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2013年1 月11日 第 14 ・ 15 回講義 最終回                 講師  江田五月

 

明けましておめでとうございます。いよいよ最終講義となりました。去年はなかなかバタバタしていまして、外国へ行ったり、選挙があったりで、大蔵さんや江田秘書に代講をしてもらったりで、申し訳ありませんでした。初めてのおととしは大分緊張したのですが、去年は緊張が解けていて気楽にお話しできました。

 

【新年会の風景】

まあしかし、暮は大変でした。政権が代わって、安倍首相はアクセル踏みっぱなしで、本来の国防軍とかそっちの方のアクセルはポチポチのようですが、景気浮揚、デフレ脱却、危機突破などなど大宣伝でした。景気が悪いのは皆が認めるところで景気を良くするのに反対するものはいない。ですから景気を良くするのに、そんなことやったって景気は良くならない、そういうことだったら反対できるけど、あとあと大変だぞ。だから今、民主党の方も反対だと言うのはなかなか言いにくい。私は最高顧問ではあるけれど、あまり、日々の舵の切り具合まで関与していないので、ちょっとわかりませんが、補正予算にどう対応するのかなかなか難しいですね。ただまあ、本当に良いかというと私はかなり疑問ですけどね。とりあえずは田舎の方まで土建屋さんたちに仕事がまわってくるだろう。補正予算、3月まで使い切れないから、もう少しずれこんで 4 ・ 5 ・ 6 月、今年の前半ぐらいまでいって、仕事がきてくれて良かった。最近忙しくてたまらんよとかいっている内に参議院選挙が終わって、そのころの景気がどうなっているのか本当に心配ですね。

やっぱり安倍首相は三本の矢とか言って、復興と安心と成長ですかね。復興予算を増やすのは良いので反対しにくのだけど、実は復興予算が消化し切れていない。安心というのは何の安心ですか。学校の耐震化ならまだいいのだが、いろんなところに堤防を作ったりする安心、それは本当の安心になるのか。成長は従来型の経済産業構造に一生懸命ガソリンぶっこんで成長させるって言うのですけど、これで財源どうするのか。財政規律は大切だと言っているわけですから。中長期的には財政規律は大切だけど、今は景気を良くしたら税収があがるから財政規律は大丈夫。それだったら将来的になんて言ったってあまり意味がないので。結局、途中で失速して国債暴落とか、そして将来的には物凄い借金とか、いやいや借金はインフレでチャラになったけど国民生活はすってんてんとか。なんかやばいなあという感じが非常に強いと思います。

昨日は税理士会の賀詞交歓会に行きましたら、安倍首相は絶好調でしたね。「やあ皆さん、さすがに素晴らしい気遣いで、会場に入ってきたらすぐに中国・四国の席がおいてありました。私は実は山口県で・・・」とそんな話しをしながら、どぉっと満場をわかしてやっておりまして、勝った時はあんなもんで負けた時はこんなもんだと思いながら、聞いていましたが。それで、民主党の議員がちょっといたかな。その後、日本フランチャイズチエーン協会賀詞交歓会に行きましたら、民主党の議員は私一人で、向こうは農水大臣林芳正さん、国土交通大臣太田昭宏さんとか、堂々たる皆さんがおいでになり、まあそういう新年を迎えました。

まあしかし、やはり政権交代が普通のことになれなきゃ、政権交代が起きるたびに、勝った方が欣喜雀躍、有頂天、負けた方が意気消沈、青菜に塩、これではやっぱりまずいですよね。ごく普通な事なので今度は担当者が変わったな、野球だってスリーアウトになれば交代し、又、スリーアウトになれば交代してやるわけですから、まあ 2009 年が本格的な政権交代の最初でしたから、だから皆、力が入って、歴史的な偉業なんて言いましたけれど、私自身が言ったのは 2009 年の政権交代が歴史的偉業じゃないんで、 2009 年からやっと政権交代時代に入った。政権交代というものが普通のことになっていくという過程にやっとのっかったので、まあここで元に戻ったからといって別にびっくりすることはない。あの資料を見るとはっきりしているのですね。自民党の得票率は減っていて増えてはいない。民主党は減りました。しかし投票率がガクーンと減っていますから、 2009 年に民主党に投票した皆さんのかなりの人が投票に行かなくて、あるいは第三極に流れて、民主党がぐっと減っているということなので。投票率が全国で 11 %下がったわけですから、これでは民主党が負けるのは当たり前で。自民党の方はどういう評価だというと、自民党が素晴らしいから入れたというより、もともと自民党票という固定した票があるのですね。これは農業団体であったり、土木建築であったり、いろんな昔からある自民党の固定的な集票組織、というのがあって、どこかの建築協会とかそのまま自民党支部になっている。そういうのがいっぱいある。それが回転すれば一定の票がでる、今回出た。私も呆れながらみていましたが、 2009 年民主党政権ができて、例えば、農協は一時、民主党に相当近づきました。 2010 年、私が参議院選挙をしたのですが、それまではずうっと農協の政治連盟は構造的に自民党に票が入っていたのですが、 2010 年は農協は誰も推薦しませんでした。それだけでもこっちは大変有難かったのですね。医師会はずうっと自民党をやっていたのですが、 2010 年は私と自民党の候補、二人を推薦したのですね。岡山県は 1 議席ですよ。これも大変有難かった。とにかくとんとんと玄関たたいていけるわけですからね、こっちは。というようなことだったのですが、去年の総選挙の前には医師会は雪崩うって自民党に戻っていくと。農協ももちろん。従来からの自民党集票マシーンが息を吹き返した。それに対して民主党は自民党のような集票マシーンを持っていず、そこは弱いところなのですが、しかし、民意をより強く民主党の場合は反映するといえる。だからって負けていいわけではありませんが、こういう結果になりました。民主党が 1/4 に議席が減ったわけですが、決して国民のサポートが 1/4 になったわけではないんです。もともと小選挙区制度というのは政権選択を鮮やかにさせる、ですから 51 %の得票があれば議席の占有は 70 %とかというように鮮やかに政権交代させる。有権者の政権選択はほんのわずかなんだけど、しかしそれが議席になると見事にふれて、その代り安定して政権担当をする。だけどそれが次の選挙の時にはちゃんと審判を受ける。こういうことで今回は自民党・公明党が 2/3 以上とっているわけですが、勝ったからといって奢り高ぶってもらっては困る。逆に民主党の方がぐんと減っていますが、だからといって意気消沈して、霧散霧消、民主党はもうこれで解党だって、そういう必要はない。私はむしろ、日本の国際的な立場、結構重要な立場にいるんで、国際社会を動かしていく中で日本は安定要素になっているのだろうと思います。そんなにどんどん、どっかへ旗ふってアンチ何とかとやる国ではない。そういう立場というのは結構重要だし、国内的にも日本の世論はちょっと今古過ぎる面もあるけれど、それでも全体からみれば安定しているので、こういう状況からみると日本の世論は半分は伝統保守、半分は民主リベラル、それくらいに世論が分かれていると考える。伝統保守のところに自民のかなり巨大なビルが建っていて、そこに公明とか維新とかひしめきあっていて、民主リベラルの方の敷地が広大な更地になっていて、よくよく見ると民主党というバラックがちょっと建っている。もう一度世論の分布状況に見合う政党をきっちり作っていく、そこへ今辿り着いているということであって、そんなに悲観して民主党はもう先はない、みんなで流れ解散ということはない。まあ、新年祝賀会に行きますと誠にさっぱりした風景で、ちょっと具合悪いですね。まあ、そんな新年を迎えました。

