1980/11 五月会だより No.6 ホーム主張目次たより目次前へ次へ

国会活動レポート
一衣帯水の長島
ふるさと岡山で活動
読者の声

私のホープの五月さん

評論家 秋山ちえ子

 政治とか政治家という言葉から受けるものは、正直にいって快いものではない。国会での討議をテレビで見ると、誠に儀式的、形式的でソラゾラしいし、ニュースに伝えられるものは、権力の座にある人の不遜さに不信感を増す事柄が余りにも多過ぎる。といっても、日本人であるということからのがれることが出来ないことを思うと「政治家の質が問題にされることは、有権者であるわれわれ国民の程度が問われていることだから反省しよう」といってみたり、「急がば廻れの言葉通り、子どもの教育からやり直そう」等と、0歳児からの教育の仲間づくりをしたり、あれこれやって心を落ち着けている。

 こんな生活の中で、江田五月さん、河野洋平さんの姿を思い浮かべることは、私にとっては一服の清涼剤であり、大きな救いになっている。

 お二人とも、私にとっては、父君とのつきあいのほうが、今の時点では長い。特に江田三郎、河野一郎両先生の晩年の三年間の政治家としての生き方は、日本の将来と国民生活の安定と幸せに命を賭けたといえるもので、これこそ真の政治家という強い印象は鮮やかに私の心に刻みつけられている。今も何かある度に、両先生がご存命ならどのようになさるかと考える。特に野党第一党の社会党の頼りなさを見る度に江田先生を思って歯ぎしりをする。

 江田五月さんは私にとって、三郎先生あっての人であり、三郎先生と切りはなして考えられなかった。が、この頃は三郎先生の姿なしに、全く新しい世代の政治家としての五月さんを思うようになっている。どうしてこうなったのか理由ははっきりしない。が、昨年九月の衆議院議員の選挙の時のことも関係があると思う。

 お母様の光子さんが立候補なさった。私も倉敷に応援に行った。その時の五月さんの指揮ぶりは、頼もしく、行き届き、見事だった。お母様の演説原稿への手の入れ方、五月さん自身の演説もよかった。いわゆるこれまでの政治家の持つ臭みからはおよそ遠いもので爽やかであった。

 三郎先生の出版記念会や三回忌の時、五月さんは家族も一緒につれてこられた。のびやかにかけ廻るお子さんたち。たくさんの政治家の中でとまどいがちな奥様の様子に、私は妙に感動した。これからの政治家にとって必要な“やさしさ”が五月さんから感じられたのだ。これからの政治家といえば、物の考え方の柔軟性も大事だが、五月さんと河野洋平さんが好意を持ちあい、心が通じあっている様子にこれを感じる。

 しっかり勉強され、世界という広い視野の中で、国民を見て物をいい、考えをまとめる政治家として活躍されることを心から期待したい。


活動レポート
今こそ人間回復の橋を! 「長島架橋」で厚生大臣と交渉

 「国の責任で!人間回復の橋を架けて下さい」――岡山県邑久町長島のハンセン氏病療養所・長島愛生園と邑久光明園の人びとが中心になって、九年間にわたり訴え続けてきた悲願が、実現するかどうかの瀬戸際になってきました。

 去る十月二日、全国ハンセン氏病患者協議会の代表、および長島愛生園、邑久光明園からバスで上京した杓五十人の代表は、厚生省で園田厚生大臣と交渉を行い、長島架橋の早期実現を要請しました。

 代表たちは「ハンセン氏病は伝染病ではなく、また、完治する病気になってからも久しい。国の政策で“島流し”の生活を強いられてきた私たちに“人間回復の橋”“社会復帰の橋”を一刻も早くかけてほしい」と涙ながらに訴えました。

 同行した江田五月議員も「同じ人間に勝手に差別を強いてきた国の責任は重い。社会には様々な人々が居る。長島架橋は社会のあり方としても、政治の姿勢としても必要ではないか」と強調、厚生大臣の決断を求めました。

