2003年8月

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『僕らのときは、人生を賭けて何かやる、燃えるものがあった』

Japan Producer Interview Vol.29
ドットジェイピー掲載)

■プロフィール
Name:江田五月  Birthplace:岡山県  Birthday:1941年5月22日
1966年
1968年
1971年
1977年
1978年
1983年
1985年
 東京大学法学部政治学科卒業
 東京地裁判事補〜以後1977年まで千葉家裁、横浜地裁判事補を歴任
 英国オックスフォード大学法学部法律証書科修了
 社会市民連合代表  参議院議員当選(全国区)
 社会民主連合副代表
 衆議院議員当選(岡山県第1区)
 社会民主連合代表
1993年
1994年
1994年
1996年
  
 
8月
5月
12月
7月
10月
12月
 細川内閣で、国務大臣・科学技術庁長官
 日本新党との合併により社会民主連合解散 日本新党副代表
 新進党結党に参画(大会招集本部長)
 新進党を離党し、岡山県知事選挙に立候補表明
 知事選で、43万6千票を獲得するも5700票差で惜敗
 弁護士事務所を開設するとともに政治活動を再開
1998年
1998年
 新「民主党」へ参加表明
 参議院議員当選(岡山県選挙区)
1999年
2000年
2001年
2001年
2002年
10月
9月
9月
12月
10月
〜2000年9月 民主党司法ネクスト大臣
〜2001年9月 民主党NPO委員長
〜2002年9月 民主党NC法務大臣
〜民主党憲法調査会事務局長
〜参議院国家基本政策委員長


――よろしくお願いします。先生のお父様も政治家でいらっしゃいましたが、小さい頃から政治というものを身近に感じておられたのでしょうか?

そうですね。政治の話題はしょっちゅう身近にありました。政治が身近というのは、父が県会議員や参議院議員やっていた、ということもあるけども、我が家では母もしょっちゅういろんな人を集めて政治の勉強会をしていました。また、政治だけじゃなくて、レコード鑑賞会やお料理の会など色々な文化活動みたいなこともやっていました。日本がちょうど、警察予備隊が出来、保安隊になり、自衛隊になるという、今の自衛隊がだんだんできてくる時代です。戦闘機一機買うのをやめたら、例えば家がいくら建つとか、そういう話がしょっちゅう周りにあったから、やっぱり政治のことは非常に身近でしたね。

そんな中で、僕の父は、はじめ参議院議員でのちに衆議院議員になりますが、ずっと社会党の、しかも本部の役員で、書記長などもつとめたので、自分の身近にある政治というのは、どうしたって社会党政治でした。ということは自民党批判です。もう当時から、自民党のみなさんのいろんな汚職事件、政治を利用して金儲けをする事件がごろごろしていました。未だに終わらないのは、本当にひどい話だけど、当時からそういうことばっかりありました。だから、世の中には、政治を利用して金儲けをする悪い政治家がいっぱいいるという感じでした。しかしわが家は、もう本当に貧乏で、国会議員の歳費も全部政治につぎ込んで、なかなか家計にちゃんと入れないような父でしたから、母は質屋へ通ったりしていました。なので、政治は全部汚いとか、逆に全部きれいとかいうのではなく、政治には汚いのときれいなのと、悪いのといいのと両方ある、という感じで見ていました。

――高校の頃からいろんなことをなさっていたようですが、学生時代はどのようにすごされていましたか?

高校の頃は、クラブ活動と生徒会活動が忙しくて、勉強をする時間がなかったんです。高校3年の正月が明けるまで、生徒会活動なんかやっていて、大学受験の勉強を始めたのはその後です。たまたま運良く現役で大学に入って、入った年がちょうど1960年。いわゆる60年安保っていう年で、入学式の日から自治会の皆さんがキャンパスのなかでわーわーマイクで演説してるし、クラスの討論もあるし、デモもあるし、そんなときだったから、すぐその中に飛び込んでいました。それから自治委員の選挙に、わけもわからずに手を上げて、選挙で当選して、それからずっと自治委員をやりながら学生運動にだんだん深く入っていきました。大学2年の秋に教養学部自治会の自治委員長に当選して、いろんな政治的なことに関わっていました。

特にその当時、大学管理法問題というのがありました。今は国立大学独立行政法人化が大騒動ですけども、当時は、学生運動が盛んなので、これに対抗するため、大学の管理体制をもっとしっかりさせて、文部省がその上に立ってがっちり大学を押さえ込もうというのですね。教授会とか、学長や学部長とか、そういうものを文部省側でコントロールできるようにしようというのです。これは大学の自治に反するというので、ストライキをやって退学処分になりました。

――学生運動はどんなことをされたのですか?

