1991/11 五月会だより No.59 ホーム主張目次たより目次前へ次へ


問題多いPKO法案
自衛隊の海外派兵が危険 憲法を守り国連中心に

十一月五日から始まった臨時国会の焦点は、何と言ってもPKO法案(国連平和維持活動協力法案)。昨年廃案になった国連平和協力法案にかわって登場したこの法案は自衛隊を直接海外へ出動させる重大な問題点を持っています。

自衛隊の直接海外派兵はNO

 PKOとは Peace Keeping Operations の略で「国連平和維持活動」のこと。国連が武力紛争の停戦後に、停戦監視団や兵力引き離しなどのための平和維持軍(PKF=Peace Keeping Force )、あるいは選挙監視団などの派遣を行うものです。

 一九八四年以来二十回以上組織され、現在も九ヶ所で活動中で、一九八八年にはノーベル平和賞を受賞しました。PKO活動は、冷戦終結後の新しい国際社会の秩序を作っていく上で、さわめて大きな意味を持つもの。紛争予防活動も含めて、日本も得意分野で積極的に貢献すべき活動です。

 しかし、今回政府が提出した法案は、昨年廃案になった国連平和協力法案と比べても、交戦中の多国籍軍への直接的な協力(後方支援など)については歯止めがかかったものの、その他の点では昨年以上に自衛隊が突出した内容になっています。

 たとえば(1)昨年はPKOの中では停戦監視のみであった業務が、平和維持軍(PKF)にまで拡大した。(2)昨年は自衛隊は国連平和協力隊(併任)派遣されたが、今回は武装した自衛隊の部隊として直接出動する(協力本部が作る実施計画・実施要項のもとで)。(3)従って、昨年は本部長(内閣総理大臣)の指揮監督のもとにあった自衛隊は、今回は本部長の指揮監督を受けず、防衛庁長官のみが指揮する。(4)「併任」の意味が昨年とは全く違って、部隊参加する自衛隊員が協力隊として行うことは、協力業務の調査・効果の測定・分析など、ほんの一部の「事務」だけ。(5)従って自衛隊の部隊が行う国際平和協力業務は全て自衛隊が直接行う―などの点が、昨年の法案より突出しています。

 これでは武装した自衛隊の海外直接出動=海外派兵と言わざるを得ません。仮にその自衛隊が、日本の自衛隊に対する意図的な攻撃を受けて応戦した場合は、わが国の主権侵害となり、自衛権の行使ということで武力紛争状態、あるいは一種の戦争状態に陥ることにもなりかねません。

昨年の三党合意にも違反

 昨年、国連平和協力法案が廃案となった時、自・公・民三党間で合意が成立しました。その内容は(1)憲法の平和原則を堅持し、国連中心主義を貫くものとする。(2)我が国の国連に対する協力は資金や物資だけでなく、人的な協力も必要である。(3)そのため、自衛隊とは別個に、国連の平和維持活動に協力する組織を作ることとする。(4)この組織は国連の平和維持活動に対する協力および国連決議に関して、人道的な救援活動に対する協力を行うものとする。(5)また、この組織は、国際緊急援助隊派遣法の定めるところにより、災害救助活動に従事することができるものとする。(6)この合意した原則に基づき立法作業に着手し、早急に成案を得るよう努力する―。

 この六項目の合意は、最後の段階で社会党が加わらなかったために、三党だけの合意になりましたが、国民合意の国際貢献策のスタートと成り得るものです。

 しかし今回の政府案では、自衛隊が直接平和協力業務を行うことになり、「自衛隊とは別個の組織で」という三党合意の原則に違反しています。原点に戻り、社会党も加えて、国民の大多数が賛成し支持する国際貢献策を作る必要があります。

