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(2)―日本における『構造改革論』形成の「客観的条件」―


すでに見た通り、イタリアに生まれ、イタリアに育った『構造改革論』をはじめて、実践的プログラムとして、我が国で採りいれたのは、社会党であった。しかし、社会党が『構造改革論』を採り上げるにいたったのは、専ら社会党の党内事情からばかりではなく、それにはそれなりの客観的根拠があったのである。それは、すでにイタリアにおける『構造改革論』形成過程で見たような、何らかの客観的構造の変化に関するとらえ方、とりわけ、我が国における資本主義構造の大きな変貌に対する把握の仕方にその問題の革新性があった。そこで、ここでは、日本の経済・社会構造の、とりわけ戦後における変貌過程を見ながら、日本における『構造改革論』形成の客観的条件をとらえてみることにする。

太平洋戦争によって大きな打撃を受けた日本資本主義は、アメリカの対日政策の転換と朝鮮戦争による「特需ブーム」を契機として、急速に復活してきた。そして、産業の近代化(「高度工業化」、「合理化」)を通して、超スピードの成長ぶりを示した。いわゆる「神武景気」の到来は昭和30年(1955年)であり、31年には、「電化ブーム」が起った。同じ年の『経済白書』は、有名な「最早戦後ではない。」という言葉で結ばれている。そして、立ち直った支配層は、こうした日本経済の「高度成長」とそれに伴う社会的・意識的な諸変化をふまえて、日本の経済的「大国化」を目標とする、新しいナショナリズムを打ち出し、これによって、国民大衆の思想的・意識的統合を図ろうとする動きを示し始めた。

戦後における日本経済の高度成長は、技術革新や経営の合理化などを内容とする産業構造の急速な「近代化」を通して実現されたものであり、その余沢として、国民大衆の消費生活水準の著しい向上をもたらした。その高度成長のありかたには、いろいろ問題が含まれていたが、それがともかくも大衆の生活水準を高め、「繁栄」のムードを広めていく役割を果したことは確かである。いわゆる「経済大国主義」は、こうした経済的、社会的、意識的な状況変化の下に形成された、いわば「上から」のナショナリズムの新形態と言えるものである。それは、天皇制支配体系のもとにあった、旧憲法や滅私奉公的な愛国心に基づく旧い型のナショナリズムと異なって、「高度経済成長」に裏付けられた新しい型のいわば「体制的ナショナリズム」であった。

経済の高度成長を基盤としての産業の「近代化」の進展は、日本の社会構造の在り方を急速に変えて行き、日本的な特殊性をそなえながらも、全体として西欧の先進資本主義諸国のタイプに近いものにした。いわゆる「先進工業国型」或いは「先進資本主義型」に変化させていったのである。このことは、国民大衆の生活様式や思考様式に関しても言えることであった。言論機関の著しい発達がこれらを助長した。日本の場合、敗戦後の(「上から」の)民主主義的改革によって、天皇制的ヒエラルキーが解体させられたことも、こうした変化をもたらした大きな要因と言える。そして、このように日本の社会構造が全体として「先進国型」に変わってきたということは、同時に、西欧の先進資本主義諸国が、現在直面している問題は日本人にとっても切実な問題となってきたことを意味している。

新しい「上から」のナショナリズムは、「国民大衆の望んでいる自由で幸福な生活は、日本経済の高度成長を推進してゆくことによってのみ実現されうるものであり、体制の変革は不必要である。」ことを強調する。また、そのためには、『全国民が政府の計画と指導のもとに力を合わせて働き、"生産性の向上"に努めることが必要であり、いわゆる階級闘争などは有害無益なものである。』ことを力説する。このナショナリズムは、このような形で、生産力の発展に伴って社会の底辺から激しく流動しつつある生活向上への巨大なヱネルギーをとらえ、これを資本主義の枠組みの中で、ナショナルな形に再編成していこうとするものである。しかし、国民大衆の望んでいる自由で幸福な生活は、果して、経済の高度成長を通じておのずから実現されうるものであろうか。経済の高度成長や産業の近代化に伴って顕在化しつつあるさまざまな病理現象は、果して、資本主義という枠組みの中で、或いはそれに基づく近代的合理主義の枠組みの中で解決可能なものであろうか。こうした切実な疑問が、「上から」のナショナリズムに対抗する、いわば「下から」のナショナリズムとして、革新勢力だけでなく、一般国民大衆の中からも当然のように巻き起こったことも確かである。

このように、復活した日本資本主義は、経済の高度成長を基盤として、着々と日本の経済、政治、思想の再編成を進めていった。こうした中で、保守支配層と革新勢力とが真っ向から対決したのが例の安保闘争であった。安保闘争は、1960年(昭和35年)に日米安全保障条約改定問題を契機として、これを阻止しようとする声が革新勢力を中心に一般大衆の中に巻き起こり、戦後最大の国民的大衆運動へと発展、空前の一大闘争となった。いわゆる「繁栄ムード」の中で、こうした大きな闘争が展開されたことは、平和と民主主義の問題に関する国民の関心の強さを示すものであった。しかし、この闘争は、当時の岸内閣を退陣に追い込んだだけで、「新安保体制」の成立を阻止することはできなかった。そして、この経験に学んだ保守支配勢力は、戦前型のナショナリズムを急速に脱皮して、すでに見たような新しい「経済的ナショナリズム」の思想を一層明確に打ち出し、これによって国民意識の再統合を図ろうとする路線を強化するに至った。それは、戦前型ナショナリズムの体臭の強い岸内閣に代わって、新たに登場した池田内閣の手によってひきつがれ、促進された。

この安保闘争と時を同じくして発生し、安保闘争と平行して拡大し、我が国労働運動史上まれに見る大闘争となったのが、三井三池の闘争であった。時期的に一致したとはいえ、「安保と三池」とは意識と指導の面では、必ずしも整理され、統合された訳ではなかったが、高度成長のもたらす産業合理化の嵐に戸惑う日本中の労働者の心情をとらえ、一年間という長期に亘る大闘争を展開した。しかし、この闘争も、安保の退潮と共にやがて衰退し、いく度かの組織分裂の後、ついに崩壊した。

安保闘争と三池闘争の“敗北”は、革新勢力にとって大きな衝撃となり、深刻な自己批判を促した。とりわけ、社会党内においては、この二つの闘争が敗北した原因は、社会党の弱体な指導力、党の政策を支える一貫した理論とプログラムの欠如、労組依存及び院内主義的党組織構造にあるとし、さらに旧左社綱領の公式主義的原則に基づく路線では、最早、高度成長経済の下にある現代資本主義の新局面に適応した現実的政策を提起するのは困難であるとする意見が現われてきた。こうして、日本経済の高度成長の結果として起ってきた「経済的ナショナリズム」を前面に押し出しながら、「所得倍増」、「高度経済成長」を唱える池田低姿勢内閣の「上から」の構造政策に対して、これに適応するだけの現実政策をもって、資本主義の政治的、経済的構造を「下から」変革していき、「社会主義への新しい道」を切り開こうとする考え方が、『構造改革論』そのものに他ならなかった。


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