2009年12月

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「国家が国民を捨てる」国家イメージを脱却したい
―『鳴呼 満蒙開拓団』を観て―

江田 五月

 参議院議長に就任して、時々、東京国立博物館の特別企画とか各美術館の特別展とか、面白い企画のご案内をいただく。これまでそういう時間の使い方が出来なかったが、ご案内をいただいて顔を出すと、もっともっとということになり、「花の生涯―梅蘭芳」とかハンセン病の「新・あつい壁」とか、映画を観ることも若干増えた。そんなことで目に止まり、「嗚呼満蒙開拓団」を観た。どうせ空いているだろうと高をくくっていたら、切符売り場は何と長蛇の列。満席で、あわや見逃すところだった。

 満蒙に新天地を求め、希望に胸を膨らませ、一家を挙げて海を渡った人々を、悲劇が襲った。これを、一つずつ訪ねていくのだが、最初に登場する家族が渡ったのが、1945年5月26日というので、びっくりした。その頃には確かに、国の指導部には、戦争の先行きも開拓団を待ち受ける困難も、分かっていたに違いない。これはひどい。

 私は、この人々の運命と無縁ではない。運命のいたずらがちょっと違うと、私自身の体験となったかも知れない。私も引揚者なのだ。

 私の父は、江田三郎といって、往時の日本社会党の政治家だ。しかしそれは、戦後のこと。父は戦前、戦争に反対し農民運動に身を投じ、治安維持法違反のかどで2年8ヶ月服役。出獄後、生きた人間と付き合うと特高がうるさいので、死んだ人間なら文句はなかろうと、葬儀屋を始めた。ちなみにそのころ、私が生まれた。ところが親切過ぎて大赤字。そこへ、知人が父に手を差し伸べた。実父の葬儀を父に託した知人が、心のこもった葬儀に打たれ、この男を殺すわけに行かないと動いたのだ。私たち一家は中国に渡り、河北省石家荘に住み着いて、父は水路工事に携わった。1943年ころのことだ。八路軍との緊迫した折衝もあったのだろう、帰宅した父の背中にいっぱいミミズ腫れがあったのを覚えている。鞭打ちの跡だ。日本の軍部との関係を疑われたのだろうが、後に嫌疑が晴れ、奪われた私物がそっくり返ってきたそうだ。

 戦争が終わった。中国人から一定の信頼を得ていた父は、現地の日本人からも頼りにされ、引き揚げの事務折衝を託されたことは、想像に難くない。父が柳行李一つを担ぎ、母は生まれたばかりの私の弟を背負い、私は小さなリュックを背負って、上陸用舟艇母艦で天津から佐世保に上陸。1946年に、無事に焼け野が原の岡山に戻ってきた。運が良かったと言うほかない。

 国家が国民を捨てるのは、別に珍しいことではない。満州以外にもいっぱいあるし、日本以外にもいっぱいある。だからといって、良い訳では断じてない。20世紀の国家イメージを、そろそろ脱却したい。21世紀まで役割を担った政治家として、つくづくそう思う。これが私の「嗚呼満蒙開拓団」鑑賞の感想だ。

(えだ・さつき:1941年生れ。旧社会党の重鎮だった江田三郎の長男として生まれる。判事補だったが、父急逝の後を継ぎ、社会市民連合から参議院議員当選。衆議院議員、細川内閣の科学技術庁長官を経て、参議院議員。2007年より参議院議長)

方正友好交流の会 会報「星火方正」第9号掲載


2009年12月

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