 

【夏の参議院選挙】

夏の参議院選挙がどうなっていくかですが、それまでに今の安倍政権がボロを出してくれれば、それはそれで大変なことではあるけれど、選挙はやりやすいかな。しかしなかなかそう簡単にはいかないんで。それよりも安全運転にしばらくは徹するだろうと思うので、そこをどうちゃんと参議院選挙を戦いぬいていくのか。参議院は 2007 年選挙の改選ですから今度は、 2007 年というのは民主党がかなり大勝したのですね。大勝したのですが、かなり小沢さんにくっついて出た人がいますから、それでも議長入れて 88 というのはかなり大きな数で、そのうちの 45 ぐらいですか今度の改選なんですかね、これをきっちり取るのはなかなか大変です。まだ候補者が揃っていない。岡山も 1 名区ですがまだ候補者は決まっておりません。誠に恥ずかしいことですが、 2007 年に姫井由美子さんという人を当選させたら、ご承知のようなことになっていまして、今生活の党ですか、選挙の時は、みらいの党でしたか。千葉の方で出たので、これで岡山とは縁がなくなったのだろうと思っていたら、何か暮に携帯にメールが入っていて、大変だ、大変だ、姫井さんが消防の夜警に挨拶に来ていると。一般的には大変ではないのだろうが、私どもからしたら偉いことで、姫井さん次の参議院選挙に出るつもりかな、彼女の意図がわからずに、ただただ小さな胸を痛めているといった状況ですが。まさか彼女が出るとういうことはとうていありえないが、彼女が出るとやっぱりね、話題になりますよね。あまり良くない話題になってしまう。

今日は最後ということもあって、私がこれまでどういう生き方をしてきたか、そんなことを話ながら皆さんの参考にして欲しいと。もう一つは、私は 2010 年に参議院選挙をやったのですが、鳩山さんが散々な目にあって辞任して、菅さんに代わって、菅さんは一時キューンと支持率を増やしたのですが、上がるのも早ければ落ちるのも早い。ドーンと選挙の真最中にあれこれ余計なことを言って、相当な逆風で、その選挙でどういう戦いをしたかという話をしてみたいとおもいます。

私が選挙中に精一杯言ったのは、 3 年 3 ケ月前に民主党はそれまでの政治とは一味違う政治をスタートさせた、それがどこまでできたかっていうのはいろいろあります、できなかったことも一杯ありますが、その政治を改革政治に変えた、これは確かなので、それを前に進ませて下さい、決して後ろに後退はさせないで下さいと一生懸命言いました。呼べず答えず、なかなかこれが有権者の心にしっかり届かなかったのかもしれませんが。例えばですね、 3 年 3 ケ月前まで社会保障費、自民党政治で毎年毎年 2,200 億円減らされてきたのですね。その結果、何が起きたか。社会保障、随分筋肉質になったな、そんなことはありません。そうじゃなくて、例えば医療崩壊がおきた。私の一番上の孫、この子は 1600 gぐらいで生まれてきたのかな、未熟児です。生まれてすぐに、子供用の専門の救急車、これに乗せてばあっと八王子小児病院にいった。これであのすくすくと育っているのですけど。八王子小児病院は、今はないっていうのですね。小児科が随分減っちゃたんですね。私の孫の時に、八王子小児病院の医師と話をしたのですが、新生児専用の救急車をつくって運転すると、初期投資が 2,000 万ぐらいいる。その 2,000 万をかけることによって、多くの命なり、障がいが発生するというのが防げる。もし、それで亡くなればそれはお終いです け が、障がいを持った子供から育っていくと将来かかるお金は桁が違う、だからそういうところにきっちりお金をかけるというのが大切なのですよと、とこんこんとお医者さんに言われました。それはその通りで。しかし毎年 2,200 億減らすことによって、小児科がなくなる、産婦人科医がいなくなる、救急体制が取れなくなる。私の地元岡山でも、北の方の新見とか高梁とか井原か、市民病院で産婦人科医がいないところがかなりある。民主党 3 年 3 ケ月でそれが元に戻るところまではいきませんでした。民主党は 2,200 億円減らすのを止めて、そしてわずかですが医療のプラス改定もやって、方向の切り替えをしたわけですよね。じゃその部分、どこか削らなければいけないのですが、「コンクリートから人へ」とこのスローガンは受けが良かったかどうかは別として、公共事業費を減らしました。八ツ場ダムは止められなかったけれど、止めたダムも随分たくさんあるのですね。そういう転換をしているので。世襲政治からの転換とか、利権政治から脱却するとか、いろいろとめくらなければ何もわからない。

被災者生活再建支援法、被災者というのはもちろん災害の被害者です。恐らく、市民立法というと日本ではこれが最初かと。 NPO 支援法も市民立法だと思いますが、一番典型的なのはこの被災者生活再建支援法です。阪神・淡路の地震後にできて、その後改正されて金額は大分多くなっています。もちろん、出たら家がすぐ建つと、そこまではいかないが。 300 万ぐらい出るのでしょうか。

 

