2005年4月

戻るホーム2005目次前へ次へ


戦後政治の断面
党内路線争いの影 「無党派重視 実現せず」


離党の意思表明

1976年12月のロッキード選挙。前首相逮捕の「激震」は自民党に初めての過半数割れをもたらした。だが、その票は新自由クラブをはじめとする中間政党に流れ、野党第一党の社会党は伸び悩んだ。

なぜ、70年代の与野党議席の伯仲が政権交代に結び付かなかったのか。元社会党書記長、江田三郎を「渦中の人物」とする深刻な党内路線争いが影を落としたのは間違いない。

77年3月1日夜、東京の霞が関ビル36階のレストラン。江田は腹心議員の阿部昭吾、大柴滋夫を呼び、離党の意志を切り出した。「私は一人で出るから、党の内と外で呼応して新しい情勢をつくろう」

戦前の農民運動で頭角を現し、50年の参院選で初当選、60年、委員長の浅沼稲次郎が刺殺された後に委員長代行も務めた。白髪をトレードマークに国民的人気も高く、ジューサー愛用が紹介されるとブームが起きたほどだ。

60年代の「構造改革論争」以降、左派と対立。特に総評や最左派の理論研究集団「社会主義協会」と激しくぶつかる。総評と協会が党内で力を増すに伴い、求心力を落とした。阿部が明かす。「それまでも二回ほど離党を口にしていた」

連立政権を模索

江田は76年3月に公明党書記長の矢野絢也、民社党副委員長の佐々木民作と「新しい日本を考える会」を結成、社公民による連立政権を模索した。しかし、社会党内は社会主義協会が「独占を意図する保革連合だ」と反発。このため江田は離党して、「考える会」を基盤に参院選全国区での出馬を視野に入れていた。

江田が強調したのが政権構想の具体化と、無党派層の取り込みだ。

「無党派の多くは政治に無関心なのでなく、政党の現状への抗議としてあえて棄権したり、政治に変化を起こさせるために投票する」(著作)。約30年前に今の政治状況にも通じる無党派論を展開していたが、労組依存が進む党内で顧みられることはなかった。

当時の委員長、成田知巳も周囲に「政権を取るとすれば社公民と自民党の良識派を取り込むしかない」と漏らしていたが、党内事情から掲げることはなかった。日本女子大教授の高木郁朗は「江田のような『顔』と社会主義協会などの『理屈』がセットにならない悲しさが党内にずっとあった」と指摘する。

悲運のリーダー

離党した江田は77年4月、市民運動家だった菅直人(前民主党代表)と「社会市民連合」を結成。「新しい政治」を訴えるものの、病魔に襲われ翌5月に急死した。

菅は「江田さんは党を飛び出したとたんにすごいエネルギーが集まった。参院選に出ていたら、すごく面白かった」と振り返り、首相小泉純一郎との類似点も指摘する。「広い市民層を基軸に持たないと政権は取れないという発想は、特定郵便局長に依存しない自民党にするという小泉首相と同じだ」

悲運のリーダー・江田の遺志は、無党派など幅広い層の支持で政権を狙う今の民主党に受け継がれるか。長男で党参院議員会長の江田五月は「今の民主党を見て『頑張れよ、でものぼせるなよ』と言ってくれると思う」と口元を引き締めた。

(共同通信)


2005年4月

戻るホーム2005目次前へ次へ