政治家の人間力 第三部 戦後政治における江田三郎 ホーム目次前へ次へ

真の職業政治家としての江田三郎― 解説にかえて  空井 護

真の職業政治家としての江田三郎―解説にかえて
空井 護


江田三郎というひとりの政治家の人間的な魅力については、その謦咳に接する機会を持たれた方々から本書に寄せられた「手紙」によって、ある程度語り尽くされていると言ってよい。ある方にとっては、彼は「戦友」とも呼ぶべき同志的存在であったろう。またある方にとっては、江田はリーダーであり先達であったはずである。さらにまた、ある方の眼にはアイドルとして、あるいは憧憬の対象として彼が映っていたに違いない。しかし、かつて江田といかなる関係を切り結ばれたのであれ、「手紙」を寄せられた方々にとってはまず例外なく、彼はもし存命であれば、単なる懐古談の話し相手というにとどまらず、現在の日本の政治や社会のあり方について見立てを伺いたい、あるいは随所に見受けられる閉塞状況を打開するためのヒントを授けてもらいたい、といった気持ちにさせる存在のようである。このことだけでも、江田の「人間力」の大きさを窺い知るに十分であろう。
しかし、筆者には江田と個人的に接した経験がない。彼が逝去した時に筆者は僅か九歳、よって江田が自分と同時代人という感覚は全くなく、ほぼ完全に歴史上の人物である。とはいえ、筆者と江田との間に架橋し難い溝があることは、彼について評価を下す際にひとつのアドヴァンティッジともなり得よう。歴史的人物の評価は、できるだけ客観的な史料に基づきながら(つまり、個人的な接触のなかで得られた私的な情報ではなく、その人物が残した文章や具体的な行動の記録などの、誰もが検証可能な史料に基づきながら)、可能な限り冷静に下されるべきである。ところが対象と面識がある場合、その記憶(それは楽しい記憶でも不愉快な記憶でも同じである)が心理的な距離を一挙に縮めてしまうがゆえに、冷静な評価は下しにくい。ましてやことは、没後三〇年にしていまだに多くの人々を魅惑し続けて止まない人物に関する話なのである。些か逆説的ながら、直接の面識がないことが「江田三郎とは何者だったのか」を冷静に考えるうえで利点となり得る所以であり、日本社会党や江田に関していくつかの研究論文を発表してきたに過ぎない筆者に本書の解説執筆という大役が回ってきた所以でもあろう。
 とはいえ、以下に記す江田評価が、彼をよく識る方々から全面的な賛同を得られるものとは考えていない。本来であれば、これまでに提示された江田に関する様々な評価や解釈を仕分けし、いずれもそれなりにもっともな理解であるとして優劣をつけず、かかる多様な解釈を許すのは彼の多面性ゆえであり、そこにもまた彼の魅力の一端がある、などと無難にまとめておくのが、こういう場には相応しい所作なのであろう。しかし、江田の政治家としての軌跡を少しでもまじめに追跡してみると、いかに単独少数説であれ自分なりの評価を提示したいという欲求に駆られてしまう。駆出しの研究者に作法と分をわきまえることの大切さを忘れさせてしまうのは、江田の(魅力というよりも)魔力である。
 では、そうした魔力に魅せられて敢えてここに提示する江田評価とは、いかなるものか。それは、江田こそは戦後日本を代表する野党のなかでは極めて稀な、真の意味での職業政治家であった、というものである。ここで職業政治家とは、マックス・ヴェーバー(Max Weber)が『職業としての政治』(一九一九年)において指摘したように、政治「のために」生きるというよりも政治「によって」生きる人間のことを指す。しかし筆者が真の意味での職業政治家、真の職業政治家と呼ぶのは、ヴェーバーの言う政治を「天職」(Beruf)とする人、あるいは政治への「天職」を持つ人のことである。そしてかかる江田評価へと筆者を導くのは、彼が備えていたであろう激しい「権力への意志」である。江田が党指導者への本格的擡頭を果たす際に唱えた「構造改革論」は、一九五五年の社会党統一時に制定された綱領(いわゆる「統一綱領」)における政権獲得構想の不在状況を問題化していた。また一九七〇年代の江田は、「革新連合政権構想」や「革新・中道連合政権構想」を提唱して、社会党における政権構想の欠落を鋭く衝いた。しかも実際には、七〇年代の江田の政権構想を裏面で支えた政権獲得構想は、かつて構造改革論で唱えられたそれを解消するものだったのである。こうして、社会党の政権をめぐる構想(政権獲得構想および政権構想)の問題点を指摘し続け、自らの構想を相次いで世に問い、状況の変化を前にしては持説の根本的修正をも躊躇わなかったという事実こそは、彼の「権力への意志」(党内権力を超えた政治権力への意志)の激しさを裏書きする。江田が「党内権力への意志」と無縁であったわけではもちろんない。しかし彼の言説からは、党内権力の自己目的化が生じていなかったことが十分に窺えるのである。