国民合意のために法案修正を

 こうした状況の中で、江田五月議員はアクションを起こしました。国民の大多数が合意できる国際貢献策を実現するために、三党合意の原点に戻って、社会党も加えて、法案を修正するための行動です。その具体的な考え方は(1)自衛隊とは別個に国際平和協力隊を創設する。(2)PKO活動と国際緊急援助活動に、自衛隊の能力(人員、装備、資材、物品等)を活用する。(3)軍事要員としてのPKO参加は、停戦監視団のみとする。PKF参加は今後の検討課題とする(憲法九条との関係、PKOの実績・経験、国民合意の動向、近隣アジア諸国の懸念、国際社会の要請、他の分野における国際貢献の進展などを考慮して)。(4)PKO参加の自衛官の身分については、「身分は保有するが、職務には従事しない」ものとする(事実上の休職出向)。(5)人員だけでなく、自衛隊の船舶、航空機、資材、物品等も移管できるものとする。(6)国際緊急援助隊派遣法に基づく災害救助活動は、自衛隊を直接派遣するのではなく、国際平和協力隊を派遣できるようにする― というものです。

 この基本的な考え方は、連合の山岸章会長ともほぼ一致しており、江田五月議員は社会党内の若手政策グループや連合参議院のみなさんと何度も協議して、議会の法制局とも相談しながら、修正案を固める作業をしています。その一方で、社会党と協議し、また民社党や公明党、そして自民党も含めて、国民の大多数が合意できる法案を作りたいと奮闘中です。もとより容易なことではありませんが、今後の日本の進路に直接かかわるだけに、大事なことだと思います。


 「ゴールからのスタート」などと言われて、選挙戦が始まらないうちに次期自民党総裁=総理大臣は宮沢喜一氏に決まった。しかも自民党の一派閥に過ぎない竹下派の意のままに総裁選のプロローグは演じられたといってよい。それも極めて次元の低い田舎芝居のプロローグであった。極めつけは、知性派を自認する宮沢氏が、竹下派の面接を受ける際、小沢、渡部両試験官の前で、背を丸めもみ手で接し、「エーゴで話されても分かんねーベ」「ウンダ、ウンダ」の両試験官の言葉にも卑屈に愛想笑いを浮かべて応じていた(某全国紙)、というくだりであろう。国民にとっては、唾棄すべき光景だ。仮にも世界の先進国の一員である日本国の、事実上の総理選びの場面としてはあまりにも情けなさすぎる。

 こういった自民党の一派閥に恣(ほしいまま)にされる総裁選に、野党が憤慨して結集し、一石を投じる行動に出るのであれば、野党に対する国民の見方も又変わってくる絶好のチャンスになるのだが、野党はまるでその意欲も情熱もない程、野党ポケをしてしまっている。

 野党第一党の社会党は、田辺委員長を誕生させた直後であるにも拘らず、この絶好球を見逃し三振と音無しの構え。十二月の再選に向けて目は党内の左派向き。これでは、政治改革と野党の再編も夢の又夢に終わることは必定。

 江田五月さん!新党、新党ですよ。さもなくば、「いざ帰りなん田園へ。今や田園荒れなんとす」です。(T)


気まま対談

●今回のゲスト 谷 聖美さん
●今回の対談のお相手、谷さんは、8月にアメリカ留学から戻られたばかり。ソ連のクーデターの第一報は帰国の連中立ち寄ったヨーロッパで聞いた、なんてエピソードから、気ままな対談が始まりました。

ヨーロッパから見たソ連政変

江田 お帰りなさい、と言うと少々遅いのかな。

谷 ええ、日本に帰ってきたは8月ですから、もうそろそろ「時差ボケです」なんて言い訳も通じなくなりましたね(笑)

江田 日本にはアンカレッジ経由で?

谷 いえ、ヨーロッパを少し見てから帰ろうということで。

江田 じゃあちょうどソ連でクーデターが起きた時、ヨーロッパにいらしたんですか。

谷 ええ。オランダの友人のところにおりまして「ゴルバチョフ大統領が病気のため職務遂行不能」という第一報を聞いた時、あ、これはクーデターだなと直感しました。

江田 私もそう思いました。で、インタビューに「恐らくクーデターだろう。しかし、多少の揺り戻しはあっても軍縮・東西関係の緊張緩和といったソ連の方向が大きくずれることはないと思う」と答えたんですが、それにしてもあんなに早く収束するとは思わなかった。まず半年は緊張状態が続くと…。

谷 一週間も続きませんでしたからね。私は、『内戦』の可能性もある、そうなったら(モスクワ経由で日本に帰る予定でしたから)困ったことになる、なんて思ってたんです。

江田 クーデターについての人々の感じ方、とらえ方について、ヨーロッパで特徴的なところがありましたか?

