2004年10月27日 >>会議録

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永年在職議員表彰謝辞

江田五月


大災害で被災された皆さんに、心からお見舞い申し上げます。そのような中、誠に恐縮ですが、お許しをいただき、一言お礼を申し上げます。

ただ今、私の永年在職につき、院議による表彰をたまわりました。また、青木幹雄自民党参議院議員会長から、身に余るお祝いの言葉をいただきました。私には過ぎた光栄であり、顔が赤くなる思いです。ただただ感謝するのみです。誠に有難うございました。

この栄誉は、もとよりこれまでの各選挙で、何の見返りも求めずに私を支持して下さった有権者の皆様のご支援があったればこそで、心から感謝いたします。

思い起こせば最初の選挙は昭和52年、1977年の夏でした。私は、政治家の家に育ったので、政治への関心は強かったのですが、大学卒業の後、父の悪戦苦闘振りを見て、日本の政治の可能性に絶望し、その対極にある司法に職を求めていました。ところが、本院に12年、衆議院に13年、永年表彰も受けた父が、その年の春、政治生命を賭けて新しい道を踏み出し、その直後に中道に倒れました。それも、私の誕生日に合わせるように、急いで旅立ったのです。政治に一身を捧げ尽くすその姿を目の当たりにし、小賢しい理屈で政治に絶望などという己の愚かさを悟り、父の残した道に従って、夏の参議院全国区選挙に立候補。今も本院にご在職の田英夫さんに続き、139万余の皆さんのご投票で、第2位当選の栄誉を与えていただきました。社会市民連合という新党で、当選は私一人。翌年、田さんたちと社会民主連合を立ち上げましたが、長くミニ政党のままでした。

初当選の瞬間、少なくとも私の任期6年の間は、新しい政治を求める動きは消させないと、腹を固めていました。以来今日まで、道のない荒野を、手探りで歩いてきました。過ちも多かったと思います。父が表彰を受けたとき、請われて色紙に「議員25年、政権も取れず、恥ずかしや」と揮毫しました。まだ現在のところ、親子二代で恥ずかしやです。表彰を受けていいものか、迷いましたが、ここは素直に同僚の皆さんのご好意を受けることにしました。

今、新しい政治への胎動は、誰も押し止めることが出来ないほど、大きくなってきました。政治は、可能性の技術です。私たちの未来は、豊かな可能性に溢れているのです。これを閉じこめている既成のひからびた政治を終わりにし、国民の可能性を最大限に解き放し、みずみずしい発想で新しい時代を開くときが、すぐそこに来ているのを感じます。

私が求めてきたものは、二つあります。そのひとつは、「市民の政治」です。国民の願いが素直に通ずる政治の実現です。今なお、政治とカネ、平和や人権、いのちや暮らしなど、まだまだ庶民感覚と大きく隔たっているところがあります。しかし、透明性や説明責任が、大切な政治的価値と認められるところまでは、確かに辿り着きました。

もうひとつは、政権交代のある政治です。この目標は、やっと今、単なる夢や掛け声でなく、かなりの手ごたえを感ずるところまできました。もちろん与党のみなさんも、簡単には政権を渡してくれないでしょう。厳しい試練が続くと思います。愛の鞭と受け止める覚悟です。

ありがたいことに、この夏の選挙で三度本院に議席を与えられました。これから6年間、皆さんとともに切磋琢磨に務め、学生時代にゼミで発表した吉野作造博士の言葉で言えば、「憲政の本義」を達成するため、全力を尽くす決意を新たにしています。

本日は、本当に有難うございました。


2004年10月27日 >>会議録

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