第六章 司法修習生―― 裁判官 目次前へ次「オックスフォードへ」

   厳しい 「二回試験」

修習生仲間と鉄道見学 修習の最後に「二回試験」というのがある。司法試験が一回目の試験であるから、修習終了時の試験を、こう呼ぶのだろう。これが猛烈な試験で、まず刑事裁判、民事裁判、検察、刑事弁護、民事弁護の五科目について、一科目一日がかりの筆記試験がある。各分野とも裁判記録、捜査記録などをポンと与えられ「これで判決を書きなさい」「起訴状を……」「最終準備書面を……」というような課題である。一つの試験が午前十時から午後五時まで七時間に及び、昼食は弁当を試験場で食べる。便所へ行くにも係官が付き添ってくるということになっている。

 これを五日間ぶっ続けでやった後、さらに口述試験がある。十日間ほどにわたって、全く息が抜けない。筆記試験の間に病気にでもなったら大変だ。毎年一人か二人はこの二回試験をパスしない人がいる。一年後の試験を待たなければならない。

 裁判官に任用されたのは四十三年四月五日だった。その直前に採用面接があった。当時の矢崎憲正最高裁人事局長が「なぜ裁判官を志すのか」という。「あまり覇気のない人ばかりが裁判官になると、司法の将来もおかしくなるのではないでしょうか。私みたいに、思い切って何かをやるようなタイプの人間が少しぐらいはいてもいいのではないかと思った」と答えた。さらに、「学生運動で起訴された学生の裁判をすることになったらどうしますか」という質問があり、「それは現行の法律に従って裁くだけです」と答えた。四月五日に判事補に任命され「東京地裁判事補に補する」との辞令をもらった。

 矢崎人事局長には、修習生になるときも面接を受けた。後にイギリス留学に出発する時もお世話になり、千葉地裁勤務の時には、矢崎氏が所長だった。

 青法協退治の元凶のように言われ、一部では強く批判されているが、暖かい人柄の、正義感の強い尊放すべき人で、現在広島高裁長官である。

 五日には、とりあえず東京地裁にあいさつに行き、一週間ぐらい後に着任した。民事部に属することになった七、八人が民事部の所長代行のところに挨拶に行ったが、誰もが口を開かず、しり込みしている。「このたび東京地裁民事部に配属されました第二十期の判事補一同です。よろしくお願いします」という挨拶を、私がやらざるを得なくなった。この時のことを後に「やはり江田君は人の前に立つ」などといわれたが、非常に心外だった。

 私は民事第十六部の岩村弘雄裁判長の左陪席となった。岩村裁判長は後に労働部に移り、身なりに全くかまわない学校の先生が、散髪もせずヨレヨレの服で授業するのは職務の適格性に欠けるという理由で解雇された事件で、この解雇を不当とした。教師は生徒といかに人格的につながっていくかが大切なのであり、ネクタイをしめるというようなことが大切なのではないとし、「巧言令色、少なし仁」と結んで、話題になった。また公務員の争議行為についての判断などで、労働界から歓迎された。

 着任のあいさつに行くと岩村裁判長が「一緒に食事しよう」と、五年先輩の右陪席判事と揃って食事に行った。食事から帰ると、「それじゃあ午後の法廷だ」と、当然私も法廷へ出なければならない雰囲気だ。「法服がありませんが」というと「そのへんで借りて来なさい」という。

 なんの下調べもなしに法廷に入ったら、証人尋問をやっていて、あれよあれよという間に裁判長が「弁論を終結します」と結審にした。終了後「記録整理の後十日でこの判決書いてらっしゃい」という。「初日はあいさつだけ」と思っていた私はびっくりした。岩村裁判長のやり方は何事によらず積極的で、事件の処理もスピーディーだった。私はその後もずいぷん影響を受けた。私が新任判事補に厳しかったのも、岩付裁判長の影響だろう。

 最初の事件は名誉毀損で、ある犯罪について新聞で大ゲサに書きすぎているというのが原告の訴えだった。私の初めての判決は「大筋において事実に間違いがなければ、少々大ゲサなところが混じっていても名誉毀損は成立しない」というものだった。もちろん、いろいろと留保はついているが。

 英国留学まで一年三ヵ月の間民事第十六部勤務だったが、この間いつも百件近い事件を持っていた。民事第十六部には私の他にもう一人左陪席がいて、事件の主任は常に左陪席というシステムになっていた。主任が中心になって記録や証拠を検討し、和解を試みたり、判決を書いたりするわけだ。かなり忙しい日々を送った。