いろいろですよ。学生運動は、クラブ活動と違い、学生が自治会活動によって、自分たちの社会的な問題意識に基づいて社会に対して発言し、行動していくものです。学生の自治組織がいくつかあって、学生の文化系や体育系のクラブ活動を総括しているのが学友会。そのほかに自治会というのがあったのです。自治会は何をするかというと…。何だろうね、よくわからないけど(笑)。例えば秋に駒場祭というのがあって、その中で自治会が討論会を主催するとか、そういうことをやったりしました。自治会が学生の政治組織になっていたんですね。学部全体で自治委員長を選挙し、各クラスで自治委員や代議員を選挙して、その皆さんが自治会の活動方針を審議し決定して、その方針にしたがって活動する。その活動方針は、極めて政治的意味合いの強いもので、その時々の政治テーマを一生懸命追いかけてました。核実験があれば、「核実験反対」と言ってアメリカ大使館前に抗議に行ったり、九州で炭鉱のストライキがあったら、その応援に行ったり、いろんなことをやっていました。

――思い出深い活動はありましたか?

やっぱり安保闘争は、大学入ってすぐだから、大変だったですね。今日もある人と話したのですが、ジグザグデモなんかの経験を持ってる人が世の中からいなくなっていいんだろうかとね。ジグザグデモでわっしょいわっしょいやって道路が完全に埋まって、そうすると「諸君の行動は東京都条例に違反しているので直ちにやめなさい。そこで指揮をしている江田五月君、君のやっていることは都条例違反です。すぐにそういうことはやめて、みんなを解散させなさい。」なんて警察が警告です。僕らは従いません。それから、みんなで腕を横につないで銀座通りを全部埋め尽くして行進をするのが、フランスデモ。「なんでそんなことするの」、「安保反対です」ってね。学部でストライキやるとね、本郷の正門を入って目の前の広場が全部完全に人で埋まるぐらい、だいたい2500人ぐらいデモに参加するんですよ。ものすごい数でしたね。

僕は2度逮捕されててね。2度目は大学管理法反対運動で逮捕されました。ただこれはおかしな逮捕でね。逮捕されたその夜中に、もう帰ってよろしいって釈放されてね。本当は逮捕自体がおかしかったんだろうね。

1度目は、これは本当に逮捕されたんですよ。アメリカが核実験をやるので、けしからんって言って、アメリカ大使館に行ったときだったかな。それとも日本のミサイル配備反対だったかな。ところが、しょぼいデモになっちゃって。駒場から多いときは2500人くらい集まるんだけど、そのときは50人ぐらいしか集まらなくて、こんなにしょぼいことじゃしょうがない。どうするって言ってたら、じゃぁ、自民党本部に抗議に行こう。で、全部で学生が300人ぐらいいたのかな、「自民党総裁に会いたい」とかって言ったら、「こちらへどうぞ」とか言われて案内されて、ある部屋に全員通されて、外から「カチャ」って鍵かけられて、全員逮捕。住居侵入だというのだけれど、政党本部だから国民が入ってもいいだろう、しかも「こちらへどうぞ」と言われたんだから、いいじゃないかと思うんだけど。逮捕されましたが、起訴はされなかったんです。

そのときに面白い話があります。何しろ社会党は野党第一党で、そのナンバー2である書記長の息子ですから、検察官としては起訴すべきかどうかものすごく迷ったらしいのです。その事件の被疑者の中では、検察官が重要度でランク付けをすると、僕は上から4番目ぐらいで、一番の責任者じゃなかったんです。起訴は3番目までか4番目までか、ぎりぎりのところで、検察官が、父親が謝まりにくれば起訴しないと、それでなければ起訴すると思ったみたいです。そうすると僕の父は、そんなもの行けるかって。自分の息子が信念持ってやったことを、親が謝るなんていけない、と言って、検察官の所へ行かなかったんだ。それで検察官も困ってね、その結果、処分保留で釈放して、その後に不起訴になったんです。そんなことがありました。息子としては、親に謝ってもらうより、ずっとこたえましたね。

――先生ははじめ司法の方にいかれましたが、その方面に進むきっかけなどはあったのですか?

