2006年3月6日 ホーム総目次3月目次日誌に戻る

森本徹磨さんのご逝去の報に接し   江田 洋一

3月5日19時に徹磨さんの訃報に接した。私の政治における出会いの中で、最もインパクトのある方だった。心より冥福を祈りたい。

初めてお会いしたのは1983年の江田五月の最初の衆議院選挙だった。そのころから今のような容貌で、当時全電通岡山県支部の書記長だったが、とても近寄りがたい存在で雲の上の人だった。

1988年秋に私は江田五月の秘書になったが、本格的に徹磨さんと関わるようになったのは、1996年秋に江田五月が岡山県知事選挙に惜敗し、浪人した頃からだ。私も東京の家族と離れ、岡山の実家に単身赴任という形となった。徹磨さんは毎夜夕食時に所謂「徹磨サロン」を開催し、折に触れキーマンとの懇談の場に私を同席させてくれた。「すじとか、かわとか言うばっかりの人間はだめじゃ。骨のある気合を見せんかい」というのがいつも私に最後に向ける言葉だった。まさに押したり引いたりしながら、目指すべき方向を実現する政治の現場を教えてくれたのだ。

1998年の江田五月国政復帰の参議院選挙は本当に大変だった。最初は四面楚歌の中、全県選挙で運動員が決定的に足りないのだ。事務局長の徹磨さんはありとあらゆる友人知人を集めてくれた。結果が出た時の徹磨さんの嬉しそうだった顔が忘れられない。岡山県議会議員選挙の出馬については本当に無理をお願いした。しかし、徹磨さんが県議会にいてくれるから、江田五月は国会で頑張れた。そして、2004年の減員となった参議院選挙。それまで岡山県では一度も民主党は小選挙区での勝利はない。その選挙を2月の寒い時期から選挙事務所で孤軍奮闘。見事自民党候補を破り堂々の勝利だった。まさに徹磨さんの真骨頂だった。その影響は昨年の津村・柚木の衆議院での小選挙区勝利にも結びついた。徹磨さんは江田五月事務所とともに民主党岡山県の大恩人だ。

1月29日に妻とお見舞いに行ったのがお会いした最後となった。「昨日のパーティーはようけい来たか」「ようけい来ました。みんな頑張っとります。しっかり養生してください」「わかった。また今度ゆっくり、その時じゃ」

徹磨さんにもう教えを乞う事はできない。


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