2000/09/12 ホーム総目次日誌に戻る

さようなら、寺田さん   井上 康生

昨日、岡山のお世話になりっぱなしの方から電話をいただきました。8日に寺田明生さんが亡くなられたとのことでした。 脳硬塞による急死。広島で出会った皆さんは、きっと寺田さんのことをご存じないでしよう。

寺田明生。元岡山市議会議員。
3期目の在職中、韓国籍の女性と日本の男性を偽装結婚させたとして、公正証書原本不実記載の容疑で逮捕され、裁判で執行猶予つき有罪。

こう書くと、寺田さんを知らない人は「とんでもない人物」と思われるかも知れません。確かにとんでもないところのある人でした。しかし私は、彼が大好きでした。私が何を書かずとも、寺田さんをよく知る人たちは、きっと終生彼を忘れず、深浅はさておき、情愛を感じ続けるでしょう。

その意味では、これから記す寺田さんへの追悼文は、単なる私の自己満足に過ぎないかもしれません。しかし書かずにはおれません。寺田さん、ぜひこの駄文を天国で読み、「おい、こうせいよ、もっとしっかり書けよ」と苦笑してください。


 20年近くも前のこと、当時の岡山社民連事務所に、寺田さんが巨体を揺すりながら駆け込んできた。 そしてやおら、その場いた私と橘さん、古山さんに向かって、「おい、君たちはどう思う」と切り出した。

 その日、岡山県湯原町では、日教組の教研集会が開催されていた。これに反対する右翼たちが宣伝カーを連ね、一触即発の状態だった。「これは民主主義の危機だ」と寺田さんは言った。「君たちはこれを手をこまねいて見ているのか」と言った。日教組の考え方には異論がある。しかしそれを恫喝によって阻止しようとする右翼の態度は、言論の自由を踏みにじるものである。寺田さんはそう宣言し、「これからみんなで湯原町に行こう」と言った。  私たちはどうもこうもなく、急きょビラをガリ版で刷り、一路湯原町に向かった。ビラの文面は「右翼の諸君へ。自分と異なる意見を述べる者を力でねじ伏せることは許されない。『僕は君の意見には反対だ。だが君が その意見を述べる自由を、僕は死を賭して守る』という言葉がある云々」といった内容だった。

 しかし残念ながら、その格調高いビラは日の目をみなかった。湯原町へ言ってみると、右翼の宿泊している旅館の周囲は機動隊が厳重に固め、私たちが間隙を縫ってビラを配付することは不可能だったのだ。今から考えれば、いささか滑稽な行動。しかしこれこそが寺田さんの真骨頂だったと思う。

 ことに金銭や物質に関しては、驚く ほどルーズかつ鷹揚だった。寺田さんが逮捕された一件。日本に滞在したいと願う韓国の女性のために、寺田さんは日本人男性との偽装結婚をあっせんした。警察、検察は、それを「金目当ての犯行」ととらえたフシがある。さもありなん。市会議員として社会的立場を得た人間が、単なる義侠心でそんな罪を犯そうか。しかしそれは寺田明生という人間を知らぬ者の陥る誤謬に過ぎない。事件の裁判を傍聴した時のこと。検察官が、「あなたは、偽装結婚をあっせんした女性から、謝礼を受け取っていただろう」と寺田さんにつめよった。寺田さんは困ったような顔で「さあ、もらったこともあったかもしらぬが、覚えていない」と答えた。言い逃れではない。寺田さんは本当に覚えていなかったのだ。金銭に関しては、余りに淡白というか無頓着な人だった。 率直に言って、経済観念は皆無に近かった(おそらく多額の借財もあったに相違ない)。

 寺田さんが「偽装結婚」のあっせんをしたのは、韓国・朝鮮への強い思いからだった。幼少時代を日本が植民地支配していた朝鮮半島で送った寺田さんは、常に韓国・朝鮮の人々への贖罪の念を語っていた。贖罪の念はやがて一種のあこがれへと転化していったかも知れない。壱岐で生まれ、朝鮮半島に渡り、幼くして両親をなくした寺田さんにとって、日本は決して自明のふるさとではなかったように思われる。コスモポリタン、デラシネ、楽天的なアナキスト。私が寺田さんを好きでたまらぬのは、彼の中に私と共通する、「日本になじもうとしない、日本になじめない気質」を感じ取っていたからかも知れない。

 裁判で、寺田さんはアジアの人々に対して日本の戦争責任を認め謝罪した、細川首相(当時)のスピーチを証拠申請した。寺田さんの気持ちの中では、裁判は戦後、戦争責任をあいまいにしたままできた日本の恥ずべき態度を糺す「法廷闘争」だった。ちなみに、スピーチの証拠申請は当然のごとく却下された。まさにドン・キホーテ。「世間」は、寺田さんの行動を「忌わしい、もしかしたら金目当て、あるいは韓国人女性を篭絡しようとする色目当ての犯罪」として、あっさりと処理してしまった。私はそれを許せないとは思わない。「世間」とは所詮そんなものであり、また、いかに寺田さんが高邁な理想を語ろうとも、彼の行った行為は、客観的に見て支離滅裂、荒唐無稽なものだった。しかしそれこそが、「寺田明生らしさ」なのだ。

 裁判が終わってから寺田さんに会ったのは一度きりだ。判決が降りて1年ほ ど経ったある日、ある事情で私を含め何人かが寺田さんを岡山で迎えた。元気そうだった。「おい、こうせい、元気か」。あの人なつっこい笑顔。タバコのヤニがついた歯を見せながら、グローブのような手で私の手を力強く握ってくれた。私は咽がつまって、まともにものが言えなかった。

 さようなら寺田さん。誰が何と言おうと、私はあなたに会えて本当によかった。


ホーム総目次日誌に戻る