政治家の人間力 第二部 江田三郎への手紙 ホーム目次前へ次へ

江田さんの世代、社会主義とは社会正義と同義語ではなかったですか  菅 直人

(菅直人の手紙)

江田さんの世代、社会主義とは社会正義と同義語ではなかったですか

江田三郎さんとはたった一回お会いしただけです。今にして思えばそれは決定的な出会いであり、別れでもありました。
そのころ私はロッキード選挙に立候補し惜敗したとはいえ都市問題に関心があった市民運動のグループの一人、相手は戦前の農民運動の闘士で特高に弾圧され獄中生活を体験した筋金入りの政治家でした。私とは四〇年ちかくも歳が離れています。江田三郎さんと私とは親父と息子ほど年の差がありました。
それなのに江田三郎さんと出会った若い私がかなり突っ込んで日本の政治や将来について全く対等に議論できたことは今も新鮮な感覚で回想できます。同時にその出会いには運命的なものを感じます。
三〇年前、保谷(現在、東京都西東京市)の小学校の体育館で初めてお会いし、いきなり日本の政治について現状認識を中心に議論したのが公開の討論会でしたが、その会が終わってからも話し合いを続けました。その日は一日で恐らく五、六時間は議論したと思います。
そのたった一回の出会いが政治家としての私の現在に繋がっているのだと思うとまさに、あの保谷での江田三郎さんとの出会いこそ政治家・菅直人の原点だった、といえるかも知れません。
私と江田さんが一緒にやろうということになった経過は『社民連一〇年史』に詳しいし、そこには江田さんと話し合った討論会の議事録も掲載されています。
ですから今は菅直人、個人としてその後のいろいろ政治的な出来事も含めて江田さんへの手紙を通じてお話したいと思います。
私の政治との係わりの最初は、一九七四年の市川房枝(婦人参政権運動の実践者、参議院議員)さんの選挙です。当時、市川さんは八一歳で、三年前の選挙で落選、年齢を理由に引退を語っておられた。
私たちが自民党の古い政治体質、金権政治に嫌気がさして、市川さんがお金のかからない選挙を提唱していたことに共鳴して、市川さんのような政治家を応援しようと仲間と話し合っていたのです。でも市川さんは高齢でしたから体力的に無理ではないか、という懸念がありました。
ところが一九七四年の参議院選の年のはじめ、成人式を祝う市川さんのグループのイベントで餅つき大会を行ったのです。そこへ市川さんが来られて、元気に餅をついた。
「バシッ、バシッ」という餅つく音を聞いて、ああ、これならじゅうぶん選挙はやれるな、と思って仲間で市川さんを口説いたのです。「市川さん、私らが勝手に選挙運動やりますから出てください」と。そうして選挙資金を集めるカンパ運動も始めた。市川さんを敬愛していた朝日新聞の記者で、自分の墓は市川房枝さんのお墓の隣にするんだ、というほど惚れきっていた人がいました。
私ら若い市民運動の連中が勝手に政治の大先輩の市川さんを担ぎ出す、ということでその記者がでっかい記事を書いてくれたんです。それがきっかけでマスコミが次々と取り上げてくれた。市川選挙はマスコミの注目を浴びて私たちの仲間でやり通し当選できたのです。
市川さんの得票はなんと一九三万票、全国区第二位当選でした。三番目が青島幸男さんで一八三万票、たった二人で四〇〇万票近くの票が集まったのです。
そのすぐ後、七六年に田中角栄首相が逮捕されたロッキード事件がありまして、自民党も社会党もダメだ、こんどは自分たちで選挙やろうということで、「あきらめないで参加民主主義をめざす市民の会」という運動体をつくった。そして七六年の衆議院総選挙で私が反自民革新系無所属ということで衆議院選挙に立候補したのです。ロッキード選挙と呼ばれました。
私は立候補にあたって論文を書いたのです。「否定論理からは何も生まれない」という論文です。それを『朝日ジャーナル』に書いた。副編集長が筑紫哲也(TBS「ニュース23」キャスター)でした。書いたけどなかなか掲載されない。そのうちに公示となり選挙戦に突入したので、もう(掲載は)ダメかな、と思っていたらなんと選挙戦最中に掲載されたのです。