 これに対して園田厚生大臣は 「ハンセン氏病の強制隔離行政をやめたという証しとして必ず橋をかける」と、来年度予算に建設費を盛り込むことを約束しました。さらに大臣は、(1)自治省、建設省などと協議のうえ、公共事業としてこれを進める 、(2)地元負担分について、起債や特別交付税の支給など、納得のゆく方法を考える、 (3)そのため、近く係官を現地に派遣する――と積極的な姿勢を打ち出しました。

 しかし、現実には邑久町など、規模の小さい、困難な財政実態から、地元負担には著しく無理があるため、国側のいま一歩の勇断が強く望まれています。


国会でもとりあげる 社労委で厚相に迫る

 江田五月議員は、十月二十八日に開かれた参議院社会労働委員会で長島架橋問題をとりあげ、厚生大臣に対してその実現を強く迫りました。要旨は次のとおりです。

 来年は国連の 「国際障害者年」。障害者の「完全参加と平等」を世界中で推進する年です。厚相は政府の推進本部副部長ですから、この機関車です。障害者福祉は物や金ばかりではダメ。差別や隔離がある限りは福祉とはいえません。ハンセン氏病は、いまや、大部分の人たちが伝染のおそれのない障害者。この人たちの人間回復と社会参加は、社会全体にとって必要です。「飼い殺し」をやめ、早急に橋をかけるべきです。

 厚相の答弁は、考え方自体は極めて前向きですが、架橋実現については、依然として地元負担に触れるなど、今一歩でした。

年金制度でも質問

 なお、当日江田議員は、障害福祉年金があまりにも低額であって、もともと保険料の拠出を期待できない若年からの障害者に対し非常に冷たい制度になっていることなど、年金制度の矛盾を指摘して、その改善を迫りました。(会議録


江田議員
建設委員会へ 特別委は「公害・交通」

 江田五月議員は、これまで地方行政委員会(常任委)と沖縄・北方領土対策特別委員会で活躍してきましたが、今国会から、建設委員会(常任委)、公害及び交通安全対策特別委員会に所属することになりました。


参議院で「新政クラブ」を結成

 江田五月議員はこれまで、「参議院クラブ」に所属してきましたが、先のダブル選挙後の特別国会から「参議院クラブ」を発展的に解消して、新たに「新政クラブ」を結成し、江田議員もこれに参画しました。

 「新政クラブ」は、江田議員の他、田英夫、秦豊、前島英三郎(八代英太)、宇都宮徳馬、野末陳平、森田重郎の七名で、(1)党議拘束はしない (2)参議院改革をすすめる、など、「参議院クラブ」の趣旨をほぼそのまま受け継いだものです。


投稿
社民連の柱に教育政策を  堀江 宗生(東海大学助教授・教育行政学)

 江田五月さんと同世代の者として、その活躍に期待を寄せています。そこで教育学を専門とする立場から、江田さん並びに社会民主連合にその政治活動の一つの柱として、是非とも独自の教育政策を打ち出して頂きたいと考え、二、三希望と提案を申し述べてみます。

 まず基本理念として、政党の打ち出す教育政策は教育の条件整備(環境の充実)に限定することです。日本国民の教育に対する熱心さは世界的に知れわたっていますが、それでは教育条件整備の面ではどうかといえば、むしろ欧米諸国に較べて大変劣悪な状態にあるといって良いでしょう。

 まず、小・中・高校における学級定員は四十名さえ思うように実現できない状態にあります。教育先進国といわれるためには二五―三十名に、そして各学級に正副担任二名配置できるよう教員定数の増加が必要です。

 情報化時代、国際化時代、生涯学習の時代等二十一世紀に向かって教育がその基礎としてますます重要になって来ている今日、その根本は基礎学力の習得と人間性の陶冶にあると思われます。その意味でも十分な数の教員による目の行き届いた個別指導に重点が置かれなければなりません。

 さらに教育費の父母負担の増大が、家計を圧迫する大きな要因になっています。特に就学前教育(幼稚園・保育園)の授業料(月謝)入学金の増額は、若い夫婦の生活を極めて苦しいものにしています。それを解決するためには、公立幼椎園(小学校併設も可)の増設、できたら幼椎園教育(初めは一年、やがては二年)の義務化、さらに私立幼稚園への助成金増額等緊急措置を講ずるべきでしょう。

