政治家の人間力 − 江田三郎への手紙 ホーム目次

[編集を終えて]   北岡和義

 江田三郎が社会党を離党し、菅直人と社会市民連合を結成、新しい政治運動を始めたとき、ぼくはある雑誌の編集長の同意を得て、江田三郎に密着取材を始めた。それまで議事堂の中の社会党控え室で碁を打っている江田三郎を見たことはあるが、個人的なコンタクトの機会はなかった。

 ぼくは江田三郎離党の直後、自民党のハト派だった衆議院議員・宇都宮徳馬と江田三郎の対談を企画した。当時、東京ヒルトン・ホテル(後にキャピトル東急ホテル)で、「新しい時代の政治」の在り方について語り合ってもらった。『宝石』一九七七年六月号に掲載されたこの対談は、結果として江田三郎の遺稿となった。

 今、読み返してみると実に革新的で時代の先をきちんと見つめたしっかりした議論をしている。

 「いろいろ考えたんだが社会党の改革、党内に残ってやれないことないんだが、ものすごくエネルギーがいる。むしろそのエネルギーを外で使ったほうが社会党のためにも、また支持政党無し層に政治に参加してもらうためにも有効なんじゃないか、と思ってね」
 と江田三郎が語る。

 宇都宮徳馬は、こう応じた。
 「私は二十何年政権とっていた自民党にいたんだが、なすべきことをなさないで、よけいな悪いことばかりしている自民党をなんとか改革しなきゃいかんと思ったんだが、もはやなすすべがない。江田さんよりはるかに自民党にも政治にも絶望感が深いと思うよ」


 江田三郎が忽然と視界から消えたときの驚きと戸惑いは忘れることのない痛恨事であった。江田三郎の急逝で、取材対象を父の遺志を継ぐ長男・江田五月にスイッチした。実父が自分の誕生日に合わせるように死んだ、という事実が肉親を激しく揺さぶった。

 裁判が面白いから政治家にはならない、と断言しつづけていた少壮の裁判官が変身した瞬間を目撃したとき、人生とは真に予測不能で不可解だと思った。江田五月は胃潰瘍で入院し、病床から参議院全国区に出馬した。シクシク手術の跡が痛むのを辛抱して選挙演説する現場にぼくはいた。江田五月は一三九万二四七五票を獲得、全国第二位当選だった。

 こうして政治家・江田五月が誕生したわけだが、その時、社会党本部を辞めた石井紘基が江田五月の秘書となった。石井はその後、東京・世田谷から立候補、日本新党ブームに乗って当選したが、二〇〇二(平成一四)年一〇月、白昼、暴漢に刺殺され非業の死を遂げたことは記憶に新しい。石井こそ江田三郎を心底より尊敬し、政治家の師と仰いでいた。

 ぼくは江田三郎論を書いた二年後の秋、日本を後に海を渡ったことは本文で書いた。ロサンゼルスでマイナーなジャーナリストとして生きたが、 ワシントンやロサンゼルス、東京で、江田五月や石井紘基と飲み、話し合った。

 一九九三年、自民党一党支配が終わった大政局はアメリカでも大いに話題になった。日本の政治は江田三郎がめざしたとおり連合政権時代に突入した。これがきっかけとなり、海外在住の日本人でネットワークを組み、「海外でも投票させよ」という在外投票運動を始めた。土井たか子衆議院、原文兵衛参議院両議長、村山富市首相に陳情した。それでも立法府は動かなかった。やむなく東京地裁に憲法違反で提訴した。

 二〇〇五年九月一四日、最高裁大法廷はぼくらの主張を全面的に認め、画期的な違憲判決が出た。一二年間の粘り強い戦いの末の勝利だった。

 違憲判決がでて公選法が改正され、今では海外在住日本人も在外公館で選挙権を行使できるようになった。海外に住んでいる日本人が、祖国の民主主義を一歩も二歩も前進させたということは画期的だった。


 二〇〇六年八月二二日、二六年一一か月ぶりにアメリカ生活を終え帰国した。江田三郎の側近“江田ファミリーの会”が集まっていた場に居合わせた。

 二〇〇七年は<江田三郎没後三〇年・生誕一〇〇年>だという。そうした記念すべき節目の年に江田三郎について本をつくらないか、という相談を受けた。それは「面白いかも」という気分と「何を今さら」という感情が交錯して返事に詰まった。


 果たして二〇〇七年という時点で、江田三郎を問う現代的意味があるのだろうか。編集を引き受ける前に江田三郎を知る人々と討論してみたいと考えた。

 江田三郎は六九歳で亡くなった。それから三〇年経ったということは江田三郎を知っている人間がほとんどこの世にいない、ということでもある。

 ミハイル・ゴルバチョフの登場とペレストロイカ、ニューヨークでG5プラザ合意。天安門事件。マルタ島で冷戦終結宣言。東西ドイツの統一。ソ連消滅。9・11同時多発テロ。アフガン武力攻撃。イラク武力侵攻。北朝鮮の核実験・・・。三〇年という年月は世界をめまぐるしく変えた。その間、インターネットが急速に普及し、デジタル革命がわれわれの生活をもドラスチックに変えた。