退学になって、再入学して、学校に戻ってからのことです。学生運動をいつまでもやっている人もいるんだけど、僕はやめた。学生運動って学生がやるから学生運動であって、学生運動のプロみたいになる人もいたけれど、それはちょっとおかしいんじゃないかと思って。というので、学生運動で処分までいったんだから、これでおしまいって。あとはちょっと、勉強しよう。そこで、教養学部から専門の方に進学するときに、退学になる前は経済学部と思ったんだけど、いろいろ考えるところがあって、法学部に進学しました。その政治コースっていうところにいったら、丸山眞男という大先生がいまして、そのゼミに入ったんです。その大先生が、君らは法学部を卒業するのだから、法律のこと何も知らないんじゃまずいと言うのです。リーガル・マインドっていうのは大切で、政治の勉強は卒業してもやれるけど、法律の勉強は卒業するとやらないだろうから、大学にいる間ぐらいにやりなさい、とね。それもそうだなぁっ、法律の勉強をしようって。で、法律の勉強なんて、おもしろくないのに、何か目標がなきゃできないから、じゃぁ司法試験を目標にしたら、それこそ今のマニフェストじゃないけど、ちゃんと勉強できたかどうか検証できるから、じゃあま、司法試験やろうと。そしたら通っちゃって(笑)。

そのときは、2年間だけは勉強しようと思って、本気で勉強した。そこで勉強しないと、生涯もう勉強するときがないから、最後だからちゃんとしとかなきゃ。小学校でも中学校でも高校でも全然しなかったんです。大学入っても全然しないままで、そこまできちゃったから、最後はちゃんとしようと。その後2年は、大学と家と図書館の間を動くだけ。それくらいしか動いていなかったですね。司法試験の勉強っていうのは、特別にはしなかったんですが、授業を聞いてノートをきちっととって、勉強は一応ちゃんとしたんですよ。単答式だけは特別の勉強をしましたけれど。司法試験に合格して、どうしようかなと考えました。それ以前から、普通の会社に就職なんていやだし、官僚になるつもりはなかったから公務員試験は受けてなかったし、大学に残ろうかなと思っていました。学問で、これから勉強していく課題があるとすれば、行政法の分野かなと。行政法って非常に古い法律学だったのです。今でもまだ、当時とは本質的な変化はなく、古いままで残っています。これをずたずたにして、新しい行政法体系を作るっていうことは、面白そうだなって。だから、大学に残って学者になろうかなぁ、と思っていたら司法試験に受かった。

受かって振るっていうのも、なかなかおつな味でいいなぁっとも思ったけれど、人生あまり面白いばかりでもいかんなぁっと思って、せっかく受かったのだから、そこで身につく資格を取っておくのもいいなぁっ、て思って司法研修所に入ったんですね。それで、弁護士になるのが普通のコースで、ずっと修習をやってたんだけど、どうも弁護士もいい加減なもんだなぁと思いだした。自由業だと言うけど、ほんとに弁護士さんって自由ですかと問うと、お客さん相手の仕事だから、お客からお金もらえなかったら弁護士は食っていけない。自由って言うけど、全然自由じゃないんじゃないかなぁって。そもそも自由って一体なんだろうかなぁって。マルクスは自由は必然性の認識だと言ってるんですよ。そこで、一番不自由なところに入って、その不自由さをどれだけ認識できるか、その不自由さを自分で操るという訓練も、面白いかなぁって。これらは全部、後でくっつけた理屈だけど(笑)。

それで裁判官やってみようかなって思い、修習が終わるときの志望調査に、裁判官と書いて、教官がいろいろ根回ししてくれて、裁判官になっちゃった。でも、裁判官を長くやるつもりはなかったですね。ある程度、拘束の中での人生を経験してみたら、それでまぁいいんじゃないかなと思っていました。ところが、1年も経たないうちに、外国へ行かないかと言われたんです。しかし、外国に留学させてもらったら、生涯、裁判所から離れられなくなるだろう。それはたまらんなぁっていうので、お断りしたんです。そのとき、後にも先にもそのときだけなんだけれど、父に相談した。いいアドバイスくれて、「そんなに堅く考えることない。夏目漱石は、文部省の奨学金でロンドンに留学したんだ。帰ってきて、文部省辞めて、作家になった。今では、誰もそんなこと怒ってない。国民の税金でロンドンまで行って、帰ってきて文部省辞めて作家になって、夏目漱石は税金泥棒でけしからんなんて、誰も言っていない。」それもそうだなって思って、国民の税金でオックスフォードに2年行かせてもらいました。帰ってきて、留学させてもらったから、ずっと裁判所にいなきゃいかんなんどという義理堅いことを思っていたわけじゃないんだけれど、もうしばらく裁判官を続けようと思っていたら、何とだんだん、裁判官が面白くなってきたんです。

そろそろ裁判官で10年経つのだから、ずっと裁判官をやろうかと思っていたんですよ。ちょうどそのとき、父が、社会党を飛び出したのです。社会党は頭でっかちだし、労働組合ばっかりだし、市民の気持ちとかけ離れて、だんだんと夢のような革命理論ばっかり言うようになって、こんな社会党じゃダメだってね。そして父は、自分の考える革新政治の道がいいのか、社会党執行部の考える道がいいのかを、国民のみなさんに聞いてみよう、そのために参議院の全国区に出ようと決断した。ところが、それから2ヶ月足らずで死んじゃったんです。