市川選挙の選挙事務長をやったといってもほとんど無名の青年でしたが善戦して七万票余り獲得できました。残念ながら次点で落選だった。
私は当選するつもりだったのですが、仲間は落ちると思っていたらしい。それなのに七万票も取れたと祝杯をあげていましたね。
だって選挙戦に入ったとき、私の手元にあった支持者名簿は一〇〇人くらいでした。東京七区の人口は一六〇万人、有権者が一〇〇万人くらいで、一〇万票とらないと当選できないというのに私の支持者は一〇〇人。
この同じ総選挙で江田三郎さんが岡山で次点に泣いた。予想もしない大物の落選にメディアも驚き、社会党にとっても江田さん個人にしても大きな転換の契機となりました。
江田三郎さんは七七年の参議院選挙を前にして社会党を離党した。マルクス主義の硬直化した社会党では時代の変化について行けない。新しい革新政党をつくるということを公約にたった一人で参議院全国区に出馬するという大胆な政治行動でした。大変、大きなインパクトで注目されました。
そうしたら篠原一先生(東大教授、政治学、市民運動論)から私にコンタクトがあって「江田三郎さんの側近が君ら市民運動の仲間に会いたいと言っている。一度会ってみたらどうですか」と言われたのが江田三郎さんと出会うきっかけとなりました。
篠原先生や松下圭一先生(法政大学教授、政治学、市民参加論)には実際に大学で講義を受けたことはありませんが、市民運動の実践や理論付けなどでいろいろ教えを受けて、私たちの市民運動の師匠格として教えを乞い、尊敬していました。
例えば松下先生の『市民自治の憲法理論』(岩波新書、一九七五年)は私の政治活動のバックボーンで、自分たちが市民運動として実践とするのだ、と考えていました。
もちろんそれまででも江田三郎という社会党の政治家は新聞やテレビで報道されていましたからよく存じあげておりました。江田さんの社会党離党は大変な事態で、大いに期待できるものがあったと思います。
ちょっと個人的な話になりますが、実は私も本籍は岡山で、妻の出身も岡山、義理の兄が江田五月さんと岡山の旭中学校の同級生ということもあって、五月さんは未だ政治家ではなかったけれど、マスコミで知っているという以上にある種の親近感をもっていました。実際に五月さんに初めてお会いしたのは江田三郎さんが亡くなった病院でしたが・・・。
話は私たち市民運動をやっていた若い仲間と江田三郎さんと一緒にやりませんか、というお誘いでした。江田さんに一番近いところで支えておられた下町運動の今泉清さんや公害問題研究会の仲井富さん、世田谷市民クラブ生協の岩根邦雄さんら・・・私と運動仲間だった片岡勝さん、宮城健一さんらとお会いしたのが最初でした。
こういう話はできるだけ大勢の市民がいる場でやりましょう、と私たちの方から公開討論会を提案したのです。言うまでもなく江田三郎さんという政治家はとても大きな存在でしたから小さな私たちの市民運動の仲間と公開の場で対等に議論する、ということに意味がある、と私たちは考えた。そこで保谷の学校での公開討論会ということになったのです。
江田さんの側からは岩根さんと労働運動の実践家だった田中尚輝さん、田中さんは今、高齢者福祉問題に取り組み、活動している方で、その分野では知る人ぞ知る人です。
私の方は私と片岡勝さん、宮城健一さん、それに司会を篠原先生にお願いして、サラリーマン同盟の青木茂さんも参加していただきました。二時間半ほどみんなの前で真剣に日本の政治の現状と問題点について話し合いました。
その日は日曜日でしたから私の父・菅寿雄も一緒についてきて、始まる前に江田さんと世間話のような感じで懇談する時間があったのです。親父は岡山の郊外、福渡という田舎の生まれで、江田さんと同郷でした。福渡小学校の同窓だったという縁です。親父の方が江田さんより六年ほど若かったので直接、面識はなかったのですが、そんな縁で親父は親父で江田さんに親近感を持っていたようです。
