文藝春秋1998年12月号掲載

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丸山眞男先生を想う

 私が丸山先生のゼミ生となったのは、1964年。だが、その前に一度、私は東大を退学処分になっている。最初の入学は60年、安保騒動の最中だった。入学早々毎日のようにデモに出かけ、翌年には駒場の自治会委員長になったのだが、大学ストの責任を問われて62年に退学処分になってしまった。

 63年に再入学し、改めて法学部へ進学することにしたのだが、そこでふと立ち止まって考えた。「残された学生生活はあと二年しかない。最後ぐらいはちゃんと勉強すべきじゃないか」と。そこで丸山ゼミの門を叩くことにした。丸山先生は非常に高名で、学生に与えた影響も大きかったから、当然ゼミの人気も高く、応募規定には「外国語が二カ国語以上出来ること」という高いハードルがあった。私は二カ国語など出来はしなかったが、これは勉学意欲ある者を求むという意味だろうと勝手に自己解釈して申し込んだところ、幸運にも入れてもらえた。もちろん私の退学歴もご承知の上でのことだった。

 ゼミでは「日本政治思想史」がテーマだった。一見バラバラに見える歴史上の出来事が実は底の方で関連していたり、世の中の事象を見るときには様々な角度から見なければならないことなどを、先生から学んだ。何しろ先生は博学で古今東西すべてに通じておられるから、話が面白くないはずがない。ゼミは二時間で終わる予定が、毎回八時九時まで白熱した。台風が来て、誰も学校にいない中でも丸山ゼミの教室だけは灯があった。突然停電して教室が真っ暗になっても、パイプを吹かしながら平然と講義を続けられた。

 先生は「人間は精神の冒険をしなきゃいけない」とよく言われた。自分が大切にしている考えを自分の中で守っていては駄目で、むしろそれを人前に放り出してズタズタにされても切磋琢磨しなきゃいけないと言われた。先生は自由主義者であり、民主主義者であり、マルクス主義にも理解を持っておられたが、頭の中で考えているだけの学者ではなく、非常に人間的な方だった。

 学生との付き合いでも日本的メンタリティのベタベタした付き合いは好きではなく、「肌と肌の触れ合い」など大学にはなじまないと言い、試験でゲタを履かせてくれることなど絶対になかったが、学生と議論することは大好きで、こっちがぶつかって行けば喜んで相手をしてくれた。ゼミ生が誘い合ってお宅にお耶魔したこともあり、卒業後も年次を越えて卒業生たちが毎年先生を囲む、「楯の会」ならぬ「縦の会」に晩年まで奥様と一緒に来て下さった。

 それだけに、後に全共闘世代の学生たちの過激な行動に遭ったことは、先生にとって非常に辛いことだったと思う。

 先生から最も大きな影響を受けたことは何だと問われると、一言で答えるのは難しい。裁判官を辞め政治家になる決心をしたのも先生の影響ではない。むしろ丸山ゼミ出身者に政治家はほとんど皆無で、現在は私一人。政治を研究の対象にしてしまうと自らその中に飛び込む気にはならないのかもしれない。学者や官僚、ジャーナリストなら錚々たる顔ぶれが並ぷのだが。

 先生の教えは、意識下からある時ふと伏流水のように湧き出てくるのだ。湾岸戦争のとき、私はPKO法案に反対した。それも単なる反対ではなく、牛歩どころか集団議員辞職願い提出までやった。集団安保の普遍的システムが完成されていないのに、国家主権を振りかざしてPKOに参加するのはまずい、日本の旗を持たず国連の旗を持って行けと主張したが敗れたわけだ。

 その後でお会いすると、先生は南原繁・元東大学長が唱えた「多元的国家論」の話をされた。国家がその全ての機能を持たなければならない時代は終わりつつある、国家には様々な形態があり、これからは部分的機能の国家が出てくる時代になると。先生とじっくりお話が出来たのはこのときが最後になってしまったが、それだけに今でも非常に印象に残っている。

 一つだけちょっと心残りがある。私が政治家になって、自分のパーティーに先生をお呼びしようかと考えた。先生は「僕はそういうパーティーには一切出ないことにしているんだ」とお断りになった後、ちょっと笑って「一つぐらい例外を作ってもいいかな」と言って下さったのだが、こっちが逆に「例外など作らせるものか」と意地になってお呼びしなかったのだ。

 清潔な方だったから、亡くなった後に財産も残されず、全集や講義再録さえも、亡くなった後になって、関係者の大変な努力で編纂された。


文藝春秋1998年12月号掲載

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