2011年法政大学大学院政治学講義 ホーム講義録目次前へ次へ

2011年12月9日  第13回「国際社会と日本」(2)

 今日は13回目の講義です。

 実は、今日の国会の具合で休講になる可能性がありました。今日は臨時国会の最終日だったのですが、昨日の夜まで調整が続いていました。

 9時半から憲法審査会の幹事会がありました。常任委員会や憲法審査会では、事前に理事会や幹事会を開いて、その日の審議内容などの確認をします。最終日 の場合は各委員会や憲法審査会に出されている請願の審査について打合せを行います。憲法上に認められた国民の権利である請願を最終日にまとめて審議して良いのかと いう議論があります。別途請願を審議する委員会を開いて、意見を聞くのが本来のやり方ではないのかという意見ですが、これは正論とはいえ正論が通るわけではな いのです。現状では国会の最終日にまとめてやります。

 理事会や幹事会で請願の扱いを決めるのですが、各党とも賛成や反対があるために結論が出ません。そのために保留になるのですが、最近はルーズになってき て最初から保留にして下さいと言うようになってきました。今国会で私が関わった委員会は憲法審査会のほかに法務委員会と政治倫理及び選挙制度に関する特別 委員会でした。ほとんどの請願は保留でしたが、採択したモノもあります。ほかにも閉会中も法案審査ができるようにするために継続審査を決めます。

 その後10時から法務委員会、10時半から政治倫理の委員会、11時から民主党議員総会、11時半から12時20分まで本会議を行い、大急ぎで昼食を取 りました。13時からニュースでも流れた市川防衛大臣と山岡消費者大臣の問責決議案の審査を行いました。参議院の民主党は6時くらいまでは禁足となってい ましたが、これは自民党の議員が6時半の新幹線をとっているという情報があって、それから考えると、それまでには終わるだろうという計算があったからで す。問責決議の審査は3時間くらいかかると思っていましたが、1時間40分くらいで終わり、3時前には全ての議事が終わりました。そうして今日、ここにいる わけです。

 前回は特別講義として、大震災の現地において首相補佐官として精力的に活動していた辻元清美衆議院議員に来ていただきました。前半はピースボートの話、 後半は首相補佐官としての苦労話をしていただきました。3.11の大震災後には、瓦礫の処理が遅い、もっと国が前面に出るべきとの批判がありましたが、私 は正直に言うと「よく言うな」という印象を持ったものです。というのも、国は手品師ではないのです。例えば、瓦礫の処理を自治体にやらせて、手間がかか る、国がやるべきだという批判がありましたが、むしろ国はこのような処理は苦手なのです。つまり、瓦礫処理や清掃などの実務はできないのです。国がやると しても、実際にやってもらうのは自治体です。自治体も業者にそのような実務を請け負ってもらいます。国は金を出すことや、指示を出すことが仕事なのです。 また、なぜもっと金を出さないのかという批判もありました。これに対しても、どこに出すのか、どのように使うのかを決めないと国は動けません。私は環境大 臣として瓦礫処理に関わりました。金の使い方などについて、あまり細かいことを言うなと指示を出しましたが、国民の税金を使う以上は無計画の大盤振る舞い やどんぶり勘定はできません。最低限のチェックは必要でした。また、国という条件で仕事をする以上は、一定の形式を取らざるを得ないのが現実です。国は枠 組みをつくり、実際に仕事をしてもらうのは市町村です。私は大震災を通して、市民の自発的な行動に譲るということが何よりも大切であると考えました。自発 的なボランティアで仕事をする、市民と行政との連携をとることが求められています。このことは大震災でいよいよ切実になっています。ことの性質上、難解な 方程式です。これを辻元さんは悪戦苦闘しながらやってきました。

【福祉国家と市民】
 今回は公行政と市民参加についてお話しします。10回目の講義でNPO法人の寄付税制と税額控除についてお話ししました。行政学を勉強した方は 分かると思いますが、公行政には二種類あります。権力行政と給付行政です。前者の権力行政は公権力の最大の特徴です。一般国民より優越して指揮命令を発す ること、代表的な機能に徴税や警察があります。伝統的に、これが公行政の主たる場面でしたが、そのような時代はもう終わったといえます。第二次世界大戦後 は、北欧ではなくても福祉国家が主流になりました。福祉や介護、生活保護など、そういう場面が飛躍的に増大してきました。権力行政の典型例である警察で も、サービス行政的な場面が多くなってきました。