【私の父、江田三郎】

私の半生について振り返りながら話しをしてみたいと思います。歴史というのはなかなか人々の記憶にしっかり残っていきません。あっという間に時代が変わって。昨日もちょっと話しをしていたんですが、冷戦時代というのはもう今の世代ですと歴史ですね。ベルリンの壁が崩壊したなんてことは当然覚えていなく、 1989 年ですかね。僕らはベルリンの壁が崩れた時、おう歴史が変わるな、体制が変わるな、そういうことを思ったりしましたが。あっという間に現代史というものが過去のものになっていって、忘れさられて今の時代がどういう歴史的位置にいるのかわからなくなってしまうのですが、私はこんな時代を生きてきたという話をしてみます。

私の父は、戦後、日本社会党の中でいろいろ努力して、結局、最後は社会党を追われるように飛び出したのですけどね。その父がね、こういう時代があったのです。岡山県の田舎の方で生まれ育って小学校を卒業しました。当時は小学校を卒業して、そこから上にいくのは誰もがいくわけではなかったのですね。私の父(江田三郎)はまあ勉強はできたのでしょうが、小学校を出たらそれでおしまい。ところは父の姉がソウルにお嫁に行っていましてね。三郎、お前一人でソウルに来るなら姉が学校にあげてあげるよと。 12 才ですよね、そして一人で朝鮮半島にわたってソウルに行って、そこでソウルの善隣商業高等学校にいきました。当時の朝鮮半島は日韓併合で日本になっているところです。まあいってみれば植民地支配ですが。日本に大倉財閥という財閥があって、今、日本では東京経済大がそうですかね、その同じ資本系列で当時のソウルに善隣商業高等学校をつくりました。古賀政男さん、作曲家です。父の先輩になる。古賀政男さんから善隣商業のことは聞いたことがないが、朝鮮半島にはいろいろ友達がいました。そしてある時、就学旅行か卒業試験か何かで、日本に帰ってきて下関に上陸してびっくりしたのですね。ソウルでは人力車に乗っているのです。人力車を引っ張っているのは朝鮮人、乗るのは日本人。でお金を渡す。下関で人力車にのるお客を見ていると、着いてお金を手から手に渡している。びっくりしたのです。何がびっくりしたかというと、植民地支配のところでは日本人が朝鮮人にお金を手から手に渡すことはなかった。ポーンと投げて渡す。日本では手から手に渡している。同じ人間どうしでこれはちょっとおかしいのでは。植民地支配では人を人と扱っていないのではないか、そんなことを感じて少年の多感な頃を過ごしました。それから帰国して、神戸高商、今の神戸大学、ここで高等商業学校をでて、東京商大、今の一橋大学へ行って。しかし、もう世の中はそんな大学で勉強している状況ではない。いろいろ事情はあったのでしょうが、地元へ戻って岡山で小作争議に飛び込んだ。小作争議ってわかりますか。争議はわかりますよね。葬儀ではない、争いごとです。労働者の団結権、団体交渉権、争議権、まあストライキみたいなものです。小作ってわかりますか。日本で戦後、自作農特別措置法ができて自作農をいっぱいつくったのです。自作農というのは小作の反対ですよね。小作が自分の土地を持っていない。地主がいて地主からの内を借りて耕作をする。しかし、農業ですから天候に左右されて。豊作の時はいいけど凶作の時にはそれでも地主に小作米を払わなければいけない。まあどのくらいの俵数なのか、かなりとられてしまうのですよね。おかしいじゃないか、自分で実際に耕し、草をとったりして、お米を収穫した人間に何の権利もなく、単に土地をもっている、昔からの地主だというだけで悠々と左団扇で暮らせるのは変じゃないか。昭和初期に日本全国に小作争議というのが起きて、そうした農民運動の団体なんかもできた。まだ、岡山の方はそれほどあったのかな、東北地方では本当に凶作の時には、宮澤賢治の詩の“寒サノ夏ハオロオロ歩キ、というんですかね、そういう娘を都会に売りにだすということもあった。そんな中で小作争議をやって。

時は戦争へ戦争へと傾いていく時代で、私の父も小作争議、戦争反対、治安維持法違反、一斉に全国で摘発、刑務所にぶち込まれる、結局、 2 年 8 ケ月刑務所に入っていたのですね。ついこの間までそんな時代があったのです。当時結婚していましたが、僕はまだ生まれてなかったんですけど、いろいろあって、刑務所の小さな窓にサボテンを鉢植えにしていたのですね。小さなサボテン、「一瀉千里の熱 なおありや 志は千里に在りや」とか。そいう時代で、南の刑務所の窓が開いていて、そこから空が。なんか松尾和子の「再会」(歌手松尾和子さんは刑務所に慰問に行きその時に、再会をいつも歌っていた)みたいですけど。シリウスの星が自分の窓からは見えないんです。シリウスというのは何かというと、時代が変わる星なのですよ。エジプトでシリウスを見て、その年の状況を占った。シリウスがこう輝いたら今年は大洪水になる。大洪水になったらナイルの川が氾濫して、そして奥の方の肥えた土が平野近辺に連なるのですね。その年は豊作になる。シリウスの輝きによって今年が豊作かどうかを占う。シリウスが見えるというのはやはり、新しい場合かどうかがが見えてくる。そんなことを刑務所の中で考えていたりしていたようです。

で、昭和 15 年でしょうか、刑務所から出てきて。 16 年に私が生まれるのですが、そういう人間ですから、シャバに出てどうやって暮らすか。うっかり商売やって暮らしたら、お前またなんかやっている、南方送りだ。南方に送られたらもう戦地で帰ってこられない。生きた人間を相手にしていると大変なことになるので、死んだ人間を相手にしたらいいのだろうと葬儀屋をやった。神戸で、公詢社という葬儀屋を。なんか聞くと今は神戸で一番大きな葬儀屋になっているらしいですが。私の父の当時は、そんな葬儀屋の走りみたいなもので。多分、お寺と神社とかが葬儀をやっていて葬儀屋というのはなかったのですね。ところが大変丁寧な葬式をやるのですけど、丁寧過ぎて儲からない。大赤字をつくって支配人を首になるのですが。父の葬式哲学というのがありましてね、死んだ人間に引導を渡すのはお坊さんだ。だけど引導は死んだ人間だけに渡せばいいんじゃない。最後もう一口おっぱいを飲ませていうお母さんに、もう釘を打ちましょうと言って引導を渡すのは葬儀屋の役目なのだ。そういう葬儀ができるかどうかが大切。そんなことをやりながら葬儀屋を首になったものですから、どうする。

