1983/09 五月会だより No.18 ホーム主張目次たより目次前へ次へ


1月総選挙を予測する。
浪人 江田五月に直撃インタビュー

 参議院議員の任期を終了して只今浪人中の江田五月に、ズバリ次の解散総選挙はいつになるかを尋ねた。

 八月上旬のある日、岡山市山崎の自宅。うだるような暑さの中、連日一区内を走り廻った疲れもみせず、持ち前の大声で江田五月は答えた。 「十二月から二月までの間に決っているが、もうすこし大胆に予測すると、クリスマス選挙か一月下旬選挙。」

 「但し当るも八卦、当らぬも八卦ですョ。」と、小さくつけ加えた。以下、その問答。

―― このところ毎年のように冷夏や集中豪雨で、おかしな気候ですね。

江田 ダブついていた米も、ずい分在庫が減ったのではありませんか。メキシコのエルチチョンという火山が吹き上げた煙が原因だとか。地球も小さな星なんですネ。

 政治の方は、この秋から大異変が起きそうですョ。

―― ホウ。まず九月は社会党大会…。

江田 飛鳥田さんがとうとうさじを投げて、石橋政嗣さんに交替するわけです。しかし、社会党の老朽化した体質を改善しないと、お化粧を少々変えてみたぐらいではダメ。野党第一党の責任を自覚してもらいたいですネ。

―― そして臨時国会。ここで 秋口解散は…?

江田 ありません。それではダブル選挙回避の意味はなく、それに十月十二日のロッキード判決がありますからネ。

―― でも、選挙になれば判決は延期でしょう。

江田 ムリをすればネ。しかしそんなゴリ押しを国民は許さないし、かえって判決のことが話題になるばかりで、自民党としてはやりにくい。

―― どういう判決に…?

江田 裁判の予測は控えるべきですが、この事件は特殊なのであえて予測してみると、有罪は決定的。これまでの小佐野その他に対する判決は、すへて有罪でした。田中総理だけ無罪は、ありえません。

 しかも実刑。刑法に懲役三年以下でないと執行猶予はつけられないと書いてあるんです。五年の求刑を四割もまけてやる理由がない。

 そうなると、保釈が失効しますから、彼は鉄格子の中に再び入ることになる。そして控訴して再保釈…。

―― 新聞もテレビも大騒ぎでしょうネ。冷静に考えてみると、彼はわが国の総理大臣だった人なのだから、悲しい予測ですネ。

江田 ソウ…。私はネ、披は議員を辞職するのではないかと思います。政治感覚の鋭い人ですからね。十一月は、外国からお客さんが来る。その時に客間におもちゃ箱をひっくり返したような大騒動は避けたい。それに、すぐ次の選挙で出てこれますからネ。

―― ナルホド。中曽根さんの 解散発言は、「田中さん、安心して辞めなさい。すぐ国会解散するから。」という意味なのですネ。

江田 野党は大弱り。日本の政治の利権体質は何ら変らないのに、田中辞職で野党は肩すかし。詰め将棋で王将が姿を消したようなもの。

―― そんなことでいいんでしょうか。

江田 辞めないよりはいいでしょう。しかし又すぐ当選してきて、みそぎだと言う。

 そうすると国民はどう思うでしょうか。やはり強い者が勝つ。利権のおこぼれをもらう者が利口だ。世渡り上手にやらねば損だとなって、こびへつらいばかりがはびこる。正義を愛し悪を憎む気持はますます薄れる。♪こーんな日本に誰がしたー♪と後世嘆くことになる。

―― 十一月のお客さんは…。

江田 レーガン大統領。西独のコール首相。中国の胡耀邦総書記。大物が続々登場で、中曽根さんがこんなチャンスを見逃すはずがない。

―― そこで解散ですか?

江田 ウーン。解散権は、総理大臣にとってはトランプの切り札。効果が一番高い時に使う。一兆円減税も中曽根さんはやる気です。これを九月からの臨時国会でやってしまえば、十一月解散、年末選挙もありうる。

―― 減税は、サラリーマンの 五年続きの実質増税を考えれば、善政とはほど遠い。むしろ遅すぎますネ。

江田 ソウです。それに増税が待っているのですからネ。

 来年度予算は、福祉や教育など国民生活に直接関係するところはもち論、公共投資や各種補助金もカット。そのくせ軍事費は別枠。

 自信を持った中曽根さんは逆にそれを争点にしてくるかも知れませんネ。

―― 今の財政事情では、ゼイタクは敵だというワケ…。

江田 制度を改革することが大切なのです。例えば補助金でも、今のバカみたいに細分化された補肋金の制度をそのままにして、節約というからカットしかない。制度の無駄を省いて、金が生きるようにしなければネ。

―― 予算は十二月終りに作成でしたネ。

江田 ソウ。そして年末に通常国会召集と同時に解散。おトソの酔いが覚めたらすぐ告示で一月下旬投票。ちょっとずれると二月選挙も…。

―― 景気がよくならないと選挙はできないのでは…?