 例えば、殺人事件などの凶悪犯罪における被害者支援は警察がずいぶん行っています。私も実際に触れたことがあります。石井紘基さんという方がいました。 私の秘書をやって、その後に世田谷から衆議院議員として出ておりましたが、暴漢に刺されて亡くなってしまいました。そのとき私は鳥取にいたのですが、すぐに飛んで帰 り、病院に駆けつけました。ご遺族である奥さんと娘さんがいましたが、他に数人、見たことのない方がいるのです。何と言えばいいのか、妙齢の美女と表現す ればいいのでしょうか。黒い服をびしっと着て、この人は誰なのかなと思っていたところ、「警視庁の○×署で被害者支援を担当している」と言います。被害者 支援にしては堅すぎると思いましたが、警察もずいぶんやっているのです。いま、被害者支援ネットワークが全国にできていますが、市民団体でのネットワーク が全国にできる前、県警本部で被害者支援の事業がスタートしました。また、ストーカー犯罪も同様に給付行政と見なすことができます。ストーカーの被害に 遭ったら、警察に助けを求め、そして警察が保護します。警察にも被害者の立場に立った活動が求められるようになりました。これからは、被害者支援活動への 配慮が欠けていたら国家賠償請求、ということもあると思います。
 
 このように現在の日本では給付行政がふくれあがってきました。しかし、大枠は行政が作るが実施は公務員という形では、あまり適切ではない場面が出てくる のではないでしょうか。行政の無駄を省いてスリム化する、税金を節約することは間違いではありません。しかし、福祉国家や福祉社会を考えるときに、それら を後退させるために行政改革をするということは間違いです。誰もが孤立しない、排除されることのない社会を目指していかなければなりません。例えばイギリ スで第三の道が出てきたときに、Inclusion、社会的包摂という概念が出てきましたが、こういうことが大きな目的になる必要があります。大枠の制度 設計は行政が行い、具体的な展開は行政機関が実施するよりも、市民の自発的活動がになうべきです。

 行政がスリム化してしまうのではなく、行政がやることは行政がやる、実施は市民の手に移す。行政が分をわきまえて、主役の座を市民に受け渡すことが大切 です。また、お金の流れも変えなければなりません。行政が一旦お金を集めて配分するのではなく、市民が直接払う方式、こういう哲学が大切なのではないで しょうか。そのためのNPO法人税額控除なのです。

 税金の納め方に関連して、今、ふるさと納税という制度があります。東京ではどのような取り扱いになっているか分かりませんが、私の税金は地元に払いま す、地方税分の一部が地元に移るという制度です。現に自分が住んでいるところで行政サービスを受けているのだから、その対価としての税金を他の地方に払う ということはどうか、という議論もありますが、東京を初めとした大都市には人口が多い。一方で、例えば岡山県の小さな市町村、例えば笠岡市などは税収が上 がらないから地方交付税をたくさんもらわなければやっていけません。東京で稼いだうち税金は地元に、そして最終的にはUターンやJターンする、税金の配分 先を納税者に委ねるということも大切、これにブレーキを踏む話ではないと思います。

【参加型民主主義へ】
 こうした発想の転換にとって必要なことは、自分自身で判断を下して行動する市民が大量に登場することです。哲学を変えようとか、立派な理屈を 言っただけでは変わりません。また、理屈を言ったことで自己満足していては何も変わりません。実際に変えることが大切です。

 今、介護の分野では仕事はきつく、給料は低いと大変な問題になっています。介護の現場は大変で、意欲を持った人がいなくなっています。このままでは悪循 環になってしまいます。私たちの将来はこういう現実の悪循環を好循環に変えていく、そういう展望を示すことが政治の責任です。来年には医療と年金、介護の 大きな転換期になります。こういうことはしっかりと政治が指し示します。

