って座禅を組んだりもした。「一人ひとりが大使になったつもりでやれ」といわれたが、こういう大時代的な発想が、海外で日本の評価が低い一つの原因ではなかろうか。「一人ひとりが個人として自然に振舞えるようになれ」という方が、余程大切なことではないか。

 私の留学先はオックスフォードリナカー・カレッジと決まった。大学院に入ることになるわけだが、研究テーマを決めて連絡しなければならない。私は日本と比較して英国の「法の支配」を研究したいと連絡した。日本では「法の支配」という場合、法律が支配しているのだから国民は法律を守らなければならないという意味に使われることが多い。これは英国とは逆である。英国では法によって支配されるのは権力であり、行政庁である。法とは「人民の意思」であり、人民が法によって権力、行政庁を支配することなのである。そういう英国の法についての考え方を徹底的に研究したいと思った。

 七月一日にアンカレジ経由で飛び立った。最初の二ヵ月はケンブリッジで語学教育を受けた。ケンブリッジで最も強く感じたのは、土地が広いことだった。これは英国全体について言えることだが、山岳地帯が少ないため、平地が実にゆったりしている。ケンブリッジは、ケム川が、流れているかどうかわからないほど、本当に「たゆたう」という感じで流れ、その周囲は広々とした草原である。種々の花が咲き乱れ、リスも走り回っている。郊外には雰囲気のよいパブ(酒場)がたくさんある。日本の大学では想像もできないような良い環境だった。

 各国からの留学生とともに英語教育を受けてみて、あまりに言い尽くされていることだが、日本の英語教育は文法を重視しすぎた「学問としての英語」に偏りすぎ、実際の役に立つ英語ではないということを痛感した。日本人は、独、仏からの留学生よりペーパーテストの成績は良いのだが、聞くこと、話すことはさっぱりである。私ももちろん大変な苦労をした。

 日本の英語教育の欠陥はたしかに一部で改められつつある。しかし高校、大学の入試が現在のペーパーテ ストで行われるかぎり、全国的に「話す英語」優先になることは、なかなか難しいのではなかろうか。日本人が世界各国に進出している現状で、外国人と十分に意思疎通できる人が限られているということは大きな問題である。

 外国からの留学生と話すチャンスは多かった。アラブ産油国の留学生たちは、まるで王子さまのように楽天的だった。額に汗して働いて生活の糧を得るという生活とは全く無縁な世界にいるのではないかと思い、彼らの笑顔を喜べなかった。アジアやアフリカの一部の国の留学生たちは、独立後の経済建設の失敗で、祖国の将来についてあきらめ切っているように見えた。「祖国が疲弊し、堕落し切っている。もう駄目だ」と自ら言い、「帰りたくない」とあからさまに語る。彼らは先進国に事務所を持つ国際機関の職員になることを理想としている。国連などで発言力を強めているアジア・アフリカ民族主義の裏面をかいま見たような気がした。

 アラブ諸国の人たちが最もエキセントリックな感じだった。当時は中東紛争が燃えさかっていた頃だ。その問題ではアラブの主張に全面的に一致する人間でなければ受け入れないという堅い姿勢だった。アラブ諸国についてちょっとでも批判すると、十倍ぐらいの反論が必ず返ってくる。これもそれぞれのお国振りだろう。

 語学教育を終えて、九月からオックスフォードに移り、本格的な留学生活に入ったが、この段階で家族を呼び寄せることにした。私の分は旅費、滞在費、学費等のすべてが支給されたのだが、家族の分はない。しかし別れて暮らすのも不自然なので、留学中の私の月給など、すべてを注ぎ込んで、家族一緒に暮らすことにした。

 オックスフォード中心部で妻京子、長女真理子と

 ケンブリッジにいる間から、家を捜した。新聞広告やオックスフォードの知人を頼ってやってみたが、適当なのがない。結局おもちゃ屋の二階の、やや広すぎる家に決めた。台所と二十畳ぐらいの居間、同じ広さの寝室、四畳半ぐらいの部屋二つだ。家具もすべて揃っている。家賃は月三万五千円位だったが家計には大きな負担だった。九月初め妻と長女が来て、とにかく英国で家族揃っての生活が始まった。真理子は別れた時ちょうどつたい歩きを始めたくらいだったが、二ヵ月あまりの間にもうすぐ歩けるまでに成長していて、喜んだものだ。

 オックスフォードでの指導教授はH・W・R・ウェイド教授だった。五十歳を少し越えた行政法と土地法の専門家であった。八月にオックスフォードへ行ってあいさつした。「初めの一年間は講義に出席し、図書館で本を読み、いろいろ吸収したらよい。後の一年間で論文をまとめ、口述試験もあるので、その準備をしたらよいだろう」というアドバイスを受けた。

 オックスフォードでは図書館に専用の机一つを与えられ、勉強を始めた。しかし英国の大学は極めてのんびりしている。八週間の学期が三回しかない。六、七、八、九の四ヵ月にわたる夏休みがあけて十月、十一月が一学期。十二月と一月前半が休みで、一月後半から三月初めが二学期。四月、五月が三学期となる。自由な時間が極めて多い。貧乏だけど、旅行する時間だけは十分にあった。

 最初に旅行したのは東欧旅行の船で同室になったジョン・ヒラム氏の家だった。ヒラム氏はケント州の東のはずれ、ドーバー海峡沿いのお城に住んでいる。やや小さ目の城だが、城主の貴族が相続税の負担に耐え切れなくなって、城を小区画に分けて分譲した。三部屋ぐらいずつの一区画をヒラム氏が買って住んでいるわけだが、他にもたくさん居住者がいた。英国には珍しい気候温暖の地で、ヒラム氏のような年金生活者が住むには最適の場所であろう。

 歩いて約三十分のところにその町の中心街がある。買い物などに行って驚くのは、道に老人ばかりがズラリと並んで、日向ぼっこをしていることである。皆年金生活で余生を送っているという。何故か子どものころ本で読んだ「ゾウの墓場」を思い出した。それが福祉国家のある一面であり、年金生活者たちは満足しているというのだが、社会的に見てそれでいいのかどうか一つの問題であろう。

 一週間滞在したが、食事はほとんど冷凍食品だった。チキンでも魚の切身のフライでも冷凍食品を買ってきて、オーブンで暖めて食卓へというわけだ。野菜もカンヅメばかり。ヒラム氏が一人暮らしの男性だからというわけではない。英国の一般家庭でも同じように冷凍食品を使っているらしい。他には安い肉を買ってきてグツグツ煮るシチューのような料理が多かった。

 ヒラム氏はグランドピアノを持っている。夕食後ピアノを置いてある部屋に行き、コーヒーを飲み、葉巻をくゆらしてから、おもむろにショパンなどをひく。これが非常に上手だ。フランス人の母親に仕込まれたそうで、若い時にはプロと間違えられたと自慢をしていた。

 ヒラム氏も昼間は日向ぼっこだ。ゆっくりと歩いて買物に行く。そして必ずといっていいほど切手と絵はがきを買ってくる。友人に葉書を出し、また友人からの便りを待つ。たまに友人が訪ねてくるのも無上の楽しみらしい。ピアノを聞いてもらい、これまでの人生を振り返って自慢話でもして悦に入るといったところらしい。いずれにせよ、「白い壁」といわれるドーバー海峡の絶壁の上に建てられた、ハムレットの舞台のようなお城で一週間も過ごさせてもらったことは、良い思い出になった。そのヒラム氏も五、六年前に亡くなった。


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