その時の話は私にとっても非常に強烈な印象で、シンポジウムが終わって、もう少し話をしようということになって私たちの選挙運動の事務所を選挙後、塾に使っていたのですが、そこに江田さんに来ていただいて話し合いを続けた。その場で、『現代の理論』編集長の安東仁兵衛さんや江田ブレーン・ナンバーワンの貴島正道さん、ほかにどなたがいましたか・・・、「菅君、一緒にやらないか」と言われたのです。
言われてもすぐ返事はできなかった。仲間がいましたからね。後で聞いた話ですが、江田さんは私らとの会合の後、朝日新聞記者だった石川真澄さんのお宅に寄って帰られた、と聞いています。江田さんも悩みや迷いがあったのでしょう。
それと相前後していろいろ江田さんのグループとは話し合いが進んで、結局、一緒にやろうということになった。江田さんは「社会主義」を手放す考えは毛頭ない。私らは「市民運動」を主張して、じゃあ「社会主義」と「市民運動」の連合ということで「社会市民連合」という名にしようと・・・。ですから社市連のロゴも二つの輪が五輪のマークのように繋がっています。
私が江田三郎さんに会ったのはその時、一回だけなんです。二度と会うことはなかった。
たった一回だけ。文字とおり“大いなる邂逅”でした。
再びお会いしたとき江田さんはご遺体でした。亡くなった直後、慈恵医大付属病院で・・・。
今でも忘れられないのは江田さんにとって「社会主義」というのが政治の原点で、政治家として非常に重要な位置を占めていました。私には社会主義という思想はなかったものですから市民主義といいますか、ぜんぜん、社会主義に拘らない。でも江田三郎さんと私とは表現は違っていましたが、意外と話し合ってみるとめざしている方向は同じだということがよく分かったのです。
そのところは社会党の老政治家にしては驚くべき柔軟なところが私には新鮮に映りました。いま最大の票田となっている無党派と言われている、自民でも社会でもない、いわゆる一般の市民層との連携こそ重要だということが江田さんと私たちが一致した点でした。
ですから江田さんに「別に社会主義と言わなくてもいいのではないですか」と言いましたら「君ら若いもんには分からんだろうが、ぼくの長い人生で社会主義はとてつもなく重要なんだ」と言われたのが強烈な印象として未だに残っています。
その後、いろいろ話し合って「一緒にやろう」ということになって「社会市民連合」という政党を作ることになったのですが、その時にはすでに江田さんが全国区から出る、ということが決まっていましたので、それでは私は東京地方区から出ようということになったのです。こうして社会市民連合が誕生したのです。
ところがそうしているうちに江田さんが入院されて、あっという間に亡くなられた。
ですから私はあまり個人的な感情を抱く間がありませんでした。正式に公開の会合で話し合っただけで江田さんが突如、逝ってしまった、という経過です。
もともと私は社会党という政党には厳しい見方をしていました。市川房枝さんの選挙で、市川さんと青島幸男(後に東京都知事)さんの二人で、全国区二、三位で四〇〇万票近くとった、その意味を社会党の人たちは「もともと有名人だから」ということですませちゃう。その投票者の政治的意思を考えようとしないのです。当時、社会党がとった票が一〇〇〇万票から一二〇〇万票くらいでした。
ですから私は「こんな市民から遊離した社会党じゃあダメだな」と思っていたんです。後に橋本龍太郎内閣の経済企画庁長官になった田中秀征さんが当時、『自民党解体論』という本を書いた。非常に面白い本でした。私は田中さんと会ったとき「じゃあ、ぼくが書くのは“社会党解体論”ですね」と言ったことを覚えています。
もともと私たちがめざしていた市民運動というのは政策論でした。なにかに反対する、という市民運動じゃあなくて、ポジティブに問題を提言してゆこうという政策提言運動です。