 また私立学校の生徒学生を持つ父兄の税金控除も早急に検討されてよいでしょう。

 最後に、東京・中野区で実施される教育委員(準)公選制も全国に広められるべきです。


随想 一衣帯水の長島   江田 五月

 昔、備前の殿様は、相当のんびりしていたのだろう。中国、四国の二つの山地に守られ、暑さも寒さもほどほどという穏やかな自然環境。米に果物。せかせかすることはない。

 その備前と讃岐で、瀬戸内海の領有をめぐる争いが起きたという。讃岐の殿様は、頭脳明晰。何とか知恵を働かせて少しでも広く水面を領有したいものと考えた。そして、境を定めるためのトップ会談が行われた。

 讃岐の殿様の提案により、播磨沖から空っぼの木のたるを流し、潮の流れによってたるが動く線を境とすることに一決。

 たるは、潮に従って、備前の陸地すれすれを流れていった。そのため、備前の海は極端に狭い。島々はほとんど讃岐のもの。

 讃岐側は、潮の流れを知っていたのだ。

 それでも、陸に密着した島は備前のものとなった。そうした島の一つに、邑久町虫明の沖に浮かぶ長島がある。この島と虫明の間隔は、わずか三十メートル程度。まさに一衣帯水。陸との間に、たるが流れる隙もない。

 この長島に、千八百人以上の人が住んでいる。今では平均年齢も六十歳を越えたお年寄りばかり。国立公園内のこの世の楽園のようなこの土地で、助け合って生活している。

 ところが、この島と陸の間には橋がない。フェリ−や連絡船で渡るしかない。

 火事の時には、平均年齢六十歳では、火消しは不可能。消防車がフェリ−で来る間に全焼となる。また、いくら瀬戸内とはいっても、ときには台風が来る。四年前の台風は、小豆島を所かまわず爪でひっかいたように荒らした。報道されなくても、長島も同じだ。山の上にあった桜の大木が、そのまま海の中に、移植されたように土砂崩れで動いた。この桜は、塩水を吸って翌年花をつけた。花を見ながら、住民の人たちは、死の不安に脅えた幾挽かのことを私に話してくれた。小さな島だから、逃げ場がないのだ。橋さえあれば……。

 なぜ橋がないか。おかみの考え方が、橋などかけるべからず、だったからだ。なぜか。

 長島に上陸してみればすぐわかる。ここに住んでいる人々は、顔や手など外から見えるところに醜状を残すハンセン氏病なのだ。

 わが国は、ハンセン氏病についてはまことに徹底した対策をとった。患者を見つけ次第つかまえて施設に隔離してしまう。その施設は、外界と遮断しているほどよい。離れ小島が一番よいのだ。離島で、子孫を残さず絶滅させてしまう。罪人でないから死刑は無理だが、幽閉して死を待つというやり方は、なまじの刑罰より重大だ。人権など考えもつかない無茶苦茶なのだ。だから、高度経済成長のバカ騒ぎはあっても、何の経済効果もない橋を作ろうというのが無理な相談。

 過去のことはあえて問うまい。わが国がハンセン氏病を克服した実績は残っている。しかし今、事情は変わった。昔患者だった人たちのほとんどは、今では治癒している。伝染することはなく、後遺症が残っているだけだ。

 その人たちがなぜ社会復帰しないか。理由は簡単。あなたのそばに、鼻が欠けたハンセン氏病の人が来ると、あなたはどう思うか。この社会の冷たい目を押して、六十歳の人が社会に溶け込む術があるだろうか……。

 しかし、もう一度自分の顔を鏡で眺めてみよう。お互い、ハンセン氏病後遺症の人たちを醜いといえるほど、美しいわけではない。

 私たちの社会には、いろいろな人間がいる。価値観の多様化といわれる。物の見方、考え方は、人によってさまざまなのだ。そんな高等なことでなくても、大小、太細、美醜、容貌、人は実にさまざまである。