父は、戦前は刑務所へ入ったりしながら政治運動をずっとやってきて、戦後も極貧で質屋通いをしながら政治をやってきました。それで最後に、長い生涯をかけた政治家人生のすべてを賭けて、新しい道を求めたのです。新しい道に、チップの全てを賭けたんだけれど、トランプの札を裏返すまでにいかないうちに、死んじゃった。その亡くなったのが、実は僕自身の誕生日。これは大変だ。自分の誕生日に父親が亡くなるというのは、やっぱりその後を託されたなぁって思いがあります。普通の託し方ならいいんだけども、大博打をうって、後は頼むっていうわけだから、カードを裏返すのは僕がやらないとしょうがない。

――もし、もし、ですよ、先生のお父様が亡くなられたのが先生のお誕生日でなければ政治家へならなかったのでしょうか。

あとを継いでないでしょうねぇ。

――では、お誕生日にお父様がお亡くなりになったというのが政治に身を投じるきっかけになったのでしょうか?

そうですね。それまでは、父が病気だというのは5月のはじめに分かって、連休のときに病院に行って、ヤバイって入院しました。それからしばらくたって、みんなにお前があとを継げと、ずいぶん言われました。だけど、「嫌だ」と言って、ずっと断り続けていました。父がやっていることは大切だと、よく分かっていました。でもそれは父親のことです。誰かがその後を継ぐんだったら、いっぱい継ぐ人はいるじゃないか、あなた方が継いだらいいじゃないですか、と言って断り続けてたんです。しかし、やっぱり誕生日に親に死なれるというのは、後を託されたという感じがしました。

最近の裁判官には、まるで機械みたいで、血のかよった人間だかどうか分からないのがいるみたいだけど、それではいけません。裁判というのは、他人の人生を左右するのだから、裁判をする側も、自分の人生を賭けて、判断をしなければいけません。そういう人間の営みなのです。温かい赤い血が流れてない人間に、裁判なんてできるわけがない。このまま裁判官を続けようとしたら、やっぱり自分は人間じゃなきゃいけない。

人間だったら、今この状態でどうするか。父親がああいう死にかたをして、後は頼むって形になったら、人間ならどうするか。父親の死に様なんて、知ったことか、というのでは、人間でなくなってしまう。切羽詰って、「裁判官辞めるっ」。他の選択肢はありません。「政治をやるっ」。瞬間、決断したんですね。

――ホームページに「裁判官をやればやるほど好きになったから私に向いた仕事だと思った。政治もやればやるほど好きになって自分に向いた仕事だと書けそうな気がしている。」とありますが。

ずっと昔にそう書きました。政治家になって1年目ぐらいに書いた本のあとがきに書いたことで、それから20何年経ってるから、向いたも向かないもない。もう、これしかない。今更違う道に行こうたって。選挙に落ちれば、弁護士の仕事ぐらいするけども、今から弁護士やったって、世界に冠たる弁護士になれるわけじゃないし、細々弁護士をやりながら飯ぐらい食えるだろうけども、政治家として、きっちり人生をまっとうしたいと思いますね。

――今の若者に向けて何かメッセージをお願いします。

今の若いみなさんの感じが、僕はよくわからないんですけどね。僕らのときは、とにかく、何かに没頭してたんですね。人生を賭けて何かをやる。燃えるものがあって、これはやらなきゃという。それが、あるときは怒りであったり、何でもいいんですよ。勉強でもいいし、政治でもいいし、恋愛でもいいし、文学でもいいし、何でもいいんだけど、自分の生き様を賭けて何かをやる。そういうのがないと、社会というのが良くなっていかない。社会全体が温かくなってこない。なんとなく冷え冷えとした、自分は社会のよそ者のような、自分の居場所じゃないという感じをもちながら、ちょっと今の仮の時間を過ごす。モラトリアム人間なんていう言葉がありましたが、そのうち自分が何だか分かってくるだろうから、それまでちょっとゆっくり見てよう、って感じでずっときてるんじゃないかなと思います。

――大学時代に何か見つけようとする人もいると思いますが、なかなか見つけられない人もいると思いますが。

見つけようと思ってきょろきょろしても、見つからないから、どーんと入っていく。飛び込んでいくと、どんなところでも何かあるから。若いうちは失敗したっていい、やり直しがきくんだから。もう、僕がやり直すったって、やり直しきかないけれど、きみらはそうではない。そんなつもりで、思い切って、いろんなことに自分の人生を賭けるようなことを、ぜひ、やって欲しいと思います。

――ありがとうございました。


2003/08

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