2004年4月1日 期首朝礼での講演録

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歴史の曲がり角 ― 改革の方向

参議院議員・民主党副代表 江田五月


はじめに―― 仮処分と多元社会

皆さんおはようございます。

昨夜、どのような話をしようかと考えていましたら、テレビ朝日から電話があり、今朝8時半からの番組に生中継での出演依頼がありました。期首朝礼と時間帯が重なっているので、テレビ朝日の方はお断りいたしました。

出演依頼の理由は、田中真紀子さんの娘さんが「週刊文春」に取り上げられた事についてでした。「田中真紀子外務大臣」と言えば公人ですが、娘さんは公人ではない。しかも個人的な事情に関する事だというので、東京地裁が週刊文春に対し、「その記事を掲載している週刊誌は売ってはならない」という仮処分決定を出した。それに対して、週刊文春側が異議申し立てをしたが、裁判所は異議を認めませんでした。

そこで抗告。東京高裁の決定は、「個人のことでありプライバシーの問題になる。政治家の娘でもプライバシーを暴かれて良いものではない。その点ではプライバシーの侵害に当たる」というものでした。しかし同時に、ものが言えなくなる世の中は良くない。社会全体を考えると、『表現の自由』は非常に重い。確かにプライバシーの侵害にはなるが、その程度は、日常個人の間でうわさ話をする程度を超える酷いプライバシー侵害ではないということで、「仮処分決定を取り消す」という決定が高裁で出た。テレビ朝日からの電話は、「あなたも政治家だから、自分自身のことを考えるといろいろと思いもあろうから、テレビに出て下さい」ということでした。

この裁判に関わった裁判官は、高裁が3人、地裁は決定で1人、異議で3人。全部で7人の裁判官が関わった訳ですが、合議は全員一致だったとすると、地裁では4人がプライバシーの方が大切、高裁では3人が報道の自由が大切であるとした。それほど微妙な問題です。今の社会はいろいろな利益や考え方が複雑に絡み合っていて、なかなか「これが正解だ」というものはないという時代になってきています。多元社会ですね。何が大切なのかということを、皆さんは常にしっかりと考えて頂きたいと思います。

感謝と葬式哲学

今日は、感謝の気持ちを胸に刻み込んで指標を唱和してから、私の話になったのですが、感謝の気持ちを念じている時は、皆さんどのような事をお考えだったのでしょうか。

私の父は戦前、戦争に反対をしていました。当時は戦争に反対の意見を持つというだけで刑務所に入れられる時代でした。父は2年8ヶ月刑務所に入り、出所してすぐに私が生まれました。当時は、生きた人間の相手をしていたらすぐに警察がつきまとい、3人集まれば「集会だ」ということですぐに警察が来る。戦争が始まり「危険な思想を持った者は危険なところへ送ってしまえ」という時代でした。現に南方の前線に送られて、命を落とした人たちや体をこわした人たちがたくさんいます。私の父は、生きた人間を相手にしたらそのような目に遭うのなら、死んだ人間を相手にするのは良いのだろうと、葬儀屋を始めました。

なかなかユニークな葬儀屋で、父には「葬式哲学」というものがあり、葬式はお坊さんがお経を上げるが、葬儀屋が式全体を取り仕切る、どちらが大切か。お坊さんはお経を上げて供養をしてくれるから「有り難い」。でもただそれだけのことです。実際に亡くなった人や遺族に、本当の意味での「引導」を渡すのは誰か。亡くなった幼子を胸に抱いて、もう一度おっぱいを飲ませたいと泣く若い母親に、「お別れですから釘を叩いて下さい」と小石を握らせるのは葬儀屋がやる。その時に心が籠もっていないと、良い葬儀にはならない。父はこのような「葬式哲学」を持って、「公詢社」の葬儀屋を神戸でやらせていただいていました。その葬儀屋と繋がりがあるのが「一燈園」で、一燈園の西田天香さんがお掃除をしながら全国を回っていた。そうした様々な繋がりが絡み合った中で、天香さんの運動と関わった丸橋会長と私の父とが親交を結んでいた。古い繋がりです。そして今の第一建築サービスという会社があり、皆さんが働いている。このようなことを、感謝の気持ちを念ずる機会に思い出して頂ければ、大変有り難いと思います。

