2012年10月4日

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加藤宣幸・矢野凱也 米寿記念誌    
「莫逆の友とともに」

■まえがき

君子の交わり

江田 五月

加藤宣幸さんと矢野凱也さんが、ともに米寿を迎えられました。お二人は、戦後の日本社会党結党当時からの、文字どおりの同志です。日本人の寿命がずいぶん長くなったとはいえ、これほど目出度いことはありません。そこで、お二人に繋がりのある者たちで、お祝いの文集を作ることになり、私にも若干のスペースを与えられました。

お二人とも、ご尊父は戦前の苛烈を極めた軍国主義政治の中で、筆舌に尽くしがたい弾圧を受けられました。私の父も、私が生まれる前に2月8ヶ月の獄中生活を送っています。今の若い皆さんは、この当時のこととは縁もゆかりも持ちたくないので、ことさら無関心を装っているように思います。政治家にもその傾向が見られますが、太古の昔のことではなく、近隣諸国には当時の悲惨な記憶が強く残っています。決して忘れてはならないことだと思います。

私は1960年春、郷里岡山の高校を卒業して東京に出て、父の参議院議員宿舎に同居するようになりました。時まさに第一次安保闘争の真っ只中で、大学では毎日クラス討論とデモで、私も学生自治会のクラス委員に立候補して当選し、渦に巻き込まれていきました。その年の初めに父は社会党書記長に抜擢され、若手の起用として注目を浴び、「構造改革論」提唱へと動いていきました。その父を、社会党本部書記局の中で支えていたのが、いわゆる江田派三羽烏といわれた加藤さん、貴島正道さんと森永栄悦さんです。

私はまだ十八歳から十九歳というころで、しかも田舎の高校ではマルクスといっても名前しか知りません。ましてトロツキーがどうしたブントがどうしたと言われても、ちんぷんかんぷん。三羽烏の皆さんはいずれも、光り輝く大先輩に見えました。貴島さんは精緻な革命理論で、森永さんは卓越した運動指導で、際立っていましたが、お二人とも鬼籍に入られました。加藤さんは、社会党機関紙局で経営に当たられていたと思います。社会タイムス当時に私の父も苦労しましたが、当時の党組織は経営感覚などということとは縁遠く、資本主義の下で経営を考えること自体が堕落の始まりといった感覚だったのでしょう。加藤さんの御苦労は大変だったと思います。

矢野さんは、社会党結党当時の党書記局員でしたが、左右分裂を機に党を離れ、経済活動の実務についておられました。しかし、私の父が社会党の蘇生のために、1963年に参議院の任期満了とともに議員バッジを外し、衆議院への転身を決意した時、父の秘書となって手助けを始められました。父は参議院議員で書記長を務め、当時は珍しいことでしたが、もっと珍しいことには、ノーバッジ書記長になったのです。そこに飛びこまれた矢野さんの決意も、大変に大胆なことだったでしょう。その上さらに、父はいわゆる「江田ビジョン」(「日光談話」)非難決議に反発して書記長を辞任し、全くの無役で白紙で衆議院選挙に臨んだのです。父の神戸高商や東京商大の学友の伝手を頼りに金集めや支援ネットワークを作るのは、特に当時の社会党体質と全く相いれないことだっただけに、矢野さんの苦労は想像を絶するものがあります。

その父が、1976年総選挙で落選し、社会党大会で大批判を浴び、翌77年に遂に離党から社会市民連合結成を提唱して参議院全国区立候補と向かう時、矢野さんは獅子奮迅の働きをしました。もっと大変なことに、その父が離党から二カ月足らずで、しかも参院選は刻々と近づいてくる中、5月22日に急死してしまいました。私がその後を引き継ぐのですが、病気で入院。選挙戦の半分しか街頭に立てないという散々な状況を、黙々と切り回してくれたのです。そして私の当選後、暫時私の秘書を務めてくれる傍らで、江田三郎追悼録を上梓されました。多方面にわたる数多くの友人知己の回想を網羅した追悼録は、戦前から戦後の成長期までの日本の歴史を知るうえで、貴重な資料となりました。与党の政治家については関連の研究も多く出されていますが、野党から見た政治史も結構見応えのあるものです。

「君子の交わりは、淡きこと水のごとし」と言います。お二人に共通するのは、まさに交わりが淡いことです。お二人とも、社会党サイドに身を置きながら、鉄の規律的な同志関係とは縁遠く、ご自分の世界をきちんと持っておられます。その上で、筋を通し正論を貫き、決して流れに流されることはありませんでした。これこそが、まさに「市民」の真骨頂であり、これからの時代に最も必要な人間としての資質だと思います。お二人のご長寿をお祈りします。

(参議院議員)

 


2012年10月4日

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