谷 そうですね。やはり陸続きですし、第一次大戦の時もヨーロッパの片隅で起きた一発の銃声で、世界が大きな危機に見舞われた歴史がありますから、非常に切実に受けとめてましたね。

江田 それこそ内戦にでもなろうものなら大量の難民が押し寄せてくるし。

谷 それと、印象的だったのは多くの人の口からゴルバチョフの安否を気遣う声が開かれたことです。やはり、ペレストロイカを推進し、欧州の緊張複和を実現したゴルバチョフに対する信頼は、日本とは比較にならないものがあります。

江田 エリツィンよりゴルバチョフ、と。

谷 ええ、今までの実績がモノを言ってます。

日本叩きと 日本の国際化

江田 話をアメリカに転じますが、今回の谷さんの留学は、アメリカ政府の招請ですか。

谷 ええ、正式にはフルブライト若手研究員という資格で、四十過ぎて若手もないんですが(笑)。90年の七月から約一年、ミシガン大学で比較政治学の研究をやってました。

江田 「語学の勉強は独身で行って、その国で恋をするのが良い」なんて言いますが、残念ながら僕は結婚して長女も誕生してからの留学でしたから、言葉の勉強がなかなか思うに任せなかったんですが(笑)、谷さんはお一人で?

谷 いえ、語学には不向きな家族連れでした(笑)。

江田 じゃあ、逆にあちらの人たちと家族ぐるみのおつきあいができた訳だ…。

谷 まあ、そうですね。実は私のいたアナーバは、車でデトロイトから一時間、シカゴから四時間くらいのところにある小さな街なんですが、ここに連邦政府の、自動車の規格や排ガスの監視機関が置かれているんです。日本の自動車メーカーも、ここの試験にパスしないと、アメリカに輸出できないですから、日本の各自動車会社の出先機関が集中してまして、当然日本人も多い。彼らが日本人コミューンみたいなものを形成していて、特に奥様方は言葉の障壁もあって、地元にとけ込もうとしない、という指摘もありました。

江田 デトロイトやシカゴと言えば、自動車産業のメッカ、いわばジャパン・バッシングの中心地ですが、地元の人々の方には日本人を拒む意識はなかったですか。

谷 一概には言えませんがまずないですね。アメリカというのは元々移民の国ですから、外から来た人を受け入れるホスピタリティは非常に厚い。たとえばうちの妻なども地元のコミュニティが主催する「英語教室」に通ってましたが、逆に中国系の移民がいれば、その人に中華料理を習うとか、とにかく異文化を吸収しよう、またよそから来たひとに自分たちのコミュニティの一員になってもらおうという積極的な姿勢がありますね。だからいつまでたっても「お客様」で地域活動にも参加しない「閉鎖的な日本人」に村しての反発が生まれるとも言えます。

江田 日本の国際化ということで、非関税障壁の撤廃とか、英語教育の充実などが叫ばれていますが、本当に大切なのは、異質の物を排除しようとする日本人の意識の改革なんですよね。その為には教育の面でも、異質の文化や価値観を認める、あるいは子供たち一人ひとりの感性の違いを大切にしてゆかなければならないんですが、現状では「どこでどのように感動するか」まで、画一的に決めてしまうような教育がまかり通っている。これでは本当の国際化なんてできっこありません。

湾岸戦争。疑問残る日本の対応

江田 ところで谷さんの留学中に湾岸戦争が起こりましたね。あの時日本政府の取った行動について、様々な批判が国内外で起きましたが、谷さんが目の当たりにされた、日本の「貢献」に対するアメリカの反応はどうでしたか?