 この三〇年に日本と世界で起こったことを思い起こしてみると、その急激な変化の潮流から取り残されてしまった一群の人々がいることに気づく。三〇年前、江田三郎を批判、糾弾し、追い出した人々にダブらせている。

 政治学者で北大教授・山口二郎に会った。山口は社会党や現代政治について多くの論文を書いている。江田三郎について興味があるか、と問うとそれなりに反応はあった。なんと山口もまた岡山県人だという。

 山口が若い政治学者や歴史学者を誘って、江田三郎についてヒアリングを始めた。意外に思ったのは、多くの人々が三〇年前の江田三郎を語ることに想像以上に真剣で熱心だったことだ。同時に江田三郎に対する郷愁のような、人間的な情感に溢れ、ほのかな共鳴音が響いた。江田三郎が一九七七年の時点で逝くことがなかったら・・・という想いを、多くの人たちが今もなお胸に秘めている。

 江田三郎にかかわりあった人々の話を聞いているうちに、その“想い”が実態あるイメージとして浮上してきた。それは江田三郎が放つ人間としての魅惑の芳香、人間を捉えて放さない政治家の底力のようなものではないか、と気づいた。

 そうか。みんなが江田三郎に抱いている“想い”とは江田三郎の人間力なのだ。

 ということが鮮明になってきたとき、いまの日本の政界、与野党に「人間力」がある政治家が一体何人いるだろうか、との疑問が湧いた。そんな自問自答を繰り返していると、そこで初めて江田三郎没後三〇年の現代的意味がありそうに思えてきた。


 執筆者は思いつくまま、原稿を依頼した。高齢で書くのは無理と分かった人は別として多くの人々が江田三郎について書くことを快諾してくれた。

 本書は第一部をジャーナリストによる江田三郎論、第二部は江田三郎を慕う人たちの江田三郎への手紙とし、第三部で解説を兼ねた江田三郎の現代的意味を問う論文を扱った。

 年表は江田三郎没後を扱った。それ以前は『江田三郎―― そのロマンと追想』に詳細に記されているから、そちらを参照されたい。

 二〇〇七年七月の参議院選をはさんでの編集作業で、しかも民主党圧勝という開票結果から、期せずして参議院で自民党が少数与党に転落、野党が多数を制したため、民主党の江田五月議員を満票で参議院議長に選ぶという政治劇となった。

 まさに今後、問われるのは民主党かも知れない。高い理想と確固たる政治理念を懐深く抱きながら、政治の現場では現実的対応を強いられる。そこを突き抜けないと民主党政権は実現しないだろう。

 二〇〇七年八月二八日、宮澤喜一元首相の内閣・自民党合同葬儀に出席した日のことを、江田五月のブログ(八月二九日発信)に書いている。

 宮澤喜一元首相にまつわる逸話として、私の父が参議院本会議で演壇から、新参議院議員の宮澤さんに、「そこにいる宮澤君などは、社会党に来たほうが良い」と呼びかけたというものがあります。気になったので調べると、一九五六(昭和三一)年六月一日の官報号外に、ありました。第二四回国会の本会議の会議録で、かなり荒れたらしく、私の父が参議院事務総長不信任決議案提出者を代表して提案理由を説明し、質疑応答で、羽仁五郎さんに続く木村禧八郎さんへの答弁の中で、宮澤さんの名前を三回も挙げ、なぜ自民党の中に平然とおられるのかわらないと述べています。顛末は、松野鶴平議長に何度も発言中止を求められ、最後に、議長が「江田君の降壇の執行を衛視に命じます」と発言し、議場騒然、聴取不能、議長退席となっています。若いころの父の「雄姿」です。

 この日参議院本会議は、新教育委員会法案をめぐって与野党が対決、大混乱、翌二日払暁、議長要請により本会議場に警官五〇〇人が出動した、と記録にある。その日から五一年後、江田五月が同じ参議院議長の座にいて議事を取り仕切る。その事実に誰よりも深い感慨を覚えているのは、優秀な息子が自慢だった江田三郎その人ではないか。


 執筆者各位にはいろいろご迷惑をおかけしたが、原稿をしっかり期日までに書いてくださり感謝している。資料を渉猟するため岡山へ四度足を運び、江田邸にも二度にわたって急襲し、どたどたと上がりこんだ非礼をお詫びしたい。

 本作業に若い政治学者、歴史学者が参加してくださったことは大いに刺激となり、同時に新しい発見もあったことを指摘しておきたい。江田三郎という人格がそうした若い人々に今なお注目され、深い関心のもとに生きづいているという事実も新鮮な驚きだった。

 本書を上梓するにあたって、写真の掲載を快諾してくださった文藝春秋社、写真家・栗原達男、飯窪敏彦、島田興生各氏に感謝いたします。

 また江田三郎に畏敬と親愛の念を抱いている明石書店の石井昭男社長の全面的サポートをいただいたことを特記しておきます。本書が短期間ながら立派に仕上がったのは、同社編集部の宮下基幸、手嶋幸一両氏のご協力の結果であることはいうまでもない。

 そして編集実務、庶務を手伝ってくださった江田五月事務所のスタッフの皆さんともども、各位に伏して御礼申し上げたい。

  二〇〇七年九月一二日 安倍首相退陣表明の日に

北岡和義


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