江田 確かにそうです。だけど来年六月までには必ず選挙をしなければならない。その間のいつが一番有利かを考えているわけですネ。

 今景気は上向きと言われていますが、実際はそうでもないです。しかし、秋から冬にかけて、良くなるゾ…という雰囲気が広がる。それが来年になると、ヤッパリダメ…となる。だから、早く選挙をすませたい。

 それに、どうせ増税を言いだすのですが、増税隠しにも限度がありますからネ。

―― ナルホド。選挙までは減税で、終ったら間接税で増税。だまされてはいけませんネ

江田 そうですヨ。私も、浪人になって収入がゼロになったので経済的には大変です。しかし負けられません。

 私の父江田三郎は、金のことは実にのんびり。焚くほどに 風が持てくる 落葉かなと、一茶の句を引いて悠々としていました。情熱を燃やして頑張れば、道は必ず開けるということ。

 どうぞよろしく。



 自民党の多数による横暴が、岡山県議会、同市議会で相次いだ。例の「日教組大会に公共施設を貸すな」という陳情、請願の採択だ。憲法で保障された言論や集合の自由が、これほど簡単に踏みにじられるとは。民主主議とは何なのか、その根本を考え直さずにはおれない。

 県・市議会に陳情、請願を出したのは、右翼団体だ。内容は「日教組大会が開かれると、住民生活に混乱が起きる」ことを理由にしている。これを県議会は七月十一日に自民党の賛成で、市議会は同十五日に保守系無所属議員の賛成で採択した。日教組はその後、長野県知事に「定期大会開催のため、県営施設を貸してほしい」と申し入れたが、長野知事は断っている。

 問題は、自民党や保守系議員たちは、日教組に対する憎悪感情が強いがあまり、「自由」「民主」を無視している点だ。それが何を意味するか事の重大さに彼らは気づいていない。

 同様のことが国でも起きている。中曽根首相は「靖国神社の公式参拝は、違憲の疑いがある」というこれまでの政府見解の見直しをはじめるという。公式参拝を合憲としようという動きは、自民党タカ派や右翼の間に以前からあったものだ。

 日教組大会の件といい、靖国神社の件といい、自民党とそれを支える勢力によって、社会全体が右へ、右へと歪められているといえる。これを阻止するためには、民主主議擁護の一点で、良識あるすべての人々が、団体が、協力しあってたたかうことである。


浪々の身に…

 七月十日から、いよいよ浪人ということになった。

 今から二十年も前、学生運動で大学を退学になって以来ひさびさの浪々の身。

 六年前の参議院選挙で当選させていただき、無事に任期を終了したわけで、これも多くのみなさまのご指導とご鞭漣のおかげだ。厚く御礼を申しあげます。

 今夏の参議院選挙は、今までの全国区がなくなり、比例代表区となった。私の選挙区がなくなったわけだが、浪人を決意したのは、そんな理由ではない。

日本の政治の欠陥は?

 今の日本の政治には、改めなければならないことがたくさんある。例えば、参議院は衆議院のむし返しばかりやって、本来の役目を果たしていない。参議院改革が必要。

 自民党の政治が三十年もの長い間続いて、いまだに終りが見えてこない。野党は、内輪のケンカばかりで、政権を目ざさない。国民はあきあきしている。政権交替が必要なのだ。

 政権交替があれば、与党は政治を利用して金もうけをして、後で悪事がバレると政権を失うから、悪い事をしなくなる。野党も、無責任な大言壮語でなく、実行可能なことを言うようになる。政治が、マジメに国民のことを考えるようになる。

 私は日本の政治の最大の欠陥は、政権交替の可能性がないことだと思う。そして、これを改め政権交替の慣行を作るのは、やはり衆議院の仕事だと思う。

政権交替のために!

 そこで私は、任期満了の機会に参議院を去り、衆議院を目ざすことを決意した。

 日本の政治を根本から変革し、国民が興味と関心を持てるようなイキイキした政治に変える。巨大企業や既成の組織のことばかり考えるのでなく、庶民の願いを実現する。そのために、まず衆議院に議席を持とう。こう決断した。

岡山一区はふるさと!

