2012年法政大学大学院政治学講義 ホーム講義録目次前へ次へ

2012年11月30日 第 11 回「国会を支える人たち」               講師 大蔵誠

 

【事務局と選挙】

今回の課題は、江田先生が日本におられない間に私が何をやるかということで考えられたもので、私が実際に国会に務めていることから、たぶん話しやすいだろうという配慮もあってのことだと思います。私は 1985 年(昭和 60 年)から今の仕事をしていますので、 27 〜 28 年になります。公務員は在職 30 年になると永年勤続表彰がいただけるのですが、もうあと少しでそういう時期を迎えるまでになりました。もともとこんなに今のような仕事が続けられるとは思ってなかったので、ここまで続けられたのはこの仕事が向いているからだろうと思います。

国会に務めていると、衆議院の解散総選挙や参議院の通常選挙を何回も経験しましたが、その際周りの方々から選挙だから忙しいでしょうとよく言われます。今日は江田事務所の高杉秘書が来られていますが、議員秘書が選挙の時に忙しいのは当たり前です。今日は一緒に議員会館の事務所を出てきたのですが、明後日の日曜日からは岡山に行ってしまうため、出る際に鍵を閉めて、電話は転送にして、郵便物とかが来たらボックスに入るようにして、新聞は全部止めるなど、もう議員会館には来ないことを前提に準備されていました。

実は参議院職員はこの時期が一番暇だと言えます。この時期は国会に議員がほとんど来ないためです。もう一つ、これは公務員全般に言えることですが、特にこの時期に国会職員が一番やってはいけないこととして、選挙の応援や選挙に関する広報などはしてはいけないという通達があるのです。これをやると国会職員法とか国家公務員法の違反になってしまうおそれがあるのです。そういうわけで、この時期は選挙後国会が召集されるまで時間がありますから、海外旅行に行くことが一番多いのです。従って、今の時期はお休みを取っている職員も多く、私も今日は直属の部下二人がお休みで、課長の私が一人で仕事をしていました。電話がかかってこないし、急ぎの仕事もないので、逆にこういう講義をやるための準備にはうってつけではあるのです。ただ、何もやっていないのに給料もらってと言われると非常に困ります。こういう時期は、今までやってきた審議の模様をまとめたり、次に向けてどうしたらいいかを検討したりしています。参議院事務局全体としては、来年が参議院選挙なので、先例録の改訂作業を行っています。国会の中には法律以外に先例というものがあり、法律に書いていない国会での運営の仕方を決めているのです。その先例を集めたものを、参議院では先例録、衆議院では先例集というのですが、両者は似てはいますが、衆参それぞれ別々のものです。この先例録は実は 10 年ごとぐらいに書き換えることになっていて、本当は平成 20 年に書き換えをしなければいけなかったのですが、参議院は与野党が逆転し、江田先生が議長になるという時期に重なってしまい、なかなか先例録が作れないまま 5 年が経過してしまいました。来年は参議院選挙が終わった後に、議員に新しい先例録を配ろうということで、今最後の詰めをやっているところで、事務的には再来週の会議で最終決定する予定です。このように、この時期だからまったく仕事がないというわけではないのです。

 

【事務局・法制局の組織】

本日の講義は、「国会を支える人たち」ということで、事前にお送りしたレジュメでは「議会制民主主義を支えるという使命」ということが書かれていたので、あまり仰々しく書かれるのは困ったとは思ったのですが、まあ一応それをとりまして、「議会制民主主義を支えるとは」というタイトルで話し始めたいと思います。

皆さんにお渡ししてあるパンフレットですが、一つが参議院事務局の採用パンフレットで、これは今年の採用に使ったものです。もう一つは参議院法制局の採用パンフレットで、これは実は今年 9 月発行と書いてあるように、来年の採用の際に使うできたてのものをもらってきました。後ほどゆっくり見ていただければと思うのですが、この二つを読めば参議院職員がどういうことをやっているのか分かると思います。実はレジュメでは法制局についてもお話しすると書かれているのですが、私は法制局にいたことがなく、申しわけありませんがこのパンフレットを見ていただければと思います。参議院の法制局と事務局の位置づけ等についてはお話ししますが、細かいことはそちらを見ていただければと思います。

事務局と法制局の組織ですが、このパンフにも書いてありますように、もともと国会法に位置づけが規定されています。国会法では、「各議院に、事務総長一人、参事その他必要な職員を置く」と規定されています。実は国会法には参議院事務局を置くという規定はないのです。国会法とは、帝国議会が国会になった時に作られた法律であり、事務局という名前が国会法自体には出てきません。また、調査室についても、国会法には調査室を置くという規定はなくて、「常任委員会には、専門の知識を有する職員(これを専門員という)及び調査員を置くことができる」という規定があって、この二つの規定が、事務局が国会法上置かれている根拠になっているのです。その下に、実際は議院事務局法というのが別にあって、そこでは衆議院と参議院にそれぞれ事務局を置くという規定になっています。法制局については、国会法に、「議員の法制に関する立案に資するため、各議院に法制局を置く」という規定があり、それに基づいて議院法制局法という法律が別にあってそれぞれの院に法制局が置かれているのです。

 

【事務局・法制局の人員】

 それでは、国会ではどのくらいの人たちが職員として働いているのかご説明しますと、参議院事務局は約 1,200 名、衆議院事務局は約 1,700 名です。思った以上に多くの人たちが働いているという印象でしょうか。国会議員の数からいっても参議院議員 242 人に対して 1,200 名ですから、結構な人数だという感じがすると思います。一方、参議院法制局は 76 名という非常に少ない人数でやっています。参議院事務局の 1,200 名について、何でそんなたくさんいるのかと皆さんお考えになるかも知れません。実際のところ我々のような事務の仕事をしているのは、そのうち 700 名ほどで、残りの 500 名ほどは仕事が違います。どういう仕事かというと、一つには警務部の衛視、国会の中の警備をしている人たちで、 220 名ほどおります。そのほかに、記録部の速記者が 160 名、自動車課の運転手が 100 名ほどいます。全部合わせると 480 名ほどになりますが、それを除いた人数の者が我々のような仕事についていると言えます。衆議院事務局は全体の人員は多いですが、同じような構成です。ただ、衆参の事務局の職員数について、議員の数は約半分なのにあまり変わらないのではと思われるかもしれません。これは、例えば建物を考えていただければと思います。先日、国会議事堂を見学していただきましたが、衆議院と参議院はほぼ半々の面積に分かれており、議員数は違いますが、建物管理についてはほぼ同じです。それから委員会の構成についても、衆参ほぼ同じですから、一つの委員会に所属する議員の数は違いますが、実際の業務はほぼ同じなので、議員の数が半分だから事務局職員の数も半分というわけにはいかないのが実態なのです。

