2003年6月

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☆わが歩みと政局
市民が主役の日本を作ろう

本当に地域社会が元気で、市民が主役の日本をつくる努力を仲間と続けている。


 人の世の奇しき縁・父と菅さんは

 私の略歴を少し申し上げますと、裁判官を十年近くやっており、最後は横浜地裁におりました。私にとって一九七七年は転機の年でした。この年のちょうど今頃でしょうか、社会党の大会があり、その前の年に不覚にも落選をした私の父の行動に対して、大変な罵詈雑言が浴びせられた。「老いぼれひっこめ」という調子でした。当時成田知己さんが委員長でした。「こんなところにいてもどうしようもない。自分が言うことが正しいのか、成田執行部が言うことが正しいのか、これを国民の皆さんに直接聞いてみよう。」というわけで、三月に父は社会党を離党しました。しかし残念ながら当時、すでに病を得ていて、離党からわずか二ケ月足らずの五月二十二日に亡くなりました。その日はちょうど私の誕生日でした。

 その頃、私は裁判官で政治には関わらないと決心をしていました。それでも、最初の頃は、しばらく腰掛け的に見聞を広めようという気持ちもかなり強かったのですが、十年もやっていますと、だんだんここを生涯の仕事の場にしようと思うようになりました。

 ところが父が亡くなった。それも社会党を飛び出し、自分の政治経験…刑務所に叩き込まれたころからずっとやってきたこと、言ってきたことが通じるのか通じないのか、自分のすべての政治経歴を張って、賭けに出たわけですが、しかし肝心の答えが出る前に自分の命がなくなってしまった。これはそのまま放っておくわけにはいかない。多くの皆さんに、お前があとを引き継げと言われた私は、政治家の世襲というのは大嫌いで、そもそも理屈からいってもおかしいし、自分自身の性格からいってもそういうことはやりたくないと思っていました。しかし、父が新しい道を歩み始めていたということ、その父が私の誕生日に亡くなったということで、これにはちょっと参りました。それで、裁判官を辞めて、後を引き継ぐという決断をいたしました。

 そして、父が国民の皆さんに聞いて見るんだと立候補を決意したその参議院選挙に、今はない制度ですが、全国区に立候補し、全国一四〇万人近くの皆さんの投票をいただいて、当選しました。その当時からずっと石原さんとお付き合いしているわけで、かれこれ二十五年以上が経ってしまいました。いまだにどうも日本の政治はこのような状態で、石原さんたちの期待にそえず、不肖の弟子で申しわけなく思っています。

 私は父が残した小さな政党、社会市民連合という政党を引き継いだわけです。この政党は、父が衆議院を落選して立ち上げた政党ですから、他にだれも仲間がいません。社会党にいた仲間たちは、「お前たちはみな、党に残っておれ。自分がやることが新しい政治の道を開くことになるのか、それとも自分の墓碑銘を刻むことになるのかわからないから、軽挙妄動するな」ということで、後についてくるのをいさめてきたので、とりあえず国会議員ゼロの政党でスタートしました。そしてその後、その江田三郎が亡くなったわけですから、まったく国会議員がいませんでした。私が当選してはじめて国会議員が一人になった。その後に、大柴滋夫さん、阿部昭吾さんが、田英夫さん、秦豊さん、楢崎弥之助さん、が社会党を飛び出して一緒になり、国会議員が六名の社会民主連合になりました。

 父が亡くなる直前、その年のゴールデンウイークに東京の三多摩にある保谷市(現・西東京市)の小学校の体育館でシンポジウムを行いました。そこにパネリストとして出てきた本当に若いひとりの政治家志望の青年、これが菅直人さんでした。私の父と菅さんがそこではじめて出会いました。結構、面白い論争をしたようです。

 父がいろいろなことをいいますと、菅さんは「江田さん、そんなことを言うなら、それはもう社会主義じゃないじゃない」と言う。父は「君はそんなことをいうけれど、俺は何十年も社会主義といってきたんだ。今さら社会主義のお題目を掲げてきた人間に、これを捨てろというなよ。俺のあとは捨ててもいいから」とかね。父が討論会の後、菅さんの事務所を訪ねて、「俺ももうそんなに長くやっていけるわけじゃないから、君が後を引き受けてくれや。いっしょに新しい政党をつくろうよ」ということで、菅さんと握手をし、社会市民連合を菅直人さんと共同で始めたのでした。そんな関係がありまして、菅さんと私の父は一回会ったきりで、次は死んだあとということになったのです。ついでにいいますと、菅さんの御尊父、もう亡くなられましたが、菅さんにこう言ったそうです。「いやあ、びっくりしたね。世の中には偶然ということがあるね。江田三郎さんと俺とは小学校の同窓生なんだ」と。岡山県の建部町の福渡小学校で、私の父が先輩だそうです。そんなところから菅さんとの関係がはじまりました。