 では、なぜ激しい「権力への意志」を備えることが、真の意味での職業政治家が充たすべき要件なのか。まずはこの点から論じよう。


そもそも政治とはいかなる営為であろうか。そのひとつの、しかし特に本質的な部分は、政治的共同体の全構成員を拘束する決定の作成のうちに見出されよう。政治的共同体(political community)とは一定の地理的領域内の住民を構成員とする人的共同体のことであり、その構成員をあまねく拘束する決定を政治的決定(political decision)と呼ぶ。ここで問題なのは、かかる政治的決定に拘束性を付与するには、実効的な強制装置が必要であることである。そしてやはりヴェーバーが指摘したように、近代以降、特定の領域内において物理的暴力行使の独占を要求する人的共同体は何よりも「国家」であった。本来、政治的共同体が「国」と呼ばれる地理的領域と重ならなければならない理由は全くないが、実際には、国家が物理的暴力行使の独占を実効的に要求できる地理的領域こそが国だったのであり、そこにおいてはじめて真に政治的決定が語られ得たのである。
世に言う「権力」とは、こうして実効的な強制装置のおかげで拘束力を備える政治的決定を下す力のことである。そしてさらにヴェーバーに倣えば、政治を「天職」とする真の職業政治家とは、情熱的献身を捧げるべき「客観的課題(ザッヘ)」(Sache)を、権力(すなわち政治的決定力)を手段に実現してゆくことに自らの使命を見出す人を指すはずである。ただし、かかる意味での権力の所在は、それぞれの政治的共同体において政治的決定を導くうえで正当と目されている手続きのあり方によって異なる。そうした手続きの総体を政治体制(political regime)と呼ぶとすれば、デモクラシーもまた政治体制の一種であり、さまざまな政治的決定のうちでも特に重要と目されるそれへの到達手続きに関し、特定のあり方を備えた政治体制がデモクラシーなのである。ただ、デモクラシーの語源たる「デモクラティア」の名で呼ばれた古代アテネの政治体制では、市民が集う民会が最高の政治的決定機関であったのに対し、現代においてデモクラシーとは、一般的には、可能な限り幅広い市民が自由かつ公正・公平な選挙で選ぶ代表(representative)が集う議会を、その政治的共同体の最高政治的決定機関とする政治体制を指す。よって現代デモクラシーのもとでは、政治的決定力としての権力は第一義的に議会の多数派に付与され、真の職業政治家とは、議会での多数派形成によって得られる権力を手段に、自らが信奉する客観的課題(ザッヘ)の実現を図る人ということになる。なお、ヴェーバーは政治と倫理の特殊な関係を考えるに際して、「政治が権力―その背後には暴力が控えている―というきわめて特殊な手段を用いて運営されるという事実」(脇圭平訳『職業としての政治』岩波書店[岩波文庫]、一九八〇年、八五頁)に着目したが、以上のようなデモクラシー理解に立つと、この「事実」がデモクラシーのもとでの政治をも貫徹していることが理解できよう。政治とは政治的決定をめぐって展開される政治的共同体構成員(それは職業政治家に限られない)の活動の総体であり、かかる活動が織りなす網の目のなかで最終的に政治的決定を下す力が権力である。そして権力の背後には、政治的決定を拘束的たらしめるための暴力(それは強制装置が保持している)が控えている。デモクラシーは権力を解消するものでもないし、政治を暴力から解放するものでもない。デモクラシーはアナーキーとは異なるのである。