 さて、こうした発想の転換にとって一番の鍵となるのは、委任型民主主義から参加型民主主義への発展であると思っています。

 私が最初に国政に参加したのは1977年夏の参議院選挙ですが、前年の76年という年は、日本の政治史にとって大事な年でした。ロッキード事件で田中角 栄さんが逮捕されました。これではいけないということで河野洋平さん、先日亡くなった西岡武夫さんなどが自民党を離党して新自由クラブを作りました。76 年の総選挙では、かけ声ほどではありませんでしたが、一定の躍進を果たしました。翌年には、マルクス・レーニンでなければ何も考えられない、労働組合じゃ ないと何も行動できないという社会党に反旗を翻したのが、私の父である江田三郎です。菅直人さんと社会市民連合を作りました。その直後に父が急逝したた め、私が引き受けて参議院の全国区に出たのです。新自由クラブは出自が自民党、私たちの出自は一応、社会党になります。新自由クラブ、社会市民連合ともに同じ夢を もって協力したものです。後の選挙では比例区で、統一名簿を作ってたたかうということもしました。

 しかし、苦い思いもありました。両党には大きな違いがあったからです。別に、この違いを強調するつもりもないし、両党間に溝があったわけでもありません が、挙げるならば、私たちは参加型民主主義を目指し、新自由クラブは委任型民主主義を目指していました。もちろん、両方の視点が必要であると考えている し、対立的喧嘩をする必要もありません。

 そもそも、代表制民主主義には委任の発想が含まれています。受任者である国民はしっかりとフォローすることが大切です。その点に関して、民主党の政治に ついていうと、民主党に対する批判のなかには、民主党にとって大切なことはフォローであると、リーダーをきりきり舞いさせるのはいかがなものかということ です。これは間違いではありません。しかし、リーダーを選んだ後は任せっきりということも駄目なのです。社会を構成している人がいかなる決定にも参加して いくことこそ、民主主義を生き生きとさせます。誰かに委任したから、受任者である議員を見ているだけ、ということは本当の民主主義ではないと考えます。

 私が理想とする民主主義では、参加のシステムを作っていくことが、リーダーの役割です。その際に大切なことは、観客民主主義ではなく、参加民主主義で す。菅直人さんは76年に最初の選挙をたたかいましたが、ここでは残念な結果となりました。そのときに菅さんは「あきらめずに参加民主主義を進める会」と してたたかったのです。当時はこのネーミング、非常に新鮮でした。反面残念でもありますが、現在でも参加民主主義は新鮮さを失っていないのです。

 参加して民主主義を作り上げることについて、“think globally, act locally”(世界規模で考え、地域規模で行動する)という言葉が大切だと思います。一人一人が参加する舞台は等身大の自分自身に見合う規模がいいの であって、例えばこの市ヶ谷で世界をどうすると言っても始まらないのです。行動するのは地域だけれども、個別利益の達成ではなくて、地球規模で考えること が必要です。物取り民主主義ではない発想が必要です。委任と参加の両方を見るけれども、委任に満足しない、そうしたことがこれからの社会に必要です。

 国民主権の政治の原点は選挙に参加することです。菅さんの「参加民主主義をすすめる会」も選挙をやりましょう、と主張していました。良い政治とは何で しょうか。悪い人が良い政治をするということは、基本的にはないと思います。その逆は十分ありますが、良い政治のためには良い人を選ばなければいけませ ん。有権者が自分のこととして選挙に参加することが重要です。

 得手勝手な理屈と言われるかも知れませんが、大きな組織に頼って政治をすると、大きな組織に頭が上がらなくなるものです。例えば、民主党は労働組合の影 があることが問題であると指摘されます。ここでは労働組合の存在それ自体は問題ではなく、大きな労働組合が選挙を請け負い、議員になったら労働組合に頭が 上がらないことが問題なのです。電力系の労働組合におんぶにだっこの議員が脱原発とは言えません。また、基幹労連の議員は環境のことは言えないものです。 自分で集めた金で選挙をやることが重要です。組合ではないにしても、私のような懐具合だと、政治家になって金儲けに走るだろうか、ということを考えざるを 得ません。しかしそれでは良い政治にはならないのです。