 

【職員の気持ち・心構えとは】

私が参議院事務局に入ったのは昭和 60 年ですが、当時私はこういう仕事があると知らず、中央大学法学部 4 年で、ご多分にもれず司法試験の勉強をしていました。 4 月にたまたま大学の就職部の前を通ると、あの当時はお配りしたような立派なパンフレットはなくて、 B4 版一枚のペラペラの紙が貼ってありました。参議院事務局の職員募集で、国会にこういう仕事があるのか、話のタネに一回見に行こうかと思って、受験申込書をもらい、試験を受けました。筆記や面接など 3 回の試験を経て、結構多くの受験者がいたのですが、最終的に中央大学からは私ともう一人同期の者の二人が合格しました。合格するにはしたのですが、就職は正直迷っていました。あの当時はまだもう少し勉強したら司法試験通るかもしれないという気持ちもありました。大学のゼミの担当教授にところに相談に行き、こういう試験を受けてみたら合格したのですがと言ったところ、教授からすぐに「それは良かった。行ってみたらどうか」と言われ、それもいいかと思って就職を決めました。

最初に配属されたのが委員部で、そこでの仕事が割と肌に合い、ここなら面白い仕事ができるかも知れないと思っているうちに、だんだん染まっていったというのが実際だと思います。最初から議会制民主主義を支えないといけないという志を持っていたわけでもありません。 20 年以上も仕事をしていると、つい何年か前に採用試験の面接の試験官をやることになったのですが、試験を受けに来られる皆さんの志が非常に高くて、私の時に比べるとだいぶ違うという気がしました。

今年から参議院でも、採用試験は一種、二種から総合職へと変わりましたが、一種、二種の試験の時の受験者数と合格者数がパンフレットに書いてありますから見ていただければと思います。もっとも、受験者が 1,000 人以上の時代もあったようですが、私が入った頃はこんなにたくさんの人が受けていない時代だったので、それだから入れたのかなという気もします。今はかなり優秀な人が入っていただいており、非常にありがたいと思います。

参議院事務局に入ってみてどうだったかという話になると思い、資料として「国会職員をめざす皆さんへ」という私が事務局に入って 15 年ぐらい経った時にパンフレットに書かせていただいた文章をお付けしました。この文章を書いた時までに 4 つの職場を回って、課長補佐だったと思います。採用試験の面接の際、受験者の方は私どもの仕事をよく勉強していて、同じ公務員でも国会にしかない職場に行きたいという話をよく聞きます。一番希望の多いのは調査業務を行う調査室、次いで会議運営を行う議事部や委員部といったところです。私自身は今まで委員部、調査室、それ以外の総務部門と位置づけられる国際部や文書課など 5 〜 6 の職場を回ってきました。事務局の人事は、自分の希望を言う機会もありますが、いくつかの職場を回る中で上司の評価などを経て定着させるという運びになっていると思います。

参議院事務局の場合、地方部局のある霞ヶ関と違って東京以外の勤務地はほとんどありません。私どもの勤務地は永田町の国会議事堂の周りに集中しており、議事堂本館、その横の委員会庁舎である分館、議員会館、事務局棟である第二別館の 4 ヶ所です。しかし、パンフレットをよく読むと、それ以外にもあると気がつかれた方もおられると思います。確かに、人数が限られているのですが、霞ヶ関の省庁などへの出向が今は 5 名ほど、また外務省への出向で在外大使館に行く人が 5 名ほどいます。一般には人事異動といっても、多くは建物を少し動く程度です。私は、今憲法審査会事務局総務課長に就いていますが、その前は委員部第八課長でした。それぞれの職場がどのくらい離れているかというと、同じ部屋の隣の席に移った程度の距離しかありません。

私のこれまでの経験から、職場によってかなりバラエティーに富んだ仕事ができるという点が面白いと思います。例えば調査室ですが、調査をして得られたデータや知識を議員に提供するのが基本的な仕事ですので、当該分野についてかなり掘り下げて中身を知らなければならず、その分野のスペシャリストになることが必要な職場です。調査員で一人前になるには最低でも 3 年は必要だと思います。まず 1 年目は勉強で提供できるものはほとんどないという状況です。 2 年目で何か提供できればたいしたもので、 3 年すると少しは何かものになるようなものが出せるようになってくるというペースではないかと思います。それに対し、委員部は、私自身はこの事務局生活の中で半分ぐらい委員部にいるのですが、そこでの仕事は国会情勢などの流れを踏まえながら、普段のやりとりの中で議員といろいろ話すことがとても多いので、一つの分野で掘り下げたような難しい知識は要求されないと思います。フットワークよく、いろいろな話をうまくつなぎ合わせながら前に進んでいくというような仕事なので、ありとあらゆる話題についていかなければならないので、どちらかというとスペシャリストというよりジェネラリスト的な仕事の方が多いと言えます。パンフレットの文章にも書かせていただきましたが、事務局の仕事には両方の資質が必要なのだと思います。参議院に限らずどんな職場でもそうかもしれませんが、部署によって向き不向きがどうしても出てきて、例えば調査室に向いているという人は調査室での在職が長くなるということもありがちです。ただどの職場でも、若い頃上司から叩き込まれたことは、国会の主役はあくまでも議員であり、どううまく支えていくかということが大事なのだということです。すべての議員が江田先生のような方だったら、我々から何も言うことはないのですが、いい意味でも悪い意味でもいろいろな国会議員の方がいるのです。ただ、そうは言っても、選挙で票をとって勝ち上がってくる方なので、我々のように普通に試験で採用された人間とは違った何かを持っていると常に思って仕事をしています。だから、国会議員を相手にする仕事というのは、ある面非常に精神的に辛い面もあったりして、正直にいって国会議員とうまく対応できなくて、同じ部署で仕事を続けるのが難しい人もあったりします。ただ私はいろいろな職場を経験してみて思ったのは、そういう難しい場面も経験していく中で得たものというのは非常に大きくて、それがあるからこそ、今このように仕事を続けていけるのだと思っています。議会制民主主義をどう支えるかということを常に考えているとはいきませんが、国会議員は国民一人ひとりから選挙で選ばれたのですから、国会議員の仕事がうまく活かせるような形で進んでいくことが、すなわち議会制民主主義を支えることになるのだろうと私は理解をしています。