私の親父はサラリーマンで、高校生のとき、三多摩に引っ越してきた。それで東京の住宅はなんでこんなにバカ高いんだ、というサラリーマンの不満が実感としてありました。
住宅が高いのは地価が高いからです。どうすれば土地の値を下げることができるか、という問題意識から出発した。東京はサラリーマンにとって住みにくい。
私たちの「市街化区域内の農地の宅地並み課税」というのは傑作な運動でして、いわゆる市街化区域の農地には宅地と同じ税金をかけろ、という一種の増税運動だったのです。サラリーマンが安く住宅を手に入れるためには地価を下げる必要があります。つまり市街化区域の農地に対しては宅地並みの税金をかけるべきだ、という考えですね。これは有名な華山理論という『地価と土地政策』という名著がありまして、そうすれば土地の値段は下がるはずだと考えました。
そういう政策論争といいますか、政策提言運動だったのです。
もともと市川さんの選挙もサラリーマン同盟の青木茂さんに会いにいったことから始まったのです。
「青木さんのところへ行け」というアイディアは後に私の選挙責任者や江田五月さんの秘書になった湯川さんでした。青木さんに市川さんを紹介してもらった。大学紛争が終わっていろんな大学の連中を繋ぐ役目を湯川さんがやっていたのですね。
青木さんも後にサラリーマン新党を立ち上げて選挙に出て当選しました。
そういう政策提言運動としての市民運動はこれまでにないものでした。何かに反対というのではなくて「こうすべきじゃあないか」というポジティブな運動でした。
「都市協構想」という者もいました。地方に農協があるのだから都市には「都市協」があってもいいじゃあないか、という考えです。
土地保有税をちゃんととっていればあんな投機的なバブルは起きなかったのです。でもこの土地増税というのは自民党から共産党までぜんぶ反対していた。
もし江田さんが社会党をぶっ壊して新しい政党をつくる、と言って二〇〇万票を超えるような圧倒的な票をとったら本当に社会党はまっ二つに割れて、その時にはもっと大きな新党ができたはずです。政界再編は今と違った方向で大きく進んだと思います。
私たちは当時マスコミが騒いでいた「社公民」とか「江公民」というような議論には全く興味がなかった。それより江田さんが社会党を出たことは千載一隅のチャンスと考えていましたから、あっ、これで政治が動く、と思いました。
もちろん市民運動といっても実際にはちっぽけな存在でしたから江田さんの新党運動の刺身のツマていどにしか利用されかねない、という警戒感はありました。でも逆にこちらから利用してやろう、という気持ちのほうが強かったというのも本当です。
しかし実際の政治では「選挙」をどうするか、というのが大切です。国民に自分らの政治理念を発信しないかぎり何事も動きません。だから江田さんが「顔」として全国区に出るのなら私が「東京地方区」に出ようと。そのためいろいろご迷惑をおかけした人もいましたが・・・。
江田三郎さんには個人的に親近感を持っていたのは事実ですが、社会党の江田さんと一緒にやるという発想は皆無に近かったと言えます。
ところが江田さんが社会党を飛び出したことで、新鮮なショックを受けた。社会党を解体できるのはぼくらではなくて江田三郎さんだ。江田さんしかいない、と考えるようになりました。
田中秀征さんが自民党を解体するには志しある者は自民党から飛び出せ、と言っていた。それに呼応するような格好で河野洋平(現衆議院議長)さんや田川誠一さんらが自民党を出て、新自由クラブをつくったのです。これが江田三郎さんにも大きな刺激となったことは間違いありません。
社会党は政策として都市問題だとか公害問題に全く対処できなかった。なんで東京の土地はこんなに高いんだ、とか、なんでこんなに満員電車なんだ、とかいう発想がない。ただ労使の問題しか対応できていない、という根本的な政党としての欠陥があったというのが私の認識だったのです。