丁度そこへ、この男の葬式は、これは見事だ、この男を殺しちゃいけない、死なしちゃいけないという人がいて、北京の日本大使館に。で引っ張ってもらって、父が先に行って、あと僕と母と中国に渡りました。北京から石家庄という所に行きまして、昭和 18 年ぐらいですか。 2 年ばかり中国で生活をした。戦争が終わった。戦争中のことは、僕も 2 才か 3 才ですか。それでもね、ある日、父が帰ってきて背中に水膨れができているんですね。後で聞いた話ですけど鞭で打たれた。打ったのは誰かというと八路軍、中国の解放軍ですよね。それは日本人ですから、日本の一団のまあリーダー的な、水利工事をやっていた土木の監督なので軍部とつながっているとみられてもおかしくない。全部八路軍に没収された。しかし後から、いや間違えだった。あの男は軍部と関係ないというのがわかって、没収されたもの全部そのまま戻されたと。日本が大陸でどういう乱暴狼藉をしたかというのはいろいろあるので、中国ももちろん戦争ですから、いろんなことがあったかも知れないけど、中国の人民軍、規律がしっかりしていたのかなあと。

そんなことがあって、戦後日本に引きあげてきて。引き揚げる時はまさに着の身着のままですよね。僕は背中にリュックサックを背負って、小さなおもちゃを入れて。 20 年に生まれた弟がいて、母親が背中に背負って、父は恐らく柳行李一つぐらい担いで衣類とか入れて、というふうに日本に帰ってきて戦後をスタートさせた。戦前にも父は農民運動で小作の味方をしながら県会議員に当選しているのですね。 1 名のところで、戦前ですから女性には選挙権がない。それでも小作争議をやっている男がよく、まあ無産政党ですね、で県会議員に当選した。戦後に入ってすぐ、県会議員に復帰していたのですが。大変な時代で、面白い鰤事件というのがありましてね。漁協から正月に県会議員がみな鰤を分けてもらい、食べた。ところが後で物価統制令、つまりヤミの物資だとわかった。新聞にたたかれた。皆もうそんなもの知らない。」しかし僕の父は食べちゃったのだから、皆で食ったんだからしょうがない。県会議員辞めるといって辞めて。欠員選挙になり、そこに出たが落ちた。落ちたので、江田三郎お前バッチ着けていないのだから次の選挙にでろと。県会議員でなく、国政選挙に出て、 1 回衆議院を落ちて、 2 回目の参議院選挙で受かった。何がどこで人生転機になるかわかりません。いや鰤ぐらい食べたっていいだろうとそのまま県会議員やっていたら、それは県議会で大止まりかもしれない。そんなことをやって国政に出てきました。昭和 25 年のことですかね。僕はね、当時は小学校 2 年生ぐらいですけど、今も写真があるのですが。選挙カーに乗って演説しているのですよ。まあそのせいではなかろうけれど、僕が小学校の子どもの頃には、未成年者が選挙運動してもよかった。よかったというより誰もそんなこと気がつかなかった。僕のやったあとで、未成年者の選挙活動は禁止になった。

 

【私の幼少期〜高校時代】

そんなことで父が東京に出てきて。普段は、父は全く地元へは帰ってこなかったですね。月に 2 〜 3 回帰ってくるかどうかで。まあ当時は新幹線がなかったから。在来線で。小学校 5 ・ 6 年の頃か、東京にきてびっくりしたのですが。東京では駅についたらドアが開いてすぐ閉まるのですよね。ハア、そんなもんかと。岡山の方では駅でドアが 10 分ぐらい開いたままで、停車時間があるので、その間に岡山駅を通過する父に会いに行った。鞄の中を開けて何か美味しいものがあったらもらって帰ってこようと、そんなような子供時代だったですね。

地元で田舎の方の幼稚園に行って。朝、幼稚園に行ったら誰か呼びにきて、家で呼んでいると言われ、帰ったらトラックに荷物全部積んで、朝ごはんの味噌汁かなんかを炊いている七輪をそのままトラックに積んで引っ越しをしました。小中高は地元の学校へ行きました。小学校の時に母親があれこれさせてくれて、どうしてもバイオリン習いたい。父が暮にボーナスをもらって東京で買ってきてくれて、あまり長続きしなかったですが。それから書道の塾に通った。これはその後もずうっと続いて高校では書道部のキャプテンに。高校の時はね、書道部をやって、それから神伝流という古式泳法をずうっとやっていました。これは中学 3 年で初段、高校 3 年で三段、相当水に浸かって。二学期の中間試験はガクッと下がる。それは下がるのは当たり前ですよ、先生。僕は水泳で忙しかったのだから。先生の方もそれはしょうがないねと。水泳と書道と、それから生徒会をやってね。これも忙しくてね。例えば、悪い子もいるのですよね、受験校ですからね。受験校になじめず、ついついぐれていった下級生がいて、友達の頭を殴ったりして。明日期末テストがある時に、友達が呼びに来て、彼が職員会議にかけられていると。それは大変だ、すぐ職員会議に行って、担当の先生を呼び出して、先生これは彼も悪かったが、われわれも悪かった、生徒会で彼の面倒みるからここはひとつ退学はやめてくれと。先生が震えだしてね、お前たちは生徒の分際で。生徒の分際といったって俺たちも友達のことは放ってはおけない。そんなことばかりやっていました。これってやっぱり、そういうのは有難いことで、彼は退学になってしまったのですが、退学といっても温情主義ですよね。単に放り出すのではなくて、転校させるんですよね。どこか田舎の方の高校で無事に卒業して。彼はその後、私立の高校の理事長になって、本人が偉くてなったのではなくて家がそうだったのですけどね。今でも時々遊びに行って、スケートの高橋大輔、歌手の MEGUMI とかそういうのが出ている高校ですから。お前も立派になったなあというと、彼も隠したりしません。やっぱり高校時代に友達だったので今でも仲良くつきあっています。

 

