1983 核問題・軍縮問題に取り組む

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太平洋を非核、平和の海に
 バヌアツ会議(非核独立太平洋会議)について前野良・長野大学教授に聞く

 バヌアツ会議とは
――バヌアツで開かれた「非核独立太平洋会議」に参加されましたが、どんな様子でしたか……。

前野 バヌアツ共和国の首都ポートヴィラで、七月十日から二十日まで、第四回の「非核独立太平洋会議」が開かれました。

 この会議は、「太平洋問題情報センター」(PCRC)と「バヌアツ太平洋コミュニティ・センター」(VPCC)の共催でもたれたもので、三十三カ国から百六十名の代表が参加しました。

 日本からは、沖縄原水禁の福地曠昭さん、日本原水協の吉田嘉清さん、自主講座の横山正樹さん、日本キリスト教協議会の水野たかしさん、それに私と計五名が代表に選ばれて出席したわけです。

 会議は、バヌアツ政府や与党バヌアク党のバックアップで開かれ、ブーケンビル高校を全面的に提供してもらいました。高校の寄宿舎が代表たちの宿泊施設となり、その食堂や教室などを使用して会議がもたれるという具合でした。


 独立と核問題がテーマ
――どんな形の会議を……。

前野 最初の十日から十四日までがシンポジウム形式で誰でも参加できるものです。後半の会議(十五日〜二十日)は代表だけが出席するものでいわば非公開です。その代わりこの後半の会議は、早朝から深夜まで徹底的な討論をするというもので、「民主主義とは時間のかかるもの」という諺を地で行くような会議でした。

 テーマはまず第一が「独立」問題なんですが、これが三つに分かれていました。それは、(1)植民地ポリネシアの独立で、ニューカレドニアやタヒチなどフランスからの独立、(2)「内部植民地」のなかでの自治の要求− つまり、インディアン、アボリジ、マオリそしてハワイの先住民などの自治の確立、(3)第三世界による植民地化反対、具体的にはインドネシアによる東チモールの植民地化とこれに対する独立闘争です。

 同じ独立といっても、それぞれ相手も違うし、要求の内容も異なるので、具体的に討論しようという配慮がみられました。

 第二のテーマが「太平洋の核化と軍事化」の問題で、とくに核燃料サイクル問題と核廃棄物の海洋投棄問題が議論されました。ここではフィージー政府のエネルギー問題の専門家が報告していました。

 第三のテーマが「放射能と核実験」問題で、アメリカの公衆保健の専門家であるロザリー・バーチェル女史が報告しました。

 第四が「太平洋・インド洋における戦略的ホット・スポット」というもので、ニュージーランドのオーエン・ウィルクス(前スウェーデン国際平和研究所員)が報告をしました。フィリピンやハワイ、それに沖縄などの軍事基地の役割を分析して、どうしたら非核化できるかというような報告をしていました。

 その他に、太平洋諸国の経済的自立問題について、フイージーの南太平洋大学のスリアナ・シワティーボさんが報告しましたが、議論の方はいま一つ不十分というところでしたね。


 「核」の被害に抗議と抵抗
――どんなところがとくに印象に残りましたか……。

前野 PCRCの「活動報告」にもでていましたが、フランスのムルロア環礁での核実験がいまなお継続されていることへの抗議とか、マーシャル群島でかつて行われたアメリカの核実験の被害問題、そしてこれから始められようとしている核廃棄物の海洋投棄問題など、いずれも「核問題」を共通テーマにして太平洋上の諸国が揺れ動き、それをめぐって連帯した運動をしようとしているんですが、その噛み合いがだんだん密になってきたといえますね。

 核兵器の方では、アメリカのトライデント原潜の寄港で太平洋上の国ぐにが危機感を強めていますし、クェゼリン環礁ではMXミサイルの実験が行われています。(正確には、バンデンバーグ基地から発射されたミサイルが、クェゼリンまで飛んでくる)。前者の寄港問題では、ベラウ(パラオ)が非核憲法に抵触するんではないかという政治問題が起こるし、クェゼリンでは実験水域に住民が強行帰還する運動をやっているほどです。

 このように「核」の被害に抗議したり、抵抗しようとするとどうしても、「独立」の問題がでてこざるをえないという関係が、今回のように鮮やかにでてきたことはなかったと思います。


 核搭載艦船の寄港を拒否
――これまでも何回かこの種の会議が開かれてきましたが……。

前野 第一回が一九七五年でフィージーで開かれています。第二回がミクロネシアのポナペ島で一九七八年でした。第三回がハワイで一九八〇年にひらかれ、この会議をきっかけにして、PCRCもつくられたんですね。

 率直にいって、今度の会議がバヌアツで開かれたのは、この国の独立の闘いの勝利に支えられているといってよいと思います。バヌアツの独立運動を担った「バヌアク党」が一九七二年に呱々の声を上げたとき、その綱領のなかに「反核」を明確に謳っていました。