 社会市民連合は、後に社会民主連合になり田さんに代表をお願いしておりました。私が参議院から衆議院に移って、江田三郎が残した遺産でもあるけれど、ある意味ではお荷物かも知れません。そういう仕事は私がしなければいけないだろうと、社会民主連合の代表を引き受け、菅直人さんには政策委員長を引き受けてもらって、一緒にやってまいりました。

 九三年自民党過半割れ、細川内閣誕生

 一九九三年、政治は大きく変わりました。その前の一九八九年という年もなかなかのものでした。これは社会党の土井たか子さんと民社党の佐々木良作さん、公明党の矢野絢也さん、そして私の四人で、野党四党の共同の枠組みを作りました。それ以前は、野党四党というと、社会党が入らずに公明党、民社党と新自由クラブの河野洋平さんと私たちだったのですが、新自由クラブが自民党の方にいき、やはり野党が腕を組まなければという理解を得まして、社会党を加えた野党四党の枠組みができました。

 一方で労働界は連合が生まれ、土井さんが大変なブームになる。そこへさらに消費税というので、国民の大変な反感が生まれる。そんなことがありまして参議院選挙で野党が勝ちまして、参議院では土井たか子さんが総理大臣に指名された。その前後から日本の政治が激動の時代に入ってきました。

 そして九二年に細川さんが日本新党をつくる。大前さんが平成維新の会をやる。私たち社民連はそのままですが、社会党の若い皆さんとシリウスというグループを立ち上げました。自民党の中でもいろいろな動きが起きて、最終的には九三年になりますが、羽田孜さん、小沢一郎さんたちが自民党を飛び出して新生党をつくった。その前に経世会を出た羽田さんたちが別のグループをつくるなどということがあった。

 そして九三年総選挙です。宮沢さんが総理大臣、しかし選挙制度の改革、政治改革をやるといっていてやらない。さあ、どうするというので不信任案を出す。不信任案が可決され、宮沢さんは国会を解散する。私どもは国会の中で宮沢内閣を不信任しましたが、今度は国民の皆さんが宮沢内閣を不信任してほしいということで、総選挙をやったら、宮沢内閣の国民不信任…つまり宮沢さん率いる自民党が過半数を割るということになりました。

 さあ、どうする。しかし、大変残念なことに、宮沢さん率いる自民党は過半数を割りましたが、では過半数を得た政治勢力はあるかというと、なかった。社会党は、土井さんのもとで一四〇議席まで獲得していたのですが、九三年の総選挙ではもとに戻り、七十まで下がってしまった。それでも野党第一党は社会党。しかし半減した政党に政権をゆだねるというわけにはいきません。その他の政党はいずれもそれ以下です。細川さんの日本新党が躍進したといっても、全体からすればまだまだ少数で、政権を担う政党は生まれていないという状態が、九三年でした。

 私はずっと長く社民連でしたが、小さな政党が好きで小さくやっていたわけではありません。とりあえず小さなスタートは切るが、しかしいずれは自民党に替わって政権を担当できる政党をつくり、国民の皆さんにこれを選んでいただいて、政権交代をやるんだとの思いでやってまいりました。しかし、九二年、九三年頃に多少方針を変えました。それは、政権交代をにないうる政党をつくるというのは、実に大変です。しかし一方で、自民党政治のもとでずっと汚職事件が続き、ついにはリクルート事件まで起きた。それで自民党は、日本の政治を担当する資格を失ってしまった。ところが、新たに政権を担当できる政党が生まれないという真空の事態になってしまった。政界再編がどうしても追いつかない。追いつかないなら、できるまで待とうと、言えないわけです。

 そして九三年には、自民党がついに国民の皆さんの多数の支持を失うところまできたわけです。それならばまず、政権を担当しようと。担当できる政党がなくても、みんなでいっしょに腕を組んで担当しようと、方針を変えました。九三年七月の総選挙のあと、これはそれこそ、テレビの威力ですね。選挙の結果にも、テレビの威力がずいぶん功を奏したと、その後も問題になったりしましたが、選挙の結果が出た後も大変でした。この間、『テレビ 五十年』という番組に一瞬、目を凝らしたら私も出ていましたが、テレビで討論をやるんですね。その中で、野党の連立を否定するようなことを野党側で言う人がいると、その場でガンガン視聴者からその政党に電話がかかり、その人は翌日には言うことを変えざるを得なくなりました。

