新しい政治をめざして 目次次「意識的無党派のエネルギーを結集しよう」

7 革新・中道連合政権で新しい日本を創り出そう

 昨年暮の総選挙で一番驚かされたことは、新自由クラブの予想をはるかにこえた進出であった。政党人も評論家も、当の新自由クラブの諸君も驚いたのであろう。その原因はどこにあったのか。一般には中道勢力の台頭といわれているが、そもそも中道とは正確になにを指すのか、あいまいである。たしかに、国民の多くは、ゆきすぎた変革には反対であり、ソ連のような自由のない共産主義国家になってしまうことを恐れている。しかし、同時に自民党政治の腐敗にあきれはてており、確実な変化を求めている。こうしたなかで支持政党なしの無党派が、政治の現状を一歩でも確実に変える手がかりを求めて新自由クラブと公明党に投票した。

 青年層やインテリ層の無党派の多くは、政治に無関心なのではなく、政党の現状への抗議としてあえて棄権したり、また、そのときの情勢を見て、政治に変化をおこさせるための効果をねらって投票する。これが「意識の高い浮動票」になっているのではないか。四年前の選挙では、この層は共産党に大きく流れた。共産党を支持するからというのではなく、自民党に反省を求めるために、一番パンチがきくと思われる共産党に力をかした。その後自民党の腐った体質は一向に改まらないが、そうかといって、共産党をこれ以上のばして、日本の政治が両極化することは混乱を生むと考えて、新しく生まれた新自由クラブに投票した人も多かったと考えられる。少くとも都市においては、そうした傾向がみられた。

 しかし一体、新自由クラブに、明確な日本のビジョン、そこに到達する政策があるのか。教育政策に熱意をもっていることは認められるが、その内容には国家統制のにおいがあってにわかに賛成できない。それ以外に何があるのか。自民党を改革するというだけのことではないのか。そこに大量の票が流れている。その後の朝日新聞社の世論調査をみると支持率一三%、実に公明、民社両党を足した数字を上回っているのである。われわれはこのことを冷静にうけとめなければならない。無党派の大きな部分が新自由クラブに流れているのであり、そしてこの党が今後どちらに進むのかは、はっきりしないということである。

 民社党が、この選挙の結果を中道の勝利、民社の勝利などといっているのは、同党への支持率は、立候補数をしぼったからとはいえ、減っていることに頬かむりをしており、一方的な背のびした見方である。

 私はかねてから、革新連合政権を主張し、その立場で政権構想を明確にすることの必要性を強調してきた。それが行われていたなら、総選挙の結果は大きくちがっていたのではないかと思っている。自民党政権には、多くの国民があきあきしている。だが代るべき主体がない。これが今回の選挙結果となったものと思う。だが政局は、与野党すれすれであり、安定しない。今からでもおそくはない。みんながカを出しあい、政権構想を明確にしなければならない。

 議会制民主主義の理想は二大政党制だといわれてきた。英国の保守対労働の二大政党制がその模範のようにいわれてきた。野党が影の内閣をもち、いつ政権が交替しても国民がとまどわないそのやり方を学ぶべきだと言われた。日本の政治にあっても、二大政党制ではないが、保守対革新という型が常識のようにされてきた。革新内部での交流はあっても、保守との話合いは逸脱であり、ましてや保守との協調や連合しての政権は許されない堕落であるとされてきた。田中内閣の末期、私は自民党との連合政権は考えられないが、自民党を離れ、われわれと政策面で一致するグループがでてくるなら、これと手をつなぐことをためらう必要はないとの見解を発表した。その直後週刊誌で、私と福田赳夫氏との対談があった。私は前記の立場でものを言っているのだが、世間の一部は保革連合であるかのようにねじまげて解釈し、社会党内では、直ちに私の行動に対して批判が加えられた。保守革新の対決という建前がつよすぎるのだ。

 西独社民党は、ながらく野党からぬけ出すことができなかったが、キリスト教民主同盟と大連合を断行し、そこで社民党に統治能力のあることを国民の前に実証し、次の選挙で躍進した。そしてキリスト教民主同盟と離れて少数党である自由民主党といわゆる小連合をつくり、さらに党勢をのばした。私はこの西独社民党のあり方を高く評価し、そこから多くの学ぶべきもののあることを承知しているが、日本の場合、自民党があまりにも古く、腐っていて、西独方式をとる余地は全然ないと考える。永久政権ともいわれる自民党政治を、一度解体させないかぎり、日本の政治は国民の期待から離れるばかりであり、現にそのことは、近年の世論調査にはっきりと現われている。福田内閣の支持率も、まことに低い。解体にはいくつかの道があるが、いずれにせよ西独のような大連合では、崩れつつある、また崩さなければならない自民党支配を補強することに終ってしまう。

