1982/06 五月会だより No.12 ホーム主張目次たより目次前へ次へ

江田五月会だより  
活動報告(岡山)

活動報告(国会)
五月さんの生い立ち(1)
女性の会発足

無節操な鈴木内閣
減税・核廃絶へ向けてとり組みを

 昭和五十七年度予算が成立し、春の賃金闘争も終局を迎え、政治の焦点は、軍縮、行革、選挙制度といったところに移っています。ロッキード事件も、夏のはじめには政治家被告に対する判決を迎えます。

 最近の鈴木内閣の言動は、ただただあきれるばかりです。予算成立前は、五・二パーセント成長を約束し、昭和五十九年度財政再建と胸をはっていたのに、予算か成立して一夜明けると、きのうの言葉はどこへやら。成長率も三パーセント台といい、二兆円を超える税収の穴があくといって、大型補正予算を話題にしています。

 私は、一月末の代表質問で鈴木首相に対し、「めんつ」にこだわるなと注文しました。鈴木さんは、ずい分腹を立てた様子でしたが、予算成立前の鈴木内閣のいい分が、「めんつ」と「強弁」であったことが、今はっきりしてきました。

 「この予算が最善」といいはって予算を成立させ、一たん成立するとその翌日から、「この予算ではダメだ」といいだす、ずうずうしさ。改治家としての節操を疑わなければなりません。

 五・二パーセント成長は無理、税収も大穴というのは、予算成立前から常識だったのです。なのに鈴木内閣だけは、これを否定。

 真実を認めず、国民にも真実を知らさず、自分の地位の安泰だけを考える今の政治のやり方では、国民は政治を信用できません。政治不信がつのると、良い政治も夢のまた夢。困ったものです。

〔減税で景気回復を〕

 国民生活を見ると、収入は 増えても物価や税金も上がり、そのうえ収入の増える割合より税金が上がる割合の方が大きいのですから、生活は苦しくなる一方。やりくりにも、限りがあります。

 そのうえ、日本経済全体の力は強く、国内で売れない部分を外国で売ろうとしますから、日米、日欧間の貿易摩擦が、外交の問題にまで発展してしまいます。

 こうした八方ふさがりを解決するには、国民が物を買う力と意欲を持つようにしなければなりません。この方法が「賃上げ」と「減税」であり、これが景気回復への道なのです。

 予算審議の過程で、野党は、減税について自民党から言質をとっています。所得税、住民税の減税の必要性を自民党に認めさせ、あらゆる機会をとらえてこれを行うよう努めることになっています。野党が腕を組んだ成果です。

 こんな約束は何の役にも立たないとの批判もあります。しかし、政治はオール・オア・ナッシングではいけません。自民党圧勝の時代なのですから、不十分でも、この約束を土台にして、次の機会にさらにもう一押しという手順で、減税を実現していきます。

〔いまこそ軍縮を〕

 三月中ばに、イタリアのペルチー二大統領が来日、国会で演説しました。「今、世界中で一年間に千八百万人もの子供が飢え死にしている。一方で、年間五千億ドルもの軍事費。この愚をやめ、武器庫をカラにして、穀物倉庫を満たそう。」という趣旨のことを、私たちに語りかけました。ここに政治のカナメがあると思います。

 核兵器の発達により、人類を全滅させる能力を、人類は持ってしまいました。ネズミはネズミとりを発明したりしません。人間はネズミより馬鹿なのでしょうか。

 細かな議論はいろいろあり、明日から丸腰というわけにはいきませんが、人間社会のあり方の基本を忘れてはいけません。

 「人間社会に戦争はつきものだ」という人がいます。これまでは、そうでした。しかし、核兵器の開発によって、人類は、もう一つ賢くなるのか、それとも全滅かという瀬戸際に立たされたのです。確かに、人間社会に紛争はつきものだと思います。しかし、戦争によらないで紛争を解決する方法を、そろそろ私たちは見出さなければなりません。できるはずです。

 米ソがにらみ合って、今にも核ミサイルのボタンを押しかねない今日、核兵器をなくし、軍備の縮少に向かうことが、何よりも必要です。この大目的の前には、党派の利害など小さなことです。