谷 私が残念に思うことの一つは、日本政府の目がワシントンにだけ注がれていた、ということです。一般のアメリカ人はあの戦争を「自由と国際秩序を守るための戦いだ」と考えていました。それが正しいかどうかは別として、自分たちの信ずる価値観を守るためには、貴い命を犠牲にすることもやむをえないという訳です。とは言っても、この戦争に協力しない日本をけしからん、という世論はさほど沸き起こらなかった。一般のアメリカ国民にしてみれば、日本が九十億ドル出したなんてことにはあまり関心がない。むしろ、自分の夫や子供が戦場に赴き、死と隣り合わせになるという現実の方が大問題だったと思います。

江田 日本の支援に対するマスコミの反応なども、さほど大きなものではなかった?

谷 そうですね。ご存知のようにアメリカには日本のような全国紙はありませんが、かわりに沢山の地方紙が頑張っている。それらの紙面の中心はやはり、地元出身の将兵の安否とかです。日本の九十億ドルなんて、ほんの小さな囲み記事ですよ。

江田 為替レートの変動の穴埋め追加支援五億ドルなどは、記事にもならない?

谷 恐らくそうでしょうね。どうもアメリカで見てると日本の対応のしかたというのは、実に下手くそだな、という気がしますね。

江田 そう。欧米では、ことに外交では原理・原則を大切にする。今回の湾岸戦争でも、日本の対応は後手後手に回って、どうもアメリカ政府が出せ、といったからしぶしぶお金は出しました、の印象を免れない。私は自民党の言う自衛隊派遣のような意味でなく、日本も国際平和のために金だけでなく人的な貢献をすべきだと、わりと早い段階から主張していた一人なんですが、冷戦が終結し、地球連帯時代に入った今、日本は世界の為に何をなすべきか、どんな役割を果たすべきか、を真剣に考えなくてはいけないと思います。これは何も平和維持だけでなく、環境、人権などあらゆる分野で、日本の「原理・原則」というものを打ち立てるべき時が来ているんです。

谷 聖美(たに・さとみ)さん
一九四九(昭和二四)年生まれ。七四年、京都大学法学部卒業。昨年、フルブライト若手研究員として、米国に留学。現在岡山大学教養部助教授。(政治学)


アゼリア会『秋の講演会』10周年記念
加藤登紀子さんの熱演に感激

 十月七日、講師に加藤登紀子さんを迎え、行列が二階の受付から道路にまであふれ、会場ではまだご本人が音あわせ中、という慌ただしさのなかで会は始まりました。

 今回は「唄とお話」ということもあって初めから満員が予想され、チケットも希望者だけにという程制限し、経費がかかる割には切符が出せず、赤字覚悟の講演会となりましたが、予想通り沢山の人が来て下さり、会場からあふれんばかりの熱気が舞台にまで伝わってきて、感動もの。おいで下さった方々には何かとご迷惑おかけしましたが、お礼を申し上げます。

 江田五月さんのご挨拶も熱がこもっていたし、加藤登紀子さんも、九〇分はあっという間、ご自分でリクエストを聞いて予定外の曲を歌ったりと、帰られるギリギリまでの大サービス。やはり生の唄声は心を打ちますね。次からは講演会よりコンサートだけにしたら、という声もちらほら。

 皆様、お疲れさまでした。(M)


光南台五月会 結成に向けて  篠原 新二

 岡山県市の最南端、目の前は児島湾、後ろは金甲山と国立公園貝殻山という環境抜群のところが我々のふるさと光南台であります。児島湾の入り口に位置する小串港や一番奥の郡港は、ひと昔前までは漁港として栄え、寺に至っては同一地区に何十もあるという、優しい人情にあふれた、まことに住みやすい、素晴らしい土地柄です。

 その光南台地区に、やっと五月会が発足しようとしています。この地区は元々保守系の地盤で、革新は大手を振って歩きにくいところでしたが、江田五月議員だけは別格で、特に最近は、何にもましてその爽やかさが好意をもって迎えられてきました。

 そこで我々光南台の住民としては、今までの準備会を卒業して、この十一月二十四日(日)午後一時より、郡の「ホテル福雅荘」に於いて、晴れて「光南台五月会」を発足することといたしました。