掃除ということは大切なことで、靖国神社に限らず是非とも社会の掃除をして頂きたいと思っています。そのような時にどこまで思いを広げるかということが大切だと思うのです。いろいろな社会活動する人たちの合い言葉で、世界的にも広がっている言葉があります。英語で「シンク・グローバリー、アクト・ローカリー(Think globally; Act locally.)」。ものを考えるときは地球的規模で考え、行動するときは地に足のついた行動をしようということです。皆さん方も、思いは長い歴史や世界、地球、宇宙にまでめぐらせながら、地に足のついた行動をして頂きたいと思います。今日は地球規模の、あるいは日本全体の動きをお話してみたいと思います。

歴史の曲がり角(1)、戦争か平和か

私は今という時代が、大変大きな歴史の曲がり角であるという気がしてなりません。「宇宙船地球号」と言いますが、私たちはみな地球規模の大きな船に乗っています。また、日本でも会社でもよいのですが、皆さん方は結構大きな船に乗っているわけです。船が舵を切る時は、全体で動いていきますから、どこが曲がり角であったか分からない、そんなことが歴史の中ではあるのです。今はいろいろなレベルでの歴史の曲がり角であると思うのですが、5つくらいの曲がり角が同時に進行している。戦後ずっと続いてきた平和を目指す時代が終わって、「日本はまた戦争に向かうという曲がり角にいるではないか」という意見もあります。しかし「そうではない」という意見もあり、判断の難しいところです。

第1の曲がり角は、戦争か平和かということです。

二十世紀は戦争の世紀でした。日本はご存じのとおり1945年に戦争に負けました。それ以前は、日本も戦争の時代の主要なアクターだったわけです。戦争に負けて、日本は平和な時代になったが、世界は実はそれほど平和な時代ではありませんでした。日本は戦争に直接関わる事はありませんでしたが、「朝鮮戦争」がありました。世界を見ると、アメリカとソ連が「冷戦時代」で大激突をしていました。核兵器の開発競争に凌ぎを削っていたのです。軍事費という点では、今までの全ての戦争で使われた軍事費を合わせても、「冷戦時代」に使われた軍事費にはとうてい及びもつかないでしょう。金額で見ると二十世紀はやはり戦争の世紀で、その最後に「冷戦」が終わりました。

イラク戦争

二十一世紀こそは平和な世紀になるのだと皆が思ったのですが、「イラク戦争」が始まり1年が経ちました。この戦争は一体何だったのか。サダム・フセインの持っている大量破壊兵器を今のうちに取り除かなければ大変なことになると、アメリカのブッシュ大統領が有無を言わさず戦争を始めた。しかし大量破壊兵器はなかった。「ない事をサダム・フセインが証明しないのが悪い」。私も、彼は悪いと思います。しかし戦争は、大勢の一般市民を殺害する。兵士も戦争に行かされた市民です。フセインが悪いからといって、それですぐ、戦争をしていいということになるのか。やはり、大量破壊兵器がなければ、大義のない戦争だったということになると思います。

大量破壊兵器が仮にあるとしても、「査察」という方法もあるのです。ブリックスさんという委員長が「査察」を担当していました。私が細川内閣の科学技術庁長官をしていた時に、ブリックスさんは国際原子力機関の事務局長で、私も長官として会って話したことも何回かあり、良く知っています。彼が「査察を続けさせてくれ」と言っていたのです。ところがアメリカは「そんなまだるっこしい事は出来ない。今、やらなければならない」と開戦。小泉首相は「それを支持する」とやったわけです。査察ならば、戦争ではないのでそれほどお金も使わなくてすみ、人の命も犠牲にせずにすんだ。ということで、私たちは「イラク戦争」は大間違いだと思っていす。

