1999年

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亜細亜の道

 残暑厳しい八月二十八日昼、私は国会議員議員五名とスタッフ八名の合計十四名で、成田空港を発った。一行はみな、日ごろと違う作業着姿。表情も緊張気味。その後連日テレビのトップニュースで流されることになる東チモールに向かったのだ。

 観光地パリ鳥のホテルは、コテッジ風の超高級スイートだが、夜中に到着して翌早朝には出発。観光地のときめきは何もなし。

 いよいよ二十九日午前、緊張のディリ、コモロ空港に到着。熱帯の陽光が照りつけるが、乾燥しているのか、意外に暑さは感じない。マラリアが怖いので、空港の待合室から早速、蚊取り線香をつける。何をしに、そんなものものしい旅に出たのか。東チモールで国際連合が住民投票を行う。インドネシアの自治州か、それともインドネシアから離れて独立するのか。これを住民の自己決定で、つまり投票で決めるのだ。

 東・西チモールは、近代以前から別の部族が国を作り、別個の言語や文化を持っていた。近代に入り、西チモールは他の島々と一緒にオランダの植民地となったが、東チモールはポルトガルの植民地。だから第二次大戦後、オランダからインドネシアが独立した後も、東チモールは別の歩みを続けた。一九七五年十二月、やっと東チモールは独立。ところがその僅か数日後、インドネシアは陸、海、空から軍隊で攻め、ここを占領して自国の領土にしてしまった。

 以来二十三年余、植民地からの民族自決の歩みを自分たちで決めたいという住民たちと、併合を強引に押し進めるインドネンア側との闘いが続いた。ちょうど戦前、日本が朝鮮半島を併合し、創氏改名を迫り、日の丸を掲げ君が代を歌うことを強制したように、いやそれよりもっと強引に、インドネシア化が行われた。弾圧に耐えかねた住民が山の中に逃げる。作物の植付けや収穫ができない。当時六十万人の人口の内、二十万人が、戦闘や飢餓、疾病て死亡したと言われる。第二次大戦後で最も血なまぐさい戦争と言われるのは、決して誇張ではない。

 私は一九八六年、国連のヒアリングに出席して意見陳述し、その後も国会議員の中で支援グループを作って、住民の自由な意志決定を応援してきた。展望は何も見えなかった。しかし、植民地における民族自決の実現は、今世紀後半の最大のテーマの一つだし、東チモールは、そのアジアにおける最後のケースなのだ。何としても今世紀中に解決したい。今世紀前半にアジアでおぴただしい血を流させた日本が、後半は世界史のために祝福される役割を果たしたと、歴史の教科書に記述させたい。そんな思いで粘った。

 歴史は突然動く。東西ドイツが再び統一するとは、八十年代の最終場面まで、私たちは誰も想像できなかった。しかしハンガリーの西端の国境に開いた小さな隙間から、ついに東ヨーロッパが大変化した。

 昨年、スハルト大統領が退任し、後継のハビピ大統領が、いろいろな思惑も込めて、東チモールを手離すことを決断した。

 若干の紆余曲折を経て、住民投票が行われることとなった。それでも二回の延期が余儀なくされた。インドネシアに治安の責任を負わせていたのだが、もともとその意欲は十分ではなかった。しかし、この妥協がなければ、住民投票をインドネシアは受け入れなかったのだ。仕方がない。

 宿舎はディリ有数のホテルだったが、日本の海の家と変わるところなく、ベニアで区切られただけの部屋。ベッドのほかは何もない。窓はあるがガラスはなく、蚊は出入り自由だから蚊取り線香は欠かせない。数日前に民兵に襲撃され、コックもいなくなった。

 三十日の住民投票は、まさに感動的。文字どおり命をかけて、住民が投票した。

 まず八月中旬に登録が行われた。民兵の暴力で山奥に追われた避難民まで、山の中の町できちんと登録した。インドネシアの国政選挙の登録者をかなり上廻って、四十五万人の有権者。投票率は九八・六パーセントに上った。驚くべき数字だ。

 投票監視は、私のチームはディリの郊外まで出かけたので、弁当は何もなく、カロリーメイト一かけらとチーズ一片、それにペットボトルの水だけ。空腹の行動となった。

 早朝六時、投票が始まる。既に集まった住民で投票所は大混雑。皆正装している。子ども連れも多い。将来の独立した東チモールの国民の記憶に、きちんと刻みつけておこうというのだ。何時間も歩いてかけつけた人も多い。

 ある投票所。投票第一番は老婆。介助者に支えられて息もたえだえ投票した彼女は、両手の親指をしっかり突き立て、「やったよ、私はやったよ」と胸を張った。子どもたちのために、命がけで投票したという満足感。民主主義の原点を教えられた思いがした。二百か所の投棄所は、おおむねどこも平穏で、見事というほかなかった。私たちは皆、満足して翌三十一日、ディリを後にした。 そして開票。独立支持が七八・五パーセント。住民は自由意志で、圧倒的に独立を求めた。国連が行った住民投票なのだから、国際社会は投票結果を現実のものに仕上けなければならない。

 ところが開票結果発表の直後から、舞台は暗転。詳細は省くが、虐殺、強奪。マスコミか連日報道しているとおりだ。いや、そのマスコミも追い出されたのだから、実態はもっとひどいに違いない。

 地獄絵。ディリは死の町と化した。どのくらいの人が死んだのだろうか。私たちの車を運転してくれた陽気な若者は、今も安否不明だ。インドネシアに治安をまかせたつけは、あまりに大きかった。住民の八十パーセントか飢えていると伝えられる。収穫期と種蒔き期に騒乱が重なったため、飢餓は一年続く。政治が狂った時のつけは、あまりに大きい。政治がらみのことは敬遠されがちだが、ここはぜひ、関心を持って欲しい。したり顔で賢こぶるのはやめよう。現に地獄が、アジアの一隅で今、私たちが毎日平安な日々を送っている時に、起きているのだ。

 私がなぜ、こんなことを書いたか。番町文庫に集うみなさんの友情と信頼があるから、私がこんな活動をできる。そのことをご報告したかったからだ。感謝します。

(番町文庫20周年記念文集「いのちとうとし」掲載)


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