 さて、政治を「天職」とする真の意味での職業政治家は、客観的課題(ザッヘ)への情熱的献身と、その実現のために不可欠の手段となる権力のあくなき追求という、まことに困難なふたつの事柄を同時に行わなければならないのであり、そのいずれが欠けても真の職業政治家の名に値しない。情熱的献身の対象たるべき客観的課題(ザッヘ)を持たない職業政治家は、ヴェーバーの言う単なる「権力政治家」(Machtpolitiker)であり、彼によればそうした人間による「表面上どんなに輝かしい政治的成功も、被造物特有のむなしさという呪われた運命を―威しではなく、本当のところ―免れないことになる」(前掲書、八二頁)。しかしそれとは対蹠的に、「権力への意志」を欠くがゆえに権力の真摯な追求―それはたぶん、端からは容易に窺い知れないほどに膨大な労力を必要とする困難な作業であろう―を怠り、客観的課題(ザッヘ)の探求と確定のみで事足れりとするような、同じく真の職業政治家にあたらない職業政治家も世の中には存在し得る。権力への陶酔の方に問題意識を傾けていたヴェーバーは、そうした職業政治家をうまく表現するタームを提示していないが、それをかなり的確に言い当てているタームとして筆者が思い出すのは、エドマンド・バーク(Edmund Burke)の「思弁的哲学者」(speculative philosopher)である。バークは『現代の不満の原因を論ず』(一七七〇年)のなかで、人口に膾炙した古典的な政党定義のすぐあとに、以下のように記している。
「私一個の考えを言うならば、自己の政策を実地に移すべき手段の採用を拒否する人間が、本心からこの政策の正しさを信じそれを大切なものと考えていると果して言いうるのか不可解である。統治の固有な目標を劃定することが思弁的哲学者の仕事であるに反して、行動の場における哲学者ともいうべき政治家の仕事は、これらの目標を実現すべき適切な手段を発見しそれを効果的に採用することに他ならない。」(中野好之訳『エドマンド・バーク著作集 1』みすず書房、一九七三年、二七五頁)
 日本社会党に籍を置いた職業政治家は数多い。しかし、以上に述べたような政治を「天職」とする真の意味での職業政治家は、管見の限り殆どいない。彼/彼女たちが情熱的献身の対象とすべき客観的課題(ザッヘ)を見失っていたとは、決して思わない。そうではなくて、「権力への意志」を欠いたために、客観的課題(ザッヘ)の実現において不可欠な手段たる権力を真剣に追求しなかったのである。換言すれば、バークの言う「思弁的哲学者」を大きく超えられず、「行動の場における哲学者」(philosopher in action)たり得なかったのである。繰り返せば、現代デモクラシーにおいて権力は議会の多数派に付与されるが、社会党に所属した殆どの職業政治家は、いかにして多数を占めるか、あるいはいかなる多数派を形成するのかといった、「統治の固有の目標」を「実現すべき適切な手段を発見しそれを効果的に採用する」うえで未回答のままに放置できるはずのない問題に、正面から対峙しようとしなかったのである。そうしたなか、激しい「権力への意志」に突き動かされながら、政権―それは日本のような議院内閣制のもとでは、通常は議会の多数派に支えられた内閣を指し、「政権を握る」とは議会内で多数を占め、あるいはそこにおいて多数派を形成することとほぼ同義である―をめぐる自らの構想を相次いで世に問うた江田は、やはり異彩を放っている。そこで次に、一九六〇年代から七〇年代にかけての、政権をめぐる構想(政権獲得構想および政権構想)の提唱者としての彼の軌跡を、いま少し詳しく追跡してみよう(なお、以下の叙述は拙稿「野党指導者としての江田三郎」[坂野潤治・新藤宗幸・小林正弥編『憲政の政治学』東京大学出版会、二〇〇六年所収]の要約であることを、お断りしておく)。


