構造改革論の思想的意義と現実的課題 目次次へ

五、 『構造改革』とレーニンのロシア革命


経済構造の民主的改革を通じて、社会主義へ移行するという『構造改革路線』の基本的な考え方は、実は、マルクス主義の革命理論の歴史の中ではじめて現われたものではない。確かにその性格から内容まで一切を、同じ範疇として論ずることは出来ないが、少なくともその最初の理論的原型は、1917年のロシア革命下におけるレーニンの「四月テーゼ」の中に見出すことが出来る。

二月革命の直後にロシアに帰ってきたレーニンは、「ブルジョア民主主義革命の完成」という古い立場に立ち止まったままのカーメネフ((注)1883〜1936)ジノヴィエフと結んで終始レーニン、スターリンら党主流と対抗した。)の保守主義と、社会主義革命への「即時転化」を唱えて、テロと破壊に走る「極左冒険主義」とを排して、ブルジョア民主主義革命を社会主義革命へ成長転化させる、全面的な作戦計画を作り上げた。これがいわゆる「四月テーゼ」(「現在の革命におけるプロレタリアートの任務について」)と呼ばれるものである。この「四月テーゼ」は、資本主義から社会主義への移行という課題に実践的に取り組んだ、マルクス主義の歴史上最初のものであり、その理論的骨子は、二重権力という当時の特殊な情勢の下での革命の平和的発展のコースを示す「全権力をソヴィエトへ」というスローガンであった。

その中で、レーニンはまず社会主義を建設するための計画の誤ったやり方に厳しい警告を発し、当面直ちに実行すべき経済綱領として、次の三つの要求を掲げた。

  1. 全ての地主所有地の没収と国内の全ての土地の国有化。コノウ雇農、農民代表ソヴィエトによる土地の処理。

  2. 国内のすべての現行の単一の全国的銀行への統合と、労働者代表ソヴィエトによる統制。(これは間もなく、「すべての銀行と資本家のシンジケートの国有化、或いは労働者代表ソヴィエトによる統制」というより包括的な要求に発展した。)

  3. 社会的生産と生産物の分配に対する労働者代表ソヴィエトの統制

これらは、いわば"社会主義的変革の綱領"というべきものではなく、レーニンの言葉を用いれば、「戦争中にいくつかのブルジョア国家によって実現され、迫り来たる経済的解体や飢餓を避ける為に緊急に必要な方策」であるが、そのほこ先は、真っ直ぐに「独占資本主義」と「大土地所有」の二つに向けられていた。確かにソヴィエト権力の存在という条件の下でこの種の方策が実現されるならば、それはそのまま社会主義の実現へと急速に転化されたかも知れないが、この改革は国有化その他の手段によって巨大な独占体の経済的権力を制限し、ソヴィエトによる統制という形態でその活動を大衆の民主的統制下に置くことを主眼とした改革だという点において、その基本的性格から言って、『構造改革路線』とほぼ同じ型に属するといってもよいであろう。

革命が醸成されつつあった1917年のロシアにおいて、社会主義への直接の前進というより、銀行とシンジケートの国有化、ソヴィエトによる生産管理などの、いわば「過渡的綱領」を掲げた時、レーニンの戦略理論の第一の出発点となったのは、ロシアで社会主義が勝利するためには、労働者の多数を獲得するだけでなく、住民の圧倒的多数を獲得しなければならない、という原則であった。このレーニン主義の戦術原則は、勤労者大衆が社会主義の立場に到達する為には、単なる「宣伝」や「煽動」だけでは不足であり、「これらの大衆がみずから政治的経験をすることが必要だ。」(レーニン)ということを説いている。 ここから、プロレタリアが住民の大多数を味方にするためには、一般的にはまず「国家権力」をその手に握り、広範な勤労大衆の経済的必要を革命的に実現する「実物教育」が必要だ、というレーニンの革命理論の重要なテーゼ(「憲法制定議会の選挙とプロレタリアートの独裁」)が出てくるのだが、レーニンは、当時のロシアには、労働者階級の権力獲得を待たなくても、少なくとも権力獲得への過程で多数者獲得の任務を解決しうる「特殊な条件」が存在していると考えた。それは、農村が土地革命の前夜にあり、国全体が飢餓と経済的崩壊に直面しているという情勢の中で、経済構造の「過渡的改革」が緊急且つ切実な問題として、日程にのぼっていたことである。

レーニンが「過渡的綱領」を掲げたのは、大衆を権力の獲得に向かって、動員し、結集するだけのための過渡的スローガンとしてではなく、社会主義へ移行するために現実に実現し、経過しなければならない「中間段階」をさし示すものとしてであり、トリアッティが『構造改革』について語ったように、「政治闘争の現在の条件の中で実現することのできる絶対的な目標」としてであった。さらに、「過渡的改革」が社会主義への過渡的役割を果すのは、『構造改革』とまったく同じように、それが広範な人民大衆の切実な民主的要求に応え、多数者を結集すると同時に、社会主義への前進に有利な力関係を作り出すためであった。つまり、「過渡的改革」というレーニンの綱領は、現在イタリアにおいて反独占的経済改革が社会主義への独特な移行形態であるのと同じ意味で、ロシアにおける社会主義への移行形態を示していたといってもよいのである。しかし、単に「過渡的な改革である」からと言って、両者の性格を基本的に同じものであると見るのには大きな問題がある。何故ならば、「社会主義への前進」のためには、それ相応の特殊な条件がなければ不可能であるし、その特殊な条件によって、革命の基本的性格も異ならざるを得ないからである。