 これまでは、私たちは、そこに一つの序列をつけた。序列の下のものを、社会から放逐しようとした。最下層はアンタッチャブル。ハンセン氏病はその最たるものにされてきたのだ。

 しかし、社会は、能力の優れた、美しい者だけで構成されるものではない。そうでないと、お互い、いつ放逐されるかわからない。

 ハンセン氏病後遺症の人が、私のすぐ横に座った時、不快感が私の心を騒がせないかどうかが、本当に私が価値の多様性を語る資格があるかのリトマス試験紙だと思っている。

 今、邑久町の人たちは、昔の備前の殿様と同じく、極めておおらかに、長島と虫明の間に橋をつけて、同じ町民として共同社会を作ることを受け入れようとしている。この島に長島生園という国立療養所ができて五十年、やはり国立の邑久光明園が移ってきて四十一年。やっとここまで来たのだ。

 国は、その邑久町の人たちの善意をいいことにして、奸計をめぐらして、橋を作る金までこの人たちに負担させるのか。それとも、ハンセン氏病後遺症の人たちをあくまで隔離するのでなく、社会に受け入れることが、今私たちすべてに必要なことだと考え、国全体で知恵をしぼり、国の金で橋をつけるのか。

 国際障害者年を迎え、わが国が障害者を温かく包み込む国になるかどうかの試金石だ。


海の地名の話

楠原佑介(「地名情報室主宰 「地名を守る会」事務局担当)

 海にも地名がある――などというとたいていの人が怪訝そうな顔をする。なるほど、海にも太平洋とか東京湾といった名前がついているが、あれは海の名称、海名であって地名(土地の名称)ではないではないか、という訳だ。この論理でいくと、川の名や湖・池の名前などもすべて地名ではないことになる。

 この問題は、地名=土地の名称と限定するから話がおかしくなってくるのであって、地名とは「地球上の一部分を呼ぶ名前」と考えれば一応解決がつく。もっとも、それならば「晴れの海」などと名づけられた月面の一部を指す名前は地名ではないのかと言われると、私には答えようがないが……。

 ところで、海の中にも海面を示す広い意味の地名の他に、狭い意味の土地の名称としての地名がれっきとして存在する。それは、水面からは見えない暗礁や浅瀬につけられた名前である。暗礁や浅瀬には多くの魚介類が棲みつき、寄りついているから、漁師たちにとっては絶好の漁場となる。ちょうど陸の人びとが田や畑や集落を呼ぶのと同じように、彼ら海の民もその漁場にしかるべき地名をつけてきた。

 こういう海の地名の面白いところは、地方ごとに違いが見られることだ。たとえば、日本海側では「〜グり」(繰)の型が多い。房総から伊豆方面を中心に東日本の太平洋側では「〜根」が圧倒的である。一万、西日本全体では「〜瀬」が一般的だが、とくに沖縄から九州西岸にかけては「〜ソネ」(宗根、曽根)系、九州東岸から四囲南岸には「〜バエ」(波石)系が集中している。瀬戸内海では、「〜瀬」「〜磯」のほかに、「〜ソワ、ソワイ」 が特徴的である。

 ただ同じ瀬戸内海でも、私の郷里の岡山県児島湾では、つい三十年ばかり前まで行われていた定置網漁業・樫木網の漁場(浅瀬)名として、先にあげた沖縄〜九州西岸型の「〜ゾネ」が使われていた。このように海の地名の分布を調べていくと、古代からの日本の漁民集団の文化圏、その動きが暗示されているようで、なかなか興味深いものがある。

 ところで話はそれるが、明治以来、とくに戦後は各地の遠浅の海が干拓やら埋め立てやらで陸地化されてきた。そのことの是非はいちがいには言い切れないだろうが、問題なのは埋め立て、干拓によって造成された土地につける新地名である。横浜市鶴見区安善町(明治期、安田財閥の安田善次郎の名前より)とか千葉市川崎町(戦後、企業名)など、地名としてはどうかと思うものが少なくない。