 自民党では、梶山静六さんが幹事長をやっていたときですが、もうむちゃくちゃ批判されるものですから、とうとう、翌日からはテレビに出てこなくなった。何日か連続してテレビ討論をやり、国民とやりとりをし、そしてその中で、共産党を除く野党すべてが一致して一つの政権をつくろうという気運が生まれて、細川内閣が生まれました。

 私たちは細川さんに、大変だけれど、一つ総理大臣をやってくれと、あとは我々が何でも手伝うと言った。社民連という小さな政党であるけれど、手伝い、努力し、社民連と細川さんの日本新党とは、細川さんが旗揚げをした直後からいろいろな連絡をとっていました。制度改革研究会などというのをつくって、自民党の中にも手をつっこんだりして、いろいろやっておりましたが、細川さんが決断をした。そして私に科学技術庁長官をやれということです。あまり嬉しい仕事ではないけれど、しかし細川さんに総理大臣をお願いするのに、嫌だとは言えないので引き受けました。

 さて当時から、また十年が過ぎました。失われた十年などといわれまして、ほんとうに細川内閣がスタートしたとき、我々が考えていたことが、わずかに一年足らずで挫折してしまいました。ほんとうに申し訳ないと思っています。

 私は自民党ではない政権が、もう少し長続きをすれば、自民党の利権構造が壊れ、政界再編がもっときっちりした形で起きて、今のこんな状態になっていなかったのではないかと考えます。江田三郎が社会党の中で挫折したことも、大変慙愧に耐えないことであったが、細川内閣が一年足らずで壊されてしまったことも、大変残念なことであったと思います。

 細川内閣の時に、政党をきちんとつくって、それを国民の皆さんに選んでいただいて、政権交代をやっていれば、もっと事態は変わっていたのですが、それができなかった。時は待たない。事態はどんどん進むというわけですから、ある意味でやむを得ず、八党が連立政権をつくったわけですが、やはり八つの政党がありますと、どこかに陽があたればどこかが僻むのです。政治家ともあろう人がなぜ…と思いますが、やはり次から次へとそういうことが起きてくる。そしてとうとう、翌九四年の四〜五月頃にはもう細川内閣の中はガタガタになってしまい、羽田内閣をつくったら、とうとう社会党は自民党の方へいってしまい、羽田内閣を倒し、何と自民党がまた政権に戻った。それも社会党の委員長を総理大臣に据えて。あの社会党が、自民党が政権に戻る露払いをするというわけですから、これには参りました。その社会党を追い出した張本人である小沢さんが悪いという説もありますが、誰が悪いといっても仕方がありません。そういうことでもう一度、自民党政権で十年が経ちました。

 民主党の混乱・鳩山と菅そして岡田

 私は、新進党に一時身を置きましたが、九六年、岡山で知事選挙をやりました。多くの皆さんが、「ぜひお前出ろ、県民のこれだけの声を聞かない政治家だったら、お前は政治家の資格がない」などと強く迫られまして、知事選挙に出たわけです。先日の山梨知事選挙もなかなかの激戦でしたが、私は相手が四四万二千票で、こちらが四三万六千票です。割合でいうと相手が四七・六%で、私が四七%。○・六%差ですから、今回の山梨よりももっと僅差でした。僅差でも負けは負けで、どうにもなりません。訴訟をやるわけにもいかないし、負けました。

 これは何だろうと考えました。県民の皆さんが「お前はもう政治家の資格がない」と判断されたのか、それとも、「地方でなく、国政で働け」ということなのか。それを問わなければいけない。全県選挙で負けたのだから、全県選挙で県民の声を聞かなければならんというので、最も早い国政選挙であった参議院選挙に出て、ここで参議院に復帰させていただきました。その参議院選挙に出る直前に、やっと、ほんとうにやっと念願かなって、政権を担いうる力量をもった政党ということで民主党がスタートした。

 問題が山ほどあるのは承知ですが、しかしやはり、これから政権交代で国民が政権を選ぶという、民主主義の普通のプロセスになるということで、私はまだ候補者の段階でしたが、民主党の結党に参加しました。

 民主党の参議院議員としていろいろなことをやってまいりましたが、この民主党がなかなか大変です。どうも国民の皆さんの期待に応えきれないということが、次々とありました。菅直人代表でスタートしましたが、率直にいって私と菅さんは当時、ちょっと距離がありました。というのは、九三年に細川内閣がスタートする前にシリウスをつくりましたが、シリウスというのは結構、人材が多く、昨日の選挙で広島の市長二期目に当選した秋葉忠利さんもシリウスのメンバーで、菅さんももちろんですが、仙谷由人さんとか、今の民主党の若手で当選回数を重ねている人たちは、シリウスのメンバーが多いのです。社民党の中にはもちろん全然残っていませんが。