 市民参加型の選挙運動について考えてみます。基本的にはボランティアによって担われる選挙運動、私たちはそれを考えて実行してきました。組合の話をしま したが、私の場合、労働組合の支援を受けてきっちり当選できたのは、前々回の参院選からです。それ以前の選挙では、一部労働組合による手伝いはあったもの の、連合などのナショナルセンターからの推薦はありませんでした。確かに、労働組合は頼りになりますが、一部分です。1996年に岡山知事選に出たときは 連合岡山の推薦をもらいましたが、見事に落ちました。参議院選挙に出たら、連合は別の方を推薦しましたが、その方を落として勝ちました。それから連合との 蜜月時代がはじまり、推薦を受け、当選するという構図が続きます。組合の支持があるから絶対に当選すると云う事はありません。ボランティアで選挙運動はで きるし、あきらめずにやることが大切です。

 最近、選挙運動での違法行為についてあれと思うことがあります。ボランティアで選挙運動していたのに、金銭の授受があったと隠せなくてばれてしまうこと が多いのです。選挙運動をしている人にお金を渡すと、運動員買収になってしまいます。お金を払ってもいい人は限られています。選挙管理委員会に届けている 人やウグイス嬢などです。それらの人以外に払ったら候補者の連座にまで波及します。上手に隠している人はいますが、結構な割合で捕まってしまうのです。選 挙が終わって数日後、お金を払って解散したら、その翌日に捕まるということがありますが、やはり通報があるのかなと思います。よく気をつけなければいけま せん。

 しかし、やはりそういうことはせずに、それぞれの市民が参加して、良い選挙をするんだということで選挙運動を手伝う、その気になればできない話ではない と思うのです。日本の市民の成熟度は上がってきています。だからこそ、公職選挙法の問題について議論が活発になっています。日本の選挙運動はべからず集と 言われるように、「●●はしてはいけない」という文言のオンパレードです。自発的な選挙になっていません。これを奨励法に変えることは重要です。いずれに しても、みなさんも選挙を嫌がらずに、選挙運動に積極的に関わって欲しいと思っています。 

 日本では選挙を悪いものだと思いがちです。選挙の真っ最中、学校で選挙のことを話題にすることがはばかられるという風潮があると思います。しかし、選 挙は学校教育にとって絶好の教材なのです。実際の選挙公報、生の演説など、授業に使えるものは、それこそたくさんあるのです。しかし、うっかり教材に用い ると、教育公務員の政治活動と言われてしまいます。東京都のある学校で実際の選挙を教材にして、教室でどの候補が良いか討論させたことがありましたが、こ れに教育委員会がびっくりします。政治的中立に反する恐れがある!と言ってやめさせようとしましたが、このような取り組みはじわじわ増えているようです。 こういうことを進めていって、先生も恐れずに話題にして欲しいと思っています。

 一つ余談ですが、憲法審査会がスタートしました。以前、国民投票法を作るときの宿題が残されています。国民投票法には、18歳以上に投票権があると規定 されていますが、これには条件があります。どういうことかというと、国民投票法以外の普通の選挙、例えば民法の成年年齢を18歳にしたらどうか、選挙法以 外も18歳以上にする措置を講じてはどうかという意見を出しました。民法や未成年飲酒喫煙禁止法まで含むのかは別として、他の法令でも結論を出して、その 結論が出るまでは憲法の国民投票法も20歳以上とするという条件にしたのです。これに対してまだこたえが出ていません。両説共にしっかりした解釈があるた めに揺れています。そのとき、昔の18歳と比べて今の18歳はずいぶん幼稚だ、あんな人に憲法の国民投票はできないという議論がでてきました。私はこの説 に疑問を持っています。本当に今の18歳19歳は幼稚なのか。私たちの頭で今の18歳を見ると、なるほど幼稚だと思います。逆に今の年寄りもどうかと思う こともあります。私たちはもっと若い人を信頼して良いのではないでしょうか。
 
【国際交渉について(1)】
 TPPについて少しお話ししたいと思います。TPPは環太平洋戦略的経済連携協定といいます。最近の報道や政治の領域で起きていることは、マス コミを含めて観客席に座り、拍手したり悲憤慷慨したりと、劇場民主主義に陥っているのではないでしょうか。

