第五章 復学から卒業へ 目次前へ次「司法への興味募る」

   光の子学園

 この時期に忘れられないのは「光の子学園」に関与したことだ。復学してから、当時駒場の学生だった森田明君(現お茶の水女子大講師)と知り合った。森田君は駒場のキャンパスの近くに住み、父は当時東京家裁判事の宗一氏。母は小児科医の良子さんである。森田君の家は、学生のたまり場のようになっており、私も頻繁に出入りするようになった。

 森田家でよく話題になったのは、現在の子どもたちのことである。伸び伸びと遊べる場所もなく、自然に接することもない。学校の詰め込み式教育に追われて、本当の意味での人間は育って来ないのではないか。規格化された機械の歯車のような人間ばかりが大量に生産されてくるのではないかというのが、そこに集まってきた若い学生にほぼ共通の認識だった。

 そういう慨嘆をするだけでなく、子どもを集めて個性的な人格を持った人間を育てるように努力しようではないかという夢がふくらんでいった。それは他方では、私たちが 「人間」を知り「人間」を見直すことにつながるはずだ。幸い森田良子さんは小児科医で、近所の子どもたちを大勢知っている。とりあえず夏休みに、自然の中でキャンプをし、その中で子どもを鍛え、あわせて我々も鍛えられる作業をして行こうではないかということが決まった。

 昭和三十九年の夏からキャンプが始まった。場所は軽井沢や八ヶ岳の麓や野尻湖畔。駒場を中心とした学生のリーダー十数人と三歳以上小学校六年生までの子どもが、多いときは百人以上も参加する。私は第一回には何かの都合で行けず、二回目から修習生時代、裁判官の初期を含めて、数回参加した。

光の子学園のワークキャンプで(左端)

 子どもたちは都会の固い殻をかぶっている。単に山や湖に連れて行くだけでは、この殻をかぶったまま行動し、終わってしまう。殻を破るためには、相当思い切ったことをする必要があるというのが、私たちの考え方だった。例えば同年代の子どもに徹底的にケンカをさせる。もちろん口ゲンカではなく、殴り合いまでやらせる。山歩きでも、整った登山道を歩かせるのではない。ひっかき傷を作るまで「山の自然」の中に入らせる。

 最初のうちはつくづく今の都会の子どものダメさかげんがわかる。ケンカなんかしようとしないし、山にも入らない。こまっしゃくれた子どもは「おじさんたち東大生だろう。東大生がケンカしろなんていってもいいのか」なんて反発して来る。もちろんそういう子どもは私たちが制裁し、子どもたち同士でケンカさせるようにし向ける。

 こんなことをしつこくやっているうちに、それぞれの子どもが、殻の中に隠していた個性を見せるようになる。キャンプの運営も、子どもたちの中から自主的に芽生えてくる「社会」のルールに従って、子どもたちだけでやれるようになる。黒姫山ぐらいの山なら、小学校低学年の子どもにも登れるようになるのである。

 リーダーの側は、昼間は子どもと一緒に活動し、夜は一人一人の子どもについて活動ぶりを検討していく。明け方まで議論することもある。一週間たって東京に帰って来た時には、クタクタに疲れ果てていた。

 子どもたちを見ていると、本当に人間の持っている能力、可能性は無限に近いことを思い知らされる。そして一人一人の子どもが全く違う、多様な個性を持っているということも、いやというほど教えられる。「子どもは天使」などというが、これは全くのきれい事だ。むしろ「子どもは悪魔」といった方が近いだろう。人間の醜い面は、子どもの方がストレートに出している。しかしその醜さも含めて、なおも子どもは、ひいては人間は、信じていいということが、この活動を通してよくわかった。森田さん夫婦は敬けんなカトリック信者であり、私は宗教には縁なき衆生なのだが「人智を超えた所で、自然の摂理がはたらく」と本当に感じたものだ。今でも、人の智恵は浅く限りあるという信念は、変わらない。

 キャンプなどの催し以外にも、リーダーの勉強会、リーダーと親との勉強会があった。ルソーの「エミール」や、ヘッセの作品に接したのはこの活動を通してであった。それにしても親に対しては、学生の気楽な立場で、ずいぶん厳しい批判をしたものである。今三児の父として考えてみると、批判された親の立場が良くわかるようになった。この「光の子学園」には、今では私の長女の真理子と長男の洋も参加させてもらっている。

 「学園」のリーダーは、友人を誘うという形で集めてきた。キャンプの実費を参加する子供たちの親に出してもらう程度で、全く無報酬である。しかし、次々に大学を卒業し参加できなくなっても、新たなメンバーが補充されていく。キャンプ以外に春秋には一泊の遠足をやったり、都内のグラウンドを借りてサッカーをやったりと、活動の幅も広がった。地元の人たちの善意の支援も受けて野尻湖畔に山小屋も建て、社団法人「光の子学園」となった。今では、活動もしっかり定着したといえるだろう。

 子どもたちが腕を骨折する程度の事故は再三あった。これは親に了解してもらい、ほとんど問題にならない。最近、リーダーの一人が野尻湖で心臓マヒを起こし水死するという非常に悲しい事件があった。重大な試練であった。

 こういう活動は最近はかなり増えてきて、中には企業化しているものもあるというが、そういう傾向は問題だと思う。教育というものはあくまでも人格的な個人的なもので、企業化しないまでも大規模化するだけで意義を失ってしまう。

 「光の子学園」は、森田良子さんなしでは考えられない活動だった。キャンプで子供たちの病気、ケガを診療する女医であり、親たちが子どもを安心して託してくれるのも森田さんへの信頼があればこそであろう。森田さんを中心とした少人数の学生リーダーによるパーソナルな集団という、発足当初の性格は今もそのまま生きている。大規模に肥大せず、消えもせず、そのまま長く続いてほしいものだ。


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