 他方、保守対革新の二大政党対立という型は、日本において現実に実現のできないことであるし、またその方向を追求すべきでもないと思う。昨年春、英国の労働・保守両党から一名ずつの議員が来日し、日本側から私と当時自民党にいた宇都宮徳馬氏が参加して、現代政治のあり方についてシンポジウムを行ったことがある。そのとき英国側の保守党議員は、二大政党制が大きな壁につきあたっており、二大政党制を可能としてきた小選挙区制を転換しなければならないと述べた。

 彼の主張の第一は、第三党である自由党が得票率で一八・三%なのに、議席数ではわずかに二%の一三にとどまり、得票に比例した議席が与えられず、三九・三%の労働党が三一九議席で、単独政権を担当するという矛盾である。そうしたことのおきる小選挙区制の矛盾は意外なことではないが、彼があげた第二の点が興味深かった。二大政党だと、お互に相手に対し真意以上の批判を加え、対立の幅を拡げる。そのため政権交替にあたって必要以上の政策転換が行われることになり、経営者や一般国民をとまどわせることになるというのである。ながい経験からの発言として、深く考えさせられるものがあった。私はそのとき、この見解には賛成だが、価値観の多様化によって、それらの点以上に大きな矛盾がでてきているのではないかと発言した。例えば、英国の将来にとって重大な影響のあるEC加盟への国民投票にあたり、労働党は党議で賛否をきめることができないで自由投票にした。ウィルソン政権の公共事業費の削減には左派が反乱した。また米国はもともと党議で議員の行動をしばらないのだが、ウォーターゲート事件のニクソン追求にあたって、ニクソンの与党である共和党の大きな部分がニクソン追放に賛成した。こういうことを見ると、二大政党制は、もはや現実に適応しえないものになっているのではないかと述べた。私のこの主張に、英国側も同感の意を表した。

 二大政党制は、理論のうえだけでなく現実に崩れている。すでに国民の過半数を一つの政党でかかえこめる時代ではなく、西欧社会において、オランダ、西独、ルクセンブルグ、フィンランド、スイス、アイルランド、ベルギー、アイスランド、スエーデン、フランスは連合政権であり、単独政権は英国、ノルウェー、デンマーク、オーストリア、イタリア、ポルトガルの六ヵ国があるが、それも少数単独が多く、絶対多数はオーストリアだけなのである。

 イタリアを例にあげて、連合政権は動揺常なく、効率が悪いといわれるが、前記のように、すでに絶対多数の政権は、極めてまれなことになっており、連合が世界の大勢なのである。問題は、この是非を論ずることでなく、いかにして連合政権を能率的・効果的ならしめることに習熟するかに移ってきたのであり、日本においても、今回の野党の減税要求の処理にみられるように、実質的に連合政権時代に一歩ふみ入れ、議会運営に新しい方式を生み出さなければならなくなっている。永年絶対多数、単独政権をつづけてきた自民党は、昨年の総選挙で新自由クラブが飛び出し、分裂の第一歩が始まったが、やがて行われる参議院選挙のあとには、もっと大きな分裂があるのではないかという予想が、根も葉もないとはいえなくなっている。正に連合政権の時代を迎えているのである。

 参議院選挙の結果を今から予測することは困難であるが、野党が過半数を上回ったとしても、それは新自由クラブという、将来どうするのか分らない、多分に未知数の要素をもつ党を加えてのことであり、いわゆる革新だけで過半数を上回ることはまず不可能であろう。引きつづいて衆議院の解散総選挙が行われたとしても、そこで革新だけで過半数を占めることは、革新相互の対立の現状では困難であろう。