ですから社会現象としての都市問題に対処できないのが社会党、という批判です。そのころ市川選挙を応援してくださった有吉佐和子さんの書いた小説『複合汚染』が話題となって合成洗剤を使わない運動とか、「かかしの会」というのをつくって仲間や家内が援農に行ったりしていたのです。
社会市民連合ができても江田さんが亡くなってしまっては、結果的に社会党を潰す、ということにはならなかったのですが、江田さんが社会党を飛び出した行動には従来の社会党の発想を飛び越えたところにあったと思います。
江田三郎さんという政治家は社会の変化をきちんと見つめ、政治が取り組むべき問題をよく理解していました。農業政策や公害問題は今でこそサミットのテーマになったグローバルな大問題ですが、江田さんは三〇年前にそれをきちんと認識し、発言していました。
有機農業の重要性とか公害対策を政策に取り入れ主張していました。まさに先見性のある方でした。政治家とはかくあるべし、と言いたい。特に今の若い政治家に、ですね。
江田さんがあのとき、逝ってしまわれたということは社会党をぶっ壊す、という点でインパクトを失ってしまった。
江田三郎さんの死で社会党は潰れることなく生き残ったのでした。
今から考えてみますと江田三郎さんの世代にとっての「社会主義」というのはある意味で「社会正義」という意味合いではなかったか、と私は考えています。例をあげれば渡邉恒雄(読売新聞グループ会長)さんや堤清二(元西武百貨店社長)さんも学生時代は共産党員でした。彼らが日本共産党東大細胞の活動家だったことは有名で、江田さんが東京商科大学を中退して農民運動に身を挺していったというのも似た文脈かも知れません。
私の親父の江田さんに寄せる共感というのも社会主義を社会正義というような受け止め方をしていたように思えます。
私らの世代は学生運動のテーマでもあった社会主義というのはかなり違ったものになっていた。社会主義は色褪せて、市民主義の方が新鮮だったということでしょうか。
江田さんは貧しい者の味方、大衆とともに歩み、社会の不正と戦い、公正な社会を実現したいという情熱を死ぬまで失わない真のステーツマンだったと私は評価しています。
江田三郎さん亡き後、日本の政治は混迷を続けたと思います。
あの日から三〇年も経ち今や社会党も社民連もありません。自民とが公明党と連立し、野党第一党の民主党が政権を狙う、という構図ですが、江田さんが離党したインパクトはその後もいろんな場面で現出しました。
私の政治歴を中心にその後の三〇年を辿ってみたいと思います。
一九七七年、江田さんが亡くなった直後の参議院選挙で、江田五月さんが社会市民連合代表となって身代わり立候補で全国区、私が東京地方区から立候補しました。江田さんは一三〇万票と第二位で当選しましたが、私は落選、その翌年、田英夫さん、楢崎弥之助さん、秦豊さんが社会党を脱党、社市連に合流して社民連になった。ところが江田三郎さんを失った、このミニ政党は残念ながら大きな政治勢力に育つことはできませんでした。
その後七九年の総選挙で私はまた落選しました。
そのすぐ後、大平政権下、自民党に反乱が起きて内閣不信任案が可決されて総選挙となった。その八〇年の衆参同時選挙で、衆議院東京七区で一五万票とってようやく初当選できました。
そして政治家の道を歩み始めたのです。
江田さんが構想していた反自民政権ができるまでに一五年という時間を必要としました。同時に国際情勢もめまぐるしく変わりました。一九八五年三月、ソ連共産党書記長、チェルネンコが死に、後任にミハイル・ゴルバチョフが登場しました。ゴルバチョフはペレストロイカ(改革)とグラスノチ(情報公開)を進めた結果、東欧諸国の民主化、米ソ冷戦の終結、そしてソ連が消滅してしまったのです。
東西対立とか資本主義対社会主義といった対立の構図がなくなって、世界はアメリカ一国超大国とイスラム国家との対立という新たな紛争要因で二〇〇一年9月、911テロが起きたのです。
社会党内外にも新しい政治改革をめざすグループが芽生え、ニューウエーブの会とか制度改革研究会、シリウス、デモクラッツなど様々な改革グループが生まれました。