 六月七日からの国連軍縮特別総合に、日本国民の一致した反核の声を届けましょう。

〔自民党に代って〕

 自民党政治は、腐敗しきっているし、現在の困難を解決できません。日本の政治を作りかえるには、どうしても、もう一つ政権を担当できる政治勢力を作らなければなりません。

 私は、これからも、政治の基本を忘れず、国民本位の政治を作るため、全力をあげます。今後のご指導をお願いいたします。


県民へとけこむ気さくな五月さん
ホームミーティングで活発な対話深める

 昨年の四月、東京から一家をあげて、故里岡山市に引っ越して来た江田五月さんは、以来、故里のみなさんと改めておつきあいをいただこうと、精力的に県下を歩き回っている。週三日は出来るだけ岡山に帰るように努め、会合に出席し、人に合い、結婚式に招かれと、盛り沢山のスケジュールをこなしているが、特筆すべきは衆議院岡山一区の県下一円において、街頭演説と、ホームミーティング(家庭懇談会)を組み合わせた活動方式をとっていることだ。

 これを今少し詳しく説明してみると、朝八時頃に宣伝カーで家を出て、学区または郡単位の地区を定め、一日がかりで要所要所で地区の皆さんに江田さん自身の政治に対する考え方を訴えて回っている。やがて日が落ちるころ、あらかじめ予約していた、その日の地区にお住まいの知人・友人・支持者のお宅の一軒をお借りして、一〇〜二〇人(会社の場合は四〇〜五〇人の場合もある)の方々に集まっていただき、そこで、ひざつき合せながら一〜二時間、番茶と駄菓子で話し合いをするという方式である。これは、車上からの一方的な話とも、講演会の様なものと違い、座談であるため、話す方も、聞く方も、上しもをぬいだ、気軽さから、話もはずみ、江田さんも、又一味ちがった話術で、人柄も理解してもらえ、好評をはくしている。

 江田さんの一般的な印象として、東大−裁判官というエリートコースからくるやや冷ややかさを感じさせるものがあるようだが、ひざつき合せて話してみると何んの、何んの、適当に柔らかい、面白い人物だ、という評が必らず返って来る。当人も気を良くして、ホームミーティングは今佳境に入っている。人数や場所には一切こだわらず、たまには番茶さえも抜きの会合もあるが、有難いことと気軽るに出むいている。

 読者の方で「そんなことなら、うちでも一度」と考えて下さる方は、ぜひ事務局にご連絡ください。


よそおい新たに地元編集!

 「江田五月合だより」の第12号がよそおいも新たに登場しました。「たより」はこれまで、東京事務所を中心に編集発行されておりましたが、江田五月さんの地元岡山での活動が活発化するのにともなって、機関誌の発行も地元でとの声が高まり、本12号から地元岡山発行となったわけです。スタッフもマスコミ関係者、社会教育家、広告宣伝の専門家、グラフィックデザイナーと色とりどりで、各々の職場の第一線で活躍中の方々が、ボランティアで江田五月さんのために集まり、衆知を集めた編集委員会を常設して下さいました。

 これから二ヶ月に一度、江田五月さんの活動を中心にして、様々な話題をとりあげて読者のみなさんに、面白く読んでいただける、一味ちがった五月会だよりの発行に努めると、スタッフ一同はりきっておられます。これまでのたよりにも増してご愛読下さるとともに、読者のみなさんのまわりのできごとや話題をおよせ下さり、紙面づくりにもふるってご参加下さい。(事務局)



 来年に予定されている衆参両院選挙、統一地方選を控え、岡山でも最近、衆院をはじめ岡山市長、県議、市議などの立候補をめぐる動きが活発になってきた。

 焦点はもちろん衆院岡山一区。江田五月さんが参院全国区から転身、同一区からの出馬を決意しているといわれており、社民連としては県下初の議席を獲得できるかどうか今後の運動にかかっているといえよう。

 現在一区の勢力分野は、自民三、社会一、公明一、これに元議員の社会、共産各一人の立候補が確実で、これに江田さんが加わってシ烈な争いが予想される。

 一方、岡山二区も自民三、社会一、民社一の現職に、公明の元議員、さらにこのほど立候補表明した保守候補(自民・鈴木派)が加わり、一区同様激しいレース。今の見込みでは恐らく両院選挙より先に、春には県議選や岡山市長・市議選など、統一地方選も行われる予定で、まさに83年は政治決戦の年。

 江田さんを一区から衆議院へ送り込むことの大切さは、皆さんよくご存知の通り。日頃の活動を通じ、支援の輪を広げたいものだ。(N)