【私の大学時代】

そんなことをやって昭和 35 年に高校を卒業して大学に入りました。丁度、第一次安保闘争の年ですけど。入学式が安田講堂であって、そこでは立て看板が並んで学生が演説して、本郷から駒場の教養学部に戻ったら、さっそく生徒総会とかクラス討論とか、どんどん議論、議論で何だかよくわからない。いや、東京の方の学生は凄いなあ。当然、マルクスの共産党宣言なんて皆読んでいることはないのだろうが、通る人は皆共産党宣言を読んでいるような、そんな感じでいるうちに毎日毎日、午前中は何か用があって、午後からは町に飛び出していくということになって、その内なんかやらなければいかんとの思いがあって、安保闘争の中に飛び込んでしまいました。ついつい学生運動にのめり込んで。誰でもが皆デモに行ったのですね。僕の学年の1年上に、加藤紘一さんという自民党の幹事長だった人がいて、彼もデモに行っています。デモに行っていないというのは本当に変わり者の人がいましてね。例えば、川口順子さん、外務大臣になった人、本郷の方にいたのですが、私はデモに行かなかったと。めずらしい。皆行って付和雷同でけしからんという意見もあるかもしれないけど、しかしやっぱり、その時代の共通の体験になっていますよね。僕は今もね、学生の皆さん、もうちょっとしっかりしてくれと。例えば、今だったら、就職内定取り消しなんか、去年おととしあたりにありましたよね。内定取り消しがあれだけ出て学生が黙っているなんて、われわれの時代だったら信じられない。学生が町へ出て、それこそ大会社が林立する大手町あたりでデモでもやると思いますね。そんなような感じで単なる付和雷同ではない、やっぱりこれだけ国民が反対しているのに衆議院で安保条約は強行採決、警官導入で強行採決したのですからね。それから条約ですから、 1 ケ月ほっとけば自然成立するのですからね。これは大変だ。自然成立を防ぐには国会解散しかない。だから皆国家に押しかけていく、とにかく解散だ、解散だと。そんな警官導入で無理やり国民の声も聞かずに、こんな条約を通したのはけしからんといったら、当時の岸信介さんという人が、そんな皆が皆、行くといっているというけど、そんなことはない。今日も後楽園球場はいっぱいだと。それは後楽園球場に人がはいらなくなるぐらい、皆が沸騰したら大変ですよ。まあそんな時代でだんだん学生運動にのめり込んでいくようになって。その後学生運動をやるのは乱暴ものだとなっていったのですけど、僕らの時は乱暴ものというんではないんで、僕も田舎での学生ですから、学生服以外にそんな着るものを持っていませんでした。帽子もかぶっていましたよね。学生服で角帽かぶって、そのままデモで町に出て、おまわりさんとヨッコラショと押し問答したりもするけど、それだけのことで、それ以上別に何かあったわけではない。ただ 6 月 15 日はちょっとありましたよね。学生が徒党を組んで、国会の通用門の門をロープひっかけて壊して国会の中に突入して、そのあおりで樺美智子という東大の本郷の学生が亡くなった。そんなこともあったけど、その時もおまわりさんに警棒で頭をバンバン殴られたようなことはあっても、学生がおまわりさんに多少殴ったことはあったかもしれないが、まあその程度の小競り合いでした。

残念ながら安保条約は自然成立をして、学生運動もだんだん下火になっていって、下火になると同時に、時の政府が、学生が大暴れするようなことは何としても防がなければならないというので、大学を文部省がコントロールするのを強めようと。大学は教授会が大学の運営をやるわけですけど、教授会の構成などは大学に任されていて教授会自治というのが非常に強くて、しかし、これはダメ。文部省がちゃんと大学をコントロールする、大学管理法というのを出して。その頃、丁度僕も皆におだてられて 61 年の暮ですかね、大学 2 年生の時に教養学部の自治会委員長に立候補して。 5 人、 5 派から立候補したのですね。 5 派というのが面白くて、一番左が共産党ではないのですよ。共産党が一番右。そこから始まって、社青同、社学同、革共同、革マルとあって、 5 人出て僕が通っちゃったのですね。あまり通るとは思ってなかったのですが、まあ、高校 3 年生の時は自治会でこれも通ってしまって、またまた通ってしまって。面白いことに当時から連立というのをいろいろ訓練させられて、僕は社青同で通ったのですけれど、 1 派だけでは自治会はコントロールできない。共産党系の民青は別、一番左の革マルも別、残りの構改派、社青同、社学同の 3 派で連立政権つくって、これを上手にまとめながら自治会運営をやったり、学年だけでなくて東京都の自治会をまわしていったり、全国の自治会を束ねていったり、その度に北海道へ行ったり、新潟へ行ったり、大阪、京都へ行ったり、いろんな全国自治会を飛び回って話しをしたりしてきました。その内、今の大学管理法が政府から出される。これは大変だというので。これはね、 1962 年の夏に出されかけて夏休みになって秋にとうとう出されるというので、全都学生総決起集会をやろう、東大教養学部はストライキで参加する。そうするとね、ストライキできちゃったのですね。ストライキをやるには全学投票をやらなければならなくて、そこで過半数をとらなければストライキにならないのですけど。ストライキは学校の規則違反、規則違反は処分があるので、皆がやろう、やることも正しいんでやらなきゃならないのだけど処分にあう。わかった、じゃ誰か一人確保しよう。というので僕がストライキの提案をする。会議の議長をやって、提案者もやって通過したので、実際にストライキやる時の総責任者もやって、一人で全部かぶるつもりでやったら、力不足で、副委員長が一人いたんですが、その副委員長が停学になり、僕が退学になって。ただ、退学になるとどういうのかな、停学だと停学中は授業料払わなければならない、退学だとこれは学生じゃないですから授業料払わなくていい。だから退学の方が経済的には楽かと思ったら案外そうでもなくて、停学は復学します。退学は再入学するのですね。何か一筆書けば 1 年たったら又戻してくれるのですが。再入学は再入学した時の授業料、停学は最初の授業料、その間授業料上がっている、損したなと。

そんなことで、 62 年の秋に退学になって 63 年に再入学をして、まあそこまで行ったから学生運動はそろそろいいだろう。学生運動のプロみたいのもいたのですよね。もう 30 ぐらいなのにまだ学生運動やっているのもいたけどどうもプロの学生運動というのは嫌で、学生がやるのが学生運動で、学生じゃないのが学生運動やっているのはというので、学生運動から足を洗って。でも時々デモに行ったりはしましたけれど。