 

【私の経験から】

これから話す私の経験談の中には事務局の職員としてはかなり出しゃばり過ぎの面も多いのですが、それでも何とかここまでやってきたと思っています。私は自分なりにこれまでかなり好きにやらしていただいたと思っていますので、他の人と同じではないのかもしれませんが、これからもこのやり方を変えるつもりはまったくありません。

先程も少しお話しましたが、委員部というセクションが私の国会の参議院事務局生活の中で一番長く、通算では半分近くいたことになります。その委員部 4 年間を皮切りに、調査室に 4 年間、国際部に 4 年間、庶務部文書課に 4 年間いました。その後、江田議長の時代に秘書課の議長秘書を 3 年間務め、それから憲法審査会事務局に 1 年と少々というところです。

 

【委員部〜国会活動の最前線】

委員部というのは他の役所にはない部署だと思います。県庁には議会局など議会事務の部署があり、そこで委員会を担当するということはあり得ると思います。ただ県庁の場合は、もちろん議会局だけでなく他にも部局があるので、そこだけの専属ということはあり得ないと思います。国会の場合は、会議運営部門と言えば委員部、議事部となります。実は、私は議事部にはいたことがないのですが、議事部の中の議事課が本会議の運営を、議案課が議案の動きを中心に扱っています。

日本の国会は委員会中心主義を採っているので、実質的な議論は委員会で行われています。委員部はその事務を司っており、職員は主任、サブ、サードという役割分担があります。主任が委員会の事務を一番中心となって取りまとめています。サブは二番手で、現場の委員会の仕切り役であり、例えば委員長は「ただいまから・・・委員会を開会いたします。・・・」と話し始めますが、そのシナリオである委員長覚書(委員長はそれを読み上げればいいので、俗に「お経」と言っています)を作るのが大事な仕事です。主任はその上にいて、どちらかというと委員会の現場より、今後どうやって委員会を転がしていくかについて議員と接触していろいろと相談したりするのが仕事なのです。一番下であるサードは三番手で、委員会の細かい事務仕事をすべてやる形になります。細かい事務仕事とは、例えば委員会開催の連絡や必要な資料の作成、そのほかにも委員長など発言者が委員会中に喉が渇くので、コップに水を入れて差し上げるのもサードの仕事です。委員会室にはガラスの水差しに氷を入れた水が置いてあるのですが、これをコップに注ぐ時、氷を 2 〜 3 個入るようにうまく注ぐのはなかなか難しいのです。私もサードに成り立ての頃、水だけ入ってしまったり、氷も入れようとすると氷だけしか入らなかったり、勢いよすぎてこぼしてしまったりしたものです。これがうまくできるようになって、初めてサードも一人前というような感じです。

日本の国会において、委員会審議の基本は質疑です。質疑とは「疑を質す」ということで、委員会の所属委員が政府側に質問をし、それに対し政府側が答えるというのが基本パターンです。諸外国の議会に比べて非常に変わっていると言えます。アメリカ議会での審議は、公聴会で議員以外を呼ぶこともありますが、基本的には議員間での議論です。アメリカは議会に法律を提出できるのは議員のみなのです。議会での審議について、対政府質疑が基本というのは日本だけとは言いませんが、日本が突出していることは間違いありません。日本の審議のやり方を改めるべきという意見もありますが、現在の審議形態がそうなっていることから、委員部としてもその対応が重要な仕事になります。委員会の開催が決まると、事前に質問者が「レク」といって、質疑の事前通告を行うのが通例です。そんなことは止めるべきという話もよく言われますが、事前に通告しないと「後で調べてお答えします」という答弁となり、その場での質疑応答にならないことも多いのです。質疑者としては、ある程度質問を通告しておいて政府側に準備させることで、事前に質疑に必要な資料を請求することもできます。そのような事前通告の段階で、質疑者と政府側とのやり取りにより、細かい答弁の中身は別にして、政府側の答弁者を確定しそれを把握することが委員部のサードの一番大事な仕事なのです。委員会は各省庁別になっており、審議では基本的に所管省庁の大臣なり副大臣なりが答弁しますが、他の省庁に関連する質問も当然出てきますから、それ以外の省庁からも出席してもらうことになります。そういったすべての質疑者に対するすべての答弁者をそろえ、事前にきちんとリストにし、委員会当日は答弁者が質疑に間に合うよう来ているかどうかを確認するのがサードの一番大事な仕事なのです。

私は、委員部ではサード、サブ、主任、そして課長とすべての仕事をやりました。あまり細かな話をしてもとは思いますが、いくつか変わった経験をお話しします。私が事務局に入ってすぐ、まだ 24 、 25 歳で、委員部のサードに成り立ての頃です。笑い話ではなくて、本当にあった話ですが、委員会室の私のもとに議員が寄ってきて、「俺の部屋に電話してくれ」と軽く言われました。俺の部屋と言われても、初めて見る顔で誰なのか分かりません。その議員に「あなたはどなたですか」などとはなかなか聞けず本当に困り、早く名前を覚えなければと痛感しました。参議院として作っている議員の顔写真入りの冊子もあるのですが、いつ撮ったものか分からないようなものもあり、似てはいるけれど本当にこの議員で大丈夫かと思い、隣の先輩に聞きながら何とか対応したことを覚えています。