 菅さんは、細川内閣になる直前ですが、シリウス新党をつくれといっていたのです。しかし、新党についてくるのは誰だとなると、私と菅さんしかいない。それでは社民連と同じじゃないのとあれこれやっていました。社民連という政党は本当に小さく、これだけの激動の中では役割を果たせません。しかし、新党をつくるといってもそう簡単ではない。菅さんは、社民連は役割は終わったと、“さきがけ” にいき、私は、きちんと終わりにしなければいけないから、翌九四年に、社民連を解散して日本新党と合併した。日本新党とさきがけとは、細川さんと武村さんが婚約した形で、また一緒にやれると思っていたら、結婚が離婚になり、その後、与野党関係になったりして、菅さんとは若干、距離があるという形になっておりました。

 そして、菅さんもご承知のようにいろいろなことがありましたが、しかし、鳩山さんでは、どうも民主党が政権を担当する勢力にならない。ということで、私自身は参議院議員ですから、菅直人さんを何とかして民主党のリーダーにして、政権交代を果たしながら、日本経済の危機を救う道を探ろうと努力して参りました。

 去年(〇二年) の九月に民主党の代表選挙がありました。これは、大変皮肉な結果になってしまいました。私どもは、国会議員の中では、菅さんは負けると思っていました。しかし、サポーター制度というのをとり入れました。国民の皆さんからサポーターを募って、一票を投票していただこうという制度です。菅さんは国民的な人気があるのだから、サポーターでは勝てるだろうと。国会議員では負けても、サポーターで勝って、菅代表を実現できる。自民党でも、党内で基盤のない小泉さんを、国民の人気はやはり小泉だということで、総裁にして、大変な勢いをつけたわけです。民主党が、そのくらいの国民の理解を期待できないはずはない。こう思っていたのですが、結果は、国会議員では勝ち、サポーターで負けました。これは皮肉でした。サポーターで負けた原因はどこにあるのか。これはよく考えなければならないことですが、結果として鳩山代表ということになりました。

 しかし、鳩山さんでは全然、人気が上がってこない。鳩山さんでいいのか。悪いのかという論争を去年の後半にいたしました。

 大変な経済状態です。また世界も大変な曲がり角にきている。本当に心配なときなのに、民主党は内向きの議論ばかりしてしまったわけです。本当に申し訳なかったと思っています。最後に鳩山さんが自由党と一緒になるという路線を唐突にお出しになった。これも実は内向き理論なのです。

 民主党はこんな状態をどうするんだと。ある意味で鳩山さんが、自分の大変な危機的状況を脱する奇手妙手として、自由党との合流案を出されたのです。私も、自由党との合流を頭から否定する気持ちはありませんが、ああいうやり方で出されては、ことが成就することはないとすぐに思いました。これでは鳩山さん、やはりお辞めになるほかないなと思っていましたら、結局、お辞めになった。

 さあ、どうすると。党の規約で代表が欠けたときには両院議員総会で選ぶということになっております。九月にはサポーターの皆さんにご支援いただいて代表選挙をやり、サポーターの皆さんからすると、自分たちは代表選挙に一票あるのだから、投票させろと言う。それもわからないわけではありませんが、規約に則り両院議員総会で選ぶことになりました。当然、菅さんは手を挙げました。私は、菅さんに収斂するかと思っていましたが、若手の皆さんからもあれやこれやあり、岡田克也さんを担ぐということになり、菅・岡田の二人が出ることになりました。

 そこで、私は菅さんと話をしました。これまで内向き議論で民主党は国民の皆さんの期待を裏切り続け、最後は公明党よりも支持が下がってしまった。これではどうにもならない。さらに内向きの国会議員の多数派工作を、目を吊り上げてやってみて、その結果、菅代表が登場しても、やはり民主党は内向きのことしかやらないということになってしまう。それでは、もうお先真っ暗になってしまう。

 ここは一八三名、その後少し抜けましたが、これだけの国会議員の皆さんが選ぶんだから、一人ひとりに対する説得工作とか、多数派工作は止めようと。その結果、負けたら負けたでもって銘すべしと考えなければしかたがないと。そして私たちは、多数派工作を止めました。岡田さんと菅さんとの話し合いで、菅さんは、自分が出るという前提をはずして、党をどうしたらいいのかを、虚心坦懐に話したいという議論もしていたのです。しかし、菅さんを支援するグループが、ここで頑張らなければいけないとなり、旗は降ろしませんでしたが、多数派工作はしなかった。岡田さんの方は、多くの国会議員が動いていましたので、私はこれは負けたと思いました。菅さんもその覚悟を決めて、総会に臨んでいました。投票の結果を選管委員長が、「岡田克也さん、七九票」と読み上げた。最初、引き算ができなくて、あ、負けたと。しかし、よく考えると一八〇何人かいるわけですから、七九票で負けるわけはないのですが、負けたと思い込んでいるものですから、引き算ができなかった。次に「菅直人さん、一〇四票」と、あ、勝ってると。ほんとうにびっくりました。