一九九一年五月、前の熊本県知事だった細川護熙さんが日本新党を結成しました。細川さんの政治行動は国民の大変、新鮮に映ったと思います。最早、自民党の政治では政治改革はできない、という細川さんの政治深遠だったのでしょう。たった一人で立ち上がった細川さんに大きな期待が広がりました。
そうした大きな政治変動の流れの中で一九九三年、日本の政治は大政局を迎えたのです。
宮沢内閣不信任案の可決、武村正義さんたちの自民党離党、新党「さきがけ」の結成、小沢一郎さんらの離党、新生党の結成、そしてついに三七年の自民党一党支配に終止符が打たれ、連立政権の時代に突入します。
細川さんは新党立ち上げわずか一年と二か月余で細川さんは内閣総理大臣となります。このときは非自民八党会派での大連立でした。
私は九三年の総選挙後、一足先に自民党を出た武村正義さんや鳩山由紀夫さんらの「さきがけ」と行動をともにし、翌年「さきがけ」に移りました。その後、社民連が日本新党と合流して社民連はなくなるのですが、その過程で一部の人が新進党に行ったり、民主党に入ったり、と政界は泡だつ動きがありました。
細川さんが政権を投げ出した後、羽田孜さんの政権ができるのですが、社会党が連立から離脱して羽田内閣は少数与党で政権が維持できず総辞職、小沢一郎さんの仕掛けが逆目に出て、なんと積年のライバル、絶対相容れないと思われた自民党と社会党がさきがけとのブリッジのような形で「自社さ」政権の誕生となりました。一九九四年六月三〇日のことです。
このときの政治劇の脚本を書いたのは田中秀征さんでした。田中さんが社会党と連立構想をまとめて自民党総裁だった河野洋平さんが丸呑みした結果の村山内閣の誕生でした。
その後、鳩山さんと私が二人代表となって民主党ができ、横路孝弘(現衆議院副議長)さんはじめ社会党のかなりの部分が合流しました。
社会党に残った人たちは「社民党」と名を変えましたが、議員数一〇数人というミニ政党に転落していきました。まさに江田三郎さんが見棄てた社会党はほぼ解体したのです。
最終的には現在の民主党に結集して野党第一党になり、政権交代を可能にする瞬間を迎えているわけです。
江田三郎さんや私が三〇年前に議論し構想していた旧い社会党ではない政権交代可能な非自民政権をめざすという基本的な流れ、方向は今の民主党に継承されていると思います。考え方としても政治的にも同じですが、ちょっと時間がかかりすぎて、しかも時代の変化が激しいものですからキャッチアップできていないところがあるのも事実でしょう。
自社さ連立で村山政権ができたときが最大のチャンスでした。私は何度も北海道の横路さんに電話をしました。
「知事を辞めて(村山内閣の)官房長官をやってください」と。
せっかく政権を取ったのですから村山総理・横路官房長官のコンビで新しい政権政党の絵を描くことができたはずです。横路さんや江田五月さん世代を中心にした新しい革新政党の可能性を国民に提示して、村山さんの後を横路さんが継いで本格政権をめざす、私はそんな絵を自身で描いていました。
実際は社会党内からはそうした積極的、戦略的動きは何もでなかった。なんの展望も無かった。そうして村山さんが「疲れた」と言って政権を投げ出して、自民党に総理の座を明け渡してしまった。あまりにも戦略性が無かったのが残念です。
橋本龍太郎さんが村山政権を引き継いだとき、私は「さきがけ」から入閣し、厚生大臣をやらせていただき政権与党の側に初めて立つことになりました。1996年一月一一日でした。江田三郎さんと出会って実に一九年が経っていました。
一方で地方の革新自治体では東京都の美濃部亮吉さん、横浜市の飛鳥田一雄市長とか武蔵野市の後藤喜八郎市長など市民参加の政治ということで実績を上げたことは高く評価しているのですけど国政レベルでの市民参加、国民主権ということがなかなか実現できずに社会党内の派閥抗争なんかに巻き込まれて、国民が参加してゆけるような政治でなかったということが問題なのでしょう。