 今はただ、大勢の方にお集まり願い、江田五月議員を中心に、会が成功することを念ずるのみです。今後の光南台五月会の活躍にご期待いただくと共に、社民連事務局及び各方面の方々のご支援をよろしくお願いします。


作州五月会開催

 九月十四日、津山雇用労働センターで、江田議員を迎え、津山をはじめ周辺町村と労働組合の代表者が集まり、作州五月会が開催されました。

 まず、大亀書記長より県内の政治情勢が説明され、引き続き江田議員から、国会や政界再編の様子について報告がありました。

 そして、集まった各代表から様々な質問が出され、熱のこもった議論が行われました。_

 最後に、神崎津山市議より「作州において各町村の五月会組織の充実を図り、皆さんのお力を借り、作州五月会が中身の濃い活動ができるようにしていきたい」との提案がなされ、拍手をもって承認されました。


すばる大合唱で 一宮五月会スタート 一宮五月会 野口

 岡山市の西北、古代ロマンに彩られた吉備の中山のふもとに「一宮五月会」が九月十六日に誕生いたしました。

 この日は約100名が結集し、会は和気あいあいのうちに進められ、「すばる」の大合唱のうちに素晴らしいスタートを切りました。

 正直なところ、発足の会に人が集まってくれるだろうか、集まった人が入会して下さるだろうかと、発会式までは不安でいっぱいでしたが、当日は、予想以上の大成功。

 この成功は、担当秘書の若井さん(私も含め一宮にファンが多数)の情熱あふれる準備と、幹事の皆さんのご努力のたまものです。おっと、肝心のことを忘れておりました。勿論成功の最大の要は、江田五月議員の魅力!?


半田町・三軒屋町内会で勉強会

 去る九月十九日(日)、岡山市半田町の三軒屋ふれあい会館で、江田五月議員を囲む昼食会と勉強会が開かれました。

 当日は約三十人が参加(うち過半数が女性)、ご婦人方の手作りカレーをいただきながら、江田議員の話しに耳を傾けました。

 中でも環境問題、特に南極上空のオゾン層破壊の状況と、それによって生ずる地球規模の環境破壊についての説明には、出席者から大きなため息がもれました。また、国政調査権に基づく社民連国会議員らの雲仙普賢岳災害の報告には、皆が心配を寄せている問題だけに、心を打たれた様子でした。また、日頃あまり知らされない国会運営の裏話や、総理大臣の決まりかたなど興味深い話題に全員時の経つのも忘れて聞き入りました。

 今回、地元町内会有志の発案で開催されたこの集いですが、参加者からは次もぜひ参加したい、今後もどんどん回を重ねてほしいとの声が多数聞かれました。


社会党に批判集中

 さる九月十三日、連合岡山の提唱による「四党・連合会談」がロイヤルホテルで行われた。テーマは 1、県知事選挙について。2、参議院議員選挙について。3、チボり公園問題について― の三点でした。

1.県知事選挙について
 長野知事の政治手腕、識見、能力は高く評価するとしても、すでに二十年、もう一期すれば二十四年。長期政権には側近政治、権力政治は避けられないもの。各党は持ち帰って検討することを約束。

2.参議院議員選挙について
 社会党が公判・民社・社民連に何の事前相談もなしに、一方的に一井淳治氏(現)の公認を発表したことに批判が集中。野党各党が協力しあって政治改革を進めなければならない大切な時、いわば連合の時代とも言うべき政治状況なのに、「俺についてこい」式の社会党の態度はおかしいと、議論沸騰。そこで次の三点について、社会党に一ヶ月以内に回答することを求めた。

(1)社会党は連合時代の野党共闘のあり方について、党としての見解を示してもらいたい。

(2)一井淳治氏の政治姿勢及び社会党の政策・方針などを明確にし、「政策協定」についての見解を明らかにしてもらいたい。

(3)全国的な選挙協力につてい、岡山県社会党としての態度を明確にしてもらいたい。

 岡山県社民連としては、社会民主主義政治勢力の大結集が基本方針なので、四党統一候補の実現にまず努力する。しかし社会党が(1)・(2)・(3)いずれの方法も無視するとすれば、独自候補擁立の選択もやむを得ない、と表明した。

