東チモール独立のために 2000/10

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 二十世紀の特徴の一つは、国家のあり方の大変化だと思う。十九世紀以来、先進国家群は帝国主義列強となって世界を分割。他方で社会主義国家群が登場、拡大し、これも世界分割に加わった。

 第二次大戦が終わった後、世界は東西両国家群に分かれた。しかし、社会主義の挑戦とは別に、帝国主義は植民地の独立の波に洗われ、第三世界が登場。今、社会主義も役割を終え、植民地独立もほぼ決着。国家が質も量も小型になった。「地球市民」が自己決定を、自治体、国家、国際組織と仕組みを区分けして、上手に行っていく時代に入りつつある。国家主権が万能の時代は、確かに終わった。

 そうした時代にこれから、植民地から独立して新しい国をつくるという困難な過程を辿ろうとしている地域がある。東チモールだ。首都はディリ。

 一九九九年八月二九日、私は同僚国会議員議員五名とスタッフの計十四名で、緊張のディリ、コロモ空港に降り立った。東チモールで国連が住民投票を行う。インドネシア領内の自治か独立を、住民の自己決定に委ねる。その監視に行ったのだ。

 戦後インドネシアがオランダから独立した後も、ポルトガルの植民地だった東チモールは別の歩みを続けた。一九七五年十一月やっと独立を宣言。ところがその僅か数日後、インドネシアは陸、海、空から軍隊で攻め、ここを占領して自分たちの領土としてしまった。第三世界の雄、民族自決の旗頭だった国が。

 以来二十三年余、闘いが続いた。戦前日本が朝鮮半島でやったよりもっと強引に、インドネシア化が行われた。弾圧に耐えかねた住民が山の中に逃げる。作付けや収穫ができない。当時の人口六十万人の内、二十万人が、戦闘や飢餓、疾病て死亡したと言われる。

 私は一九八六年、国連のヒアリングに出席して意見陳述し、その後も国会の中で議員連盟を作って、住民の自由な意志決定を応援してきた。展望は何も見えなかった。今世紀前半にアジアでおぴただしい血を流させた日本が、後半は世界史のために祝福される役割を果たしたと、歴史の教科書に記述させたい。そんな思いで粘った。

 歴史は突然動く。三十日の住民投票は、まさに感動的。文字どおり命をかけて、住民が投票した。投票率は九八・六パーセント。

 早朝六時半、投票開始時には、正装した住民で投票所はどこも大混雑。子ども連れも多い。将来の国民の記憶に刻みつけておくのだ

 介助者に支えられて、息もたえだえ投票した老女がいた。両手の親指をしっかり突き立て、「私はやったよ」と胸を張った。未来のために役割を果たした満足感。民主主義の原点を教えられた思いがした。

 独立支持が七八・五パーセント。ところが開票直後から舞台は暗転。虐殺、放火、強奪、破壊。マスコミか追い払われた後は、もう地獄絵。ディりは死の町と化した。政治が狂ったときのつけは大きい。

 十一月初旬に再度、破壊しつくされた東チモールに行き、往復七時間かけて地方に出向き、指導者シャナナ・グスマンに会った。今こそ日本が、真に求められていることをしなければならない。そのためには、まず聞くこと。人口八十万人、資源のない小国でも、住民が確固たる決意を持てば、そして国際社会に祝福されれば、自分たちの国を作ることができる時代を作るために。

(文春文庫「私たちが生きた20世紀・下」2000/10/06発行掲載) 


東チモール独立のために

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