 既に参議院六年の経験がある。これを生かしたい。同時に岡山一区は私のふるさとである。この地域のこと徹底的に知りつくし、ここにすばらしい郷里を作りあげたい。

 そのためには、参議院の経歴を忘れて、一から勉強しなければならない。幸か不幸かダブル選挙ははずれ、解散総選挙まで時間ができた。この期間に、とことん岡山一区を歩き廻り、郷里に大きく根を張った政治家に育ちたい。

 郷里のみなさんの誇りにしていただけるような政治家に育つ決意だ。

父の足跡を尋ねて…

 二十年前に私が浪人した時、父江田三郎も社会党書記長をやめ、参議院議員の任期満了で衆議院に変わるために、浪人した。東京荻窪での浪人二人の下宿住いはわぴしかったが、今では懐しさがつのるばかりだ。

 父の足跡は、岡山一区のいたるところにある。これを尋ね自分の血肉とし、石にかじりついても、必ず良い結果を生む覚悟だ。

重い使命を自覚して!

 世界に平和を作り、日本にすばらしい郷土を作るため、政治の大転換を果さなければならない。使命は重い。

 多くのみなさんの一層のご指導を心からお願いし、ここに当分の間浪人を宣言する。

     江 田 五 月


六年の歩み

六年前の五月
 昭和五十二年五目二十二日午後八時、父江田三郎は急逝しました。その日は、私の誕生日でした。

 私は、裁判官をやめて父の後を継ぐ決断をし、七月の参議院選挙に全国区から立候補。一三九万二四七五票で第二位当選。

 私にとっても家族にとっても、この一ヵ月半は激動でした。マスコミの取材攻勢にとうとうダウン。以来誰もが私の体のことを気遣ってくれますが、心配ご無用。

 田英夫社民連代表:「ゴルフで鍛えた私も、若い五月さんのバイタリティーにはかないません。いつもあおられてますヨ」

社民連副代表として
 社民連は、父江田三郎が残した新しい政党です。まだ小粒ですが、日本の政治を変えるという大きな夢を持っています。

 私は、この副代表として、全国をとび廻りました。各地の組織作り。選挙の応援。社民連を代表して各種集会に出席。北は北方領土返還を求めて納沙布岬から、南はまだ戦争の傷痕の深く残る沖縄まで。

 交通労連、電機労連など労働組合の全国大会、日本商工会議所の総会といった大きな集まりでも挨拶しましたが、何といっても一番うれしかったのは、先日の倉敷県議選で佐古信五、岡山市議選で寺田あきおの当選です。

 宇佐美忠信同盟会長:「江田さんはこれからの政治家。労働界は再編中、政界も再編して、ぜひ新しい政治の流れをつくってほしい。江田さんのご活躍に、大きく期待しています。」

国会が本舞台
 国会では、法務委員、建設委員、公害及び交通安全対策特別委員、災害対策特別委員、などを受け持ちました。

 昭和五十七年一月には本会議で代表質問。鈴木前総理に「田中元総理が有罪になっても手を切らないのか」と糾しました。

 昭和五十八年三月には、予算委員会の総括質問で、中曽根総理に「国民生活の現状をみれば、やらなければならないことは山ほどあり、憲法改正など考えている暇はない筈だ」と迫りました。

 通り魔殺人の被害者のことは、映画「息子よ」でも取上げられましたが、当選以来この問題と取組み、昭和五十五年には犯罪被害者補償法を制定させました。

 昭和五十六年四月、岡山でおきたコンクリートパイルに子供が落ちて死亡するという事故を取り上げ、工事途中の現場の安全について建設省に通達を出させました。

 東京湾や大阪湾にゴミを捨てるための一〇〇〇ヘクタールもの島を作るというのがフェニックス計画です。しかしこんなやり方では自然を汚すばかりでキリがありません。ポイ捨て生活を変えて、リサイクル社会を作らなければなりません。数字をあげて鯨岡環境庁長官に迫りました。

 車検は今のやり方でいいのか。自動車の性能はグンと良くなっているのに、あい変らずの二年ごとの分解整備。二〇年余の免許歴を生かし、ユーザー本位の車検制度を主張。新車に限り三年に延びましたが、まだまだ改善しなければなりません。

 五十七年六月には、参議院全国区を比例代表制に改める法案がでてきました。この制度では、自民、社会といった大きな政党には都合がいいけれど、参議院の良識は死んでしまいます。青島幸男さんや中山千夏さんと共に全野党を説得して廻り、強く反対しましたが、法案は通ってしまいました。

 ハンセン氏病のみなさんのことも、当選以来取組んでいる課題です。やっと長島に橋がかかることになりました。

前半三年と後半三年
 その他数多くの法律の制定に関与し、全力投球して来ましたが、詳細は省きます。

 この間総理大臣は四人。前三年の福田さん、大平さんの時代は、国会は与野党伯仲でしたから、野党の意見も政治にかなり反映できましたが、後三年の鈴木さん、中曽根さんの時代は、自民党圧勝で、野党はカヤの外という事が多く、つくづく自民圧勝の弊害を痛感しています。