 私はさきに、左と右を区別するメルクマールが分らなくなったと書いたが、保守と革新についても同じことなのだ。何が保守か、何が革新かは、一つのイデオロギーで区分けされるのではなく、議会制民主主義を是認する以上、どちらが国民多数の要望にそった改革を行うか、どちらが日本の社会が直面している困難を克服していく有効な政策を構想する新しいカを備えているか、にあるのだと思う。本来国民の幸福ということは、政党が上から配給できることではなく、国民自身の要望を、政党が忠実にとりあげ現実化することである。社会主義政党といえども、現実の変化に柔軟に対応し、国民の要望にこたえるべく、新しい政策を構想していくことが必要である。それを間違った迎合だというのであれば、議会制民主主義を放棄するより仕方がなくなるであろう。すでに述べたように社会主義も、たえまのない運動の原理である。固定化された青写真であってはならない。それは、時代の要求に対する建設的・改革的な対応のための生きた原則とならなければならない。

 いま日本の国民にとって、既存の自民党が政権をにぎりつづけることは、好ましくないことになっている。これはわれわれの独断ではなく、各党に対する国民の支持率で明らかであり、また福田内閣の支持率が不支持の率より下回ったという新聞社の世論調査でも明白である。だから、これを打倒しなければならないが、いわゆる革新という政党だけでこれを実現することは、前に述べたごとくいたって困難である。社公民共の四党が足並をそろえても過半数には達しないであろうが、その足並がそろわないのだから、まずもって絶望といわなければならない。自民党の進歩的な部分と手をつなぐことも、大胆に構想しなければならない。そうでない限り、逆に自民党の側から新自由クラブを始め、革新政党へのはげしい切崩し工作を展開させることになろう。日本が直面している内外の諸条件はまことにきびしい。政治が不安定で、時期を失しない対応ができないことがつづくなら、取りかえしのつかない破局におちいる可能性がないとは言えない。こういう条件のなかで、自民党が手のとどくあらゆるものを動員してかかれば、革新分裂工作が、あるいは成功することになるかもしれない。そうした工作を成功させてしまえば、戦後、政・財・官の三位一体によってきずかれ、すでに役割が終った、古くて腐った自民党の解体・脱皮は実現されず、逆に革新の一部がまきこまれ、骨をとろかされてしまうことになる。反対に、革新側の結束がつよければ、自民党を分解させることが、現実性をもってくる、というのが私の見解である。だから私は、共産党を閣外協力にとどめた社公民の政権構想をもてとこれまで主張したのである。民社、公明両党に対して、言いたいことはあるが、社会党にも多くの欠陥があるし、民公両党とくに民社との距離をつくり、それを自民党との協力の方向に追いやってはならないと思うのだ。私は自分の見解を次の意見書として、中央執行委員会・大会に提出したが、残念ながら討議の対象とされず、大会においては説明の機会さえも与えられなかった。そのとき私は、社会党が政権につく時ははるかに遠いし、たとえ政権についても、国民の期待にこたえられないであろうと、つくづく思ったことである。

  「革新・中道連合政権」についての意見書

 「福田内閣は衆議院において一票差で生れた。参議院は与野党伯仲である。世界が大転換に直面しているなかで、「日本丸」はどこに進路をとるのか。すでに破産した大企業優先路線をとる保守本流が、これまでの議席上の優位をも失い、その場しのぎの対応をすることで、明日の展望はひらけない。

 この政権は、他党のだきこみに、あらゆる手段をとるであろうが、どの党も、この政権と抱合心中するような愚はさけるだろう。残された唯一のチャンスは参議院選挙であり、財界あげての支援をバックに、なりふりかまわぬ選挙戦を展開するであろう。彼らが勝利すれば、衆議院のだきこみに新しい条件が生まれよう。福田政権は、すでに歴史的役割の終わった保守本流に、戦後民主主義に背を向ける党内右派が加わり、情勢次第で、いつ右翼反動政権に移行するかも知れない性格をもっており、われわれは、参議院選挙でこの政権を勝利させてはならず、命脈を断たねばならない。そのための、可能な方策確立が急がれる。

 今次選挙では、中道派が支持されたといわれているが、より正確には、政治の急激な変化による混乱をさけ、漸次的改革を望む人々が、国民の側で多数派を形成しつつあるということであろう。年々ふえつづける支持政党なし層が、四年前には、自民党に痛棒を加えるため共産党に投票したが、今回は新自由クラブに移ったこと、最近の世論調査によると、自らを中産階級だと考えるものが、中の上、中の下を加えたら、国民の九割に達していることもこれを裏づけている。この国民の側で形成されつつある多数派を、政治の場で実現するのがわれわれ政党の役目である。そのため、第一に、先進国型の自由と民主主義に基礎をおき、漸次的改革をめざす社会主義勢力(党と労働組合)が核となり、第二に、革新的ないしリベラルな諸党派、諸勢力、市民、知識人、中間層等を含む進歩的連合を形成することである。われわれはそれを革新中道連合と呼ぶ。より正確には、社会党が中心的な勢力として加わるという意味で革新・中道連合である。もし今回の選挙にあたり、そうしたリベラル保守をも含む革新・中道連合構想が具体的に明示されていたなら、新しい政権誕生の道が一挙にひらかれたかもしれない。野党各党バラバラの抽象的政権構想では、なんの迫力も持ちえなかったのである。