五月さん 国会で奮戦
ほこ先鋭く政府を追及  ホテル火災の安全対策など

 江田五月議員は、地元活動や党活動のほか、国会の中でも精力的な活動をしています。最近の江田議員の国会での質問の要旨は、次のとおりです。

(建設委員会 ―― 法案)

 江田議員の属している建設委員会では、今年になってこれまでに五件の法案が審議されました。これがすべて「日切れ法案」ですから、新幹線なみのスピード審議です。

 五件とは、(1)特殊土壌法、(2)奄美群島振興法、(3)農地所有者利子補給法、(4)市街化区域宅地化促進法、(5)琵琶湖総合開発法。江田議員は、全法案に賛成でしたが、特に(3)〜(5)について質問しました。

 大都市農地の宅地並課税
 (3)は、農地所有者が賃貸住宅を建設する際、資金の利子を国が援助する制度。ところが、もう十年もやっているのに、実績が、いつの年も目標の三分の一程度しか上らないのです。「とり組む姿勢に真剣さがない」と批判。

 都市圏の市街化区域内にある農地が、荒れ放題でマジメな農業が行われていないのに、税金だけは農地扱いというので、都市住民の間に不公平感が強まっています。そこで、そのような農地にも「宅地なみ課税」をせよ、との声が強く、(4)は、そのような農地を宅地に転用する場合に、譲渡所得税、不動産取得税、固定資産税を軽くしたり、住金の貸付けの特例を設けたりして、都市部にある農地の宅地化を促そうというもの。首都圏、近畿圏など都市部の宅地政策について、政府の腰が定まっていないことをただしました。

 必要な水需給見直し
 (5)は、近畿圏に供給する水を確保するため、琵琶湖から毎秒四十トン取水できるようにし、かつ、そのことが琵琶湖に悪影響を及ぼさないように、治水、利水、水質保全、環境保全などについて、総合的に事業を行なうというもの。法津を作って十年たったのですが、まだ予定された事業の半分しかできておらず、しかも一方で、琵琶湖の汚染は進むばかり、しっかりしてもらわなければ困ります。

 高度成長から低成長へと時代が変わり、水需要も大きくさまがわりしました。各家庭でも水を大切にするようになり、産業では、水を繰返し使い「画収率」を高めてきたし、又都市部の人口の伸び方も、予想ほどではありませんでした。このような事情を踏まえ、「三全総」の見直しとともに、水需給の見直しもしなければなりません。この点も落ち度のないようにと、要望しました。

(建設委員会 ―― 予算)

 予算の審査は、建設行政の全分野に及びます。今回は、(1)水問題、特に長良川河口堰、(2)建築基準法、特にホテルニュージャパン火災、(3)建設工事の海外受注の三点をとりあげました。

 調和大切な水問題
 (1)は、琵琶湖法でも説明したとおり、今水需給の見通しが必要です。地域によって大変な差があり、岡山県ではまだ水の確保が十分ではありませんが、例えば中部圏では、四日市工業地帯が当初の予想のような規模にはなりませんから、水需要に大変化がおきました。それなのに、高度成長時代の計画をそのまま進めると、採算が合わず、「第二の国鉄」になりかねません。

 高度成長時代は、どんどん開発を進めて、日本中を鉄とコンクリートで埋めつくす勢いでした。しかし、これが行きづまって、今、いろんなところで従来のやり方を大きく転換することが必要になっています。特に建設行政は、安全とか自然との調和とかが大切になっています。水のことも、その一つです。

 責任ある安全体制を
 (2)も同じ観点から問題になります。ホテルブームでどんどん増築し、危険が一ぱいでは困ります。ホテルや病院など、利用者は自分で災害を防ぎようがないのですから、施設管理者が安全に全責任を持つてもらわなければなりません。

 ホテル・ニュージャパンは配管した穴を埋めていなかったため、火がどんどん広がったと推測されています。この点は建築基準法違反です。この違反をチェックするには、工事監理や中間検査を充実するほかありません。完了検査のあり方も、今のままでは尻抜け。ホテル、病院などについては、厳しい安全基準を古い建物にもさかのぼって適用する必要があります。こうした安全に関する具体的提案をしました。

 (3)は、海外受注をもっと増やすこと、そのための問題点、省庁間の連絡体制など、やや細かい話です。

(公害及び交通安全対策特別委員会 ―― 予算)

