2003年7月25日

戻るホーム2003目次前へ次へ


今井澄さんを偲ぶ

今井澄さんに最初に会ったのは、多分、1961年だったと思います。その前年、日本中を揺るがした安保闘争の最中に、私は郷里の高校を卒業して上京し、ひとりの東大生として、デモやストに参加していました。当時、今井さんは既に自治会幹部でした。従って、接点が出来たのは、翌61年の晩秋、私が学部自治会の委員長に当選してからです。今井さんは、当時たしか自治会中央委員会議長、つまり、10学部の全自治会の統合組織の最高責任者だったと思います。

私とは、学生運動の派閥も違うし、キャンパスも、本郷と駒場で別々なので、日常のお付き合いは深くはありませんでしたが、腹のすわった、穏やかな、しかし怒るときは烈火になる、無類の好人物という印象が、今も鮮やかです。

翌62年、全学上げての大学管理法反対闘争で、私たちの自治会はストライキで本郷の安田講堂前の全都学生集会に参加し、私は退学処分となりました。1年後、再入学を許され、私は通常の学生生活に戻ったのですが、今井さんはその後、全共闘運動の中ではなばなしく活動されました。それからの私たちは、全く違った道を歩み、接点もありませんでしたが、風の便りに、今井さんが12年かかって卒業し、医者になったと聞き、その粘りに感心していました。

次に会ったのは、今井さんが長野県から参議院に立候補されたときです。私は、社民連代表をしており、こちらから長野に押し掛けて、一緒に選挙カーの上に立ちました。見事に当選された後のご活躍は、皆さんご承知のとおりです。

1998年、私が参議院議員に復帰して、私たちは30数年ぶりに同じ場所で仕事をすることとなりました。気心も知れており、何でも相談できる仲間として、本当に心強く思っていました。一昨年には、今井さんらに担がれる形で、私が会派の役員選挙に出たり、党内の役員選挙であれこれやったり、ちょっと年は取りましたが、学生時代に帰った気分でした。

その今井さんと、こんなに早くお別れするとは、夢にも思いませんでした。昨年の通常国会での今井さんの姿は、壮絶でした。命を縮める論戦を、誰も止めることはできませんでした。誰もまねの出来ない迫力でした。私には、1977年の私の父の姿が、二重写しに見えました。

日本も世界も、ますます怪しげになってきました。今井さんの思いを大切にし、不屈の闘志を燃やして頑張ります。


戻るホーム2003目次前へ次へ