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三、 社会主義への多様な道と『構造改革路線』の登場


1956年2月に開かれたソ連共産党第20回大会は、社会主義世界に新しい時代を開く重要な方針を打ち出した。国内政策面ではスターリンを「個人崇拝」をはびこらせた点で痛烈に批判し、社会主義的法秩序、党内民主主義、集団指導性を樹立し、工業・農業生産面ではその誤りを是正することを強調した。スターリン批判と並んで、この大会が行った最も重要な理論的展開は、(1)戦争の不可避性の否定、(2)社会主義への平和的移行の可能性の承認、(3)社会主義の多様性の確認の三つの点であった。採択された中央委員会報告に関する決議は次のように述べている。「すべての国は必ず社会主義に到達するが、どの国民も全く同じ道をたどる訳ではない。各国国民は、民主主義の形態、プロレタリアート独裁の形態、社会主義革命の速度で、それぞれ独自のものを発見するであろう。現在、ソ連の形態と並んで、人民民主主義(注)の形態がある。この人民民主主義にも、それぞれの国の条件により、多くの特殊性がある。社会主義への移行の形態はますます多様なものとなる。」と。

(注)東ヨーロッパの諸国はファシスト国家によって侵略され、そこの住民はあらゆる民主主義的権利を奪われたが、彼らの大多数は、ファシズム的支配をくつがえして全人民に民主主義的権利を奪還する為に結集した。そしてソ連軍を主力とする武力によって国土が回復される過程で、ファシズムと協力した旧権力が打倒されて、新しい国家が成立した。これらの国は自己を人民民主主義国家と呼んだ。一般的に言えば、人民民主主義はプロレタリアートの独裁の一形態と言ってよい。

社会主義圏において、絶対の権威とされ、自らもプロレタリア国際主義の中核とみなし、「正統」であると自任してきたソ連共産党が、社会主義への多様な道を認め、ことに人民民主主義諸国の具有するそれぞれの「条件」と多くの「特殊性」を承認したことは、きわめて、重要な意義を持つものであった。それは、ソ連一国を除いて、社会主義圏の大部分の国々が人民民主主義形態をとっていたからである。又、社会主義諸国と世界の共産主義的諸政党がもつ、地理的、歴史的条件ないし、民族的、文化的風土その他多くの「特殊性」が、これら政党の活動の上にようやく表面化し、それが政策やイデオロギーの面にもあらわれてきたためである。

ソ連自らにおけるスターリン批判の展開は、ソ連の国境を越えて波紋を広げ、国際共産主義運動全体の中でのさまざまな形の「非スターリン化」をもたらした。その受け取り方にも多くの相違がみられ、ポーランドのように、ソ連との「経済的不平等関係」の是正やゴムルカ(一九五一年に投獄された。)の党第一書記への復帰まで含め、大胆に「非スターリン化」を進めた国もあれば、ハンガリーのように第20回大会の方針は、ハンガリーの反右派政策の正しさを確認したものだとした国もあった。中国共産党は、『プロレタリアート独裁の歴史的経験について』という論文において、「この勇敢な自己批判は、党内生活の高い原則性を現わしたものである。」として、スターリン批判を高く評価し、個人崇拝を批判したが、同時にスターリンの「不滅の功績」を大きく賞賛し、又「個人崇拝は幾百千万の人々の一種の習慣の力である。」とする微妙な発言を行った。

ところが、「非スターリン化」はこうした受け取り方にとどまらず、共産主義陣営内における内部矛盾を顕在化させる結果ともなり、とりわけ東欧諸国に大きな動揺をもたらした。1956年10月のポーランドの民族主義的な「10月革命」や、同年の“ハンガリー動乱”は最も著しい例であった。又非スターリン化は1960年以来公然化され、現在に至ってますますその激化をたどる中ソの対立にも深刻な影響を及ぼしている。

「非スターリン化」を冷静に毅然たる態度で受け止めたのが、イタリア・マルクス主義であった。すでに述べたように、グラムシは社会主義運動を理論と実践との同一性に求め、単なる公式論をのり超えた形で、イタリアにおけるプロレタリアの主導権への道を具体的に示したのであった。これを受け継いだトリアッティは、至るところで「社会主義への道の多様性」を力説した。彼によると、社会主義への必然性は、「一つの政党の決定から生まれるのでもなければ、その能力ないし、力から生まれるものでもない。それは、今日の社会を織り成している現実的諸力と主観的諸力の発展と諸矛盾から生まれる。……社会主義は資本主義そのものの内部で客観的に成熟するものといえる。従って、この成熟の条件と形態は明らかに、場所と歴史の時期とが異なるのに応じて異ならざるをえない。単に資本主義制度の密度が異なっているだけでなく、さらにその構造そのものが異なっている。」(『イタリアの道と民主主義政府のために』)

そこで又、「社会主義への前進は、おのおのの国の経済的、政治的、民族的、文化的諸条件及び特殊性に応じて、異なったやり方で行われなければならず、異なったやり方で労働者階級によって導かれねばならない。」(同)となる。

こうした基本的考え方に立って、“社会主義へのイタリアの道”即ち『構造改革路線』が明確に打出されたのは、ソ連共産党第20回大会と同年の1956年12月のイタリア共産党第8回大会のことである。だが、その前の6月にすでにトリアッティの有名な党中央委員会への報告があり、その中で新しい方向についての背景が説明されていたのである。


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