そんな委員会の経験では、事務局に入って最初の参議院通常選挙の年の出来事が忘れられません。参議院選挙の年は、自らも次は改選という議員を中心に、委員会開会中でもどんどん部屋を出ていってしまうことがよくあります。その時私が担当していた委員会は社会党の委員長で、たまたま今回が改選という方でした。その日、社会党が反対の法案の審議で採決が予定されていたのですが、委員長は「悪いけど今日は先に失礼する」と地元に帰ってしまったのです。委員長が不在の場合、代理の理事が委員長席でその仕事をやるというのは往々にしてあることなのですが、通常はトイレに行くなどの短時間です。その時は最後まで帰ってこないと出ていってしまったのです。加えて、代理理事の方も初めて委員長席に座ったという方で、事務局が言われたとおりにやりますという状況でした。共産党の議員が質問している時、たまたま他の仕事で主任もサブも席を外していて、サードである私一人が委員会にいたのですが、歯が抜けたように人が少なくなってしまったのです。委員会には定足数というものがあり、委員会の開会には委員の半数以上の出席が必要です。共産党の先生は、「議員がいないじゃないか。委員会を休憩しろ、休憩しろ」と言われ、委員長席にいた代理理事の方はその発言の勢いに休憩と言いそうになったのです。委員長が委員会の休憩を宣すると、議員は散って、委員会室からいなくなってしまい、法案の審議は進められなくなります。委員長と代理理事の所属する社会党はこの法案に反対でしたが、反対といえども本日採決まで行うことは理事会で合意しているので、ここで審議が進められなくなるのも困ります。通常は上司が二人いるので、委員会で何かもめ事があっても、私自身が議員に直接話をすることは少ないのですが、その日は委員長席の代理理事のところへ行って、耳元で「速記を止めてください」と言い、そのとおりに速記をとめてもらいました。これに対し、委員の中から「誰が速記を止めたのか。何をしたのか」との文句も言われましたが、私はとにかく人を集めなければならないので、委員会室の外に行って自民党の議員を捕まえて委員席に座らせ定足数を集めて、代理理事に速記を起こしてもらい、委員会を再開しました。あの当時、何をやっているのかと議員からもだいぶ文句も言われましたが、事務局に入って 2 年目からこんな経験をしたことで、たいていのことにはうろたえなくなりました。

その後、やはりサードの時に経験した一番大きな出来事は、昭和 63 年の暮れ、消費税を最初に導入した消費税法案の強行採決に立ち会ったことです。法案審議のため特別委員会が設置され、審議は実質的には 3 週間ぐらい集中して行いました。部屋は皆さんにもご覧いただいた予算委員会が行われる第1委員会室でした。あの部屋での委員会は議員と丸一日対面で、これが毎日毎日続くものですから、我々としても非常に疲れるのですが、何とか乗り切っていました。昭和 63 年の暮れというと、当時の昭和天皇陛下の具合が相当悪くて、消費税法案の審議は大詰めでしたが、ここでもし万が一のことがあると、国会はストップになり法案もだめになってしまうギリギリの限界まで来ているといった状態でした。当時は自民党対社会党という時代で、強行採決にも事前の筋書とも言えるものがちゃんとありました。自民党は、細かいタイミングは別にして今日採決するということを一応水面下で社会党に仁義を切っていました。採決に入る決断は自民党でこの委員会を仕切っている筆頭理事が行い、合図を出すということになっていました。この委員会には、これも皆さんにご覧いただいた三角錐の名前の書いたプレートがあるのですが、その自分のプレートを持って振るというのがその合図でした。合図が出たら、筆頭理事の後ろに座っている議員が質疑打ち切りの動議を出し、委員長がその動議を委員会に諮って多数になれば、質疑を打ち切り法案を採決するという手順です。当然、その動議が出た瞬間から委員会が大荒れになるのは分かっていました。大荒れになる前にサードがやらなければいけないことは、混乱した時に危険な凶器となるものを遠ざけることです。その当時、委員会室ではタバコが吸えたのですが、通常置かれていた灰皿は立派で、瀬戸物でできた大きな重たい灰皿でした。その日に限って全部アルミの灰皿に代えたもので、今日はおかしいなと笑いながら議員に言われました。もう一つ、採決はNHKの夕方 7 時のニュースの直前、 6 時 59 分に行われたのですが、採決が近づいてきた時、私は委員会室を回ってコップを下げだしました。議員から「水が飲みたい」と言われると、「ああそうですか」と差し出すのですが、「先生、もういいですか」とコップを下げようとすると、「何ですぐ下げるのか」と言われる状態でした。採決が近づく頃には委員会室は議員や秘書の傍聴でいっぱいになって、もう騒然としている感じでした。動議の後は一気呵成にといきたいところでしたが、動議を出す議員も初めての経験からか慣れておらず、動議の書いてある紙を懐から出したら野党議員に取られ、また別のポケットから出して長々読むという具合でした。その紙はもちろん我々の立場では用意はできないので、自民党の事務局で紙が破れないようにボール紙を裏打ちして何枚も用意し、それをいろいろなポケットに入れていたようです。それでも動議は提出され、委員会室は大荒れになりました。その時の議事録を見てみると、「委員長・・・」といった途端にブツと切れて、その後は聴取不能です。会議録上、その後のやり取りは何も残っていなくて、ただその後に線を引いて、その法律案は可決したと書いてあるのです。最終的に採決が終わった後、委員長は衛視が委員会室から連れ出し、自民党の議員はそのまま出ていきました。野党の議員は皆委員会室に残って、「こんなことはおかしい」と言っています。我々はといえば委員会をきちんと終わらせるのが仕事です。委員会の開会や散会を表示する機器があり、その機器を操作するのもサードの仕事で、私は委員長不信任案を持って向かってくる野党議員を避け、担当の席から机の上に乗って飛び出し、機器の操作をしました。その後、委員会で法律が可決された旨を記した書類である審査報告書に委員長のサインをもらう必要があります。通常であれば委員会室でもらうのですが、その日は委員会室が混乱状態なので、委員長があらかじめ委員会散会後に行くことになっていた別の部屋まで行ってサインをもらいました。現場での業務が終わり事務室に戻ったところ、マスコミなどからの問い合わせで電話が鳴りっ放しでした。その電話には一切でなくてよいと言われ、そのまま外に飲みに行き、その日は終わりました。その翌々日から夜なべの本会議をやり、消費税法は成立するのですが、それはあくまでも本会議の担当である議事課の仕事です。今から思えば懐かしく、委員会では議員から「今日は何か雰囲気が違う」という発言があるほどの印象的な経験でした。

次に委員部に予算委員会担当のサブとして戻ってきた時に一番大変だったのは、小泉純一郎政権で平成 14 年補正予算が衆議院から強行採決で送られた時のことです。この年の 1 月東京で行われたアフガニスタン支援国会議に NGO の代表を出すか出さないかについて、田中真紀子外務大臣と鈴木宗男衆議院議院運営委員長の間でもめて、そのことが予算審議に影響したのです。補正予算は深夜 12 時を回って、強行採決により参議院に送られてきたのですが、それだけでも大変なのに、送付直後に田中外務大臣が更迭されてしまい、明日朝からの参議院での審議は外務大臣なしでどうなるのかと思いました。その時、現在の官房副長官でおられる゚藤勁衆議院議員が、当時は参議院議員として予算委の筆頭理事 、非常に理解のある方で、何とか審議に入ることができました。予算委員会は、通常審議の最初は朝から NHK のテレビ中継が入ります。その日 NHK は朝 9 時から放映の準備をしていたのですが、結局 10 時半まで委員会が始められず、テレビ画面は委員会が始まったら中継しますというテロップが流れっぱなしでした。委員会室では、内閣総理大臣を始めとする閣僚や委員をずっと待たせていて、さすがにもうこの辺で限界かなというところで何とか審議が始められました。更迭された外務大臣については、小泉首相外相兼任での対応でした。