 干拓地、埋め立て地の地名といえども、勝手に造語、命名するよりは、海だったころの地名を継承するほうがはるかに自然で知恵あるやり方であろう。ちなみに、児島湾岸の興除新田(機械化農業の先進地として有名)は江戸時代文政期の干拓地であるが、ここでは「曽根」という海の地名が今も残されている。


函館江田五月会だより
江田五月杯争奪野球リーグ戦開かる

 函館江田五月会(会長・黒島宇吉郎函館市議)は、第一回江田五月杯争奪野球りーグ戦を行いました。参加チームは「黒潮」「道写連」「背広センター」「黒船」「岡田製麹」「オダ・フォート」の六チーム。

 本年六月一日の日曜日を皮切りに、、毎日曜日(雨天順延)、二回戦の対戦を行い、七月二十日の最終戦で「道写連」チームが全勝優勝を飾りました。

 七月二十七日には江田五月さんを招き、函館五稜郭タワーに函館江田五月会の関係者・選手約百二十人が集まって表彰式を行いました。

 なお、来年度のリーグ戦には、すでに十二チームの参加申し込みがきています。


(映画紹介)「父よ母よ」

 「衝動殺人・息子よ」に続く木下恵介監督作品。原作は斎藤茂男編著による同名のルポルタージュ。競争社会の中で、学校からも家庭からも置き去りにされた子ども達、彼らは決して特殊な子ども達ではない。子どもを持つ観たちばかりてなく、現代に生きる全ての九人たちに鋭く、極めて重大な問題提起をつきつける必見の映画である。


街へ街から

これまで岡山で出していた「街へ街から」を、今回から本誌に含めて発行することにしました。

江田五月氏 精力的に活動

 江田五月参議院議員は、八月のお盆休みを皮切りに、いよいよ生れ育ったふるさと岡山で精力的な活動を始めた。

 新しく構えた江田五月会事務所(岡山市富田町)を拠点として、農協中央会のリーダーの方々、あるいは青年農業士の方々との政策勉強会、マスコミ関係者の皆さんとの懇談会、また、来年から入居予定の新居がある山崎の町内の皆さんへのあいさつまわりと、休む間もない行動振りである。

 八月下旬から九月下旬までのあいだは、イギリス・フランス・ドイツ・北欧・スイスとヨーロッパへの勉強の旅をし、多くの収穫を得て帰国し、さっそく帰国報告会を各地で開いている。

 十月九日は、岡山青年税理士会のメンバーの方々と夕食会を兼ねての報告会、江田五月が今回の訪欧で、精力的に見て来たオンブズマン(行政監察官)の制度の話には、出席の皆さんも興味を示し、ひとしきり話に花を咲かせていた。

 十月十一日には、家庭の主婦を中心とした十名ほどの江田五月後援会が新たに一つ生まれ、ここでも、訪欧報告がなされた。更に十三日にも一つ婦人の集まりで報告をし、出席者の中から、西ドイツの選挙戦の様子や、オンブズマンの話は、もっと詳しく聞きたいとの感想も出ていた。

 PTAの文化部での講演、地域婦人会、町内会での報告会などもどんどん出かけていって話したいと、本人もやる気十分。「十人前後の小さなグループでも興味のある方は、どしどしご連絡下さい」と事務局ではいっている。


ごあいさつ
岡山のみなさん  江田 五月

 桐一葉……、もの思う秋になりました。地球の公転という、人の感情とは何の関係もない原因で、四季の変化ができます。それが、人をウキウキさせたり、シンミリさせたりします。人は、口で大きなことを言ってみても、大自然の雄大な営みの前では、所せん、風のそよぎにおののく葦(あし)にすぎないのかもしれません。

 しかし、私たちは、ただ自然に翻弄されているだけではありません。自然の息吹きを自分の意思や感情で受け止め、考えます。そして、人間相互の交流により、社会を作ります。社会の中で、人の営みは、ただ利益を求め財を蓄えるだけではありません。信じ、愛し、助け合い、疑い、憎み、傷つけ合います。今の世の中、衣食足りて礼節を忘れていると言っても、用語の不適切さを除けば、必ずしも的はずれではないと思います。