 その過程で、本当によかったことが二つあると思います。

 一つは、民主党は崖っぷち。これはもう国会議員は当然、全員わかっています。崖っぷちの党を見捨てて、自分はどこかへいくんだと、模索していた皆さんも何人かおられますけれど、大多数はそうではなく、この崖っぷちの民主党でさらに内向きの議論をしてはいけないと。ここは岡田か菅かではなく、どういう役割分担がいいのかということを考えるべきだとなった。そうすると、ここは当然、国民的な支持もある菅直人を代表に、岡田はまだ若いのだから幹事長にしてもっと精進させるのがいいのではないかと。こんな判断をした人が非常にたくさんいて、菅・岡田体制になった。ここへきて民主党がやっと、意見はいろいろ違っていても、心が一つになりました。心が一つにならない人は、当然、出ていくという道をたどります。ののしり合っても仕方がないので、これはどうぞと。もちろん、けじめはつけますが。

 熊谷さんたちの保守新党は、アゲインストであっても追い風とはとうていいえません。あそこへこれから先、さらに馳せ参ずるという人がいるとは思えません。また我々はこれからそういうことがないよう精一杯、新しい民主党に、菅代表体制に求心力をつけていくように全力をあげていきます。

 もう一つ、私がいうのはどうも口はばったいのですが、菅直人という人が一回り大きくなったという感じがします。いつもイラ菅で俺が、俺がというのではなく、百数十人の国会議員に自分の身をゆだねようという気になった。鳩山さんが辞任の挨拶を両院議員総会でされましたが、これを涙ぐんで聞いていた。たしかに意見の違いはあっても、やはりいっしょに旧民主党を立ち上げ、新民主党をつくってきた人ですから。菅さんご夫婦と鳩山さんご夫婦が食事をしたことがあるそうで、菅さんの奥さんが言ったそうです。彼女は口の悪い人でしてね。あの人も岡山県人で、岡山県人が皆、口が悪いということではないのですが (笑)。男二人をつかまえて「あんたたちは二人で一人前、私たちは二人で三人前」といったとか。鳩山夫人もなかなかの人ですが。まあ、二人で一人前といわれてきた一人が、つまづいたわけです。それは嬉しいはずがなく、涙ぐむのも当たり前のことです。

 私は菅グループの代表で、皆を集めて言いました。菅が代表になったからといって、我々グループに美味しいごちそうが飛び込んでくるなどとは思ってはいけない。そうではなく、ここは下支えに徹するんだ、それを忘れてはいけない。下支えに徹して、この民主党をしっかりさせていかなければと思っています。

 党首討論で国民に予算内容を明確に

 菅・岡田体制がスタートを切り、今年に入り、私は潮目が変わったと思います。小泉内閣、一年九ケ月で何かよくなったことがあるかというと、何もよくなっていない。経済は逆に、大変悪くなっている。株価だけだって、これは時価総額が一四〇兆円以上失われている。それに地価の下落を入れたらざっと二〇〇兆円くらい失われており、大変なデフレになってきています。

 こういう状態で、構造改革で痛みを分かち合うのだといっていますが、構造改革の何ができているのか。痛みを分かち合うというが、ほんとうに分かち合っているのか。痛い人ばかりがいつも痛んで、リストラ、倒産、自殺者が三万人以上というのが続いています。去る一月二十三日に小泉総理と菅民主党代表の衆議院予算委員会での直接対決がありました。そこでいろいろ追及されて、小泉さんが「公約違反というのは大したことないのだ」と、とんでもない失言をしたわけです。

 小泉さんにしてみれば、行財政改革で自分が一生懸命やっているのに…という思いがあったのかもしれませんが、しかし、やはり総理大臣が公約を守れなかったことを認めて、それを大したことないといったというのは、重大なことだと思います。これから先は、総理大臣が何か約束したときは、あんた、それは大したことだから守る約束なのか、大したことでないから守らない約束なのか、その仕訳を一々聞かないと、守る気があるかどうかわからないということでは、どうにもならない。