この危惧が当たって、ヤシン師の暗殺、マドリッドの列車テロ等、憎しみに憎しみを重ねる過程が進んでいます。「テロ」はいけないが、「戦争」という方法で「テロ」をなくするということが、正しい道筋なのか。憎しみに憎しみを重ねる形で事を進めると、世界中に怒りの気持ちが広がって行く。「テロ」という雰囲気を世界中にまき散らしてしまう。

国連

ここで一番大事なのは国連です。アメリカは「国連は力がない」と、国連を裸の王様にして世界中の人に見せつけた。王様が裸である事実をよく見極めて、そこから何か新しいものを作っていく方法もあるかも知れませんが、簡単ではありません。アメリカにも何の積極的提案もありません。王様が存在することで一定の秩序を保っているという事実もある。国連があることで、皆が国連に集まって協議をし、国連で決めたことを皆で守ろうとしているのです。そういう秩序を第二次大戦後に世界中が作ったわけですから、もう一度国連を立て直せるかどうかの曲がり角でもある。

憲法と平和主義

これは実は、日本国憲法の話なのです。昨日丸橋副社長に、憲法のことを話してみたいと申し上げました。「日本の憲法は占領軍に押しつけられたもので、あの屈辱を忘れてなるものか。日本民族の精神を復活させよう」と言う意見がありますが、私はそのようには思いません。日本の国内にも、いろいろな外国人が日本人と一緒に生活し、一緒に経済を動かし、一緒に社会のシステムを作り、一緒に世界と結びついていこうという時代になってきている。しかも、日本だけが生きているのではなく、世界全体が生きている。

先日中曽根康弘さんの話を聞く機会がありました。「物事の判断をするときには、歴史に照らしてみることが一番重要である」と言われました。私は歴史を否定しませんが、歴史だけではないと思います。中曽根さんの歴史というのは、「あの占領の時の屈辱を、一度跳ね返さなければ、日本民族は再生できない」というもので、中曽根さんのような時代に生きてきた人の気持ちは分かります。しかし、日本の歴史もありますが、世界の歴史もある。

日本の憲法は平和主義ということを言っています。これは大切な原則です。憲法が平和主義で書いてあるところは、第9条で「紛争を解決するための戦争はやらない。そのような戦争をやる陸・海・空軍は持たない」というところと、前文で「国際協調主義で日本は世界で名誉ある地位を占めたい」というところです。

戦後の世界史のスタートの時は、日本は戦争に負けて食べて行くのが精一杯の時代でした。その時期に、平和主義をあのような表現で書いた。今の日本はかなり違っている。うんざりするくらい物があり、経済も世界第2位と言われる時代です。もっとも、経済は一流でも政治は三流以下、国際社会へ出たら日本人は英語も話せず黙って下を向いているだけ、これではいけない。今では日本は到底、世界と無関係ということはできません。世界について日本もいろいろな責任を負っていて、国連の分担金にしても大変な金額です。そして世界からの恩恵も受けていて、世界中に日本の経済活動の網の目を広げ、その活動で日本の経済を動かしているのです。ですから、世界の事についても発言しなければならないし、責任も果たして行かなければならない、というのが今の日本の立場です。

私は、冷戦が大戦だとしたらどうかと考えています。第一次大戦、第二次大戦があり、第三次世界大戦が冷戦だったと。第二次大戦が終わった時の日本は、世界の事にものを言える立場ではなかったが、第三次大戦が終わった後の世界をどうしようという時代には、ものも言わなければならないし、責任も分担しなければならないという立場にいるのではないか。そして今は、「テロ」の時代へと歴史が曲がり込もうとしています。それを何とか直そうとする時に、日本はいろいろと発言しなければならない立場に立たされているのではないか。

このような事を考えると、戦後あの時代に「平和主義」を掲げて、憲法9条で、国際紛争を解決する手段としての戦争はしない、侵略出来るような軍事力は持たないとの表現で文章を書いたが、今ではもっと別の表現もあるのではないか。

戦後すぐに、日本の防衛のための軍事力として自衛隊を持ち、今日まできている。自衛隊は憲法違反ではないということは、ほぼ定着していると思います。しかし憲法に書いてある文言からでは、自衛隊が憲法違反ではないということはなかなか読みにくい。