 「経済成長」一本槍で、自然を壊し、健康を害し、「あまえ」の構造で信頼や連帯を忘れかけた現代社会。病んでいます。外国でトバクにうかれて、四億五千万円も負けを作り、その支払いのためワイロの金を融通してもらうような人が、国民の代表。その人は、その金額のバカデカサで人をアッといわせたため、次の選挙は安泰だといいます。大きいことはいいことだと、あくことなき成長を続けたモンスターの、醜い顔かたち……。病は重態というべきでしょう。

 この病は、お医者さまでも草津の湯でも、治りません。自分で治すしか、方法はありません。いずれ葦は、自然の逆鱗に触れて枯れ亡びると、悲感することはないと思います。私たちは、「考える」葦なのですから。

 小ざかしい知恵で、神をおそれぬ所業を繰り返した私たちです(こういう時、英語ではdefy という単語を使います ナンテイバッテはいけません)が、そろそろ、真の叡智で、調和のある社会を作り、人間の信頼と連帯を回復したいものです。物質第一の発展の仕方が資源や環境の制約で行きづまりに来たことは、私たちを困惑させるどころか、逆に、もっと別のところに「人間らしさ」が花開く社会のあり方があることを、私たちに教えるのではないでしょうか。

 裁判官から政治家への転進以来三年余。多くのみなさんのお力添えで、ようやく、政治家として一歩二歩と歩みを進めているなと、実感しつつあるところです。まだヨチヨチ歩きですが。

 八○年代に入りました。そろそろ、私も歩みを確かなものにしなければなりません。病んだ社会を、問題意識を共有する友人、先輩、仲間のみなさんと一緒になって、作り直すために。

 今年に入って、社公政権構想の合意などにみられる大きな動きがあり、私も多少のジャブをこれらに対して出しています。しかし、大状況は、正直いって、なかなか手におえるものではありません。まず、一人ひとりが声をかけ合うことしかないと思います。「街へ街から」が生まれたのは、そのためです。

 昭和三十五年に高校を卒業して上京してから二十年。故郷に帰ることにしました。遠くにありて思うべきだと、仲間はずれにしないで下さい。「錦を飾る」というわけにはいきません。裸同然の帰郷です。だから、何かを求めることができると思います。「人間」を最も大切にし、その原点から出発できると思います。どうぞよろしく。


読者の声
あゝ選挙   牛窓町 西村 清美

 「○○でございます。立候補のごあいさつに参りました。○○をよろしくお願いします。」

 私はウグイス、選挙になくてはならないウグイスなんです。選挙公示を見るたびに、またどこかで頑張っている仲間のことを思います。

 これまで何度か選挙カーに乗せていただきました。立候補される方の人柄が好きで、「一日でもいいから手伝わせて下さい」とお願いした方、事務的に乗った車、お断わりできず乗った車、いろいろありました。三日、四日とご一緒するにつれて、その人柄、支援される人達がわかってきます。途中で、もう投げ出したいこともあります。また、「もう少し時間があるのでもう一度まわってきましょう」と声をかけてあげる人、すべて、支援される人達の意気と、人柄でしょう。

 こんなイヤなことがありました。その選挙戦は、特にきびしい少数激戦と言われていました。毎日運転される方が変わり、朝のあいさつをして出発します。候補者が車の中で、マイクを持っている私達二人を小声で叱るのです。スピードが速い遅いはもちろん、「こんなコースの組み方をして」と不平不満をぶっつけるのです。まるで体左半分笑って、右半分でおこっているかのようでしたい長い長い選挙期間に思われました。

 こんな楽しい選挙戦もありました。出発前に、「私は期間中は飾りの人形のようなものです。まわりの人にすべてまかせてあります。あなたたちも、思ったようにやって下さい」と一言。いつもニコニコして、本人から不平不満は聞かれませんでした。