 環境庁予算が審査され、(1)フェニックス計画、(2)空きカンポイ捨てについて質問。

 (1)は、東京湾、大阪湾に合計二千ヘクタールもの巨大なゴミ捨て場を作る計画について、環境保護の面から監視を怠るな、と注文。

 (2)は、空きカンが全国に二億個も散乱している状況を改めるため、ゴミを資源として再利用するシステムを考える必要があることを説きました。現在、全国でアルミカンが二十億個作られ、そのための電力は、百万人が一年間に使用する電力に相当します。しかし、このカンをもう一度回収して原料に使えば、電力の九七パーセントが節約できるのです。

(これから)

 以上が、四月二日までの質問です。このあとも何回か質問に立ち、江田議員は国会終幕まで、国民、県民にかわって政府を追及します。


五月さんの生いたち (1) 幼年期 湯浅 文伍郎

 昭和五十六年、風光る五月、同盟系メーデーが西川河畔の講演で催されていた。その会場に青年議員としてさっそうと登場した五月さんの挨拶を聞いた事がある。(「五月は私の生まれ月で、この月初めにメーデーがあるので、私にとってこの月はついている……」といった。わかり易い柔らかい口調で大衆性のある話しぶりに盛んな拍手が湧き起こっていた。ちょうどそれは薫風初夏のそれのようなさわやかさであったように記憶している。

 そう、五月さんが生まれたのは昭和十六年大東亜戦争が始まる年の五月二十二日、旧上道郡財田村長岡で山上武雄氏の経営されていた山上産院と聞いている。

 乳呑み児の五月さんは出産直後の光子夫人に抱かれ、神戸で葬儀会社の支配人をされていた、お父さんの三郎氏のもとにゆき養育されることになるが、幼児期の彼は或る時は兵庫区永福寺境内に近いお堂(観音堂)を、わびしい借りのすまいとし、またある時は湊区上祗園から須磨区絹掛町の借家へと移り住んだあと京子さん(五月夫人)のお父上深谷克海さん(当時北京の日本大使館建設課)の招きにより、北京で農民運動の経験を生かして、建設総署弁事として農業用水建設工事などの指導をされていた、父三郎氏を追いかけるようにして北京効外永定路の官舎で中国での暮らしを余儀なくされる。

  ここでもまた石家荘など二・三ヶ所転居し土べいに囲まれた庭に草が生えて、中国独特の大型のバツタ(筆者も戦争中三年ばかり中国での生活体験あり“大陸のイナゴの風に我立てり”昭和一九年夏旧作の思い出がある)が跳んでいたこと、飼っていたニワトリをイタチに食べられた断片的な幼ないころの連想を五月さん自身も「出発のためのメモランダム」の中に書いておられる。

 終戦の時は満四才でこの年の十一月弟の柘也さんが生まれている。五月さんの弟思いと、そのめんどうみの良さは定評があり、戦後引揚げたあと番町に落着いた時など拓也さんをつれて近所の銭湯によくいかれたようである。

 若いころ幼稚園の先生をされていた光子夫人にお聞きした幼ないころの五月さんを物語るおもしろい話がある。幼児教育ご専門の母光子さんにお食事の際中には小用に立つようなハシタないことをしてはイケませんとたしなめられていた五月さんは、辛棒強い反面、親のいいつけをよく守る彼のことゆえ、到てい我慢しきれず食事中、その場で用を足していた」というほほえましい幼ないころのかれの面影がいまも顔のどこかに宿っているようで、そのたくまざる人間性に好感を寄せているのは私一人だけではなかろう。
(次号は少年期の予定)


女性の力で住みよい社会を
江田五月をささえる女性の会発足

 私達は、五月さんが岡山市山崎に家を作られてから、毎月第二土曜日(夜七時より)を、女性の集りの日と決めている。

 何か女性の力で少しでも住みよい環境を作りだそうという人達の願いから、この様な会ができたのです。

 三月十三日、早春にしては珍しく暖かい夜、何度目かの会をもちました。例によって多勢な顔ぶれにわいわいと雑談がはずむ。

 この日の話題は二つ。
 一、会の名称について
 二、秋山ちえ子さんを迎えての行事について
 いつものように楽しく話し合いをしながら、皆んなの知恵を出しあった末、次のことが決まった。会の名称は、「江田五月をささえる女性の会」とする。行事については、なにしろ秋山ちえ子さんは、女性評論家としてテレビ・ラジオで大活躍。又、福祉の面でもご活躍の方で、非常にお忙しい中をわざわざ来て下さるので、盛大な会にしようということになった。又、軍資金調達のために、この機会を利用してバザーを開こうということになった。