 だいたい、小泉さんという人は、自分の言葉の魅力で国民の期待を集めてきた。小泉さんのその言葉が実は、魅力がなく、まったくの空疎なもてあそびだということになったら、これはどうしようもない。小泉政治は、言葉だけの政治、ワンフレーズポリテイクス…長い話はできないということになったら、どうにもなりません。しかも、公約違反。あそこでいったのは三つのことなのですが、小泉さんは行財政改革こそが自分の公約なのだといっていました。その行財政改革自体が、最大の公約違反になっているわけです。国民が大きなクエスションマークをつけている。

 そして先日の施政方針演説。これがまた、まさにお題目の羅列で、マスコミがどういう評価をするかなと注目しました。まさに各紙が軒並み、言葉の羅列で中身がない、言葉が伝わってこないと論評しました。

 今、民主党の方針は、とにかく小泉さんが国会に出てきたときは、そこに必ず菅直人をぶつける。菅と小泉さんの直接対決で論議していく。野田国会対策委員長の言葉でいえば、大将が大将を追い回すのだと、そういう国会戦術でやっていきます。その全部が全部、うまく得点を重ねていけるかわかりません。ときには失点も出てくるかもしれません。やはり政治は、国民の投票で政治家を選ぶものです。そこで、選択肢が複数あって、政権交代で政治を動かすということになれば、やはり言葉で勝負をしなければなりません。その言葉の勝負で国民の皆さんにはっきりと、小泉的な選択肢の他に、もう一つ、民主党を軸にした政権の選択肢があるんだということを示していきたいと思っています。

 私は、去年の臨時国会から参議員の国家基本政策委員長という役目をいただいています。私は科技庁長官という大臣はやったことがあるけれど、政務次官はやったことがない。今は、副大臣と呼ぶのですが。委員長も、国会議員のバッジを二十三年以上つけていますが、今回、はじめてなのです。国家基本政策委員長といっても、何だかわからないでしょう。この国のことは全部、私の委員会が担当するみたいですが、看板に偽りありで、党首討論の委員長です。党首討論は衆議院と参議院とで交互に行い、衆議院の瓦委員長と参議院の私で交互に行司役をつとめるわけです。

 去年は臨時国会が二回しかなく、一回は私が主宰したのですが、小泉さんと鳩山さんの党首討論で、こう言えばいいのに…と委員長がそう思うのですから、多くの皆さんもそう思われたでしょう。しかし今年からは、小泉・菅の党首討論になりますから、早速、皆さんといろいろと相談しまして、時間を延ばそう、回数を増やそうと協議をしているところです。面白い党首討論にしたい。その中で、民主党はこうするんだということを、はっきりと示していきたいと思っております。

 民主党ならどうするのか。今、こういう時代で誰がやってもなかなか難しいことは間違いありません。従って、私たちがいうことも、皆さんにいろいろお教え願いたいと思います。今一番、考えていることは、これまで戦後五十何年か、予算の規模の話はいろいろしました。拡大予算がいいのか、緊縮予算がいいのか等の話はいろいろしましたが、その予算の中身になると、予算の配分の比率は、国土交通省はこれだけ、農水省はこれだけ、あるいは厚生労働省、文部科学省はこれこれという具合に、割合はずっと変わっていません。下からの積み上げで、微動だにしないとは言いませんが、ほとんど変わっておりません。そこで、規模の問題よりも内容の問題、つまり予算の中身の問題を、最重要視していきたいと思っています。

 何といっても一番いけないのは、予算が政治家の懐を肥やすために使われることです。これは当然なのですが、それでも次から次へと起きてくるわけです。一番政治家の懐を肥やすのが、役に立たない大型の公共事業だと思います。相も変わらず行われています。

 菅さんがよく出す例で、私は当たっていると思いますが、諌早湾の干拓です。何のために干拓するのかというと、農地をつくるためという。全国の農家には米を作るなと言いながら、なぜ二五〇〇億円もかけて今、農地を造るんだと尋ねると、小泉さんはすぐに論理をすり替えて、民主党の長崎県連の皆さんも賛成しているではないかと居直る。そこはたしかに我々の弱いところです。けれども、それでは小泉さんの答えにはなっていないわけです。なぜ造るかというと、私は端的に示しているのは、今度の自民党の長崎県連の逮捕事件だと思います。

 知事選挙のために幹事長が、たぶん幹事長だけではなく、長崎県連という組織ぐるみだと思いますが、公共事業受注業者から、寄付金を集めた。それも受注の実績に応じてお金を割り当てしたというのですから、とんでもない話です。つまり、そういうところにお金をもっていくために、あの事業をやるという構造になっていると言っても、私は必ずしも言い過ぎではないと思います。