本郷に入って丸山真男という先生のゼミに入りました。丸山先生というのは戦後の日本の文化系の学問の中心的なリーダーですよね。政治学では丸山真男、経済史では大塚久雄、法律で川島武宜なんて人は大体、戦後の新しい学問をつくったわけですが。丸山ゼミは、明治以来の政治史、政治思想史で誰か一人をテーマにして発表させるのですが、いろいろな人をそれぞれ思い思い選んで、私は吉野作造という大正デモクラシーの政治学者です。彼を選んで、吉野作造全集を読んで、彼を研究している先人たちの本など読んだりして、まあできがいいとは思わなかったけど報告をして。そうこうしている内に丸山先生は、君たちは政治コースですが、法学部卒業で法学士、法学士が法律のことを何も知らずに出たら駄目で、リーガルマインドは大切なことなので法律の勉強もちゃんとすべし。それもそうだなあ、法律を勉強するのに、こんな面白くないものどうやったらできるかなあ。そうそう司法試験というのがなんか難しいそうだから司法試験を受けるつもりでやったらというので、司法試験をめざす。丸山先生というのもね、この人も変わった人で、大体今と同じですよね。 6 時半ごろから 8 時頃までやるのですけど。ある日台風がきて、台風だから休講にしますとかは全くなくて、その内停電になっちゃたんですね。それでも平気で授業やって。われわれもノート取るのですが、後で見たらノートの線なんかまるで無関係になっちゃたけが。その日、何を先生が話したかは全く忘れてしまったけど、そんなことだけ記憶に残っています。

 

【司法修習】

司法試験受けたら通ってしまって、どうしようかなあ、司法試験せっかく通ったのだから研修所行くのが筋だろうなというので研修所に入って。多分弁護士になるだろうな、そういう経過ですから僕が弁護士になっていたら労働弁護士、労弁、労働争議なんかを一生懸命やる弁護士になって、総評弁護団とか、自由法曹団とか、まあそういうところへと思って、最後の志望願い届けかなんかに弁護士または裁判官と書いたら、裁判官の上司がやってきてお前これ本気か、いや裁判官も視野に入っているんです。じゃやってみるか、で裁判官の作業服を借りて。後付けの理屈ですけどね。弁護士はもちろん大切な仕事でいいんですけど、自由業とていうんですね弁護士のことを。弁護士は誰にも束縛されずに自分の見識と判断で活動をやればいい。仕事をしっかりすれば自然とお金は入ってくる。しかし、どうもそれは嘘くさいという気がして。皆、自分がね、自分の思い通りの弁護をやっているなんてあまりいない。皆それぞれ依頼者にペコペコして依頼者がお金をくれるように弁護しなきゃいけないので。弁護士自由業というけど、実は弁護士も不自由業ではないか。考えてみたら世の中、不自由なのじゃないか。そもそも。不自由ないろんな束縛を受けるというよりも、そこはもう発想を転換して、いろんな束縛があるということは逆に人をその束縛の綱でいろいろ動かせるという話しなのか。それなら一番束縛の強いところへ行って、その束縛の中にいっていかにその束縛を動かして、束縛しているかにみえるしがらみを自分の片で操っていく、こういうことを一つやってみるのも面白いな。後付けですよ。これは一つ裁判官というのは一番束縛が強いようだから、裁判所を動かすみたいなことをやったら面白いのではないか。とまあ、後から理屈をつけて裁判官になったわけですが。それでもね、当分裁判所にいるだろうがいつまでもいるわけではないから、あまりがんじがらめに絡め捕られるのも嫌だなあと思っているところに、お前外国に留学しないかという話があり。外国に留学したら、これは裁判所のお金で行くわけですから、行くとやっぱり裁判所に恩も感じなくてはいけなくなって裁判官辞められなくなる。辞めることを考えているわけじゃないけれど辞められなくなる、というのでそれはちょっとお断りします。一辺断ったら、後にも先にもこの時だけ父がアドバイスをくれました。そんな余計な心配をする必要はない、行ってきたらいいのだ。夏目漱石を見ろ、確か一高の英語の先生かな。文部省のお金でロンドンへ留学して、帰ってきて一高の先生辞めて小説家になって。誰も夏目漱石がけしからんというのは聞いたことがない。あれでいいのだというわけで、ああそれそれと思って、翌日もう一度最高裁に行って、やっぱり行かして下さいと。

 

【オックスフォード留学】

1969 年〜 71 年まで 2 年間、イギリスのオックスフォードに行かしてもらいました。面白かったですね。アメリカに行く人も随分いて。どういうプログラムかというと、まあ戦後もう 20 年ぐらいたっています。もはや戦後ではないと言われたのが大分前ですからね。ところが日本は依然として、フルブライトとか外国の奨学金で皆留学していたのですね。これはやっぱりまずい。将来のことを考えたら、行政官でちゃんと国が奨学金制度をつくって留学をさせること、人事院の総裁だった人がそういう決断をして、人事院の留学制度ができて、行政官なのですが、裁判所とか電電公社とか国鉄とか専売公社あたりに少しずつ枠があって、裁判所は一人だけ枠があって応募させてもらいました。一人だけの枠なのですが何故かもう一人受けたのがいて。僕に決まっていたのですよ、よっぽど成績悪くなければ。何故もう一人受けたかというと、最高裁としてはやはり裁判所は是非二人欲しい、現に二人受ける人がいるのだ、可哀想に当て馬にさせられたんだけど。

オックスフォードに行って、英国法における自然的正義の原則というテーマを戴いて論文を書いて、スクールオブロウ、修士号のちょっと下なのですが、そういうものを取りました。 2 年間で毎日毎日勉強したわけじゃなくて、イギリスというのは天気が悪い国ですからね、朝起きて天気が良ければすぐ遊びに行って、天気の悪い日だけ勉強するという。それでもあまりやらないとどうも先生がご機嫌悪いからそこは緩急自在でやっていたのですが。自然的正義の原則というのは自然法とは違うのです。ナチョラルジャスティスという行政プロセスにおける、これは守らなければならんという手続きの話で。二つあって誰も自分自身のことについて判断者にはなれませんという原則があって、それともう一つは告知・聴問。不利益処分を受ける前には何があなたに不利益の嫌疑がかかっているかということの告知を受けて、それについて自分の弁解を聞いてもらわなければ不利益処分は受けません。そういう原則があって、これが多分 12 世紀ぐらいからずうっと判例が積み重なっているのですね。これはずうっと判例を読んでいって、場面場面に分けてその原則がどうだこうだと、もちろん英語で書くのですが。イギリスのことだけやったのじゃどうも内容にあまり深みがないから、何をやるか、日本語との比較、日本のやつは大体わかっているから、ああだこうだとやったら、一応パスした。その間にまあ、当時もう結婚して子供がいたので家族ぐるみや学生同志のつきあいももちろんあったり、それから休みもあって車で各地をまわったり、イギリスの一番最北端のさらに上まで行ったり、まあいろんなことをしました。