なぜ日本社会党は政権党になれず崩壊してしまったのか。
私の師匠格の貴島正道さんじゃあないけど乱暴な言い方かも知れませんが、結党の時点で社会党に集まった知識人、インテリがその後逃げ出して、労働組合出身者中心の党になってしまった、ということではないですか。社会党に人材がいなくなったのです。
もともと戦前は江田三郎さんのようなインテリが農民運動に入っていった。ところが戦後の社会党は労働組合の人が主流にいて、彼らは原則、物取り運動ですから幅広い政策論議ができなかった。いわゆる市民派的な政治家、リーダーが社会党にいなくなった、ということだと思います。
例えば松下圭一さんだって、社会党に入って『社会新報』の編集長になっていたかも知れない。そういう人が社会党から去っていってしまったということではないですか。
江田三郎さんはそういう意味で言えば社会党的ではなかった。いつも時代の変化を読んで政治がどうあるべきか、を考えていたインテリだったと思っています。
ただ、今にして思うに「江田さんが社会党を出たのがあまりにも遅すぎた」ということです。江田さんを「早すぎた改革者」という人がいます。あるいは「未完のロマン」とか・・・。
私は違うと思う。江田さんはもっと早く、一〇年早く社会党を出ていたら政権可能な新しい政党ができて二大政党で政権交代が実現していたのではないか、というのが私の考えです。しかも決して“ロマンの政治家”ではなくて現実を直視し政権獲得を意識していた政治家だったと思います。
永年議員表彰を受けたとき、江田三郎さんは衆議院に乞われて色紙を書いた。
「国会議員二五年、政権も獲れず恥ずかしや」
こんな色紙を国会議事堂に残した政治家は与野党とおしていません。江田三郎さんの色紙は今も憲政記念館の倉庫に保存されています。
今の民主党について自省をこめて言えば私が若いころ取り組んだ市民運動のような実践が少ない。
民主党にはかつて江田さんが唱えたような日本の未来へ向けての新しいビジョンの構築が必要だと思っています。そういう観点で考えれば今、議論となっている格差社会の問題とかグローバル化への視点をきちんと議論して民主党の理論が求められているのではないか、と考えています。
格差の問題は放置したら危ない。一定の歯止めをかけないといけません。敢えて言うならばなんでもありの自由競争で勝ち組と負け組みがはっきりしてしまうアメリカ型なのか、一定の枠を設けて福祉を充実し弱者救済で社会的平等を追及してゆくヨーロッパ型なのか、といった議論が必要でしょう。
昔の話ではなくて現在のもっとも現代的課題として、小泉純一郎さんや竹中平蔵さんが主張した政治改革へのアンチテーゼとして私たち民主党のビジョンを提示してゆくことが重要です。あの白髪の七〇歳にならんとする老政治家の世代に私自身が間もなく入り込もうとしています。自戒をこめて江田三郎さんのおっしゃった社会正義を実現できる政治への決意をいま、申し上げたいと思います。
もう一度申し上げますが、江田三郎さんを“早すぎた改革者”と呼ぶのは間違いです。
江田さんは社会党を出るのが一〇年遅すぎたのではないか。もっと早く出て、選挙で二〇〇万票というような圧倒的な票を取っていればその時、日本社会党は潰れて、新しい市民の政党ができたのではないか、と思います。
江田さんの好きな言葉に「もともと地上に道はない。みんなが歩けば道になる」という言葉があります。江田さんがもっと早く先頭に立って歩いてくれたら「道」はできていたと思います。それが残念でなりません。


菅 直人 (かん・なおと)
1946年山口県生まれ。70年東京工業大学理学部卒。74年市川房枝、参議院全国区当選の選挙事務長。76年衆院選出馬、落選。77年江田三郎と社会市民連合結成。80年衆院選で初当選。衆議院議員9期。橋本内閣で厚生大臣、薬害エイズの被害患者に謝罪。民主党代表代行。著書に『大臣』。


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