 バザーについては、一、紙粘土で作る装飾品。二、皮のローケツ染め。三、パッチワーク小物。四、まくらめ編の作品。五、サロンエプロン等、それにむかって頑張ろうということになった。

 会も一段落ついた頃、京子夫人お手製のケーキや、クレープのおやつをつまみながら雑談に花が咲き、夜も一段と深けた頃お開きとなった。(大亀八重子)

 女性の会では、みなさんの入会をお待ちしております。


五月さんにひと言

市民の政治を   書道家 河田一臼

 あなたは、出発の時から「市民の政治」を訴えてこられました。この視点をどんな場合も失ってはなりません。もう一言、あなた方は、政治的には新しい世代です。従来の保守・革新のわくにとらわれず、主張をつらぬいて下さい。私はそこに、新しい政治の曙を感じます。

庶民的ですてき   (岡山市山崎・黒田)

 江田さん一家が岡山に居を構へられ、早や一年が過ぎました。「国会議員」その名称を聞いただけでを聞いただけで近寄りがたき存在と思っている私達一般主婦にとって、江田さん一家はそのイメージを完全に変えてくれた一家でした。私も五十六年度子供会役員となり、一年間、江田さんには色々と御協力いただき有難く思っております。中でも、夏の盆踊り、カラオケ大会では浴衣姿で胸をはだけて歌われ、最後のあとかたずけまで汗を流して手伝って下さり、とても庶民的な方とつくづく感じ、楽しい思い出となりました。
 又先日はおいそがしい中、中学入学式に帰岡下さり、御祝いにかけつけて下さいましたが、保護者の間でも「さわやかなすてきな人」とのざわめきを耳にしました。この様な方が身近にいて下さる事は私達地元民にとってもとても心強く、又たのもしくもあります。これからも、私達の良き理解者として、御協力をお願いすると共に、今後の御活躍を期待しております。

良い子・悪い親・普通の子   (主婦Kさん)

 わが家に二人の息子がいます。成績だけ言えば、長男は「普通の子」次男は「良い子」です。
 「普通ということはすばらしいことなのに、親はそれでは満足しない。これは優越を勝ち取りたいという見栄にほかならない」と、ある元教師だった人が書いているのを読んで、私はいま自分を反省するために息子達を見直してみようと思います。
 「普通の子」の長男、勉強は嫌いですが絵や工作が好きで友達を大切にし、私のこともよく気遣ってくれるやさしい子です。
 「良い子」の次男、何でも自分本位で、友達との協調性にも欠け、散らかし放題の部屋に一人でいるのが好きな子。
 通信簿の左の欄だけ見て、「良い子」になってほしいと望む「悪い親」は、いまもう一度右の欄を見直して、子供達が本当に「良い人間」になるために、大きな広い目で見なければと思います。


にんげんをかえせ

 「にんげんをかえせ」というフィルムをご存知ですか。
 原爆の非惨さを、再現したものです。
 現在、地球上には人類を七回も八回も全滅させてしまう核兵器が備えられています。これを黙って見ているわけにはゆきません。
 そこで江田五月会では、「今こそ軍備と平和を」のスローガンのもとに、「にんげんをかえせ」の上映会を計画しています。同時に平和・軍縮に関する講演および討論会も開催できたらと考えています。
 みなさまのご家庭で、職場で、地域で、この運動にご協力して下さるようお願い申しあげます。また「にんげんをかえせ」は江田五月会に保管してありますので、フィルムだけ貸してほしいという方がいらっしやいましたら、お申し出下さい。
 この運動は、思想、信条をのり越えた人道的なものです。皆さまの積極的なご協力を心からおまちしています。


欽ちゃんの「家族対抗歌合戦」 見事優勝! 江田チーム

出てよかった   江田 真理子

 家族対抗歌合戦に出ると聞いた時、はじめはとてもいやでした。でも「どうせ出るなら優勝しよう。」と弟達と約束し、練習を始めました。

 いよいよろく画どりの日になりました。その日、テレビ局の中に入ってからはきんちょうのしどうしでした。指の先まで電流が通っているようにピリピリしていました。足もぶるぶるふるえ顔もひきつりそうな感じでした。でも、本番になると司会の欽ちゃんが面白いことを言ってきんちょうをほぐしてくれました。だから、思っていたよりもリラックスして歌えました。練習の時よりも軽く歌えたくらいです。かえって私達より、父の方がきんちょうしたようで伴そうよりはやくなっていました。でも、楽しく歌え、聞くのも楽しくてそれだけでじゅうぶん満足していました。