 

【裁判官時代】

司法研修所の同期が横路孝弘・前衆議院議長、神崎武則・元公明党代表、高村孝彦・現自民党副総裁、イギリスの留学組では例えばアジア開発銀行の黒田東彦、この人は今、日銀総裁になるかならないか、大蔵省 OB だからダメというのか、林康夫というのはジェトロの前の理事長、そういう人と一緒にイギリス時代を過ごして。帰ってきて、だんだんそのうちに、まあ別に留学させてもらったから恩義に感じたわけではないが、裁判所は大切な機能を果たしていますし、裁判所をしっかりさせなければいけないので、裁判所全体をしっかり見ながら司法の独立であるとか。当時ね、いろいろあったのですね。自民党から裁判所の偏向判決是正ということで裁判所に指を突っ込まれたり、裁判所の中でも裁判官に対する統制がきつくなっていく。裁判官というのは月から金まで仕事して土日を休んでいるわけではないので、あるいは朝 9 時から夜 5 時まで仕事をしているというわけでもないので、いつ仕事しているかというと年中、仕事しているわけですよ。判決を起案するのに記録を家に持ち帰って夜中まで読み込んで、皆がわあわあ行っている時は書けないから、真夜中に書いたりとか、土日に書いたりとか。その代り、月曜にゴルフ行ったり、火曜に何とかしたりとか、そんなことまでいちいち言われたらたまらんというところが、どうもいろんなことがあって自分の管内から外へ出る時には所長の許可をえなければいけないとかですね。まあそういうような裁判の堅苦しさがちょっと進んでいった時代でもあって。

しかし、何とかして司法の独立、自由な判断を守れるような裁判所にしていかなきゃならんという思いもあったんで、それにはそんなに初めから突っ走ってもダメなので、裁判所の中で一定の役割が果たせるようになってかなきゃ、ということもあって、東京地裁が最初初任ですが、千葉家庭地方裁判所、横浜地裁に行って。横浜地裁で裁判所を動かすのは所長というのがいて、あの所長だけで動かしているのではないんですね。職員は事務局長というのがいるのですが裁判官じゃないので、高裁の事務局長は裁判官ですけど。やはり裁判官会議で裁判所のことは全部決めていく、しかし裁判官会議といったって年がら年中やっているわけにはいかないので、何人か裁判所会議の委任を受けて司法行政をやる、常置委員というのを選ぶのですが、裁判官というのは 10 年間は判事補、 10 年たったら再任されて判事になるんですが、判事補の中から一人常置委員を選ぶ制度があって。僕は判事補の常置委員になって横浜地方裁判所の運営に全部関わるというようなことをやっていました。

ところがどんでん返しで、父がまあいろんな経過があって、政権交代の政治を何とか日本に実現したい、しかし、政権交代は夢のまた夢というのが当時の状況で。自民党政治はその前にロッキード汚職がある、その前から構造汚職が次から次へと重なっていたのですが、この自民党にとって代わるべき野党第一党の社会党というのが、当時政権担当というのとおよそ違うんですね。例えば戦後、日本とドイツとイタリアと戦争に負けたわけですが、すぐに世界は東西に分裂するわけですよね。その分裂をそれぞれの国でいろいろな引き受け方をしているのですが、ドイツは東ドイツと西ドイツに分裂するわけですね。朝鮮半島もいろんな経過で北と南に分裂する、ところが日本というのは幸いなことに国土の分裂ということで冷戦を引き受けることはしない。だけど逆に日本の政治構造の中に東西分裂がそのまま持ち込まれて。西側というのは北欧の社会民主主義から、イギリス労働党から、ドイツやフランスの社民党から、アメリカの民主・共和党から全部自民党が代表する、そして社会党というのはまあソ連の方に行く、東側に行くわけじゃないけれど、やっぱり冷戦構造の中で西側というスタンスを取らなかったのですよ。西側ではなくて第三世界といってみたり、あれこれいうのですが、結局はぐうっと左に寄っていって、国際共産主義運動の中の一翼をみたいなところに自分自身を位置づける。そんなかっこうで東西冷戦構造を国内の政党分裂で受け止めてしまって、政権交代という構造にまわらなかった。その社会党ではダメだと。政権交代構造を担う政党にならなければいけないので、それがどうしてもならないのなら、自分がとにかくたった一人でも新しい政党をめざして、政権交代できる新しい政党をめざしてスタートする。といって 77 年に社会党を飛び出して、命がけで新しいものをつくろう、しかしすぐに命が亡くなって、亡くなったのが僕自身の誕生日。ということになって、裁判所でせっかくこれから、当時 10 年目だったですね。その 10 年目を無事にクリアーすれば判事になって、判事になればまた 10 年裁判官の地位は安全ですし。

 

【政治の世界に】

ところが父がそういう思いのこもった一歩を踏み出してすぐに亡くなって。これはしょうがない、この際、裁判官人生は一応わかったから、これでおしまいにして政治の方へ、というので裁判所へ辞表を出して。当時私の父が衆議院選挙で落選をしていて、参議院の全国区に立候補すると決意表明したものですから、 77 年 7 月に田英夫さんに次いで第二位当選で、その後政治の世界に入って、ああでもないこうでもないといろんなことをやってきました。政権交代というのは当時からの悲願で、一度細川内閣で政権交代なりましたが、これは国民が選んだ政権交代でなかったので。 7 党 8 会派で細川護煕さんに総理大臣をお願いしてやったわけですが。私は政治改革、小選挙区制度導入は良かったと思っているのですが。まだ良かったという答えが出る程、今の選挙制度で十分政権交代が通常のものになりきっていない。まだまだですが、やっと民主党で政権交代したのが 3 年前。

政権交代ともう一つは政治の質を変えたい。やっぱり日本社会を成熟社会にしていくか。成熟というのは年とっているという意味じゃなくて、民主主義として有権者一人一人が日本の未来を自分の判断で決めていく、そのための政治制度を動かしていく民主主義的な成熟というものが日本の市民社会の中に定着していかなければいけないという思いがずうっとあるのですが、こっちの方はまだ十分できていません。しかし、今日冒頭、申し上げたように民主党政権で、例えば世襲政治の脱却であるとか、あるいは透明性の確保とか、市民に向けての政策、まだまだ十分じゃないけれど、きっかけを作った、スタートを切らしたということが言えると思います。ぜひ政権交代と同時に、市民政治の成熟というものを果たしていきたいと思っていますし、若い皆さんには是非そういうことを、本当にこれはね、諦めずにやって欲しい。最近の若い人たちはどうも覇気がなくて、留学をしないそうですね。もっと海外に出て行って、おおいにやって欲しい。