国会質問のねらい
 この六年間、景気の低迷が続いています。円高、貿易摩接など、日本経済をこれからどうするのか、カジ取りのむつかしい時代です。

 私が国会で質問する時、いつも気をつけていたことがあります。それは、こうした曲がり角の時代に、何でも反対やあげ足取りでなく、国民生活を第一に考える安定した経済や、自然と調和のとれた社会を作ることを政策決定の基本とすべきことを説き、この方向で積極的提案をすることです。

 むつかしい時代に、大声でどなるだけでは、何の解決も生まれません。

行政改革
 行政改革問題では、社民連の行革特別委員長として、土光さん達と何度も会い、国民本位の行革にまい進するよう要請。尻すぼみの国民を忘れた行革ではいけません。

若手政治家として
 そのほか、新しい政治をめざす若手政治家として、各地の新聞社や青年会議所などから講演を頼まれることも多く、その都度、「古いイデオロギーにとらわれた建前の保守革新の不毛な対決でなく、市民の常識に沿った実りの多いわかりやすい政治を作ろう」と訴えました。

 内田健三法政大学教授:「五月さんは新しいタイプの政治家。よく勉強もしているし、庶民性、先見性も、抜群。私も自信をもって推薦できる人です。」

国際活動にも
 これからの日本は、国際的役割もますます大きくなります。私も、明日をめざす政治家として、国際的活動にも積極的に取組みました。

 昭和五十三年秋には中国へ行き、父の歩いた跡をたどり、五十五年秋には、西ヨーロッパ諸国を一ヶ月かけて廻り、北欧の行政監察官制度(オンブズマン)、西ドイツ社民党の選挙、フランスの「国境なき医師団」を研究。イギリスでは日英シンポジウムに出席し、新しい政治を目ざす私の発言は、幸い多くの参加者の共感を得ました。

 その年の冬はタイヘ行き、戦争中の日本軍の傷痕が今も残っているのを見、カンボジア難民の悲惨な現状を見てきました。

 昭和五十六年は外国へ出る機会が多く、春はハワイで日米議会制度の研究会に出席。夏は国会の派遣で二ュージーランド、オーストラリア、アセアン諸国を訪ね、秋にはイギリスに新しく生まれた社民党の大会にまねかれて再び訪英。

 幸い英語は大丈夫なので、一人でどこへでも飛んで行けます。

 又、この年は、秋には日米民間人会議(下田会議)に出席してレーガン流の軍拡圧力に抵抗し、冬の初めには軍縮のためのパルメ委員会歓迎レセプションを企画、司会して、好評を得ました。

 横路孝弘北海道知事:「五月クンとは大学以来の友人。西欧旅行の時は、一部分だけ一緒になりましたが、私の方は夫婦で彼の英語にずい分助けられました。早く選挙に強くなって、大舞台で活躍して下さい。」

執筆も
 昭和五十三年初めには、早すぎる自叙伝「出発のためのメモランダム」を毎日新聞社から出し、その他新聞、雑誌などの原稿依頼は数え切れません。週刊誌のコラム「レッドカーペット」は毎月一回で、一年半続けました。

政策活動も
 政策活動も大切です。

 党の違いを乗り越えて若手の議員の集まりを作り勉強会を続けたり、各界有識者を呼んで有志で話を聞く二十一世紀サロンを主宰したりしています。

 このサロンでは、シンポジウムとパーティーを昭和五十六年秋と五十八年春の二回、東京で開かせていただきました。いずれも八〇〇人以上もの人が集まって下さり、盛会でした。
 このような活動を通じ、これまでの政党の枠を越えた政界再編成をめざしているのです。

 河野洋平新自ク代表代行:「柔軟な思考のできる人で、過去にとらわれない、これからの政治を担う人が江田クンです。衆議院に来るのが、今から楽しみです。」

そして岡山一区へ
 多くのみなさまのご指導とお力添えをいただいたからこそ、この六年の活動もできました。全力投球で、国会議員としての経験も積んできました。

 そして今、更に大きく羽ばたくため、衆議院に岡山一区で立候補することを決意。

 昭和五十六年春、岡山市山崎に居を定め、五十七年十一月には西大寺市民会館で立候補宣言集会。

 昭和五十六年四月以来、毎週月曜朝は岡山駅前での街頭演説。これが一週間の始まりです。一区一円での街頭演説、ご家庭のお茶の間をお借りしてのホームミーティング(家庭懇談会)。いろいろの集まりに出かけ、話を聞かせてもらう。さまざまな出合いがどんどん広がり、今年のエトのとおり、猪突猛進中です。

 河原太郎弁護士:「私の息子昭文とは中学以来一緒で、私も五月クンを子供の時から知っています。岡山一区の私たちは、彼を育てることに誇りを持ちたいと思います。」


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