レーニンは1917年のロシアの特殊な条件こそが、「過渡的改革」の可能性を生み出したのだ、と次のように指摘している。「方策の可能性は、1889年にはまだ存在していなかったが、今ではすでに存在している。まさにそのような「客観的諸条件」によって、作り出されている。」(「一つの根本問題」)そして、この特殊な客観的諸条件とは、第一に過渡的改革の綱領のもとに広範な勤労大衆を結集しうる可能性が存在したこと、第二には、社会主義権力の確立以前に過渡的改革を実現しうる可能性が存在したこと、の二つであった。この点について、レーニンは二つの事情を指摘している。大戦中の「国家独占資本主義」(注)の発展によって、生産物の全国的統制や国有化が、すでに資本主義の枠内で実現され、過渡的改革の実現可能性が誰の目にも明らかになったことである。もう一つの事情は帝国主義戦争の壊滅的失敗(日露戦争の敗走)やその諸結果が、遅れたロシアの資本主義経済の矛盾を極度に圧迫し、経済的崩壊がさし迫ってきたという事実である。この危機から抜け出すことは、社会主義的プロレタリアに限らず、全人民大衆のもとより緊急不可欠の要求であった。この危機的情勢こそ、レーニンが、「四月テーゼ」で示した銀行との国有化、全生産物の労働者統制などの大胆な反独占的改革に向かって、農民や広範な勤労者大衆を結集せしめ、これを圧倒的多数の住民の要求に転化させた主要な推進力であった。

(注)国家独占資本主義は、レーニンの革命理論の中で、二重の意味で社会主義革命の準備としての役割を与えられている。第一は、国家独占資本主義が、「国民の全経済生活を単一の中央機関から指導する」(レーニン)体制を作り出すことによって、「資本家のためにではなく、逆に資本家を収奪することによって、大衆のために革命的プロレタリアートの指導のもとで、計画性のある社会的経済を営むべきか、又どうすれば営むことが出来るかを実践の上で示す。(レーニン)ことによって、いわば、大衆の意識を社会主義革命に向かって、準備することである。第二は、「国家独占資本主義」の諸機構が、国家の階級的性格が変化した場合には、そのまま社会主義経済の一機構に転化するような、「社会主義のための最も完全な物質的準備」(レーニン)だということである。

労働者階級が、もし権力をその手に握ることなしに、勤労者大衆を社会主義の立場に到達させるような根本的な経済改革が不可能であるとしたら、レーニンの「過渡的改革」は社会主義への「移行形態」となることは出来ず、勤労者大衆を権力を目指す闘争に動員するための単なる政治スローガンに終わったかもしれない。ところが、当時のロシアは一般に革命的情勢が存在していただけでなく、「ブルジョア臨時政府」(ツアーの政府は倒れ、ケレンスキー臨時政府が成立した。)と並んで、革命的な人民大衆に支えられたソヴィエト権力が存在し、大衆を外部から強圧したり、弾圧する軍事警察期間が存在しない、という異常な"二重権力状態"のもとにおかれた。そのため、もしソヴィエトが二重権力を解消して全権力を握った場合には、「人民の圧倒的多数が改革の実践的必要を意識的に、しっかりと体得する程度に応じて」(レーニン)全国的規模でこれを実行することが可能となり、さらに二重権力の解消以前においても、強力な革命的圧力のもとに、地方的規模でこれらの改革が実現される可能性が存在していたのである。

だが、こうした条件は何よりもロシアにおける二重権力の存在という特殊な情勢から生み出されたものであり、他の資本主義国にそのまま通用するものではない。従って、一般的には、まず国家権力を獲得し、これを道具として経済改革を実行することによって、労働者階級が勤労者大衆全体の支持と共感を得て、急速に住民の多数者に転化するという路線が避けられないものになってくる。この場合にも、段階的には第一に一種の過渡的な改革が実行されるが、これは最早、社会主義革命とプロレタリア独裁への「移行形態」ではなく、社会主義権力のもとで、国全体の社会主義的改造の一環として実行されるものであり、仮に経済的に同種の改革であっても、政治的、戦略的性格はおのずから異なって来ざるを得ない。だからこそ、ロシア革命の現実においても、レーニンの構想はそのままの形では実現されず、「七月事件」(注)を転機に、ボルシェヴィキを中心とした武装蜂起による社会主義権力の樹立の方針に転換した後は,専ら、戦闘的な革命路線を取ることになったのである。

(注)「七月事件」:1917年7月3日、国の内外に亘って、失政を重ね、危機をもたらした臨時政府に対する大衆の抗議のデモストレーションに対して、政府が発砲をもって弾圧した事件。政府はボルシェヴィキを非合法化し、レーニンに逮捕状を出した。この七月事件は、ボルシェヴィキに平和的な方法で社会主義革命を行う方針を棄てさせ、武装蜂起の方針をとらせるに至った。

確かに『構造改革』とレーニンの「過渡的改革」とは、改革の経済的内容でなく、労働者階級の周囲に広範な多数者を結集しつつ社会主義への前進の道をきり開く移行形態である、という政治的性格において、ほとんど同一の路線に立つものであるといってもよいであろう。だが、レーニンのロシア革命時代に、この移行形態が初めて日程にのぼりえたのは、ロシアが当時内外に亘って、さまざまの矛盾と困難を抱えた地理的風土性をもっていたこと、そして戦争による経済的崩壊と“二重権力”の存在という歴史上きわめてまれな特殊条件のもとにおかれていたことにあったのである。従って、経済の民主的改革が、とりわけイタリアにおいては社会主義への一般的且つ基本的な移行形態であるとすれば、なによりもその根拠をイタリアという特定の資本主義国における政治経済社会構造の特殊な事情並びに条件の中に求めなければならないのである。


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