 当時、フランスはムルロア環礁で大気圏内核実験を行っており、オーストラリアやニュージーランド政府もこれに強く抗議して、軍艦を実験場近くまで派遣するという緊迫した状況さえありました。核実験による「死の灰」は、西サモア、フィージーそれにバヌアツ近辺まで降ってきていました。そういうわけで、この地域では最初から核と対決する運動と独立運動がオーバラップしていたわけです。

 この国は、英仏共同統治領という独特の支配を受けていたんですが、フランスは最後まで独立に反対し、北部だけの分離すら考えました。独立闘争はあわや「内戦」というところまでいったのですが、隣のパプア・ニューギニアなどの援助で、一九八〇年七月に独立を遂げたんです。

 翌年八一年には国会で「非核宣言」を採択し、さらに八二年二月になると、バヌアツ政府は“核兵器を積んでいないことが証明されない限り米艦の入港を拒否する”という強硬態度を表明し、アメリカに大きな衝撃を与えることになりました。


 悲惨な仏核実験による被害
――フランス領ポリネシアはどんな状況ですか……。

前野 ポリネシア解放戦線のマイロン・マタオカさんが出席していましたが、ムルロアの核実験の結果、白血病やガン、子供の障害が増えているということでした。特に子供の被害が顕著で、障害児の特別の施設をつくっているほどだというんです。

 また、魚や植物の食用禁止区域が広がってきてもいる。
 タヒチ独立党のチャーリー・ナン書記長の報告では、昨年中のポリネシアのガン患者は百五十名になったといっていますし、フランスは軍用機で秘かに被爆患者をパリの病院に運んでいるそうです。こうした核被害の情報すら十分に知らされていないようです。

 こんな状況ですから、「反核」と「独立」が、どうしても切り離せない切実なものになってくるんですね。


 核廃棄物汚染に対する連帯
――「内部の植民地問題」というのはどんな議論に……。

前野 アメリカのインディアンにしても、オーストラリアのアボリジにしてみても、ウランの採掘という最もダーティで危険な作業を一手に引きうけさせられてきました。しかもそれがどんなに危険な作業かを知らされずにですね。

 だが、年を経るにつれて、ウラン採掘工に肺ガン患者が大量に発生し、初めて自分たちのおかれた立場を理解し始めるわけです。そこから、自分たちの権利を守るためには無知であってはならないし、孤独であっては駄目なことが分かってきた。こうして、同じ境遇におかれたもの同士が連帯しなくてはならないということに気づいてきた。

 そういう人びとが太平洋という共通の土俵に上ってみると、今度は核廃棄物という危険物で太平洋の汚染が爼上に上ってきていたということでしょうね。

 マリアナ諸島で真っ先にその犠牲となるのは、チャモロという先住民だという具合に連鎖が広がってくるわけです。


 太平洋問題を国連へ
――会議そのものはどんな雰囲気で……。

前野 先進国での会議に慣れているものにとっては、ここでの会議には戸惑いがちでした。まず、予備討論なしに全体会議にすべての議題を提出し、長時間かけて議論します。それから七つの地域にわけて議論をつづけ、夜の十時まで討論するんです。それをもう一度、全体会議にもちかえり、「根回し」など一切やらず、とことんまで話し合うという素朴な方法にこだわっているんです。

 いってみれば、直接民主主義そのものなんですね。代表はみんな合宿ですからそれも可能なんです。しかし、最後の頃は、さすがにみんな「きつすぎる」といって悲鳴をあげていましたが……。

――そのほかでなにか変わったことは……。

前野 これまでは、ヨーロッパ勢は代表を送っていなかったんですが、今回は、フランスからも反核運動の代表がきていましたし、イギリス代表も見えていました。

 “太平洋問題をいずれは国連へもち込もう”という意見もでてきていました。「核」と「独立」をめぐる太平洋問題も次第にネットワークが拡大してきたといえるのではないでしょうか。大いに期待がもてると思うんですよ。

(注)バヌアツ共和国はかつて「ニューへブリデス」といわれた地域で、文化人類学的にはメラネシアに属する。人口約十二万人、一万二千平方キロの小国だが、一九八〇年七月に独立した。
 昨年二月、米艦二隻の寄港申し入れに対し、政府が「核兵器を搭載していないことが証明されない限り寄港を認めない」と返答し、米海軍を狼狽させた。
 昼は気温が高いが湿度は低く、夜は涼しいので生活には快適。かつてフランス、イギリスの保養地として利用度は高かった。
 首都ポートヴィラには銀行(四十七社)や商社が集中し、税金のないタクス・ヘブンとしても有名。フィージーと共に太平洋の情報センターの役割を果たしている。
 「非核」政策をかかげる「バヌアク党」は、議会で三十五議席中、二十一議席を占める与党。十一月には独立後、初の総選挙が予定されている。


1983年

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