 私は活動日誌を毎日書いていますが、11月6日付の活動日誌には、次 のように書きました。

経済分野をはじめとして、あらゆる分野で国際社会が相互依存関係を強め、国境が低くなっていくのが時代の趨勢です。日本も国内のことだけを考えるのでな く、質の高い国際社会の発展のために積極的に役割を果たすことが大切です。例えば食品安全規制や国民皆保険を日本が世界に誇る制度だというなら、国際秩序 形成の協議の中に日本も入って、これらを世界に広めていくことを目指すことが、日本が国際社会の中で名誉ある地位を占める道だと思います。TPPによるマ ルチの協議はその始まりで、中国なども視野に入れてこの先の展望を見通すことが大切だと思います。もちろん農業分野などで、日本に起きる困難をしっかりと 見据え、これに対する対策を立てることが大切なことは言うまでもありません。戦略と対策を仕分けすることが、実りのある議論のために必要です。

 つまり、国際社会での新しい秩序を作っていくことに、日本が役割を果たしていかなければならない、戦略と対策が必要と主張したのです。
 
 11月12日の活動日誌で は、

今日は、娘一家が私たち夫妻の慰労にと誘ってくれて、箱根に家族旅行に来ました。寛いだ私たちと正反対に、野田首相一行はホノルルに旅立ち、TPPへの積 極姿勢を表明しました。私たちが現在の平和と繁栄を享受しているのは、アジア太平洋地域だけでなく全世界を舞台にして、貿易立国としての活動をしてきたか らです。海外から攻め立てられる側面だけに焦点を当てて日本のメリットとデメリットの議論に汲々とするのでなく、21世紀の世界の新秩序を構想し、日本が その実現の先頭に立つ気概を持つべきだと思います。日本の市民も、環境でも食品でも、地球市民運動の最先端に立ってリーダーシップを発揮したいものです。 頑張ろう、日本!

 TPPを巡る議論を見ていて気になることは、メリットとデメリットのみを論じていることです。世界で行われているTPPに関する議論のなかに日本は 入って議論しないのでしょうか? それをせずに、最近の子どもが内向きだと言うのは何事かと思います。NHKの番組で「1億2千万人の小舟を荒波に放り出 すな」という意見が紹介されていましたが、農業などのセンシティブな業種もあるかと思いますが、本当に荒波に放り出すことになるのでしょうか。戦後、軽武 装経済重視で突き進んできた日本が何をしてきたのか、きちんと見る必要があります。例えば、高度経済成長期、日本は世界中をマーケットにして乗り出してい きました。これ自体には良い面と悪い面があります。視察でアフリカに行ったときに、かなり奥地の村へ行きましたが、そこの商店に味の素がありました。本当 に世界中の隅々にまで、日本製品が行き渡っていたのです。

 また、私は1969年から71年までオックスフォード大学に留学していましたが、まずトヨタのメンテナンス工場ができました。その後で車の販売店が参入 してきます。そういうことをずっとやってきて今の日本の繁栄があるわけです。そういう活動を客観的に振り返ってみると、「小さな小舟に1億2千万人が肩を 寄せ合っている」とはよく言えたものだな、と思うのは言い過ぎでしょうか。

 国際社会に入っていきながら、自分たちの経済発展を作り出そうとしているのに、デメリットばかり見ては駄目なのです。国際経済のルールを日本も共に作り 上げていくべきです。野田首相は国益重視でTPPを判断すると言いました。これは間違いでは無いと思いますが、やはりもっと広く考えて地球益で判断すべ き、というのが私の考えです。

 日本が参加を表明すると、カナダやメキシコも参加表明国に入りました。日本は世界経済に影響を与えているのです。また、中国に関しても色々意見がありま す。中国も今後、色々な形で国際経済秩序の中に入ってこなければいけません。中国に対抗するためのTPP参加という議論もありますが、これは間違っていま す。日本がTPPに参加することによって、東アジアでの立場を悪くするという議論も違います。国際秩序の中に日本が、日本国民が入って行くことこそ、必要 なのです。