 優勝チームのランプがつく時、くす玉のちょうど下のチームは私達ではなかったのでがっかりしました。でもとなりにいた人が「絶対江田さんのチームの優勝だよ。」といってくれたので少しだけ期待していました。ランプが“江田五月チーム”についた時は本当にびっくりしました。でも、うれしくてうれしくて笑いがとまりませんでした。はじめはいやだったけれど、欽ちゃんのサインをもらえたし、楽しかったし、優勝までして本当に出てよかったと思います。


地元秘書に 玉川宗永さん

 玉川宗永(たまがわむねひさ)さんをご紹介いたします。愛称は(タマちゃん)です。岡山を第二の故郷としていますが、約三十年前に鳥取市で生まれました。
 江田五月氏の地元四人目の秘書として四月から活動しています。
 いつもおだやかで、やさしい好青年なのですが、いざという時の決断力は、ふるさと鳥取の日本海の姿を映しているのでしょうか。
 江田議員の活動する所では必ず彼の顔を見ることでしよう。


故江田三郎氏の命日を前に墓参

 五月十八日午後、江田五月さんは、故江田三郎さんの六回目の命日(五月二十二日)を前に、四日早い墓参りをした。五月晴れの空の下、岡山事務所を出て新緑の萌え出づる山なみを縫って53号線を北へとること約四〇分、御津郡建部町福原の妙福寺へ到着。江田三郎さんの墓は、建立の時と少しもたがわず向山に向って静かに立っていた。山の麓を切り開いて造られた墓地の空間には、五月の微風が緑のにおいをいっぱいに運んでは貯めこんでいるのか、あたりは空気まで、緑色に色づいている気配だ。

 やがて住職の読経が始まった。静かな緑の空気を分ける様に低い和尚の読経の声が流れる。誰かがつぶやいた。「もうあれから満五年か」

 江田三郎さんが社会党を飛びだして新しい政治を求めて運動を始めたばかりのところで病いに倒れてから満五年。ということは、長男五月さんが父の遺志をつぐために、裁判官から政治家へと、まさにコペルニクス的大転換をなしてから満五年ということでもある。墓前で合掌する五月さんの胸の裡には、どんなことが去来しただろうか。父三郎さんの為そうしたことが、とほうもなく大きく、困難なことであることに改めて思いを馳せたのだろうか。あるいは、彼の若さだから、父の遺した道のりは遠いが、必ず歩きとうしてみせるという、決心の報告であったろうか。或いは又、参議院から衆議院への転出という今はじまらんとしているもう一つの新しい出発への決意の報告とそれへの父の庇護を念じたのだろうか。

 思い思いに手にした墓参者たちの線香の煙りにかき消されて、五月さんの心の内は、定かには見えなかった。しかし父と子は此彼のへだたりを超えて、五月さんが父の遺した道へ向い、ルビコンの橋を渡ったことを確かめたにちがいない。

 ひときわ読経の声が高まる中、墓参の者たちは手にした線香を奉げつつ合掌し、南無妙法蓮華経と唱和した。

 そのあと持参した水を各々が墓碑に注いだ。流れ落ちる水にそって素手で墓碑を清める京子夫人のその手の動きが、まるで参詣者の心を清める菩薩の手のように、不思議と心にとまった。「墓まいりはするもんじゃのう」又誰かがつぶやいた。光子夫人は、亡き夫をいたわるように、墓碑のまわりの雑草をていねいに抜き取っていた。偉大な政治家江田三郎夫人としての数十年と、夫を亡くしてからのこの数年、この年月の落差を、どうしようとして光子夫人は草をむしるのか。誰かが注いだビールの泡が石塔の上を、白い一条の線を引いて消えていった。

 帰り道に川べりの喫茶店にみんなで寄った。江田光子さん、五月さん夫妻、岸本のおばあちゃん、やっちゃん、倉敷の豊田さん、大亀書記長、それに四人の秘書。でも、誰ひとりとして江田三郎さんの話しは口にしなかった。この五年の間に、江田さんは、ゆかりの人々の心の中に、生きはじめているのだろう。みんなは、自分の中の江田三郎さんとお茶をのみながら話していたのだ。


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