平和主義ということを考えれば、自衛隊は日本の専守防衛に関わるだけに留めなければなりません。世界のことについては国連をしっかりさせる。国際社会の中で犯罪行為を行う国が出て来たら国連が解決をする。このような「集団安全保障」とか「国連安全保障」という実力を国連に持たそう。その実力を国連が持つ場合には、日本は国際協調主義だから、一定の参加をしようではないかということで、私たち民主党は、「国連待機部隊」を作り、国連が紛争解決のために動く時には日本も国連の活動として参加をすることを検討しています。

このくらいの発想をしなければならない時代がきているのではないか。世界全体や地球の事を考えながら、新しい日本の憲法を発想してゆく時代がきているのではないかと考えています。

歴史の曲がり角(2)、戦後改革

第2の曲がり角は、戦後改革で取り残された部分の完成ということです。

戦後日本は、全体主義を変えて民主主義にしましたが、その中で取り残されたものがあります。それは司法です。冒頭、週刊文春の事で裁判の話をしましが、戦前は天皇の名の裁判で、戦後は国民の名の裁判です。しかし、呼び名が変わっただけで裁判官の手法は変わっていない、国民主権になっていない。私も裁判官を10年近く務めましたが、裁判所の中にいると、特権階級人間ばかりです。在学中に司法試験に受かり、大学卒業と同時に司法研修所に入って修習を受け、修了と同時に裁判官になり65才の定年まで裁判官で、この様な人たちが裁判をしているのです。

私もその一人だったのですが、一般の市民の苦しみに共感を持つ事が出来なくなっているのではないかと思い、現在、司法制度改革に取り組んでいます。裁判員制度といって、皆さんにも裁判員という形で裁判所に来て頂き一緒に裁判をして頂く。一部の特権階級の人たちだけの裁判に自分の運命を委ねてしまっていたのでは、「国民主権を皆で担ってゆくのだ、自分たち国民が有権者で主権者なのだ」ということにはなりません。やはり戦後改革を、司法の世界でも今しっかりと仕上げなければならない。そのような意味での戦後改革の最後の仕上げの時代で、歴史の曲がり角です。

また、今の内閣制度は事務次官が行政の動かし方を全部決めていて、大臣は閣議で議論はしていません。閣議では、官房副長官という事務方のトップが議題を説明する。その間に閣僚は決裁書類に「花押」を筆で書いていて、書き終わった頃に官房副長官の説明も終わる。これで閣議は終了する、閣議で大臣が国の方向を決めているのではない。このシステムも変えなければならない。戦後の民主主義の改革を完成させるために、このあたりについても憲法に手を入れる必要があります。

歴史の曲がり角(3)、中央集権から地方分権へ

第3の曲がり角は、地方分権の確立の時代だということです。

明治維新で日本は、中央集権という時代をスタートしました。列強が世界をほぼ分割し終わるという時代だったので、日本は中央集権で国力を一点集中でやらなければなりませんでした。この時代は過ぎ、これからは地方分権という時代に変えなければならない。「地方分権は本当に出来ているの?」。「権限は来たが財源は来ない」。「財源はどうする?」。「財源は三位一体改革」。しかし三位一体改革は地方いじめで、地方は首をつって死ねということです。今多少景気が上向きになってきているといいますが、まだ景気の良さを本当に実感出来る程にはなっていない。この点は、皆さん方がよくお感じの事と思います。

今、景気対策が非常に重要で、特に地方の経済が活発になってこないと日本全体が良くならない。地方と中小企業と雇用が経済政策の重点にならなければいけない。それなのに、地方行政をいじめる「三位一体改革」でよいのだろうか。補助金は国が紐を付けて金を地方に渡すもので、地方の自主性はなくなります。ですから補助金はカットします。しかし、お金がなければ何も出来ません。政府は「補助金をカットした分を地方交付金あるいは税源として地方へ渡します」と言っています。しかし、例えば補助金を1兆円カットしたら、その代わりに実際に地方へ渡す交付金は5千億くらいに削ってしまう。ですから地方の首長さんたちは、「この様な三位一体改革では予算が組めない、何とかして欲しい」と言っています。明治維新以来の本当の地方分権を、どのように作るかという課題もあります。これも歴史の曲がり角です。