 TPPに関連して、先のNHKの番組には野球のグローブ工場が2つ、出てきました。一人目の社長は、「戦後、すばらしいグローブを作ってきたが、関税が あって守られてきたのに、国際競争に放り出されたら会社がつぶれてしまう」と言っていた。二人目の社長は、「TPPはビジネスチャンスだ、自分達の商品が 世界に出て行くチャンスだ」と言っていました。関税に守られて戦後やってきたということは、時代の流れに立ち向かっていけないのではないかと思うのです。 二人目の社長さんのような方にチャンスを与えた方が良いと思います。

 経済はつねに発展します。だから私たちは、その発展に従って変えていかなければいけないのです。昔の話になりますが、私たちの若い頃は、傘の張り替えという 仕事がありました。下駄屋があって、鼻緒を付け替えてくれました。時計の修理屋さんもありました。今はどうでしょうか。経済が発展した結果、そういう需要 がなくなったのです。

 そしてショッピングモールが出てきて、巨大な小売店が地域の商店を圧迫している、地域の目抜き通りはシャッター通りになってしまっている、だから大型店 は来てもらっては困るから出店規制だ、という議論があります。もちろん、大型店が野放図に出店することは考える必要がありますが、規制によって地方都市の 商店街を守ろうとするのは本末転倒です。大型店にない魅力を作り出さなければならないと思います。

 TPPを巡る議論には、日本の根本問題の一つが現れています。私たち日本人は、あまりにも内向きになっているのではないでしょうか。また、私たち政治家 は、国民の意欲をかき立てるような議論をしなければいけません。

【国際交渉(2) ハーグ条約】
 ハーグ条約(国際的な子の奪取の民事面に関する条約)は、この10年くらいどうしようかと日本政府は悩んできました。それまでずっと加入を拒否 していましたが、私が法務大臣の時に加盟するということで舵を切ったものです。

 今の時代、国際結婚は珍しくなくなりました。そして、結婚すれば離婚するのも普通です。婚姻関係が破綻したときに、子どもが国境を越えて移動することも 普通になるでしょう。ハーグ条約とは、子どもが国境を越えて移動するときの取りきめです。とにかく子どもを、もといた国に戻せというルールです。これだけ国 際結婚がさかんになると、日本も参加してルールを作り上げる必要があります。

(ハーグ条約:子の利益の保護を目的として、親権を侵害する国境を越えた子どもの強制的な連れ去りや引き留めなどがあったときに、迅速かつ確実に、子ども を、もとの国に返還する国際協力の仕組みなどを定めた多国間条約。1980年採択、1983年発効。)

 日本がこれまで加入してこなかったのは、反対論のなかに、常に夫は外国人の乱暴者で、妻はそれから逃げてきたから、妻が連れてきた子どもをもとの国に戻す ことはできないとする議論が主流だったからです。もちろん、そういうケースもあるかと思いますが、それが典型例ということではありません。仮にハーグ条約 の適用によって、子どもに不利益があるならば、children firstという国連のルールに基づいて処理すれば良い話です。日本人も国際社会の中で活動する必要があります。

 日本人は外交下手で交渉下手だから、このような国際交渉の中に入ったら大変だという意見があったのですが、いつまで言っているのでしょうか。国際秩序の 形成または改革の中に入っていくことが必要なのではないでしょうか。
 
【東ティモールの独立】
 しかし江田さん、そんなことを言ってくれるなという意見もあるかもしれません。しかし、私自身の経験からも、日本がきちんと国際的な舞台の中で 活躍できると考えています。

 東ティモールという国があります。ここで長年、民族自決権の確立が切実な問題でした。東ティモールはもともと、インドネシアに属していて、列島の東端に 位置しているティモール島の一部です。時は西欧列強の植民地時代、西半分はオランダの植民地、東半分はポルトガルの植民地でした。元を辿っていけば同じ民 族かもしれませんが、やはり何百年も異なる宗主国のもとで植民地をやっていると、東西ティモールは異なる地域になるものです。オランダの植民地部分がイス ラム教、ポルトガルのそれはカトリックが主な宗教になりました。文化や言葉も異なってきます。