 江田が社会党指導者への擡頭を果たす際に唱えた構造改革論は、統一後の社会党における政権獲得構想の不在状況を解消することをひとつの課題としていた。一九六一年初頭に発表した論稿「今年のわれわれの課題」(『月刊社会党』一九六一年一月号)において、当時書記長(委員長代行)を務めていた江田は、構造改革論提唱以前の社会党が抱えていた問題を、「われわれの基本方針は、綱領にあきらかなように、『暴力や武力を用いず、民主主義的な方式で、議会に絶対多数を占めることによって』社会主義を実現していこうというのであるが、どのような道すじを経て絶対多数になるのか。われわれが日常展開する一つ一つのたたかいは、最終の目標とどうつながるのか、ということは、必ずしも明確でなかった」点に見出していたのである。それでは、「どのような道すじを経て絶対多数になるのか」との問いに、構造改革論はいかなる答えを用意したのか。再び江田に語らせよう。同じ時期に江田が発表した論文「構造的改革と労働運動」(『月刊総評』一九六一年一月号)の一節である。
   「この党の構想する改革のプランは、いまの独占支配の枠内で実施することのできる変革であって、労働者階級を中心に独占の被害をうける広範な大衆行動を背景にして、国民的規模で独占の権力とその活動を制限していく闘いなのである。だからわれわれが政権を獲得する以前においても政策転換の要求として迫り、積極的に生産関係にくい入ることによって部分的改革を蓄積し、独占支配の基礎をほり崩すことによって彼らを孤立させ、主体的にはこの過程を通じて反独占の国民的結集をはかり、一定の情勢と力関係のもとに、この「反独占国民連合」を基礎に護憲・民主・中立の政府をうちたて、さらにこの政府を社会主義権力に転化して社会主義への途を切り開いていくことができる、という構想に立っている。」
 この引用文の前半部分は、社会党が政権獲得以前に目指すべき「部分的改革」に関する記述であり、そこで重要なのは「広範な大衆行動を背景にして」との語句である。構造改革論が大衆闘争の重要性を強調したのは、「院内勢力が少数でも、院外の多くの国民と結びつき、内外相呼応してせまれば、貫徹できる要求があるはずである」(江田前掲「今年のわれわれの課題」)との信念があったからであり、こうした大衆闘争の実効性に関する積極的・肯定的な評価が、一九五〇年代後半に大規模に展開された一連の抵抗闘争が一定の成果を収めたという事実によって裏付けられていたことは言うまでもない。構造改革論者が、社会党の取り組むべき第一の課題を大衆闘争指導可能な態勢を整備するための党組織改革に見出したのも、かかる文脈においてのことなのである。しかし構造改革論は、このように「政策転換の要求」に呼応する「部分的改革」の必要性と、大衆闘争の積極的展開という条件のもとでのその実現可能性を論じるにとどまらなかった。さきの引用文の後半、すなわち「主体的には」以下の部分が明らかにしているように、それは直前の五〇年代後半に「成熟」を見せた「反体制国民運動」(松下圭一「革新政治指導の課題」、『中央公論』一九六一年三月号)を、新たに「反独占」という目標を与えつつ社会党の主導のもとでより一層活発に展開すれば、「広範な大衆行動」のなかで「部分的改革」の進展とともに「反独占の国民的結集」もすすみ、社会党はそれを基盤に「護憲・民主・中立の政府」を樹立できると展望したのである。構造改革論が政権獲得構想であった所以である。
 なお「統一綱領」の中にも「闘争」の重要性を強調する議論はたやすく見つかるが、「統一綱領」が政権獲得プロセスをなんら明確に論じないとき、「院外の大衆闘争」や「民主的な日常闘争」の重要性が、政権獲得後における政権安定化過程と「社会主義革命」の本格的な展開過程とに関してのこととして限定的に理解される可能性は十二分にあった。政権獲得構想としての構造改革論の意義は、一九五〇年代後半の政治的経験を踏まえつつ、かかる限定的な理解の余地を消した点にあったとも考えられよう。
 ところがその後、周知のように構造改革論争はごく短期間のうちに派閥抗争へと一挙にエスカレートし、一九六二年一月開催の第二一回党大会で構造改革論を「戦略路線として直ちに党の基本方針としてはならない」(「第二一回党大会運動方針修正案」)との決定がなされたのち、同年一一月の第二二回党大会における「江田ビジョン」非難決議の採択を受け、江田は書記長を辞任する。ここに早くも構造改革派の敗退が明らかになったのである。とはいえ、「江田ビジョン」が社会主義構想として提唱された以上、その否定が直ちに政権獲得構想としての構造改革論の否定を意味したはずがない。また、構造改革派の敗北が構造改革論の敗北を意味したかどうかは、第二一回党大会での構造改革論の「戦術」規定を受けて策定された「日本における社会主義への道」(以下、「道」と省略)の内容を検討したのちに、はじめて判断を下し得る問題である。