私が委員部で一番印象に残りやりがいがあったのは、厚生労働委員会担当の主任をやらせてもらった時です。厚生労働委員会は、もともと社会保障分野を中心に与野党がいろいろ面で対立することが多いのですが、当時小泉政権は医療制度改革を掲げており、もめ事の多い委員会でした。現場の委員会の運営の仕方は、理事会や理事懇談会での協議により決めることになっています。雇用機会均等法案の審議をめぐって、自民党としては審議を先にどんどん進めたいので、法案の趣旨説明を聴いたらその日にすぐ質疑に入りたいという日程を提案しました。これに対し、野党側はそんなに急ぐ必要はないだろうというスタンスです。自民党がこの法案の審議を何でそんなに急ぐかというと、その後に医療制度改革の本命の法案があるので、できるだけ早く雇用機会均等法案を通して次に入りたいということだったのです。この日程協議のための理事懇談会は何回も断続的に開かれましたが、与野党間で全然折り合いがつきません。民主党の理事が党に持ち帰って相談してきたのですが、自民党も民主党も折れないので、そのまま理事懇談会を始めると激突し、明日どうなるか分からなくなってしまいます。理事懇談会は議員会館にある委員長室という部屋で開かれますが、何とかもう少し調整できないかと共産党の議員と、「このままいくとまずいですね。どうしましょうか」などと相談し、二人で委員長室の隣の部屋を開けさせてそこへ民主党の理事を押し込んで説得を始めました。自民党の議員をずっと待たせたまま 1 時間近くです。自民党の議員の方も、もう少し折れてもらえませんかと説得しました。共産党の議員としては、この協議が決裂して明日委員会に他の野党が欠席を決めても、共産党としては審議拒否はできないので、何とか折り合いを付けて与野党揃っての委員会としたいと考えたからだと思います。最終的に 1 時間たっても全然折り合いつかなくて、仕方ないと戻って理事懇談会を再開したところ、自民と民主の国対委員長同士が話をして、とりあえず明日の委員会はセットしていいということが決まり、それで何とか事なきを得たという結果になりました。

その後、いよいよその国会ではメインとなる医療制度改革が送付されてきました。どんな医療制度改革かというと、皆さんも聞いたことがあると思いますが、後期高齢者という形で高齢者に区分を設けるというあまり評判がいいとは言えない法案でした。案の定、この法案は衆議院から強行採決で送ってきたため、参議院では審議の入口からもめることになりました。私としては、この年はこの法案が出ることは分かっていたので、年の初めから野党民主党の筆頭理事とは、民主党としてどこまで抵抗するのか、政府与党との決裂も覚悟なのかなどとずいぶん話をしました。民主党としては、最終的には法案には反対だが力ずくで通されてしまうなら、修正は難しくともせめて言いたいことは言った上で附帯決議は行いたいという話になりました。私としては、それはできると思いますが、ただ強行採決となると附帯決議を行うことはできないので、そうならないようにしなければいけないと申し上げました。この間、自民党の筆頭理事とも採決への対応について、同様に話をしていました。自民党としては、前回の参議院選挙前に年金関係法案を強行採決で成立させ、選挙で大負けしていたこともあり、私からはあまり強行に審議を進めるより、民主党の意見を聞く方がいいと自民党の筆頭理事を説得していました。そのように与野党の間に入り、お互いにいろいろな話をしているうちに、二人の筆頭理事の間では折り合いがつきそうになってきました。しかし、それぞれが話を党に持って帰ると、両党とも強行で、自民党の国会対策委員会の幹部は早く法案を通せ通せと言い、一方民主党は絶対そんな対応ではダメだという状態でした。最終的に自民・民主の筆頭理事と私の三人で話をして、最後の採決の手順や方法について折り合いをつけることができました。強行採決では、私が経験した消費税法案の時もそうだったのですが、応援団とも言うべき議員や秘書がたくさん委員会室に入ってくることで混乱が生じるのです。ですから自民党の筆頭理事には、採決の際に議員や秘書などの応援団を入れないで欲しいとお願いしました。また、民主党の筆頭理事には、反対という意思表示のため立ち上がるのはやむを得ないとして、厚生労働委員会が使用している馬蹄形の委員会室は、委員長を中心に一方に自民党が、もう一方に野党が座っているのですが、野党議員が委員長に手をかけたり、自民党側の方に行くとトラブルになるので、民主党の議員は委員長から自民党側には入らないようお願いしました。民主党の筆頭理事には、立ち上がって大声を出す程度はいいから、委員長を超えて近寄ると必ずもめて委員会は終わりになってしまうとも申し上げました。質疑の打ち切り方について、消費税法案の時のように委員から動議を出すと混乱してしまう可能性もあるので、委員長が質疑終局を図る形で仕切るのが一番いいと申し上げました。委員長が仕切って質疑終局を可決した後、委員長はとにかくその次の討論に入って下さいと言い続けますから、民主筆頭理事にはしぶしぶ討論に入ってくれとお願いしました。実際の委員会でこのような仕切りがうまくいくかと思っていましたが、結局最後まで無事に済みました。ただ、このような形で収まり、激突するような強行採決にならなかったのには、他にもいろいろな要因があったのです。実はこの国会の会期はその週末で終わる予定であり、成立した医療制度改革法以外に野党側として通したい法案がいくつかあり、その法案の成立を図るためには、いくら反対でもここで医療制度改革法案の審議を終わらせておかないと次には入れないという事情があったのです。でも今から思うと、当時自民党は衆参で過半数を取っていて、野党側も「これ以上頑張っても仕方がない」と分かっているからできた話という気がします。その後ねじれになり、野党としては採決すれば勝てると分かると、当時のように折り合いをつけることは難しくなりました。ただ、あの時我々委員部の担当をやって一番うれしかったのは、民主党が大反対の法案を通して最終的に終わった時に、民主党の筆頭理事から「今日はどうもありがとうございました」と言っていただいたことでした。反対してこんなものはダメだと言っている人から感謝された時、一番いい仕事をしたのだろうと思いました。私はそういう仕事をやりたくて、今でも仕事を続けているのだろうと思わせる出来事でした。