そんなこともあって今日、配布している「江田五月 21 世紀ビジョン」、これをこれから先、私たちがめざす目標として、 2 年半前の参議院選挙で掲げました。さっき申し上げたのですが、この時には菅直人さんが総理大臣になって、わぁっと人気が上がったけど、たちまち急降下、下がった段階で、民主党のマニフェストだけでは選挙はまずいぞというので、マニフェストは 4 年タームですが、参議院議員は少なくとも 6 年はタームがあるので、もうちょっと長期のことを考えなきゃ、そんな皆さんの話を聞きながら作りました。 21 世紀ビジョンですから 21 の提案、語呂合わせではないけど。「生活」。これはやはり支えあいをしていかなきゃ、というので男女共同参画、職場における平等、情報公開とか、 NPO とか。それから「経済」。生活だから分かち合いですよ。分かち合うと恐らく自民党の方が民主党は分配しか考えていないというかもしれないが、そんなことはないので。ただ今の、これまで達成してきた日本の産業構造をそのままにして、いくらそこへ公共事業をぶちこんだって、ろくなことにはならない。新しい経済の形を作っていくということで、環境、観光、健康、あるいは科学技術も入るかもしれません、その他、社会的起業とか。公、パブリック、市民と協働していく。行政が何もかもやろうとしてもそうはうまくいかない。市民に地位を譲り渡していく、そんな時代で市民参加の枠組みを広げていく。世界はこれから共生と平和だ。というようなことをまとめてみました。東アジア共同体構想、鳩山さんが言い出したことですが、これも大切だし、新しい公共、これも鳩山さんですが大切はことだし、そんなことを盛り込んでみました。

国民主権というけど、一人一人の国民主権、市民主権なんですよね、本当は。一人一人が主人公な の で、一人一人が自分の生き方を社会というものを上手に使いこなして決めていく、心豊かにしていく。これが大切 なの で す 。一番大切なのは毎日の生活ですから、毎日の生活となると生活まわりのことを決めていくのはやはり自治体な ん ですよね。ですからまずは、市民一人一人が自治体に関わっていくことが一番大切なことで、地域主権というのはそういう発想に裏打ちされてなければ、単に国の国家主権を分け与えられているというのではいけません。生活者の政府が地方政府なんで、生活者となったらそこは国籍にというのはそんなに関係あることじゃないんで、一緒に生活している人たちは国籍というものじゃなくて、地方参政権はやはり持った方がいいのではないでしょうか。その方が自分自身の生活を自分で決めるという人たちになる。いや、それは国籍を持って初めてそういう参加の権利が出てくるのだ。そんなことはありません。それは歴史のいろんな経過があるんで、日本国籍を持つことを良しとしない、そういう地域の住民というのがいたっておかしいことは全くないと思います。地方政府だけで決められないこともいろいろあるので、それは主権国家の投票権を行使して国の政治によって決めていく。ただ今こういう時代ですから、国を超えたいろんな問題というのが山ほどあります。環境、平和と戦争だってそうだし、人権だってそうだし。人権ももう今や抽象的な人権でなく、それぞれの企業の中でどれだけ人として尊ばれているかといったこともできてくるでしょう。

国際機関も単に国連だけでなくて、国連自体も国連の総会とか安全保障理事会とかそういった話ではなくて、男女共同参画会議とか、何とか理事会とかいっぱいできて。国も構成員ですが何も国だけでない、いろんな人がいろんな国際会議の構成員がいろんなことを決めていっている時代になっているのですから。そうした場で市民参加というのがはかられていく。こんなことで市民主権の世界、どこの国にどんな肌の色で、どんな政治制度で生まれてきても、人としてどこでも尊ばれる国際社会をしっかりつくっていく。そのためには主権国家があまりえばるんじゃない、主権国家というものの相対化をはかっていく。主権国家が相対化していくと、自ずとたとえば尖閣の問題なんか解決の方法が見えてくるのだろうと思いますが。そういう時代をぜひ作っていきたい。若い皆さんにぜひ、そんなことを粘り強く取り組んでいただきたい。

ペラペラ喋りましたが、何か質問があれば

(学生)選挙で、民主党なり自民党で当選したのに、途中でどこか他の党に移るケースが日本ではよくあるんですけど、こうしたことは世界的にもあるんでしょうか。

(江田)どうでしょうね、世界は広いので、あまり多くは知らないけれど。途中で政党が代わるというのは私の経験では 1 回だけあります。それはイギリスで。イギリスは労働党と保守党ですよね。 1978 年頃に、社会民主党ができたことがあるんです。これはどうやって作ったかというと労働党からロバート・オーエン、ロイ・ジェンキンスもそうだったかな、保守党から女性のシャリー・ウイリアムス、とにかく 4 人ほどで新しい政党をつくったことがあるんですよ。これは面白くて、僕は当時社民連だったんですが、その社会民主党の結党大会を見に行ったんです。そうするとね、わずか 4 人の国会議員の政党で すが、 本当に皆の希望がそこに集まっていて。党大会というのがある。いろんな分科会がある。その外にいろんな市民団体の集会があって、町中が大集会やっているんですね。あれは面白かったけど残念ながら、その政党はいつのまにやらふわふわと。保守党からはきていない、自由党からきているんです。そんなようなことで政党を抜けて新しい政党を作ったことはありますけど、これは相当の社会運動を巻き込んだ行動でした。残念ながら小選挙区制度というのがそういうものを生み出す阻害要因になりました。それでも今でもイギリスはなお社会民主党のその後の、自由民主党と今はいっているのかな、政党になって、ひょっとしたらこれが大きくなるんではないか、そういう動きはあります。ただこれは今ねえ、本当にある種の、今政党を移った人に政治信念がないとは言わないけど、ある種の社会の大きなうねりを受けて一つの信念を持って勝負をかけているのです。どうも日本は次の当選のためにどこがいいかとか、やっているから、あれがやはりまずいですよね。

では、こんなことで最後の講義を終わります。皆で記念写真をとりましょう。


2013年1月11日−第14,15回「最終回」 ホーム講義録目次前へ次へ