そして、あえて極端に切りつめて要約すれば、議会内闘争と「有機的」に「結合」した大衆闘争の活発な展開のもと、「労働者、農漁民、中小商工業者および知識層など広汎な反独占の諸階層の圧倒的多数を組織化し、それを党の周辺に結集させ」、そこに成立する「党を中心とした反独占国民戦線」を基盤とする「社会党政権」、すなわち「護憲、民主、中立という民主主義的性格」を備えた「過渡的政権」を樹立するというのが、「道」が提示した政権獲得シナリオであったのであり、ここに構造改革論との政権獲得構想上の連続性を見出すのは、実はさして困難なことではないのである。たしかに「道」は、院内での少数を補う院外大衆闘争を通じての部分的な「構造的改革」の「蓄積」という構造改革論に特有の発想を完全に排除しているし、政権樹立選挙に際して「危機」の現出を想定している点で構造改革論よりも格段に「レーニン主義」的色彩を強めていたとは言えよう。しかし、〈市民社会〉を舞台とした大衆闘争の展開のなかで多数派を結集し、それを基盤に社会党政権を樹立するという、政権獲得構想における大衆闘争先行論(その意味で〈市民社会〉先行型の政権獲得構想)の根幹部分については、「道」はそれを構造改革論からしっかり引き継いでいたのである。よって構造改革論以来、あるいはそれを準備した一九五九年の党機構改革以来盛んに唱えられていた「議員党的体質」の解消という課題の重要性に関し、「道」が構造改革論と完全に意見を同じくしていたのは何ら不思議なことではないし、中心的な構造改革論者の討論を踏まえて「党の伝統的な体質的欠陥」の解消を唱えた「成田三原則」が、「協会派までがこぞってお題目のように唱える党の護符みたいにな」ったのも(貴島正道『構造改革派』現代の理論社、一九七九年)、決して理由のないことではなかったということになる。少なくとも六〇年代後半、江田が構造改革論に代わる新たな政権獲得構想を提唱しようとしなかったのは、それなりに理解できるところなのである。
 こうして構造改革論が問題視した社会党における政権獲得構想の不在状況は「道」の策定によって解消され、しかも構造改革論が唱えた政権獲得構想における大衆闘争先行論は「道」によって否定されたのではなく、むしろ強固に確定されたうえで、最右翼派閥が離党したのちの六〇年代社会党に広く浸透した。しかるにこのことは、社会党の野党勢力内での地位の低下を促したものと考えられる。一九六〇年一一月、池田内閣下で実施された第二九回総選挙に際し、民主社会党の積極的な候補者擁立を前に自らの擁立候補者を絞り込んだのち、大衆闘争先行論を備えた社会党が六〇年代を通じて選挙への消極姿勢を貫くとき―大衆闘争先行論は選挙での政権獲得に乗り出す前に「反独占・国民連合」あるいは「反独占国民戦線」の形成という高いハードルを設定するがゆえに、国政選挙(とりわけ政権の行方を直接左右する衆議院議員選挙)への消極姿勢を正当化した―、選挙アリーナが弛緩して野党第二党以下の諸政党の議会進出が促されたのは、しごく当然の成りゆきだったと考えられるのである。そして、一九六九年一二月の第三二回総選挙において「野党多党化」状況が一挙に顕在化したとき、この新たな政党布置への対応として社会党は単独政権論から連合政権論への、政権構想の転換を余儀なくされることになる(一九七〇年一一月開催の第三四回党大会決定「新中期路線 一九七〇年代の課題と日本社会党の任務」[いわゆる「新中期路線」])。
 しかるに、政権構想のかなり大きな転換とは裏腹に、六〇年代と七〇年代の間での社会党の政権獲得構想の連続性は明らかであった。「新中期路線」は連合政権論への転換を受けて「全野党の共闘」という新たな活動目標を組み入れつつ、依然として「大衆運動」によって形成される「反独占・反自民の国民戦線」こそが「国民連合政府」の「基盤」であるとの認識を示していた。六〇年代の大衆闘争先行論は七〇年代に大衆運動先行論へと変化するが、大衆闘争と大衆運動の違いは極めて曖昧であったばかりか、両者は〈市民社会〉先行型の政権獲得構想という点で全くの同型だったのである。