江田先生は民主党出身ですが、議長に就任した後は会派を離脱して無所属という形で中立的な立場を取っていました。議長の心得について、過去自民党出身の河野謙三参議院議長は、やはり構えとして、 7 分対 3 分くらいに野党に厚く、そのくらいの気持ちでやる必要があると言われていました。僭越ですが、私も委員会運営の事務をしている時は、最終的に採決すれば結果が出るのですから、やはり議論を尽くすためにはなるべく野党の言い分を聞いて欲しいと口酸っぱくなるくらい与党の議員にお願いしていました。ある自民党の議員から「あまり野党の言い分を聞いたからか、自民党国会対策委員会に持って帰ったら怒鳴られた。今目の前ですごく吠えているが、どうしたらいいか」と携帯に電話がかかってきたことがありました。私は電話口で「そういう時は頭を低くして通り過ぎるのを少し待っていれば、そのうち根負けして止むと思いますから」などと無責任なことを言ったことがあります。

課長になったのはついこの間で、東日本大震災の時は災害の委員会担当の課長をやっていました。現場は毎日毎日徹夜にも近い形で仕事をやってもらいました。残念ながら、課長は現場の仕事ではなく、忙しい現場の人繰りをどうするかなどの後方支援的な仕事しかやっていません。ただこれまでお話ししたような委員部の経験が、今の私を作ってくれたのかなという気はしています。

 

【調査室〜議員の身近な相談相手】

調査室についてはお配りしたパンフレットにきちんと書いてありますが、政策立案を支援する議会のシンクタンクともいえる部署です。非常に専門的な仕事をやるところですが、私は 4 年しかいなかったので、どれだけ専門的なことができたかという気がします。主としては議員からこういうこと調べて欲しい、教えて欲しいというレファレンスの依頼があり、それに対応するという仕事です。今は無くなってしまいましたが、私は郵政省所管の逓信委員会調査室にいました。今は当該所管が総務省に移りましたので、総務委員会調査室が同様の仕事をやっています。私が調査室にいた平成 4 年か 5 年頃は、今では会社組織となった郵政3事業の国営堅持が守られていた時代で、情報通信分野ではマルチメディアという言葉が出始め、これからどういう方向に向かっていくのか、伸び始めようとしているのか模索中であり、 PHS がまだまだ使われていた時代でした。

調査員にもそれぞれの個性があり仕事のやり方は異なると思いますが、私が一番心掛けていたのは、我々がどんなに専門的に勉強していても、最終的には質問するのは議員本人なので、議員と一緒になって質問づくりをするのが大事だと考え、多くの場合それを実践していました。与野党どちらも当選したばかりの議員から、委員会で質問しろと言われたので所管の分野について教えて欲しいと相談を受けたことがありました。まず、議員の部屋に伺い、「今国会出ている法案ではこの辺がおもしろそうですからやられたらどうですか」とアドバイスして、関連する本をいくつか渡して、「一週間後にまた来ますからこれ読んでみて下さい」と言っておきます。一週間後、また議員を訪ね、「分からないこととかおもしろいところはありましたか」と言って、そこから質問を作っていくというやり方をしていました。周りからは変わったやり方だと言われましたが、私はこれでいいと思っていました。通常質問を作る際は、ここが問題点だ、論点になりそうだというところはある程度分かっているので、それに焦点を合わせて想定質問を作ります。ところが、質問する議員に会ってみると、こういう質問は向かないなと思うことが結構あるのです。特に情報通信などかなり専門的な分野になると、まず言葉の定義から説明する必要があり、議員自身の言葉で質問するのは難しいと思うこともあるのです。そのような場合、例えば教師出身の議員なら教育の方面から入っていく方がいいとか、そのように質問を作った方が議員自身の言葉で質問できるという気がしたので、なるべくそのように対応していました。質問作りにはいろいろな形の依頼があり、一番極端な場合は、例えばこの法案の質疑時間が 1 時間なので 1 時間分の質問を作ってくれと、単に時間だけでの依頼もあるのです。依頼してきた議員が委員会で最初に質問するのであれば割と楽で、論点に従って 1 時間分の質問を作ればいいのですが、例えば 3 人目の質疑者だった場合は、前に 2 人質疑者がいるわけで、質問が前の人と重ならないよう余分に作っておかなくてはいけません。また、多くの場合そのような形で質問を依頼される議員とは直接話をする時間もなく、質問案と資料を揃えて秘書に渡して我々の仕事は終わりで、後はどの質問を使うかは議員任せです。私はそういう仕事は好きにはなれずできるだけしないつもりでしたが、急ぐのでと依頼されれば断るわけにはいきません。ただ、委員部のサードの頃とは違い、調査室は一番若手の入ったばかりの調査員でも議員のところに行って直接話をしないと仕事にならないので、そういう仕事が一番おもしろいところではありました。

参議院事務局には、今は少なくなりましたが、プロパーの採用職員ばかりではなく、各省から来られている方もいます。その当時の逓信委員会調査室では、トップの調査室長は郵政省OBの方が務められていました。我々調査室も役所ですから、基本的には上司である室長や首席調査員に話をせずに勝手に動くのは組織上良くないのですが、議員との関係が深くなると個別の依頼で一人議員のもとに赴くことがありました。ちょうど私が調査室に在籍した時期に、 NTT の民営化の法案を扱うことになり、その附帯決議が問題になりました。附帯決議とは、法的な拘束力はありませんが、当該法案を通す条件として国会の意志を示すもので、一般的には野党から要求する場合が多いのです。特に NTT の民営化の時には、野党民主党は労組との関係で、法案への要求として附帯決議を作らないといけないということになり、その原案を我々調査室で用意することになりました。その原案を叩き台として、まず野党民主党の議員と協議し案を固めて、その後、その案を政府与党に提示し、飲む飲まないといった交渉が行われることになるのです。その調査室原案の作成は担当が下案を作り、それを調査室内の会議で決定するのですが、「これでは絶対政府が飲まないからダメだ」となかなか調査室長のOKが出ません。私は野党側から提案するのだから、政府が飲まない可能性があっても原案として野党の議員と話をした方がいいと主張したのですが、やはりダメでした。今から思えば若気の至りで、本来やってはいけないことですが、当時の民主党の筆頭理事に呼ばれ、一人で伺った際、「今調査室で附帯決議の原案を作成しているのですが、野党側からの言い分としては少し弱いような気がするのですが」などと本音を漏らしてしまいました。その後、調査室長がその理事のところへ附帯決議の原案を説明に行くと、もう少し強い主張にするように言われたとおっしゃっていました。結局はもともと私が最初に主張していた案との中間ぐらいで折り合うような原案となり、これが野党案として政府与党に提案されました。この附帯決議については、法案審議の最終盤になり、その筆頭理事から私に電話かかってきて、「組合もこの辺でいいと言っているがどうか」と聞かれ、「私から云々するものではありません」と返事をしたことを覚えています。さすが、経験の深い調査室長の方が先見の明があったということかもしれません。