 いろいろ理屈はつけても、多かれ少なかれ似たような大型の公共事業が、次から次へとあるのではないですか。日本の場合、大型の公共事業のシェアが諸外国に比べて格段に多いわけです。日本はGDPの七〜八%といいますから、諸外国ではだいたい三%程度となると、四〜五%がおかしいのではないか。これでバサッと計算しますと、二十兆円くらいおかしいということになる。ちょっと乱暴な計算ですが、そういう計算でなく、各省各局各課の予算の中で無駄なものを積み上げても、似たようなことになると思います。少なく見積もっても十兆円は無駄。これを削り、公共事業を半減する。今、予算の総額は、八一兆七一八一億ですが、政府案と同じにして、八・八兆円の無駄を削り、その分を別の使途に当てるという、民主党としての予算案をつくりつつあります。

 たとえば、地方に出していく補助金は、十五兆円分を一括交付金にし、地方の自主的な判断で使えるようにする。たとえば長野県の田中知事は、ダムはいらないといった。対立候補は、ダムはいるといったかというと、違うのです。対立候補もダムはいらないといったのです。違いはどこにあるかというと、対立候補は、ダムのための予算は別の使い道を考えましょうといった。田中知事は、ダムはいらないのだから、予算は返そうといったのです。私は、長野県民の皆さんがどこまで考えて判断したのか知りませんが、大変な判断をされたと思います。

 今、日本の財政を苦しめる原因がいくつもあるのですが、そのうちの一つに地方への補助金というのがたしかにあるのです。知事さんも市町村長さんも地方議員さんも、国会議員も同じですが、どれだけ国からお金をとってくるかで評価が決まるという仕組みで、とにかくお金をとってくるわけです。それが田中知事は、ダムはいらない。その金も返そうというのです。長野県民の皆さんが、そこまで考えて、そういう財政判断が正しいと選択をされたのでしたら、大変な選択になるわけです。私どもは、そこまでの選択も大切だけれども、簡単ではなかろう。そこで、ダムのお金ということで出して、ダムができないんだったら、国に返さなくてはいけないということではなくて、たとえば、公共工事の経費として一括して交付金を出す。それをダムに使うのか、道路に使うのか、はたまた別の観光資源づくりやまちづくりに使うのか…そこはそれぞれの地域におまかせしますと。そういうお金の使い方。いずれは補助金ではなく、税財源も地方に移した方がいいと思いますが、そういうことをしたいと考えております。あるいは、特殊法人とかその他へのお金の削減も考えております。削減したものを、たとえば社会福祉分野への投資とか、雇用への投資、あるいは教育や中小企業、街づくりや、環境、そういうところへ持っていきたいと思っています。

 予算の使い道で、とにかく利権に使われる予算があってはならないことは当然なのですが、考えなくてはならないことがもう一つあります。戦後五十数年で、私たちは大量生産・大量消費・大量廃棄で豊かさを求めてやってきました。しかしよくよく考えてみて、今、デフレでものが売れないという。たとえば減税もいいけれど、ものを買えるだけの余力が生まれたからといって、それでものを買うだろうか。ほんとうに今、国民の皆さんは「もの」をほしいと思っているのか。ここが大問題だと思います。

 これ以上、ほんとうにもう一台冷蔵庫がいるの? 自動車がいるの? 家電や自動車の経営者の方には申しわけないですが、ものの豊かさではなく、何かもっと違うことがあるのではないか。そんなものがほしいと実は思っていない。今の生活に皆さん、満足しているわけではない。何が足りないのか。生活の充足感といいますか、心の満足度といいますか、本当に充実して生きていると実感をもてる毎日が送れていない。今日はこれをやった! という実感のある生活時間が送れていない。

 今のデフレのときに、国がお金を締めるべきではない。橋本さんのときの大失敗でわかっていますから、国がお金を出すことは必要で、財政主導は必要ですが、その方向は、ものを増やすのではなく、介護や健康や、教育や街づくりや、文化や国際貢献や、自然環境や、あるいは住宅というのも豊かな生活をつくる一つであるかもしれません。そういうところにきちんと財政主導する。それによって豊かな生活時間をつくっていく。これが今、一番、大切なのではないか。そして、豊かな生活時間の前提として、不安がなくなるということが当然、大切なわけです。そうしたことで、民主党としての予算案を考えようと、一生懸命努力をしているところです。

 市民が主役の社会づくりを

 大きな政府か小さな政府かと、盛んにいわれます。私たち野党は、社会党の伝統とかイメージを引きずっているのか、野党の方は大きな政府だとしょっちゅういわれますが、そうではありません。私どもは小さな政府だと思っています。小さな政府だけれど、それでは国民に対する生活支援のサービスは小さくていいのか。そうではないでしょう。そこを成り立たせる…両立させる道はあるのか。これはいろいろなことがあると思います。市民が主役の分野は市民で、地方がやるべきことは地方が、市場がやるべきことは市場がやる。