そしてこの大衆運動先行論に忠実に従っている限り、社会党が政権構想の(連合政権論以上の)さらなる具体化を怠ったところで何の問題も生じなかった。「反独占・反自民の国民戦線の結集」が当面の最優先課題であるとき、それに先立って「国民連合政府」の具体的なあり方を論じる必要などないからである。「新中期路線」は、「われわれの努力」は「全野党の結集をめざす」ことに傾けられると唱えたが、全野党共闘論は全野党政権論ではない。それが力説したのは、「国民連合政権」の構成は全野党共闘の「結果」であるということ、つまり全野党共闘と大衆闘争とを通じて「反独占・反自民の国民戦線」が形成されるまでは「国民連合政権」の構成は判明しない、ということなのである。全野党共闘論は、政権獲得構想における大衆運動先行論のもとでの政権構想の具体化先送りと表裏一体の関係にあったのである。
 こうして一九七〇年代の社会党は、政権構想の転換をもって「野党多党化」状況に対処せんとしたものの、〈市民社会〉先行型の政権獲得構想を堅持しつつ連合政権論を採用したがために、その政権構想はさらなる具体化を施されることなく放置された。そして、ここに生じた政権構想の不在状況を見逃さず、論文「革新連合政権の樹立をめざして」(『月刊社会党』一九七一年一〇月号)において早速に独自の政権構想を提唱したのが、他ならぬ江田であった。そこにおいて江田は、一九七一年六月実施の第九回参議院議員選挙を機に政権交代の可能性が高まりつつあるとの情勢判断を示し、「国民の大いなる反自民意識の高揚と、現状打破への切実な要請」により「革新政権への希望」が「再び光明をとりもどし」つつある状況下、「革新連合政権」は「社公民三党共闘をさらに発展させ、革新と現状打破の展望を示しつつ、広汎な政治不信層や批判層への働きかけを強め、次期選挙において社公民を中心とする野党連合勢力が、議会の過半数を獲得すること」で樹立されると論じた。「社公民三党の野党連合」こそは、「来たるべき総選挙を通じてさらに広範な国民諸層の代表と共に「革新連合政権」を構成する」のである。ただしこの時点での江田は、いまだ〈市民社会〉先行型の政権獲得構想を捨てていない。彼の立論は、「新中期路線」における「反独占・反自民の国民戦線」を「革新国民戦線」をもって置換する形で展開していたのである。しかし、「新中期路線」が「国民連合政権」の樹立に乗り出すべき総選挙の時期を具体的に論じていなかったのとは対蹠的に、江田は政権樹立選挙を明確に「次期選挙」に措定していた。かかる措定を可能にしたのは、「すでに国民のあいだに反自民革新国民戦線的なものが潜在している」との江田の認識であり、さらに元をただせば、こうした「革新国民戦線」の成立可能性の高い見積もりは、江田が各地の多様な市民運動を高く評価し、その存在を前提に「革新国民戦線」を構想していたことに起因する。「革新国民戦線」の成立可能性はきわめて高く、よって政権樹立選挙が間近であるとすることで、江田は政権構想の具体化先送りを正当化するはずの大衆運動先行論に従いながらも、政権構想の早期具体化の必要性を唱えることができたのである。
 そして江田の社公民政権構想提示を受け、一九七二年一月開催の社会党第三五回党大会では、前年二月に江田派・旧河上派・山本グループなどに属する衆参両院議員を中心に結成された「現代革新研究会」が「政権構想確立に関する決議案」を提出するに至る。しかるに、この決議案は大会運営委員会において握りつぶされ、陽の目を見ることなく終わる。しかも田中内閣の成立ののち、同年一二月に実施された第三三回総選挙では、自民党は前回総選挙から一六議席を減らして獲得議席数二八六に甘んじたものの、得票数は二二〇万票余りの増加を記録し、六〇年代を通じて見られた絶対得票率の減少傾向にも一旦歯止めがかかった。この事実は、公明・民社両党が後退し、逆に共産党が四〇議席へと躍進を遂げたという事情とともに、江田の主張の説得力を大きく削ぐことになったのであり、ここに彼はしばしの沈黙を余儀なくされたのであった。