 歴史的には、オランダの植民地部分であった西ティモール地域は、民族自決によってインドネシアの一部となりました。インドネシアといえば、当時第三世界 のリーダー格です。一方で、東ティモール地域は、ポルトガルの植民地として残りました。1974年にスペインで政変が起きた際、それに連動してポルトガル でも政変が起きました(カーネーション革命)。そのようにして、ポルトガルは世界の植民地の独立を承認します。東ティモールでも独立しても良いということ になり、74年から75年にかけて独立運動が起きました。

 独立運動の途上で、政党がたくさん創立しましたが、その中で東ティモール独立革命戦線は、東ティモール全土に統治権を確立し、独立を宣言します。当時の 情勢から、とにかく早く独立宣言した方が良いということでした。

 しかし、独立宣言をした途端にインドネシアが侵攻、1976年にインドネシアの一部と宣言します。これにはアメリカのお墨付きがあったのです。東ティ モールの指導者が共産主義者とみなされていたために、東ティモールの独立を承認するとドミノ理論によって共産主義が波及してしまうそういう危惧がありまし た。実際にはその指導者は共産主義者ではなく社会民主主義者だった。東ティモールでは、武装闘争が始まります。それに対してインドネシア側は掃討作戦で応 じる、東ティモールは既に独立宣言をしていたので、独立国です。インドネシア国内の内戦ではなく、戦争なのです。

 インドネシアの勝手な理屈−東ティモールも同じ列島の一部だからインドネシアに属する−に対して、世界中に自決権の闘争を支援する市民のネットワークが できます。EUはこれに支持を表明、列国議会同盟も支持しました。

 私は1980年代半ばに国連で意見を述べました。東ティモールの独立を支持するための議連もつくりました。はじめは先の見えない運動でしたが、1993 年の冷戦終結を機に何か変わるかなと思いました。しかしそのときは何も変わらなかった。本当の転機になったのは、スハルト体制が崩れた1999年、8月 30日に国連主導の住民投票が行われた時です。私も視察にいきました。投票率がおよそ9割、民族自決に賛成したのは9割以上でした。しかしその後が大変で した。投票が終わった途端、インドネシアに加担する民兵グループが大暴れします。私もなんとか帰ることができました。

 東ティモールは2002年に独立式典を行います。その間、住民投票や大統領選挙、議員選挙にいたるまで、国連が支援し、多くの国が監視団を送り込みまし た。もちろんボランティアも支援活動を行います。このようにして21世紀初の独立国が誕生したのです。

 東ティモールの独立には、支え続けた市民と政治家がいます。こういうネットワークが実を結んだといえるのではないでしょうか。ところで、東ティモー ルの住民投票では、住民の方が皆、子どもを背負って投票に来ていました。ほとんど全員といってもいいくらい、子どもを背負っている。私はその中の一人に、 なぜ子どもを背負って投票に来ているのかと聞きました。

 「この子に投票の姿を見せておきたい。この姿を忘れないようにさせたい」

 これこそ、民主主義にとって必要なのではないかと思うのです。独立したものの、東ティモールは大変です。雇用がないから失業者があふれています。日本と は比較にならないほどの失業率です。

 私の友達は、インドネシアで会社をやっています。その人曰く、東ティモールはインドネシアに入った方が幸せだと言っていました。しかし、そんなことを比 べるべきではありません。独立するか、インドネシアと一緒になるか、そこに住んでいる人が選択すべきなのです。

 さて、東ティモール問題に対して日本政府は何をしていたのでしょうか。国連が住民投票を実施する時まで、インドネシア側に立っていました。ノーベル平和 賞を受賞したジョゼ・ラモス=オルタが来日した際、外務大臣との面会を希望したが叶いませんでした。ラモスさんはこの件をかなり怒っていましたが、現在で は日本と東ティモールは良好な関係になっています。なぜかというと、ティモール島とオーストラリアの間に石油・天然ガスがあるからです。おそらく、国際社 会の中で日本が苦しいときには日本の側に立ってくれるだろうと思います。

  私は、志を持って、国際社会が手をつなげば、政治の大きな可能性が開けると考えています。政治をみんなでやらなければいけません。

 講義は残すところ、あと2回となりました。来週は憲法のこと、21世紀ビジョンについてお話しします。最終回は私の個人史についてお話しします。という ことで、今日はここまでです。


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