 新聞などで最も話題になったのは、ある芸能人夫妻の名誉毀損事件だろう。夫妻が結婚前に「同棲している」と週刊誌に書かれた。夫妻の側から「事実無根」と訴えが出された。週刊誌の側は「後に結婚したのだから、別に損害を与えていない」と主張した。判決は原告勝訴で、週刊誌側に謝罪広告と、慰謝料の支払いとを命じるものだった。

 こんな中で民事裁判がしだいに面白く感じられるようになって来た。この世の中では、あらゆる問題について、こじれてくると、当事者双方が激昂し、悲憤し、口角泡を飛ばして議論するということが至る所で見られる。しかしそれを冷静に判断し、双方の主張をかみ合わせてみると、それほど全面的に対立しているわけではない。本当に対立している個所はわずかで、そこの部分についてどちらが正しいか判断すれは良いわけだ。そういう整理の作業が民事裁判の作業といえる。

 こういう作業は政治にも極めて大切だと思う。例えば安保条約をある政党は堅持するといい、他の政党は廃棄するという。それは一見まるっきり違うように見えながら、よくよく整理してみると当面の外交方針としてはほとんど違わないということもあり得る。

 安保条約堅持という側は 「その内容を軍事的なものから、経済的な関係を重視する方向に変えていかなければならない。軍事条約の性格を薄めて、戦争誘発の危険性をなくしていかなければならない。そのためには国際的な環境作りが重要である」という。安保廃棄を主張する側は 「すぐに廃棄するということは非現実的なので、廃棄の方向に向けて国際的な環境作りをしなければならない。そのためには関係諸国間の紛争をなくするよう努力しなければならないし、当面経済関係を密接にしていくことが重要だ」と主張する。そうすると当面現実に何をやるかは全く変わらなくなっている。政治の議論は、どこが同じでどこが違うか、ち密に検証していくという作業を全くやっていない。そういう意味では法律的思考、法律的訓練は政治の場面で役に立つと思う。

 裁判での証拠についての考え方も役立つ。ある事実について一方が証拠を出せば、他方はその証拠を弾劾し、別の証拠を出すことになる。ある人が「暑い」といったことが、本当にその日暑かったということに結びつくかどうか。その人がいつ言ったのか、どういう環境の下で言ったのか、その人の感覚は正常かどうかなど、いろいろチェックしなければならない。反対にその人が「寒い」といったという証人も出て来たりする。こういう証拠関係の細かい検討も、政治の場で絶対必要なことだ。

 今はそれぞれの政治的立場があまりに先行し過ぎている。その政治的立場に合致する証拠については故意に拡大し、ことさら証明力があるかのように上手に使うが、反対の証拠については見向きもしない。このため不毛の論争が続いている。そういう見地からみても、裁判の論理が、政治にインパクトを与える余地がある。

 さらに民事裁判は調整の場である。対立する利害を調察し、双方ある程度満足し、ある程度不満足というところで紛争を解決する。和解の段階までは、この調整作業が特に重要である。判決でも、表面的にはこの調整の原理が働いていないかのように見えながら、実は底流に生きている場合が多い。この調整作業は、政治そのものであるといっていい。これと正義の実現との関係は、後に書く。

 裁判所の内部にもいろいろの問題はある。例えば事実上ほとんど訴訟指揮をしない裁判長もいる。当事者の言いなりになり「もう何もやることがない」ということにならないと結審しない。どの事件も全て当事者双方が対立しているのだから、紛争の結着が「早い方が良い」と思う当事者と「遅い方がよい」と思う当事者とがいる。訴訟指揮をほとんどしないことによって、裁判所は一方の当事者を利しているわけである。

 そういう自信のない裁判長の下では(極端にワンマンの裁判長の下でも同じことだが)合議の三人の意思疎通を著しく欠くことがある。こういう時に主任の左陪席に覇気がなければ、彼は結論が正反対の判決を二通書いてそのどちらが良いかを裁判長に選択してもらうということすらあるという。これは多分誇張もあるだろうが、こんなことではもはや裁判ではない。

 私の属した合議部では、幸いどの部の時も、裁判長の訴訟指揮は明確だし、日頃の雑談の中でも、事件についての意思疎通をはかっていた。もちろんきちんとした合議をやって、三人三様の意見が出るといったこともあったが、おおむね合議部としての意思はまとまっていた。それが望ましい姿だと思う。

 裁判官になりたての四十三年七月一日に、長女、真理子が誕生した。名前の付け方で迷い、いろんな人にも相談したが、結局、真理を愛する人間になってほしいということで決めた。杉並区のアパートに引っ越したが、台所が少し広くなり、風呂がつき、三畳の部屋が増えただけで、相変わらず狭い家だった。


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