このように調査室の仕事も結構楽しく、議員とも親しくなり、ある議員とは今国会が終わったら次の国会ではこんなことをやりましょうなどと話をしていたのですが、私が人事異動になり、残念ながらとお詫びをしながら議員会館を挨拶回りするようなこともありました。

 

【国際部〜議員外交の窓口】

国際部は議員外交の窓口で、国会議員を海外に派遣する時のアレンジや、逆に来日する外国議員の滞日日程のアレンジをするのが主な仕事です。私は英語が得意ではないので大変ではありましたが、おもしろいエピソードがたくさんありました。中米ニカラグアの議員団が訪日した際、在京大使館で歓迎のパーティーがありました。ニカラグアには国民皆が知っている歌があり、それは決して国歌ではなく、かなり飲んだ席で歌い始めて、皆で盛り上がったのです。その後、今度は日本側も皆で歌を歌って欲しいと言われたのです。皆で歌える日本の歌といっても、まさか飲んでいる席で君が代を歌うわけにはいきません。その席には日本側の議員も何人かいたのですが、皆で顔を見合わせて、何となく私の方に視線が振られました。それではと覚悟を決めて歌ったのが「スキヤキソング(上を向いて歩こう)」でした。訪日されたニカラグア国会議長はアメリカへの留学経験があって、年齢的にもたぶん留学時代に流行っていただろうと思ったからです。私が歌いだしたら、皆がその歌をよく知っていて非常に盛り上がりました。しまいには、ニカラグア議員団を成田空港まで見送るバスの中で、あの歌をもう一回歌ってくれと言われ、びっくりしました。

国際部にはもう一つ国会議員を海外に派遣する仕事があります。国会議員の海外渡航については、海外へ遊びに行くのかという批判を良く聞きますが、江田先生も前に言われていたことがあると思いますが、とにかく日程が厳しくてとても遊びとは言えないほど大変です。渡航日程を作成していると、渡航先で起こったさまざまなトラブルはすべてこの渡航日程を作った者の責任だと言われることが結構あります。ある議員団の海外派遣で、ギリシャのアテネからスペインのマドリードへという日程を作った際、航空路を地図に線を引くとローマの上空を通る形になります。それを見たある議員から、ローマで降りられないのかという話が出ました。私からは日程上宿泊はできないので、その日のうちに飛行機を乗り継ぐことになる旨申し上げたのですが、議員は朝アテネを出てローマで降り日中だけ滞在してそのままマドリードへ行くことでいいというので、そのような日程を組みました。そうしたらローマで盗難騒ぎに巻き込まれ、大変なことになったという公電が届きました。こんなことになったのはこの日程のせいで、こんな日程を誰が作ったのだという話になってしまい、最終的に議員団が日本に帰って来た時、成田空港で出迎え、最敬礼で謝ったという苦い思い出ですが、今から思えばおもしろいエピソードの一つになっています。

 

【庶務部文書課〜雑用から事務局組織の取りまとめまで】

私が文書課にいた時に議会開設 110 年という記念行事が開催されました。先日の国会参観の際、議長サロンで 10 年ごとの記念式典の絵をご覧になったと思いますが、その 110 年目の記念式典など関連行事のアレンジをしました。それから、当時は参議院改革の一環として、人員削減等事務局の組織見直しの仕事も行いました。文書課は組織見直しの取りまとめ役で、各部課の管理職にヒヤリングを行い、この仕事は合理化できないのかなどと厳しく追及したもので、各部課長からお前は何を考えているのかと散々言われました。一番メインの仕事としては情報公開や文書管理の仕事もありました。

それ以外にも雑務ともいえるが本当にたくさんあり、文書課は事務局の他の部課が所掌しないものはすべてという具合でした。当時は国会移転が言われていた時代で、国会移転関係の事務局も文書課でした。また、国を相手にした訴訟のうち、国会の立法不作為を問う訴訟の場合、国側の訴訟代理の窓口は法務省ですが、国会としての対応窓口は文書課でした。山口地裁下関支部における従軍慰安婦訴訟で国の立法不作為が認定され、この問題で国が初めて敗訴した時の対応は大変でした。最終的には国が控訴する形になりましたが、その前段階の法務省と衆参文書課との協議の場で、国会として控訴しますかと聞かれました。国会は会議体であり、こういったことは議長としても会議体に諮って決めねばならず、そうすると与野党で控訴への賛否は当然分かれます。故に国会自身で控訴を決定することは非常に難しく、なおさら事務局の判断などでは決められません。従って法務省の判断でうまくやってもらいたいと申し上げました。また、敗訴した場合の賠償の負担についても尋ねられたのですが、国会は他の省庁と違い、そのようなことは想定しておらず、予算計上もしていない旨回答しました。

 その他にも、経費節減のため国会会議録の印刷部数の削減も行いました。国会会議録は議員以外にも各省庁に配っていたのですが、今ではインターネットで検索できるまでになったので、各省庁の担当者に来てもらい、配付部数削減の交渉をしました。また、当時コンピューターの 2000 年問題への対応が必要となり、事務局全体の取りまとめを行いました。

【秘書課(議長秘書)〜議院トップとの貴重な経験】

次に秘書課ですが、これはあくまでも議長秘書としての経験です。たぶん詳しく話す時間もないと思い、以前私が書いた「議長秘書 こぼれ話」という資料をお配りしましたので読んでいただければと思います。議長秘書の仕事は、議長の日程管理や議長への来客の対応、訪問先への同行など、議長とのやり取りが主たるものです。議長への来客は私的、公的いずれも大変多く、江田議長の場合は特に外国人の来客の多さには驚きました。 3 年間全体で 185 件という件数は後にも先にも江田議長くらいで、それも外国の元首クラス、在京大使などそれなりの方々がそのほとんどを占めていました。先日の国会参観の際に見ていただいた議長サロンのほか、その隣の議長室や議長公邸で会っている方々だけでその件数で、そのほかにも議長の方から訪問する場合もありました。その他にも、議長としてコメントを出す必要がある時にその原案を作ったり、議長が話をされる際に言い過ぎないようにお願いしたりもしました。江田先生は今でも週 2 回ショートコメントを発出しておられますが、議長の時も続けられていたので、その内容についても意見を言わせていただきました。

