第九章 父江田三郎と私 目次前へ次「誕生日、父の死」

   結婚十周年の日、父の離党

 父と私とは、同じ舞台で政治活動をしたことは全くない。私が政治活動をしたのは学生運動の世界であり、党中央で活動する父とは全くかけ離れた場所での行動であった。私が復学した三十八年秋の総選挙で、父の選挙区で運動を手伝ったのが、父子が同じ場で活動した唯一の場面であったかも知れない。しかしその後私は意識的に政治と縁を切り、父とは別の道を歩くことになった。岡山の幼少年時代は、父はほとんど東京の生活であり、父に接することはほとんどなかった。大学入学後、東京で共に暮らしたといっても、双方が独自に行動するのだから、何日も顔を合わせないこともあった。普通の父子に比べれば、物理的な接触は極めて少なかっただろう。

 父はまた私の行動にほとんど口出ししなかった。小さな子供の時から、何かを父に指図された記憶は全くない。もちろん学生時代以後も含めてである。

 しかし何故か政治的な考え方では、私は父とほぼ同一の軌跡をたどっていた。学生運動に参加し、各派の理論的な違いが理解できるようになった頃、私は構造改革の理論が正しいと考えはじめていた。人間の喜びや悲しみを離れた観念論的な社会主義に対しては、厳しい批判の姿勢をとっていた。

 社会党ではいったん構造改革路線が承認されながら、さまざまの反発の声でつぶされ、父は書記長時代に非難決議までされた。その後は社会党内で、人間の個性と自発性を無視し、あらゆる事柄が経済的諸事象で決められてしまうというような論議が横行し、強まっていった。そういう社会党に私自身しだいに愛想をつかしていった。父も愛想をつかしながら、結党以来の党員であり、党の要職に就いた代議士であり、その責任ある立場から軽率には行動できない。そういう父の立場も私にはよく理解できた。

 自民党という古い体質の政治集団に別れを告げた新自由クラブの結成を目のあたりにして、私は「日本の政治も変わろうとしているのかな」と思った。裁判官という立場があるから、そうあからさまには歓迎するといえない。新自由クラブ自身が依然保守だと観念的なことをいうから、双手をあげて支持もできない。しかし政治の構造や体質そのものを変えようとする集団が登場したことは画期的だ。革新の側でもこういう集団は必要だと思った。

 五十一年十二月五日の総選挙の投票日、私はいつものとおり即日開票のテレビ放送を見ていた。岡山二区では父の票の伸びが思わしくない。ほぼ絶望的という段階で、父に電話した。父は「まあこんなもんだ」というだけだった。

 落選の原因はいろいろあろう。不覚とも油断ともいえよう。しかしそれだけではない。父は何時も「こういう社会党にしなければならない」と、党改革の必要性を訴えていた。それが一方では父の魅力であり、人気につながっていた。しかし「そんなこといっても、いつまで経っても江田さんの言う通りにならないではないか」といわれれは、グウの音も出ない。つまり社会党内にいて社会党の現状批判をすることは、二律背反的な立場だといえる。このマイナス面が、総選挙で出たとも分析できる。父の落選は社会党内にいる父の同志たちの未来をも暗示しているのではないかと、私なりに考えたものだ。

 ともかく落選により父は身軽になった。自分の意思で行動できる立場になった。以前から「社会党を出なければダメだ」との声があったが、父はこれを機会にふん切りをつけるのかなと思ったりもした。

 その後、父に会ったのは正月である。三ガ日は倉敷の家で自家製のおでんを大量に作って客をもてなすのが、十数年来の習慣になっている。拓也夫婦も集まって倉敷で賑かな正月を過ごし、帰京する新幹線は父と私の家族が同道した。以前ならば、父は国会議員のパスを持っているのでグリーン車、私たちは普通車で、同じ列車でも別れて乗ることになるが、この時は、父は落選中であり、みんなで普通車の座席に座った。この車中、私の子供三人が騒ぎまわり、父にもまつわりつく。それまでの父なら、こんな時は露骨に「うるさいなあ」という表情をしたものだ。孫なんかに手を出したこともなかった。それがうるさい孫をニコニコ眺めながら、時々あやしたりするのである。父も年を取ったのかなと思ったりした。

 この頃から父は「俺も若くはない。そろそろ何かやらなければ」と言い出した。それまで「若くない」などといったことはない。年齢は六十九歳で、区切りでもない。今思えば、何か体の変調を感じていたのではないか。

 二月の社会党大会では協会派にいじめられ続けながらも孤軍奮闘し、ヤジの中で自説を主張していた。この頃会った時には「ヤジられるのを楽しんどるよ」といっていた。二月末に友人たちとやっている学習会の講師に父を呼んだ。父は「社会党にはもう飽き飽きした」「私も老い先短かい。ぜひともやらなければならないことがある」「重大決意をしている。見てて下さい」などといっていた。