3.チボリ公園について
 長野知事は岡山操車場跡地を断念して、倉敷クラボウ跡地を最適地として決定した。
 だがなぜ「クラボウ」が最適地なのか、その根拠は一切説明されていない。これでは賛否を明確にすることは事実上困難。各党は持ち帰って検討することを約束した。


社民連秋期全国研修会・全国代表者会議開催される

社民連は今輝く  参議院選挙に向け、がんばろう

 十月二十一、二十二の両日、静岡県伊豆長岡町で社民連秋期全国研修会・全国代表者会議が開かれました。大激動の世界を前に、国のへ先をどこに向けるかが問われる中での重要な集会です。

 集会は、江田五月代表の挨拶で始まりました。

 江田代表は「自民党総裁選という三流ドラマから、国民の注目をこちらに引きつけてしまうような、魅力ある議論をしよう」と意欲満々。地球連帯時代にふさわしい「新しい理想主義」をたずさえ、日本は世界の当事者として汗をかくこと、国内でも「生活社会」実現のため、真の政治改革と野党再編・連合新党結成が求められていると強調しました。

 そして、これらの政治課題に応えるため、社民連は来年七月の参議院選挙において、地方区では野党共闘に全力をあげる一方、比例区では独自名簿で臨むことを表明しました。

 社民連として比例区にうって出るのは初めてのことで、政界再編の起爆材たらんとする意気込みを示すものです。

 次いで軍事評論家、前田哲男氏に「PKO問題について」と題する講演を行っていただきました。

 前田氏は、PKO活動の歴史を説明した後、政府のPKO法案に触れ、(1)動機がアメリカの要請と自衛隊の海外派遣にあり、不純であること。(2)「人道的国際協力」というあいまいな言葉と、国会承認のいらない「政令委任事項」が乱発されており、目的・任務がなし崩しに変えられる危険性を持つこと。(3)「国連事務総長の指揮権」が軽んじられていること―を批判しました。

 質疑応答ではPKOと憲法の関係など、活発な意見交換もなされました。

 二日目の全体討議では、、主として参議院比例区参戦に論議が集まり、率直な意見がたたかわされる中で方針が確認されました。最後に「当面の政治活動方針案」を全体で承認し、全日程を終了。参加者は別れを惜しみつつ、全国へ散っていきました。


生産第一主義から生活者優先社会へ
すばる会・中国工業試験所見学

 十月五日にすばる会より、広島県の呉市にある中国工業試験所へ見学に行きました。

 通産省の施設であるこの試験場のメインは、世界最大級の、瀬戸内海の水利模型で、主に瀬戸内海の汚濁防止などを研究しているそうです。もとより通産省の工業試験場ですから、その目的は工業技術の向上をもって生産効率をあげることにあるのでは、と思っていたのですが、海の汚濁防止などと聞くと、少し感じが違ってまいります。つまり環境庁か文部省の管轄ではないかとの錯覚を覚えるのです。工業製品の生産向上よりも、生活の環境を守ることに重点が置かれているのではないかとさえ思えるのでした。

 かねてより社会民主連合が提唱している、生産第一主義から生活者を大切にする政治へ、という姿勢を先取りしているのでしょうか? 産学共同研究のモデルケース的な存在だけに、何にその意義を見いだすのかという問題は、大切な意味があると思います。存在意義の社会的な位置づけも、時代とともに変化してくるのでしょうか? それとも私の単なる誤解でしかないのでしょうか?

 どちらにしても楽しく有意義な研修旅行でした。

   山陽町 もみの志郎


編集後記
 深まりゆく秋。皆様いかがお過ごしでしょうか。
 宮沢喜一氏が新首相に選出されました。宮沢丸はどういう方向に進んでいくのか。世界の中の日本として国際的責任は今後ますます大きくなります。
 PKOをめぐる諸問題もこれから白熱化の気配。日本国憲法も正念場です。
 この秋の臨時国会は目が離せません。


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