 すでに古い社会主義陣営の階級分析が当たらなくなり、価値観の多様化した今日の社会状況にあっては、単一の党が国民過半数の支持を獲得できる時代はすぎ去り、革新のみならず保守も多党化が必然となり、したがって、政権は多党連合が不可避必然となる。西欧社会ではそれが大勢となっており、日本もこの時代に入ったと考えられる。こうした多党連合は、一つのイデオロギーによる連合ではなく、多様な価値観の共存を認める政党が、自治と参加を基調とする諸団体、個人を加えて結集する柔軟な連合である。連合論についてつけ加えるならば、これまで安易に使われてきた「統一戦線」という用語も刷新する必要があるように思う。統一戦線という語は、前衛政党(共産党)を中心としてその周りに諸勢力を結集するという、同心円型の戦線として歴史的に定形化された概念である。われわれが目ざす連合はそうではなく、実際上何れかの党が要(カナメ)党としての役割を担うにしても、少なくとも理論的には、同格の複数の政党がいて、互いに協力しあう関係でなければならない。したがって「統一戦線」という用語よりも「連合」がその呼び名にふさわしいと思う。わたくしはいま、参議院選挙を前にして、こうした考え方にたって、政権構想を早急に具体化しなければならず、そのためのリーダーシップは、野党第一党である社会党に責任があると思う。

 社会党は全野党による共闘を主張してきたが、数年を経過したにもかかわらず、四野党の足並みは一致ではなく、分離の方向に進んできたことを冷静にうけとめなければならない。ネックは共産党にある。この党がいかに柔軟な路線を表明しようと、民主集中制をとるイデオロギー政党であり、党内にさえ民主主義が生かされない独善の党である限り、この党を加えての連合は不可能だということを認識しなければならない。これはすでに、世界的に実証されてきたことであり、共産党とは閣外協力が限界だということである。わたくしは日本における現実的な革新的連合政権の構想に、共産党とはともに天を戴かずという態度をとれというのではなく、遠い将来は別として、現段階においては、前述のように対処することが壁につき当たっている社会党の政権構想に窓をあけることができると確信する。

 成田委員長は、社会党の提示した政策に賛成なら、戸籍を問わず、柔軟大胆に手をつなぐと総選挙中に述べた。しかし最近、いまの段階において政権構想に線引きをすることに反対し、参議院選挙での保革逆転をかちとることが先決だと述べている。この前段の部分は、革新側の政権構想に「保」が入れられたことが画期的な提案だと思う。しかし後段についていうなら、実は参議院選挙前に、政権構想を具体化することこそ、逆転を可能とするのではないのか。参議院選挙を迎えて国民の社会党に対する最大の関心は、社会党が実現可能な、明確な政権構想をもって臨むかどうかにかかっている。もし、社会党が具体的な政権構想を持たず、政権構想の意欲を具体的に示さないなら、ふたたび自民党勢力が復活するおそれもある。現在、社公両党間で若干の選挙区での共闘の話し合いが進められているが、このことさえも、社会党が明確な政権構想にふみ切らないかぎり、まとまらないのではないかと憂慮される。

 五万に足りない党組織で、一千万を超える得票を重ね、広く革新を代表する国民常識の党として歩んできた社会党は、今こそ決断すべきである。わたくしはこの際、連合の可能な諸政党をはじめ、広く諸団体、学者専門家によびかけ、連合政権の基調、中心にすえる政策の具体化のため、社会党のイニシアによる、大シンポジウムを提唱すべきことを提案したい。保守に替る新しい連合政権樹立のため、広範な論議を組織する責任が社会党にあると考えるからである。

 社会党が、旧来の路線にとらわれ、新しい道をひらくことに怠慢をつづけるなら、なおも低落がつづき、自らを過去の政党とすることになるであろう。革新の革新は、構造改革提唱以来のわたくしの初心にほかならず、重大選択が迫られるいま、あえてこの提案を行うものである。」


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