 三月二十六日、父は離党届を出し、同時に七月の参院選に立候補の決意を表明し、社会市民連合の結成を提唱した。私たちはこの日結婚十周年記念日だった。この祝いというわけではないが、同じ宿舎の若い裁判官が何人か転勤になったので、先輩裁判官の家で送別の宴を開いていた。雑誌記者の問いに対して「オヤジおめでとうと言いたい。やっとこれで自由に行動できるネ」と語った。

 私自身もほっとしたのである。これまで「政治の世界に戻れ」とか「政治に転進しろ」との誘いはいろんな人から受けた。法曹界を初め周囲からも「江田は最終的には政治の世界に移るのではないか」との期待、疑念、疑惑を持たれ、私自身そのことを負担に感じることが多かった。「もうこれで政治の世界に戻ることはない」と思った。

 今回の行動により、父自身が自らの墓碑を刻むことになるのなら、つまり社会党結党以来積み上げてきた父の影響力を自分自身で食いつぷすならば、私が引き継いで何かやることはなくなるのだ。逆にもしこの父の行動が政治の世界を刺激し、怒濤のように大きな流れが起こるなら、その場合も私は必要ではないのだ。

 ただ前年暮からの一連の父の言動などから、この日始まる行動が一区切り着くまでの間に、何か突拍子もないことが起こったら困るな、との心配が心の中をよぎったのも事実である。

 いずれにせよ、父の行動には心からの抑手を送った。参院選では、私自身は裁判官だから動けない。妻に「できる限りの応援はしなきゃいかん」と話したりしていた。

 その後、父は精力的に動き出した。「ジンマシンで八キロやせた」と聞いたのは四月中旬だったろうか。そんなことはありえない。内臓でも悪いんじゃないかと思った。父にはきちんと人間ドックに入るか、医者に看てもらうかしなきゃダメだといった。父は「人間ドックは体をいじくり回すような所で、ロクなことはない」と拒む。「それなら休養しなさい」というと「休養は取るよ」と不機嫌に言うだけだった。母が連絡を受けて上京、二十日頃からは母がつき切りだった。

 四月二十四日、父は菅直人君(現社市連代表)らのグループと保谷市で公開討論会をやった。私は、日曜だったのでひさしぶりに家族連れで白金のマンションヘ遊びに行き。父の帰りを待った。夕方には帰って来るといっていたのに、帰りは遅かった。途中で倒れているんじゃないかと心配した。九時ごろ帰った時は、くたびれているようだったが、機嫌は良かった。焼肉を食ベシーバスリーガルを開けたのだが、父のピッチは遅い。私も胃の調子が思わしくなく、あまり飲めない。「うまくいきよるんか」とたずねると、「ああ。うまいぐあいにいっとる」という返事だった。帰りがけに「とにかく、休養をとらにゃあいかんよ」とすすめたが、父は何も答えなかった。身体の異常は明白だった。

 連休中はずっと家にいて寝ていたらしいが、体はしゃんとして来ない。逆に黄だんが出て来る。母の目にも肝臓が悪いとわかるような状況だった。母が休むようにいうと、父は「政治状況がはげしく動く時は、このぐらいのことはかまっておれん」と言い張った。九日には医師が「肝臓がはれている。すぐに入院しなければダメだ」と命じたが、父は断った。すでに出来上がっている予定に従って名古屋へ出かけた。

 その頃は自分で靴下をはくこともできない。階段の上り下りはもちろん、新幹線でも他人に肩を貸してもらって乗り降りする。父にとっては相当の苦痛であっただろうが、それでも「大丈夫だ」といい張っていた。私は参院選後各地を回ったが、いろんな所で「お父さんが最後に来たときこんな様子でした」ということを聞いた。そのたびに父の最後の執念を感じた。五月十日、名古屋のパーティーでは立つこともできず、腰掛けたままで挨拶した。

 五月十一日、ついに慈恵医大病院に入院した。足を自力で動かせない状況だった。肝臓の検査では、原発性の肝臓ガンではないという結果が出た。医者は「肝硬変がかなり重い」といっていたが、幾分安心したようだった。ところが、その後の検査で、五月十八日にガンと診断され、十九日に私が「ガンだ」と告げられた。肺と肝臓にガンがあり、おそらく膵臓にもあるだろう。肝臓のガンはどこからか転移したもので、原発ガンがどこかはわからない。その他にも数ヵ所転移しているとみられる。「こういう状態でも六ヵ月ぐらい生きる人もありますよ」というのが、医師の話の結びだった。

 二十日にはすでに父の意識がもうろうとしていた。二十五日には父が最後に書いた「新しい政治をめざして」の出版記念会と社市連結成の全国準備会がある。その時までは、何とか生きていてもらいたいと思った。私は医師に、「どんなことをしても、二十五日までは生かしておいてほしい」と頼んだ。医師は「二十五日までにどうということはありません」と答えていた。私は、しかし何だか不安だった。


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