歴史の曲がり角(4)、価値観の転換

第4の曲がり角は、経済のあり方の大変化です。

世界の歴史は、産業革命から大転換しました。産業革命で物を作る方法が大発展し、物の豊かさという点で、それまでの時代とは全く違う時代に入りました。ところが今は、物を作ることに対する価値観が変わってきました。景気が良くなってきていると言われている会社のバランスシートを見ると、有形資産よりむしろ無形資産、例えばIT、ノウハウ、特許などの知的財産権、従業員のやる気などのような、目に見えないがこれが会社の資産であるというものの割合が増してきて、このようなものをたくさん持っている会社が良くなってきている。こうした新しい価値が、これからの経済の大きな牽引車になって行くのです。

そういう意味で、物を大量生産するという産業革命以来の経済のあり方が変わりつつある。このような経済の大変化に、どの企業や産業が適切に対応して行くのかが大切ですが、日本の経済運営はその辺りがうまくいっていない。中国はドンドン発展していますね。この中国の発展は日本を脅かすのではないかと言われています。しかし、中国の発展により日本にとって新しい市場が大きく拡大している。こう見てくると、今は産業革命以来の曲がり角であるとも言える。

歴史の曲がり角(5)、主権国家の変貌?

第5の曲がり角は、国家主権のあり方の大変化です。

1648年にヨーロッパで30年続いた戦争が終り、ウエストファリア条約を結んで、国際社会に新しい秩序を作りました。この時、国民国家というものが誕生した。現在の主権国家ですね。考えてみれば国家というものは、17世紀半ばくらいからやっと出現したものです。そして今、国家の役目がずい分小さくなり、国際社会の役目が大きくなってきた。また反対に、地方の役目が大きくなってきている。私たち一人一人が生きて行く上で頼りにするのは、国家だけではない。地方自治体や地域社会に、一番の生活の中心がある。その地域社会や地方自治体をどのようにして良くして行くかということを考えなければいけない。

そして国家も国際社会の中の主要なアクターですから、しっかり良いものにしていかなければならない。同時に、国際社会を動かして行く国際機関をどうするかも大切。国連をどうするかもある。ですから私たちは、1648年以来の歴史の曲がり角にいるかも知れない。

そういう大きな歴史の曲がり角にいて、政治というものは本当に重要で、政治の匙加減一つで、世界が「テロ」の時代になったり、地方自治体が首をつらなければならなくなったりする。政治とは大きな可能性を持った営みで、その可能性を大きく花を咲かせるかどうかは、政党の役割であると同時に、その政党を監視しながら政党を支えてゆく有権者、国民の皆さんの仕事でもあるわけです。

おわりに―― 夏の参院選

今年の夏に参議院選挙があり、私自身が候補者で選挙の洗礼を受けなければなりません。岡山県が選挙区ですが、一名区に変わってしまいました。父の時代から私の時代へと、親子で50年国会議員をやっていますが、今まで何をやってきたかというと、このような歴史の曲がり角にあって国民の皆さんの期待に応えて豊かな政治の可能性を発揮させる政治を作るためには、干からびたイデオロギーの政党ではなく、国民の気持ちをしっかり掴むことの出来る政党を作ろうということだったのです。民主党はまだ足りないところがあります。皆さんからお叱りを受けなければならない点もたくさんあると思います。しかし民主党も、何とか良い方向へ向かって頑張っています。

しかし一名区の選挙はきついです。国会議員は「金帰火来」といいますが、今日はまだ木曜日ですが、私は今日の最終新幹線で岡山へ戻り、地元で頑張ります。皆さんの中に、岡山県にお知り合いの方がおりましたら、江田五月を応援して下さるようお声を掛けて頂ければ幸いです。よろしくお願い致します。最後のお願いが一番言いたかった事です。本日はありがとうございました。


2004/04/01

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