しかしそれから一年半後、一九七四年七月実施の第一〇回参議院議員選挙を機に状況は再び変化した。物価や地価の急激な上昇に石油ショックが加わって生活不安が高まるなか、支持率を急落させた田中内閣はこの参議院選挙に起死回生を賭けたものの結果は自民党の完全な敗北であり、自民党一二七議席、議席率五〇・四%という「保革伯仲」状況が参議院で突如として現出したのである。こうして七〇年代を特徴づける政党布置として、「野党多党化」にわずかに遅れて新たに「保革伯仲」が現出したとき、江田は息を吹き返した。一九七四年一二月の第三八回党大会で副委員長に就いた江田は、一九七六年二月、ロッキード事件の発覚と時を同じくして、松前重義東海大学総長を代表とする「新しい日本を考える会」の発起人に矢野絢也公明党書記長・佐々木良作民社党副委員長とともに名を連ね、社公民政権の掲げるべき「新しい日本のビジョン、そこに到る政策体系のコンセンサス」づくりに乗り出す(江田「開かれた政権をこそ」、『中央公論』一九七六年八月号)。さらに、同年七月の田中前総理の逮捕とその後の自民党内派閥抗争の激化を受けて三木内閣が大きく動揺を見せるなか、一二月に実施された第三四回総選挙において自民党が獲得議席数二四九という大敗を喫し、ついに「保革伯仲」状況の衆議院への本格的波及が明らかになると、江田は翌一九七七年一月、「革新・中道連合政権についての意見書」を中央執行委員会に提出し、翌月に開催される第四〇回党大会で決定予定の一九七七年度運動方針にそれを採り入れるよう求めるに至るのである。
この意見書は、「いまの段階において政権構想に線引きすることに反対し、参議院選挙での保革逆転をかちとることが先決だと述べている」成田知巳委員長に真っ向から反論する形で、政権構想の早期具体化の必要性を力説する。もちろん、そこで提示された革新・中道連合政権構想は、目前に迫った参議院選挙対策に過ぎないものだったわけではなく、その後の衆議院選挙をも視野に入れながら、「最短の道」に沿った政権獲得を展望して唱えられた政権構想であった。しかし、政権構想の具体化先送りが〈市民社会〉先行型政権獲得構想から導かれていた以上、政権構想具体化要求を突き詰めてゆけば、その解消要求に帰結するのはなかば論理的必然である。そして現にこの段階で、江田の政権構想を裏面で支える政権獲得構想は、「保革伯仲」状況の深化により院内の状況如何のみで与野党間での政権交代が生じる可能性が生まれたのを受け、〈市民社会〉での政権基盤の形成を政権獲得への第一歩に位置づける発想を完全に解消していた。このことは、江田の意見書と時を同じくして「新しい日本を考える会」が発表した「中道革新政府の樹立をめざして」と題するアピール文―それが江田自身の構想と一体の関係にあったことは、彼が著書にその前文を引用・掲載したことから明らかである―が、以下のように述べていることから明らかとなる。
  「中道革新政府は自由と民主主義を基調とする漸進的改革をめざす社会主義政党と、  革新的ないしリベラルな諸党派、諸勢力の連合であり、具体的には次の諸勢力を中心  に構成される。
   (1)社公民三党およびその支持団体
(2)特定の政党と結びついていない住民運動、市民運動などを代表する都市、農漁    村の無党派市民層
   (3)かつて保守陣営に属していたが、自民党路線と訣別し、中道革新政府を支持す     る用意のある個人ないし集団
   この三つの勢力の連合が成立するとき、中道革新政府はもっとも安定した基盤をも  ちうるであろう。しかし、それは中道革新政府の樹立に不可欠な条件ではない。とり  わけ(3)の要素は流動的であり、われわれはそれに過大な期待をつなぐことはできな  い。またこの要素を欠いても中道革新政府の樹立は可能である。決定的なものは(1)の社公民三党の連合である。……
   社公民三党の協力が強固に確立されるならば、(2)の無党派市民層の政治的結集を  も容易にするであろう。
   他方、無党派市民層の結束が社公民三党の連合を促がす側面をも見落してはならな  い。」
 特徴的なのは、連合政権が〈市民社会〉における政権基盤の事前の形成を前提とするのではなく、むしろ逆に〈政治社会〉アクター間での連合形成こそが、〈市民社会〉における政権基盤の結集を促進するとの発想である。「無党派市民層の結束が社公民三党の連合を促がす側面」については、単に「見落してはならない」と論じられているに過ぎず、「社公民三党の連合」が「支持団体」の連合を基盤にすると論じられているわけでもない。かかる発想が〈市民社会〉先行型の政権獲得構想と相容れないものだったことは、贅言を要しまい。江田は急激に進行した〈政治社会〉変容を踏まえ、〈市民社会〉先行モデル―それは十数年前、構造改革論者であった彼が大衆闘争先行論という形で自ら熱心に唱えていたものである―の解消に踏み切っていたのである。