 市民がやるべきことといますと、介護はどうでしょう。役所は、どうも裃を着て、規則がいっぱいあって、かゆいところに手が届く介護にならない。民間・NPOがもっとやれるようにしたらどうか。民間・NPOでもっときめ細かく、その地域地域で介護の仕事をする。そこにいったい、どうやって金を下ろすのか。国が金を集めて、補助金という形でNPOに金を下ろすというやり方も、もう見直したらどうなのか。国は、金も出すけれど口も出すという形でやっていたら、きめ細かい自主的なサービスはできません。そこでNPO税制も大幅に変える。つまり、NPOに対して皆さんが直接寄付をしていただく。国を通じる大きなループではなく、小さなループをきめ細かく開き、皆さんの財布から皆さんの隣のNPOにお金がいくようにする。これは税金を出したのと同じで、税はその分減額する。税額控除にするのか所得控除にするのかという技術的な問題はありますが、そういう仕組みをもっとつくることも考えています。

 今、NPO団体はざっと一万くらいありますが、NPO税制はなかなかできず、やっと陽の目を見たら、そのうち、NPO税制の認定を受けた団体は十一しかない。こんなものでいったいどうなるのかということで、内閣はやっと次の税制改正で、NPO支援税制を改革することを閣議決定しました。それでも新たに適用を受ける団体は、ざっと試算してみると、全NPO団体の二〜五%くらいしかないというのです。それではやはり絵に描いた餅で、私どもはそういうことも大きく変えていきたいし、その他、いろいろ知恵を絞りながら、新しい日本の姿をつくっていきたいと考えています。

 繰り返しますが、私たちも、国が全部何でもやる時代はもう終わった。国はなるべく身軽にして、ほんとうに地域社会が元気な日本をつくっていく必要がある。そういうわけで市民が主役の日本をつくっていこうと思っています。

 〈 質 問 〉

佐藤
 名古屋の東海テレビの佐藤と申します。今、私どもの関心といけますか、どうしたら今のデフレを克服できるかというのが、一番の関心事だと思います。

 江田先生は、予算の組み替えについて検討しているとおっしゃったわけですが、民主党として一番わかりやすいこうすれば、デフレは克服できるというものを一言で…というのも難しいでしょうが、それがないと何のために政権につくのかということになる。やはりこうすれば国民の幸福につながるということになるわけですから、それをおっしゃっていただかないと伝わってきません。

江田 その辺がなかなか伝わりにくい。内容がはっきりしていないからかもしれません。たとえばインフレターゲットというのはダメだと思います。元を正さずに、出てきた現象ばかりあれこれやってもダメなので、紙幣をどんどん発行するという説も、うまくいく気がしない。そこで、先ほどの話、私は三つのことを申し上げたつもりなのです。国がやること以外のことを申し上げても仕方がないわけで、国がやることは予算の使い途です。

 少なくとも政治と金の黒い結びつきを絶つ。役にも立たないことに予算をじゃぶじゃぶ使われて、それで経済がよくなるはずがありません。そうして十兆円の無駄を省く。

 その分で何をやるか。一つは不安の解消。もう一つはモノではなく、生活実感をもてるところに予算を使う。それが文化だ、教育だ健康だ、介護だ、あるいは年金だと。つまり、今、どういうモノを提供したって、国民の皆さんが買いたいモノがないのです。そうすると、本当に国民の皆さんが買いたいサービスを提供しなければならない。そうしないと、経済はうまく回転していかない。

佐藤 反論するようですが、国の財政ではそうかもしれませんが、たとえば、我々の企業もしかり、どこのご家庭でもこういうご時世だから節約節約という形で、金を使わない。これも不況の大きな原因になっています。

江田 国としてはお金を使うようにする。買いたいサービスを提供すること。そこにあるミスマッチはなくします。そして企業の皆さんには、とにかく努力して黒字にしてほしいということだと思います。黒字にしなければ、税金を払ってもらえないわけですから。

 岡山県や石川県でやっていると思いますが、中小企業に対する経営支援政策に注目しています。こまかく税理士やいろいろな皆さんを動員し、個別の企業の経営診断をして、方針を出す手助けをしている。その輪を全国に広げていく。企業の皆さんにはとにかく頑張ってほしいし、何はともあれ、貸しはがしなどという今の金融のやり方ではだめです。地域金融のため 「金融アセスメント法案」も提出しています。

「自由」 平成十五年七月号掲載

(2003年2月3日「情報化社会を考える会」での講演に加筆)


2003/06

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