 

【憲法審査会事務局〜「産みの苦しみ」の体験】

最後は憲法審査会事務局です。憲法審査会は、憲法改正手続法が制定された際の国会法改正により、法律上は平成 19 年から設置されていました。ただ憲法改正手続法が衆議院において強行採決されたという経緯から、その後も審査会を立ち上げるための規定が整備されず、参議院では昨年 5 月になってようやくその規定が整備されました。憲法審査会は、結局は昨年 10 月に設置されたのですが、その際の会長の互選が大変でした。憲法審査会会長は、通常は議運理事会でどの会派に割り当てるか協議決定するものですが、その時は議運理事会での協議が整わず、憲法審査会での投票で決着をつけることになりました。私は会長の会派割当が民主なら当然江田先生が会長になると思っていたのですが、結局 45 人の投票では私が投票箱を持って回り、 23 対 22 で自民の小坂憲次先生に敗れることになりました。ご存じのように、私は江田元議長の秘書でしたが、小坂憲法審査会会長とも仲良くやらせていただいており、先週もパーティーにお招きいただきました。このように、憲法審査会はようやく立ち上がったばかりで、まだまだ今後どうなっていくのかわかりません。憲法については、江田先生もご意見がありますし、今後の講義で憲法の話もあると思いますが、衆議院総選挙の結果次第では今後憲法に関する議論にも影響が出てくると思います。

 

駆け足でお話ししてきましたが、参考にならないような話が多くて、申しわけありません。私は参議院事務局に入っていろいろとつらいことも楽しいこともありましたが、総じて私はおもしろい仕事ができていると今でも思っていますし、ここで過ごせて良かったなと思っています。

 

(学生)委員会で委員の差替について教えてください。

(大蔵)委員会の委員を会派の中で差し替えるというのはよくある話です。例えば、委員会で被災地の議員が震災関係の質問したいのだが、その委員会の委員ではないというような場合、同じ会派の人と差し替えて質問するということはよくあることです。ただ最近話題となっているのは、ある法案を採決する時に反対しそうだからという理由で、本人の意志と関係なく会派の意志で委員を差し替えるということだと思います。結論から言うと、どちらも認められます。委員の差替には決まりはなく、事務局としては会派から届け出てもらっているだけであり、本人か会派かどちらの意志かというのは問題ではないのです。

(学生)仕事は何時から始まるのですか。

(大蔵)基本的には午前 9 時が始業時刻です。しかしながら、私は委員部で予算委員会の担当をやっていましたが、この時は 9 時から委員会が始まることも多く、その際は 7 時半ぐらいには出勤しなくてはなりません。参議院での予算審議は 3 月中続くのですが、 3 月の 7 時半頃はまだ明るくなったばかりで非常に寒かったことを覚えています。当時、私の仕事場は窓ガラスの立て付けが悪く、隙間風が吹き込んでいたのですが、今では改装され、また個別の暖房も入るようになり、非常によくなったと聞いています。ただ委員会が開会されるに当たり、大変なのは霞ヶ関だと思います。我々委員部は、明日の準備として答弁者の確認が行われれば済みますが、霞ヶ関の皆さんは実際に答弁を書き、各省及び省内の調整を行わなければならず、徹夜も覚悟です。江田先生も大臣をやられていた時は、朝真っ暗な時間に宿舎を出て、 7 時頃から大臣レクをやっておられました。質問する議員も、もう少し早めに質疑通告をしてくれればとも思います。先日、国立国会図書館の諸外国の議会関係に詳しい方にお聞きしたのですが、委員会で審議中に大臣が常に張り付いていなければダメというのは、日本の国会における独特の審議のやり方だそうです。国会議員にとってはいつも大臣と審議ができるのでありがたい話ですが、行政府にとっては相当に大変なことで、もう少しうまくやる方法を考えた方がいいと思います。定着したこの審議方法を一気に改めるというのはなかなか難しいとは思いますが、次の選挙で政権交代するかしれませんし、与野党いろいろ経験すれば分かっていただけるのではないかという気がします。

(学生)国会開会中とはいえ外務大臣が外国に行けないのはどうかと思います。

(大蔵)そうですね。特に外務大臣は海外の仕事が重要だということは与野党ともお互いに分かっているとは思いますし、そろそろきちんとしないといけない問題です。内閣総理大臣の国会への出席についても、一時期はある程度党首討論を主体にして、他はなるべく減らそうということになったのですが、その後自民党政権の末期から民主党政権にかけて、与野党の対立も激しくなって、どうしても委員会に内閣総理大臣の出席を求める例が頻発し、本当に忙し過ぎ、そのことが首相の寿命を短くしているような気もします。

(学生)諸外国の場合、首相や外相の議会への出席はどうなっているのですか。

(大蔵)例えば、イギリスの首相は週に 1 回決められたクエスチョンタイムはやりますが、それ以外は一切国会に出てきません。大臣も同じようなもので、普通は副大臣以下が対応します。アメリカの場合は、基本的に大統領が議会に出てくるのは一般教書演説の時だけで、後は議員に対して水面下でやりとりしているだけです。閣僚も公聴会に呼ばれることはありますが、始終ある話ではなく、議会は基本的に議員同士が議論する場となっています。フランスの場合は、大統領の下に首相以下がいますので、まったく仕組みが異なります。日本の場合は帝国議会時代からの成り立ちが現在のような審議方法を形作ってきたと思います。しかし以前に比べ、本会議で議案の趣旨説明の際も首相の出席は重要な議案に限るなど出席回数は減らしてきています。それでも最近では、NHKのテレビ中継を行う予算委員会に首相が出席する例がかなり多く、通常の予算審議以外でも国政の重要な局面で多用されています。自民党も民主党も与党を経験しましたから、国会のあるべき姿はたぶん分かると思いますので、一定のルールづくりを考えていただければと思います。

こんなところで今日は終わらせていただきます。


2012年11月30日−第11回「国会を支える人たち」 ホーム講義録目次前へ次へ