 今日も日本のどこかの町で、選挙が行われているかもしれません。ウグイスのさわやかな声がどこかの町に流れているかもしれません。貴方の清い一票を求めて……。


中国旅行雑感 十年ひとむかし

 一九六九年八月十一日、私は期待と不安の入り混じった少々複雑な気持ちで羽田から香港へ向けて旅立った。それは、中華人民共和国という日本とは正反対の価値観を持つ国へ行くことに起因する“期待と不安”だった。林彪が毛沢東の後継者としての地位を確立した九全大会の直後であった。

 小さな鉄橋を渡って香港側の羅湖から中国側の深川へ。そしてそれからは行く先々で日本の「戦闘的学生」に対する熱烈歓迎を受ける。私達は歓迎が大きければ大きい程、身を小さくしていた。全行程二十四日間、緊張感に包まれた旅行であった。

 その時からちょうど十一年を経た一九八○年八月十一日、私は気軽な観光気分で、博多港から大連へ向かう船に乗った。心中にあった不安といえば、船酔いをしないだろうか、という極めて生理的なものだけであった。

 幸い海は静かで、一万トン級の中国客船「耀華号」は文字通り順風に帆を上げて進み、二日間足らずで目的地大連に入港した。

 あいにく雨が降っており、色とりどりの服を着た小学生が花を持つ手を振り、“熱烈歓迎”してくれる。びしょ濡れになりながら手を振ってくれる彼らを見ていると、心苦しい気がすると同時に、十一年前には、その手に、花ではなく毛主席語録が握られていたことが頭をかすめ、少なからず感傷的な気分になってくる。

 街中をブラブラ歩いてみても、目立つのは交通標語である。以前、そこかしこで目についた政治スローガンの類いは見当たらない。

 工場見学に行っても、以前は延々と続いた紹介説明が今回はほんの十分程度で打ち切られ、あとは付設の売店で買い物をして下さいということになる。以前は買い物など、いかにも物見遊山で来たようで後ろめたい気にさせられたものだが、今度は逆に外貨をおとしていかなければ悪いような気にさせられる。

 昔も今も共通していることといえば、人々がどこか泰然自若としていることである。日本に較べれば物質的にはまだ恵まれていないが、かといって分厚い札束を持ち歩く日本人に対して妙に卑屈だったりはしない。ただ日本に対する関心は非常に高く、大連では街を歩いていてたびたび日本語学習者に出会った。

 私の参加した団は「友好の船」という二百五十名程のツアーで、その中に「中国に日本語教材を送る会」が五十名の枠を持っていて、私はその枠内で行ったのである。

 「送る会」は昨年五月に発足した民間の団体で、これまで既に二十八万冊の本を中国に送った実績を持っている。大連に四日間、天津に二日間という正味一週間の短い旅行ではあったが、八月十五日には、この「送る会」の面々と大連の日本語学習者との間で、各五十名ずつ、計百名程の大きな交流会が催された。

 この交流会で話した人達も、通訳の人達(旅行社の人および研修学生)も、わからない言葉は丹念にメモをとり、関心のあることは執拗に聞いてくる。文化大革命の間、まともに教育を受けることができなかった、そのうっ憤を晴らすかのように、貪欲に新しい知識を吸収していく。

 しかしその一方では、個人に生きる傾向が強くなっているのか、以前には誰もが口をそろえて言っていた“国家のため”“党のため”というセリフは若い人達からはほとんど聞くことができなかった。

 そしてこちらの質問に対する答えも、十年前とは違って各人各様である。ある人は、政治は政治家に任せておけばいいと言い、ある人は、政治は生活と切り離せないものだと言う。またある人は、解放軍に入るよりは自分の研究をしていたいと言い、ある人は、最近共産党に入党したくなったと言う。

 恐らく以前も人それぞれではあったのだろうが、少なくとも今は、それをわれわれ外国人に対し表現してくれるので、ごく自然な会話を交わすことができる。人々が開放的になっている反面、往年の「厳粛さ」は稀薄になっているという印象であった。

 これから十年後、中国がどのようになっているのか想像もつかないが、九十年代にまた訪問してみたいと思う。ともあれ、十年はまさにひと昔、と強く感じさせられた旅行であった。

       清水 由実


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