 しかしこの結果、江田は執行部との対立をさらに深めたことになる。政権構想具体化の是非から政権獲得構想の内容へと、両者の対立はより原理的な色彩を濃くしたのである。容共姿勢を堅持する社会主義協会に加えて執行部をも完全に敵に回せば、彼に勝ち目などない。かくして一九七七年二月開催の第四〇回党大会では、江田の意見書は趣旨説明すら許されないままに否決されるのであり、これを機に江田が社会党政治家としての軌跡に自ら終止符を打ったこと、さらにその直後、彼の人生の軌跡が突如として途絶えたことは、周知のとおりである。


江田は図らずも遺著となった『新しい政治をめざして 私の信条と心情』(評論社、一九七七年)において、「党内での協会派の比重が年とともに加重されてきた」ことの結果としての「社会党の質的変化」を指摘し、「私の目のまえで、社会党が私の愛してきた社会党でなくなりつつある」ことを慨嘆した。しかし実際には、彼自身の思想も社会党指導者への擡頭以後かなりの「質的変化」を遂げたのであり、六〇年代初頭に構造改革論者として江田が語った社会主義像と、七〇年代半ばに「市民社会主義」者として語ったそれとの間の大きな懸隔は、誰もが容易に見出すところであろう。ただし江田が社会主義像を柔軟に変化させたことは、彼が教条主義とは無縁の社会主義者であったことを意味するにとどまる。江田をして社会党に集う職業政治家たちのなかで真に例外的な存在たらしめたのは、社会党の政権をめぐる構想の問題点を問い続け、自らの構想を積極的に提唱し、状況の変化を前にしては持説の根本的修正をも躊躇わなかったという事実であり、かかる事実によって存在が裏書きされる彼の激しい「権力への意志」なのであった。
 おそらく一般に理解されているところとは異なり、実際には社会党は、江田が提示した政権をめぐる構想を、彼を排斥しつつかなりの程度受容していった。政権獲得構想としての構造改革論については、その根幹部分が六〇年代社会党に受容されたことをさきに指摘したが、同様に江田の離党後、社会党は支持労組の圧力を受けて社公民路線を明確化し―その画期をなしたのは一九八〇年一月の社公連合政権合意の成立であった―、さらに一九八六年一月の第五〇回党大会において「日本社会党の新宣言 愛と知と力による創造」(いわゆる「新宣言」)を採択して、「統一綱領」とともに「道」を「歴史的文書」化し、〈市民社会〉先行型の政権獲得構想を解消するのである。しかしいずれの場合も、「権力への意志」を十分に持ち合わせていない議員が集う最大野党が演じたのは、所詮は「デンマーク王子抜きのハムレット」(Hamlet without the Prince)に過ぎなかったと言えば言い過ぎであろうか。
「国会議員二十五年、政権もとれず、恥かしや」。江田が永年勤続議員として表彰され、感想を求められた際に色紙に記した言葉である。かかる羞恥心が真摯なものとなるのは激しい「権力への意志」を備えた政治家においてのみであるが、筆者にはこの言葉が自虐趣味とはまるで無縁の、江田の実感の偽りのない表現としか思われない。そして、情熱的献身を捧げるべき客観的課題(ザッヘ)の探求とともに、自らの根底にある激しい「権力への意志」に突き動かされつつ、客観的課題(ザッヘ)の実現にとって必要不可欠な手段たる権力の真剣な追求をも怠らないような、現代デモクラシーにおける真の意味での職業政治家の姿を江田のうちに見出す者は、おそらく筆者だけではないはずである。


空井 護 (そらい・まもる)
1967年広島県生まれ。92年東京大学大学院法学政治学研究科修士課程修了。東北大学法学部助教授を経て、2006年より北海道大学大学院法学研究科教授。専攻は戦後日本政治・現代政治分析。訳書に『アメリカ文化の日本経験』(ジョセフ・M・ヘニング著、みすず書房)。


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